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双華のゆくえを知る者は
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釣り合う相手ではないことはわかっている。高貴な大ぶりの花の隣に偶然生えた貧相な野花のように、場違いで卑しくしがないみなしごの身の自分には。
考えるのは、なぜめぐり会ってしまったのかーーただ、それだけ。
愛し合っていても二人が添い遂げることはない。どうせいつか切り捨てられる身なら、いっそ今すぐ摘み取られて、あなたの足許で朽ち果てたい…。
ーー都の東方、安嶺の程近くの小さな町にある宿屋。
夜も更けてきた頃、寝台に横になって疲れた身体をしばし休めていた曹風衣は、乱れた髪をかき上げるとふと辺りを見回した。
「…それにしてもここはいい部屋だな…少し良すぎはしないか、阿弦?主人には普通の部屋で構わないと言ったのに」
彼の言うとおり、二人が宿泊するその部屋はこの宿の最上階に一室しかない最も上等な部屋であった。同じ布団に入って静かに休んでいた方芦弦が顔を横に向け彼を見た。
「…確かに帳場ではそう頼みましたが、若様が宿帳にお名前をお書きになったとき主人の顔色が明らかに変わりました」
言葉の割には深刻さや後ろめたさのやや薄い風衣のつぶやきに、芦弦は冷静に見たままのことを淡々と述べた。風衣たちがこの町を訪れたのは初めてだったが、たとえ僻地だろうと山奥だろうと人のいるところ曹風衣の名を知らない者はいないのだ。風衣が外出先で宿を取ろうとするとほぼ毎度この展開で、彼に付き従う芦弦は驚くことも戸惑うこともすっかりなくなっていた。
今夜も風衣と芦弦は家の用向きで安嶺の州刺史である朱成明の屋敷を訪問した帰り道だった。従者は他にあと二名いるが、彼らには下の階のここに次ぐ等級の部屋があてがわれ、そちらも今頃はのんびり羽根を伸ばしているものと思われた。
風衣は身体を横向きにし、昼間人前では絶対に見せないしっとりとした甘い瞳でじっと芦弦を見つめた。
「私は何も要求などしていないのだがな…。まあ、せっかくのご厚意だ。外泊できる機会はそうそうあるものでなし、ありがたくゆっくりさせてもらおう」
風衣の言う「ゆっくりする」とはこの場合当然、都の自邸での厳しい規則と監視の目の範囲外に逃れて開放的な気分で二人だけの時間を楽しむ、ということだ。小公子と側仕えから始まり、やがてごく自然に深まった二人の関係はもう数年になる。二人が普段逢瀬に使う風衣の私室は跡取り息子だけに与えられる独立した一個の建物だが、かと言っていつでも好き勝手ができるわけではない。多くの人間が出入りし常に動いている曹一族本家の屋敷に暮らす二人にとって、堂々と朝まで同じ部屋で過ごせるのはまたとない機会なのだ。家から仰せつかった用向きでの外泊なのだから、どうせなら楽しんだ方がいいーー公私混同もどこ吹く風、というくつろいだ気分で風衣は傍らの恋人の汗ばんだ額に張りついている髪をよけたり頬をそっと愛撫したりしていたが、相手の表情はあまり芳しくなかった。芦弦は見るからに複雑そうな渋い目つきで風衣を見上げた。
「若様、私たちは物見遊山ではなく仕事で来ているのですよ。それに、その…いくら差額は要らないと言われても、結局毎回こうなるからこちらの懐にはむしろ打撃です…若様、明日もまたいつもと同じ額をお渡しになるおつもりなのですか?あの…少々多すぎるのでは…」
内心痛いところを突かれた風衣は言葉に詰まったが、すぐにいつもの落ち着いた笑顔に戻った。
「それはしかたないよ、迷惑をかけてしまうのだからそのくらいの誠意は示さなければ。少しでも良い印象を残せば秘密を守ってもらえるだろうし、次に訪れたときも快く受け入れてもらえるかもしれない。誰も損をしないための出費なのだから、君が気にする必要はない」
「…ですが…」
「どうしても気に病むというなら、私の代わりに蘭月と綾文が喜びそうな土産物を選んでやってくれ。私より君の方が目は確かだから」
「若様…」
