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31 こんなもの、いらないよね?

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     ◆こんなもの、いらないよね?

 ラダウィに手が届く、そんな矢先に車に引きずり込まれてしまった。
 その運転手に、見覚えがある。
「紺野課長っ」
 呼びかけると、紺野は嬉しそうに声を踊らせて言った。
「天野くん、助けに来たよ? もう安心だ」
 紺野の逸脱した執念に、ただただ恐ろしさを感じ、顔を青くする。
 背筋がゾクリとあわ立った。
 そして、ラダウィに歩み寄った瞬間を邪魔されて。猛烈な怒りも感じた。

 普段、こんなに頭に血がのぼることはないのだけど。もう、なんだか、心の中がぐちゃぐちゃで。
 荒れた感情のままで大声を出してしまった。

「なぜこんなことをするんですか? 迷惑ですっ!」
 怒りに任せて強い口調できっぱりと拒絶した、つもりだが。
 私の本気の憤りは、彼には伝わらなかった。

「最初から、こうすれば良かったんだよね? 会社は全然頼りにならないしっ。君を獣の巣から助け出せるのは、やっぱりぼくしかいなかった」
 興奮しているのか、唾を飛ばしてまくし立てる。
 アクセルベタ踏みで、車の速度を落とす様子もない。

 到底話が通じそうもないと感じ、私は焦る気持ちが膨らんで、振り返った。
 リアウインドに映る、ラダウィと一緒にいたオアシスが、どんどん遠ざかっていく。

 このまま、もう二度と彼に会えないような気がした。

 ラダウィに、まだなにも言っていないのに。
 本当のこと、私が蓮月であることも。
 自分のラダウィへの気持ちも。

 愛しているという言葉も。

 すべてが失われてしまいそうな恐怖感に駆られる。
 そして。なにもかもがなくなるのなら、もうどうでもいいと思って。
 助手席から手を伸ばし、思いっきりハンドルを切った。

 紺野は驚いたのか、急ブレーキをかけるが。それによって車はスピンして。さらに砂にタイヤが埋もれ、砂の隆起に傾いて、ぐるりと回転する。
 車内で天井が回り、体が揉みくちゃになったけれど。なんとか正位置に戻りました。
 シートベルトをする間もなく回転して、九死に一生だったけれど。
 車のフレームが頑丈で、助かった。
 とにかく車は停車して、沈黙する。

「な、なにをするんだ? 死ぬ気か? ぼくは君を助けようと思ってこんなところまで来てやったというのに」
 病的な感じにこけた頬を、さらにへこませて言う、その紺野の恩着せがましい言い様に。
 私はいら立ちを感じずにはいられなかった。

「来てやったって、なんですかっ! 私はここに仕事をしに来ているんです。なぜそれが理解できないんですか?」

 叫ぶ私を、駄々っ子をあやすかのようになだめて、紺野は猫撫で声をかける。
「落ち着きなさい、天野くん。君は少し疲れているようだ。いいかい? 君はこんな僻地に来なくても優秀なんだ。どんどん出世できるんだからね? ぼくが後押ししてあげるから、黙ってついてくればいいんだ。今までも、なんでもぼくの言うことに従ってくれたじゃないか?」

「課長の言いなりみたいな言い方はやめてください。私はただ目の前の仕事を懸命にこなしてきただけだ。大体あなたは三峰商事を解雇されているはずです。どうやって私を後押しする気ですか?」

 ズバリと言い渡すと。
 今まで笑顔で私をなだめていた紺野が、途端に苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
「もう、君のところに報告が? あぁ、平川の入れ知恵だね? 課長でなくなったぼくは用済みだから、平川に乗り換えたってわけかい? 全く、意味深な目つきでぼくを誘惑したくせに。心をもてあそんだ挙句あげく、仕事も妻子も捨てて砂漠まで君を救いに来たぼくの純情をポイ捨てかよっ」

 まるで私が裏切って捨てたみたいな言い草に、心底呆れるが。
 とにかく私は、彼の勘違いから逃れたくて仕方がなかった。

「本部長の入れ知恵なんかじゃありません。私は会社と毎日連絡を取っていますから。あなたが解雇されたことは三峰の社員全員が知ることですし…」
「毎日ぃ? 毎日平川とリモートデートしているのかっ?」
 いちいちツッコむのが、さすがに面倒くさくなって。とにかく私はまくし立てた。
「あなたの中で、私はあなたや本部長を誘惑する悪い男のようですが。私は一度だって誰かを誘惑したことなんかない。ずっと昔から、私の心の中にはひとりしかいなかったから」
「そうだろう? それがぼくなんだよね?」
「私が愛しているのはラダウィ様だけだ。子供のときから…今も昔も、私の心を占めるのはあの方だけなんですっ」
 今度こそ、しっかりと伝わるように告げた。
 紺野はムンクの叫びという絵画を思わせる、尖り切った顎を落とした顔つきになったが。