そんなことでは埋め合わせにもならないのは明白だった。風衣は非常に折り目正しく律儀で真面目な性格であるものの、伝統と格式の高い名門の出としては少々珍しく、柔軟で寛容な思考を持ち臨機応変な対応のできる人間だ。だが彼の一番の腹心である芦弦は、役目柄もあってか彼以上に生真面目かつ几帳面で、事務的な管理なども常に完璧である。その彼が心配しているのは育ちの良い主の基本的に堅実ではあるが時折ややおおらかになるその金銭感覚だった。いつも報償としてこっそり宿側に握らせている銀銭は精算には出せないので、風衣が芦弦の申し出を断って私費で賄っている。それでもなんとかなっているのは、彼が名門中の名門である曹家の長男であるからに他ならない。風衣は無駄な買い物や遊興はまったくしないが、その分自分との時間と場所を買うためにかなりの負担をしてくれているのだと思うと芦弦は罪悪感を感じずにはいられなかった。そして今夜の彼の胸中にはその罪悪感をさらに増幅させる別の悩みの種があった。
しかし芦弦のかき曇る心などよそに、風衣はわざとらしいほど痛切な後悔の念をありありと大げさに浮かべて見せた。
「それとも、そんなに出費が心配なら、やはり成明殿の気遣いに甘えて刺史府の客室をお借りして休ませてもらった方がよかったかな…そう、何もせず行儀良く、朝まで静かに…」
そう言いながらちらりと投げかけられる長い睫毛越しの意味ありげな視線に芦弦はどきりとし、とっさに目をそらした。だがまさにその瞬間、この反応自体が図星の証だと気づいて一気に赤面した。
「…わ、若様はときどき意地悪です…」
「君は嘘をつくのが下手だ」
「…」
悔しさから少し唇を噛む芦弦の左の目許に風衣は唇を軽く押しつけ、くすっと笑う。芦弦のそこには生まれつき泣きぼくろがあり、彼をからかいたい気分のときにそこに口づけするのが風衣の癖だった。すこぶる上機嫌で愉快げな風衣に比べ、芦弦の表情は依然、否、ますます沈んでいた。
(成明殿の気遣い…確かに若様の言うとおり刺史府に泊めてもらっておとなしくしていれば費用は発生しなかったけれど、それはそれで寂しいというか…でも若様の未来にとっては望ましいというか…我ながら矛盾も甚だしいな…)
芦弦は昼間訪れた安嶺の刺史府、朱家の屋敷での出来事を思い出した。
四人が到着したとき屋敷の門前にずらりと居並んだ朱一家と家臣たちに仰々しく出迎えられた点は特に珍しいことではないので驚きはしなかったが、ある場面に遭遇したときはさしもの芦弦も唖然とせずにいられなかった。それは案内された応接室で代表の風衣が朱刺史への来訪の挨拶を終え、各自が席に着いて実務上の具体的な会談に移る前にとりとめもない雑談や近況報告を始めたときに起きた。
普通、来客の茶や膳の支度をするのは侍女や召使の役割である。にもかかわらずこのとき応接室に茶を運んできたのはなんと成明の十六歳になるという長女だった。刺史の娘自ら侍女のように給仕をするとは、こはいかにーー末席の二人の従者が無言で目配せし合う傍らで芦弦は彼女が風衣のすぐ目の前に膝をついて茶碗に茶を注ぐ様子を横目で観察した。
彼女が自分からその役目を買って出たのか、それとも娘の将来を思う両親に押し切られたのかは定かではないしこの際問題でもなかったが、その場には曰く言い難いある種の緊張感が漂っていた。茶壷を持ち、傾け、茶を注ぐ彼女の小さな白い手はかたかたと震えていた。風衣は微動だにせずただ泰然とした穏やかな表情で待っているだけなのに、彼女の方はまるで食い殺される寸前の兎のようにおののいていた。父親である成明も固唾を呑んで見守っているし、どこかの戸の隙間から凝視してくるおそらく夫人のものであろう視線らしき気配も芦弦は感じ取っていた。この場はとにかく粗相なく曹風衣をもてなし、彼に好ましい印象を抱いてもらうことーーそれが彼女に与えられた唯一にして最大の役目であった。彼女は何とか練習どおりこぼさず茶を注ぎ、茶碗を丁寧に彼の方に押しやって、か細く鈴を転がすような声でどうぞ、と言った。
「ありがとうございます」
風衣は礼儀正しくそう言い、彼女の手が茶碗から離れるとそれをすぐ手に取って口にした。そして真っ直ぐに彼女の顔を見て微笑んだ。彼としてはそれは単なる作法のひとつであり、また見るからに緊張している彼女に対する率直な気遣い以上の何物でもなかったが、あの曹風衣から微笑みを向けられたというだけで純真で内気な彼女はたちまち顔を耳まで真っ赤に染め、さっとうつむいてわずかに会釈しただけでそそくさと芦弦の前に移動した。あとの三人にも彼女は無難に茶を供したが、風衣以外の男性に関心はないらしく、すでに心ここにあらずといった様子だった。
(この方は若様のことを前からご存じなのだろうか…朱家との関わりについて若様や当主からは何も聞いていないけれど…それとも世間の評判や噂話を聞いているだけで、実際にお会いになるのは初めてなのか…?)
芦弦の推測はどちらも当たらずと言えども遠からずであった。朱成明の長女は名を朱雪鈴といった。風衣も芦弦も知らなかったのだが、彼女は実は昨年第一公子である弟と一緒に都を訪れ、宮廷に客人として滞在していたことがあった。その滞在中、彼女はあるとき宮中の中庭で若い公子たちに剣術の手ほどきをしている風衣を偶然見かけ、ひと目で恋に落ちた。そして彼がその容姿のみならず人柄や才智においてもこの上なく優れた立派な若君であることを知ると、ますます彼に夢中になった。都から戻った娘がやがて母親にぽつりぽつりと打ち明けたその恋心を両親は諸手を挙げて歓迎した。少なくとも娘自身に風衣に寄せる想いがある分だけ、名門である曹家との姻戚関係の成立が現実味を帯びると考えたのである。
芦弦には、風衣を恋い慕う者の心の内が誰よりも鋭く察知でき、また誰よりも深く理解できた。しかし、まだ風衣のことを何も知らず、夜の間に降り積もったままの新雪のようなまっさらな心に年頃の夢見がちな乙女らしい憧れを抱いて恥ずかしそうに彼を見つめる雪鈴を前にしていると、突然その彼とすでに何年にも渡って肉体関係ありきの秘密の交際を続け、彼から普通の女性と普通の家庭を築く幸せを奪っている自分がひどく汚れた罪深い存在に思えてきて、恥ずかしくてたまらなくなった。それは彼に愛される悦びと表裏一体の分かち難い影の部分だった。
(私がいるせいで若様は婚約に踏み切れず、女性たちにいつまでも期待を持たせ、いたずらに世間を騒がせている…このままでは駄目だ…)
芦弦は腿の上に乗せていた両拳を人知れずきつく握りしめた。
用件がひととおり済み四人が帰り支度を始めると成明が風衣ににじり寄って、この後ささやかだが夕食の席を設けるので一緒にぜひ、そして良ければ今夜はこのまま屋敷に泊まるようにとしきりに勧めた。芦弦にはすべてが読めた。夜の会食の席で料理しか出ないということは絶対にない。昼は茶だったものが夜には酒になり、風衣に酌をするのは雪鈴以外に誰がいよう。成明は酒席という好機を利用して娘を風衣の隣に侍らせ、できることなら彼に隙を作らせて二人を近づけさせようとする魂胆なのだ。しかし風衣は、芦弦が彼は絶対にそうすると確信していたとおりその誘いを断り、焦った成明がどれほど熱心にかき口説いても、やんわりと、だが頑なに固辞してとうとう相手を黙らせた。風衣はもともと酒精に弱い体質であるのに加えて、面倒な付き合いを嫌がるたちなのだ。芦弦は予定調和に満足し、目論見の外れた成明が肩を落とす姿を見て溜飲を下げたものの、何の罪もなく風衣に淡い期待を寄せている雪鈴に対してだけは何か申し訳ない気持ちが残った。
四人は早々に安嶺の町を発つことにし、朱家の面々に付き従われて屋敷の玄関から外に出た。風衣は足を止めて何かの確認のため二人の従者と話していた。その間芦弦がひとり立って三人の話が終わるのを待っていると、今度は彼の方に成明が歩み寄ってきて低い小声で話しかけた。
「芦弦殿、少しお訊きしてもよろしいですかな」
「何でしょうか」
「…聞くところによると曹公子はまだお独りの身で、家同士で正式に決めた婚約者も今のところいらっしゃらないとのことですが」
「そのとおりです」
その点は紛れもない事実なので芦弦は何憚ることなく肯定した。すると成明はさらに一歩距離を詰め、期待感を込めて彼を見つめながら尋ねた。
「では、その…意中のご令嬢や、今現在ひそかに親密な交際をなさっているお相手などは…」
(なんて不躾な…娘可愛いにも程がある!!)