 もう、どうでもいい。

 そんな紺野を置いて、私はこじ開けた車の扉を蹴り上げて開き、そこから飛び降りて。とにかく足を動かして、オアシスに向かおうとした。
 周囲は砂ばかり。方向もあやふやだが、タイヤの跡を頼りにひたすら歩いた。
 砂漠では無闇に歩き回るのは危険だと知っていたが。
 紺野が追ってくるかもしれないし。

 それに一刻も早くラダウィの元へ帰りたかったから。

 砂に足を取られ、息が上がる。
 夜だから、苛酷な暑さはないのが救いだ。
 砂を照らす月明かりだけが私の味方だった。
 フードを頭からかぶり、手でマントの前を掻き合わせて。ぬるい風をしのぐ。車のわだちが風に掻き消えてしまうことだけが、怖い。
 彼へ至る道筋なのに。
 そうしてしばらく歩いていると、前方になにかがちらりと見えた。
 遠い先で、砂埃が舞っている。
 目を凝らして、よく見ると。ラクダが全速力でこちらに駆けてきて。

 ラダウィが、来てくれた。

「ラダウィ様」
 まだ遠くて、あちらからこちらが見えてはいないかもしれないけれど。
 大きく手を振って、声の限りに叫んだ。

 ラダウィの。愛する人の名前を。

 しかし、いつの間にか背後にいた紺野が、手を振る私の左手を掴んで、そのまま砂地に押し倒した。
 紺野は私の上にまたがって、私の腕輪を外そうとした。
「わかっているよ、あれだろ? 君は誘拐犯とかに恋しちゃう、なんちゃら症候群みたいなやつだ。こんな腕輪をもらって、ほだされちゃったんだろう? こんなのがあるからいけないんだよ。これさえ外れたら、元の清らかな君に戻るはずさぁ」

 またもや謎の持論を展開して、ひとりで納得している。なんちゃら症候群は、ストックホルム症候群といって。いわゆる吊り橋効果の強いやつだけど。
 そんなのそうそう起きません。
 それに、留め金が潰れているので、腕輪を外すこともできませんから。

 だけどそんなことより、こんな男に腕輪を触らせたくなくて。
 私は力の限りに暴れて、左腕を胸に抱えて彼の手から守った。

「こんなものを守るなんて、君は獣に毒されたのかい? 首輪をつけられて喜ぶ性奴隷になり下がってしまったんだね? シマームの獣どもになぶられて、犯されて、感じさせられてぇ? あぁ、なんていけない子なんだ。ぼくの天野くんが凌辱を喜ぶ変態になってしまった。君は気が弱いから、すぐに権力に屈してしまう。そういうところあるよね? 平川のこともそうだけど。上司や国の高官にすぐ体を預けるのは、良くないぞ?」

 度外れて偏っている妄想をつぶやきながら、紺野は私の体に触れようとするが。
 マントを、左手ごと体にしっかり巻き付けて、死守する。
 ラダウィに、誰にも触らせるなと言われた。
 私はラダウィ様のもの。誰にも触らせないっ。 

「だけど、大丈夫だよ? 君はちょっとふしだらだけど、ぼくはそんなことで怒らない。憎いのは、こんな腕輪で君を縛りつける獣どもだ」
 そして紺野は、ポケットからタガーナイフを出した。
 ギラリとした刃の模様が、その切れ味を想像させ。私はすくみあがる。

「ねぇ、天野くん。こんなもの、いらないよねぇ?」

 ナイフでマントを切り刻まれて、刃を突きつけられて、脅える間に。
 強い力で紺野に左手を押さえつけられてしまった。
 狐のような顔で、ニヤリとする男に。
 恐怖で、血の気が下がる。

「そうだ、腕輪が取れなくても、手首を落とせば外れるじゃん? ぼくは君の手首なんかなくても愛してあげられるよ? 獣になぶられた体も愛してあげる。いや、ぼくがいっぱい抱いて清めてあげなきゃね? 三人? 五人? 毎晩? 凌辱された分たっぷり抱いてあげるよ。でもさ、この腕輪は目障りだから。ぼくが愛してあげるから、手首なんかいらないよねぇぇぇ??」

 そう言って、紺野はナイフを私の手首めがけて振り下ろした。

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