芦弦は心底腹が立ち、うんざりもしたが、その親心を慮って一応冷静に回答した。
「…公子の私的な交際関係については私は何も知りませんし、もし知っていたとしても、本人に無断で個人の秘密を口外するようなことはけしていたしません」
芦弦はまさか「それは私です」などと言えるはずもなく、自分の方がだんだんいたたまれなくなってきてふいと面を背けた。その粛然としてしかつめらしい態度からさすがに少々無礼が過ぎたと受け取った成明は詫びの言葉を残してすごすごと引き下がった。ちょうどそこへ話を終えた風衣たち三人が戻ってきて、一行は屋敷を辞したのであった。
(…朱刺史と夫人は今頃きっと縁組の申し込みについて真剣に話し合っているだろうな…若様を引き留めることはできなかったけれど、少なくとも若様の目に妙齢のご息女の存在を示すことには成功したわけだから…まあ申し込みが一件増えたところでうちの係の者の仕事が増えるだけだろうけれど…)
「…さっきから何を考え込んでいる?阿弦」
はっと我に返った芦弦は、怪訝そうに顔を覗き込んでくる風衣に首を振って見せた。
「若様…いえ、何も…」
しかし今度は風衣の方が柔らかい表情で首を振る番だった。
「隠さなくていい。君は正直だからすぐ顔に出る。それも昼間あの刺史府にいたときからずっとだ。…何かあったのか?」
やはり風衣の眼は欺けない。芦弦は寝台の上で風衣に背中を向けるように裸身を起こすと観念して口を割った。
「若様、朱刺史のご息女の雪鈴殿のことは憶えていらっしゃいますか」
「もちろん。一度お会いした方の顔と名前は忘れない」
「…そうですよね」
そのあっさりとした口調と言葉だけでこれは言っても無駄だとわかったが、また黙ったところではっきり言えと迫られるのは明白なので、短い溜め息をついただけで芦弦は続けた。
「どうやらかなり緊張されていたようで何もお話しになりませんでしたが、物静かで素朴で感じの良いお嬢様でした。…若様はどう思われますか?」
「…」
風衣はしばし沈黙した後、意味深な面持ちでつぶやいた。
「…君がああいう楚々とした雰囲気の女子が好みだったとは知らなかった」
「私の好みの話ではありません!…若様が雪鈴殿に好感を持たれたかどうかとお訊きしているんです」
風衣は瞳を丸く見開いて思わず上体を起こした。
「私が?雪鈴殿に?いったい何の話だ?」
「…いつどこで若様をお見初めになったのかはわかりませんが、雪鈴殿はもうすでに以前から若様のことを好いていらっしゃるようにお見受けしました。ご両親もそのことをご存じで、おそらく近いうちに縁組の申し込みが来るかと…」
芦弦は成明から風衣の女性関係に関する礼儀を欠いた質問を受けたことは伏せておいた。風衣はようやく疑問が腑に落ちて青白い溜め息をついた。
「なるほど、そういうことか。どうりで刺史府にいる間何か不自然な感じがしたわけだ…。ということはまた縁組の申し込みが増えて父上からいい加減そろそろ身を固めろとしつこく催促されるのか…縁談はすべてお断りしてくださいと何度もお願いしているのに」
常日頃風衣に厳しくもあれば甘くもある父親の曹雨錦にとって、ただひとりの後継者である長男の婚姻は目下最大の懸案事項であった。
「若様がお相手を決めて世に公表しない限り、いくら断っても申し込みはやみませんよ。どの家も駄目元であわよくば抜け駆けできる可能性に賭けているのですから。ご令嬢方が成長されるにつれて候補者はむしろ増えていく一方でしょうね」
「…気が進まない」
風衣のその声色は気取っているとか鼻にかけているというものではなく、心底憂鬱で嫌そうなものだった。
文武両道に長け、人望もあり、その上名門の令息で美男子でもある風衣は行くところ行くところ若い娘たちの視線の的だ。あけすけに言ってしまえば、風衣はどんな美女も令嬢も、その気になれば公主でさえもよりどりみどりなのである。世間では生まれてすぐ親に許婚を決められ、成年に達すると同時に婚儀を挙げることも珍しくないのに、風衣のような名門の公子が、幼少期こそ親の意向で自由にさせてもらっていたとは言え十八の歳になるまで婚約すらしていないのは極めて異例で、ここ数年都や宮廷では曹公子がどこの誰を花嫁に迎えるかという噂話でもちきりだ。焦った両親からしきりに説得されても年頃の娘を持つ廷臣たちにせっつかれても、風衣はそれらをのらりくらりとかわしてすべての申し込みを断り続けている。理由は極めて単純明快で、今の彼に芦弦以外の者と交際する意思はないからだ。
芦弦はこのまま風衣と離れたくない気持ちを燻らせながら、彼と曹家の行く末を思い、いつかは身を引く覚悟で冷静にこう意見した。
「若様は曹家のご長男で次期当主です。遅かれ早かれいつかは奥方様をお迎えにならなければならないお立場なのはおわかりでしょう。…それに世間には若様に恋心を抱き、晴れて曹公子の花嫁になる日を夢見ている良家の女子が大勢いるのです。その中のたったひとりだけでよろしいのです…その夢を叶えて差し上げては?」
「阿弦…こんなの、閨でする話じゃないだろう…」
風衣は鼻白んだように額に手をやり、話題に背を向けるように布団から出た。均整が取れてすらりと美しい裸体が露わになると芦弦は慌てて目をそらす。と、風衣は寝衣をさっと羽織って少し離れたところの小卓に近づいた。そしてそこに置いてあった湯冷ましの薬罐から茶碗に一杯注いで飲み干し、ふうっとひとつ息を吐いた。
「私の立場については、言われなくともわかっている。ただ私はまだ当主ではなく、未熟で若輩の身だ。日々の修練や務めにも忙しく、見合いにかまけている暇などない。まして家同士、親同士が決めた相手など、私には到底受け入れ難い」
言っていることは非常に謙虚で真っ当だが、要するに結婚などしたくないということだ。芦弦はあの雪鈴のことを考えていた。彼の頭には風衣に相対した彼女の不安げでいじらしい表情が妙にありありとこびりついていたのだ。雪鈴はけして花のある垢抜けた美人ではなく、化粧っ気もほとんどなく一見地味で目立たない容姿だが、よく見るとなかなか気品と落ち着きのある顔立ちをしており、風衣が敬遠しそうな類の娘とも思えず、きっかけや接点さえあれば自然と距離が縮まる可能性もあると芦弦は直感していた。当人たちがそうは思わなくても周囲の目には似合いの男女に映ったり、嫌々会ってみたら意外とうまが合ってとんとん拍子に話が進むということも珍しくはないのだから。
茶碗を置いてまた寝台に歩み寄ってくる風衣に、芦弦は穏やかに忠告するように言った。
「始まりは親が勝手に決めた縁談でも、けして悪いことばかりではないと思いますよ。結婚が家同士ではなく当人同士の問題だとおっしゃるのならなおのこと会ってみないとわかりませんし、食わず嫌いを押し通しているといつの間にか運命の伴侶に逃げられてしまうかもしれません。いい機会です、朱家から申し込みが来たら応じてみては?一度お会いしてお顔や雰囲気を知っている分お話はしやすいでしょう」
寝台の脇に立った風衣は腕組みをして少々呆れぎみに芦弦を見下ろした。
「阿弦…どうしてそんなに私を結婚させたがる?君はもしかして私と別れたいのか?」
「何よりも、若様のお幸せと曹家の安泰のために。…そのときが来れば、そうしなければなりません」
芦弦は自分を見つめる風衣の顔を直視できず、乱れて垂れた前髪に表情を隠すようにうつむいた。
もとより知れた運命だった。風衣が日向に咲き誇る大輪の牡丹なら、自分は木陰でひっそりと咲く片栗だ。尖ったか細い花弁を力なく広げ、地面に首を垂れてうつむいている。しかもどこから飛ばされてきたかもわからない、偶然そこに落ちた種から生えただけの雑草同然の存在なのだ。そんな自分が、どうして彼の側にずっといたいなどと望むことができるだろう。
「…若様、逆に私からお訊きしますが、どうしてそんなに女子を遠ざけるのですか?女子がお嫌いなわけではないでしょう?」
「嫌いではないが、求めてもいない。それに遠ざけているのは女子だけじゃない、男もだ。どうしてかって?君だけが好きだから、君だけを愛しているからに決まっている。私の幸せというなら、君を愛し君と生きている今がまさにそうだ。もし君が女子だったらもうとっくに君を嫁にもらって皆を黙らせているんだがな」
(…よ、よく臆面もなくそんなこと…!!)
自分が彼を取り巻くすべての男女を差し置き、蹴落としてたったひとり風衣に選ばれていることを思い知らされ、芦弦は寝具の中の何も身につけていない身体が熱い誇らしさにかっと燃え立つのを感じながら、なおも甲斐のない言葉を連ねた。
「…ですが、若様、そう言われましても私は男で、若様の妻にはなれませんし、こ、子供も産めません…このままではいずれ曹家の後継問題に発展しかねないではありませんか。お言葉は大変嬉しいですが、この上は私はそのお気持ちだけありがたくいただいて、若様の御身は後継者をお産みになるご婦人のもとへいらした方が…」
「…君は本当に曹家に忠誠を尽くす覚悟なんだな。だが言っただろう?私は君だけを愛していると」
「…若様…」
そのとき風衣はふとどこか遠いところを見つめるようなまなざしをして言った。
「君と一緒にいるときだけ、私は本当の私でいられる気がする。伝統やしきたりに縛られ、親に決められた生き方しか許されない私が、それでも普通の人間らしい気持ちを保っていられるのは、他でもない君が側にいてくれるからだ。君が私に光を照らしてくれた。私に知らない風を吹かせてくれた。それはどんな血筋や財産を有していても手に入れることのできない、人を人たらしめる真の宝だ」
(そんな…救われているのはむしろ私の方なのに…)
十数年前、孤児だった芦弦が縁あって曹家に引き取られると、二人の妹だけで男きょうだいがいなかった風衣と芦弦はすぐにうちとけ、親密になった。寛容で篤実な曹雨錦の庇護と教育のもと、二人は本当の兄弟か幼なじみのように仲良く育ったが、年齢が上がるにつれて芦弦は風衣との身分の差を痛感するようになった。本来ならいつのたれ死んでも不思議ではない命だったのに、幸運にも曹家の当主に拾われ、何不自由ない暮らしと将来の道を拓く機会を与えられた芦弦は周囲の嫉妬と羨望の対象だった。しかし風衣は、どこの馬の骨とも知れぬみなしごの分際で、と蔑まれ陰口を叩かれる芦弦を堂々と人生で最高の友と呼び、弟、家族だとも言って守った。風衣は何かあればいつでも芦弦を背中に庇い、誰に対しても臆することなく立ち向かうばかりか、もし口論に発展したら最後、相手が非礼を認めて引き下がるまで一歩も譲らなかった。
そして彼は衣食住や立場、役割のみならず、愛でも自分を満たしてくれたのだ。
始めそれは憐れみや情けから来る慰めの行為だったかもしれない。しかし二人の結びつきは、身体が成長して大人に近づくにつれ、純粋ないたわりや親愛の情という範疇では抱えきれないほど情熱的なものに発展していった。心の奥に似通った影を抱える二人だからこそここまで強く惹かれ合うのではないか。今の芦弦にはそう思えた。
風衣はにこりと笑い、寝台の端に腰を下ろすと芦弦の頬に指で軽く触れた。
「私が君がいいと言っているんだからいいんだ。…まあ、そう心配するな。あまり先読みしてあれこれ考えすぎるのは良くない。私はまだ十八だし、そのうち気が変わって結婚を考える可能性もある。君にもうこれ以上心配をかけないという意味でも」
「…はい」
芦弦は安心し、嬉しい反面また瞳を曇らせた。風衣が結婚を考えるときーー身を固めて欲しいと言いながらいつか風衣の気持ちが他の誰かに移るときが来ることを思うと途端につらくなったのだった。風衣は彼の表情を見てそこに根を下ろした不安に気づき、優しくささやいた。
「だがもし私がいつの日か家のために妻を娶って子を成したとしても、君に対する私の気持ちは終生変わらない。私が生涯を通じて真に愛するのは阿弦…君だけだ」
(…!!)
そんなふうに思ってくれているとは想像すらしておらず、俄に熱いものがぐっと込み上げた。しかし風衣の愛を一身に受ける喜びに胸を焦がす一方で、風衣のその拭い去られない想いが彼の未来の家族に対して不敬や不実になるのではとの恐れを同時に抱き、芦弦は震える声をようやく絞り出すように言った。
「…だ、駄目です若様…ご結婚なさる以上はやはり私のことは忘れていただき、奥方様とお子様にすべての愛を捧げてくださらなければ…私は…」
「もちろん私は私の妻や子を全力で愛する。君がめぐり会わせてくれた大切な人たちを…心に君を想いながら、君の真情に感謝し、報いるために」
「…」
自ら進んで言質を与えるような風衣のその言葉で芦弦はようやく自分の気持ちを落ち着けた。それが芦弦の理性が最も切望する未来だからだ。芦弦の表情が和らいだのを見て取ると、風衣も微笑みを浮かべた。
「女子や将来の話はやめよう。せっかくの夜なんだ。貴重な時間を無駄にしたくない…」
風衣の唇が、返事をしようとして少し開いた芦弦の唇をそっと塞いで声を奪った。甘やかしながら誘い、誘われながらすがりつくように二つの唇と舌がもつれ合う。だが芦弦は自分が持ち出した話題を自分で意識するあまり無性に気が引け、そこからだんだん意固地になってきて、昂りを覚えつつも拒むように恋人の肩を押した。
「いけません、若様…ん…もう、休まない、と…っ」
すると風衣は首を横に振って芦弦を抱き寄せた。
「…休むにはまだ早い」
「…!」
吐息のぬくもりを感じるほどの間近でそう告げられて、どきりとするや否や芦弦は優しく褥に横たえられ、再び組み敷かれた。落ちかかる風衣の長い黒髪と影の中に閉じ込められる。
「君が心底愛おしい、阿弦…朝になったらまた次がいつかわからない生活に戻ってしまうから、眠る前に、最後にもう一度君を感じたい…駄目かな…?」
最後、というひと言が胸にじわりと沁み入って芦弦はまぶたをぎゅっと閉じ、睫毛を細かく震わせた。
(やっぱりお別れなんてしたくない…男にも女にも、誰にも盗られたくない…!!)
自分でも驚くほど激しく燃え上がる執着で胸がいっぱいになり、気づくと恥ずかしさも躊躇いも忘れて抱かれ慣れた男娼のような甘えた涙声でささやいていた。
「駄目じゃないです…一度なんて言わないで、何度でも何度でも、壊れるまで…離さないで…」
芦弦の肩口に唇を這わせていた風衣ははっと動きを止め、潤む瞳を揺らして、きつく抱きしめた彼の首筋に鼻先を埋めた。
「阿弦…君がどうしてこんなにも私を狂わせるのか、いくら考えてもまだわからない…知りたい…それまでは君を離せない…」
息もできないほどの甘美な束縛感に芦弦は思わずうっとりととろけるように全身の力を抜いた。自然に無防備に開いてしまう身体を彼に委ねると、やがて内から外から惜しみなく注ぐ愛にまた固く結びつけられる。そうして二人は夢中で四肢を絡めて深く身体をつなげ、体力と意識が途切れるまで、互いの一途な情熱に溺れ続けた。
ーーあなたと私には、いつか必ず別れのときが訪れる…それはわかっています。でももし許されるなら、もう少しだけ、あなたと同じ風に揺れ、同じ光を浴びて…あなたの隣に寄り添って咲いていてもいいですか?
(終)
考えるのは、なぜめぐり会ってしまったのかーーただ、それだけ。
愛し合っていても二人が添い遂げることはない。どうせいつか切り捨てられる身なら、いっそ今すぐ摘み取られて、あなたの足許で朽ち果てたい…。
ーー都の東方、安嶺の程近くの小さな町にある宿屋。
夜も更けてきた頃、寝台に横になって疲れた身体をしばし休めていた曹風衣は、乱れた髪をかき上げるとふと辺りを見回した。
「…それにしてもここはいい部屋だな…少し良すぎはしないか、阿弦?主人には普通の部屋で構わないと言ったのに」
彼の言うとおり、二人が宿泊するその部屋はこの宿の最上階に一室しかない最も上等な部屋であった。同じ布団に入って静かに休んでいた方芦弦が顔を横に向け彼を見た。
「…確かに帳場ではそう頼みましたが、若様が宿帳にお名前をお書きになったとき主人の顔色が明らかに変わりました」
言葉の割には深刻さや後ろめたさのやや薄い風衣のつぶやきに、芦弦は冷静に見たままのことを淡々と述べた。風衣たちがこの町を訪れたのは初めてだったが、たとえ僻地だろうと山奥だろうと人のいるところ曹風衣の名を知らない者はいないのだ。風衣が外出先で宿を取ろうとするとほぼ毎度この展開で、彼に付き従う芦弦は驚くことも戸惑うこともすっかりなくなっていた。
今夜も風衣と芦弦は家の用向きで安嶺の州刺史である朱成明の屋敷を訪問した帰り道だった。従者は他にあと二名いるが、彼らには下の階のここに次ぐ等級の部屋があてがわれ、そちらも今頃はのんびり羽根を伸ばしているものと思われた。
風衣は身体を横向きにし、昼間人前では絶対に見せないしっとりとした甘い瞳でじっと芦弦を見つめた。
「私は何も要求などしていないのだがな…。まあ、せっかくのご厚意だ。外泊できる機会はそうそうあるものでなし、ありがたくゆっくりさせてもらおう」
風衣の言う「ゆっくりする」とはこの場合当然、都の自邸での厳しい規則と監視の目の範囲外に逃れて開放的な気分で二人だけの時間を楽しむ、ということだ。小公子と側仕えから始まり、やがてごく自然に深まった二人の関係はもう数年になる。二人が普段逢瀬に使う風衣の私室は跡取り息子だけに与えられる独立した一個の建物だが、かと言っていつでも好き勝手ができるわけではない。多くの人間が出入りし常に動いている曹一族本家の屋敷に暮らす二人にとって、堂々と朝まで同じ部屋で過ごせるのはまたとない機会なのだ。家から仰せつかった用向きでの外泊なのだから、どうせなら楽しんだ方がいいーー公私混同もどこ吹く風、というくつろいだ気分で風衣は傍らの恋人の汗ばんだ額に張りついている髪をよけたり頬をそっと愛撫したりしていたが、相手の表情はあまり芳しくなかった。芦弦は見るからに複雑そうな渋い目つきで風衣を見上げた。
「若様、私たちは物見遊山ではなく仕事で来ているのですよ。それに、その…いくら差額は要らないと言われても、結局毎回こうなるからこちらの懐にはむしろ打撃です…若様、明日もまたいつもと同じ額をお渡しになるおつもりなのですか?あの…少々多すぎるのでは…」
内心痛いところを突かれた風衣は言葉に詰まったが、すぐにいつもの落ち着いた笑顔に戻った。
「それはしかたないよ、迷惑をかけてしまうのだからそのくらいの誠意は示さなければ。少しでも良い印象を残せば秘密を守ってもらえるだろうし、次に訪れたときも快く受け入れてもらえるかもしれない。誰も損をしないための出費なのだから、君が気にする必要はない」
「…ですが…」
「どうしても気に病むというなら、私の代わりに蘭月と綾文が喜びそうな土産物を選んでやってくれ。私より君の方が目は確かだから」
「若様…」
そんなことでは埋め合わせにもならないのは明白だった。風衣は非常に折り目正しく律儀で真面目な性格であるものの、伝統と格式の高い名門の出としては少々珍しく、柔軟で寛容な思考を持ち臨機応変な対応のできる人間だ。だが彼の一番の腹心である芦弦は、役目柄もあってか彼以上に生真面目かつ几帳面で、事務的な管理なども常に完璧である。その彼が心配しているのは育ちの良い主の基本的に堅実ではあるが時折ややおおらかになるその金銭感覚だった。いつも報償としてこっそり宿側に握らせている銀銭は精算には出せないので、風衣が芦弦の申し出を断って私費で賄っている。それでもなんとかなっているのは、彼が名門中の名門である曹家の長男であるからに他ならない。風衣は無駄な買い物や遊興はまったくしないが、その分自分との時間と場所を買うためにかなりの負担をしてくれているのだと思うと芦弦は罪悪感を感じずにはいられなかった。そして今夜の彼の胸中にはその罪悪感をさらに増幅させる別の悩みの種があった。
しかし芦弦のかき曇る心などよそに、風衣はわざとらしいほど痛切な後悔の念をありありと大げさに浮かべて見せた。
「それとも、そんなに出費が心配なら、やはり成明殿の気遣いに甘えて刺史府の客室をお借りして休ませてもらった方がよかったかな…そう、何もせず行儀良く、朝まで静かに…」
そう言いながらちらりと投げかけられる長い睫毛越しの意味ありげな視線に芦弦はどきりとし、とっさに目をそらした。だがまさにその瞬間、この反応自体が図星の証だと気づいて一気に赤面した。
「…わ、若様はときどき意地悪です…」
「君は嘘をつくのが下手だ」
「…」
悔しさから少し唇を噛む芦弦の左の目許に風衣は唇を軽く押しつけ、くすっと笑う。芦弦のそこには生まれつき泣きぼくろがあり、彼をからかいたい気分のときにそこに口づけするのが風衣の癖だった。すこぶる上機嫌で愉快げな風衣に比べ、芦弦の表情は依然、否、ますます沈んでいた。
(成明殿の気遣い…確かに若様の言うとおり刺史府に泊めてもらっておとなしくしていれば費用は発生しなかったけれど、それはそれで寂しいというか…でも若様の未来にとっては望ましいというか…我ながら矛盾も甚だしいな…)
芦弦は昼間訪れた安嶺の刺史府、朱家の屋敷での出来事を思い出した。
四人が到着したとき屋敷の門前にずらりと居並んだ朱一家と家臣たちに仰々しく出迎えられた点は特に珍しいことではないので驚きはしなかったが、ある場面に遭遇したときはさしもの芦弦も唖然とせずにいられなかった。それは案内された応接室で代表の風衣が朱刺史への来訪の挨拶を終え、各自が席に着いて実務上の具体的な会談に移る前にとりとめもない雑談や近況報告を始めたときに起きた。
普通、来客の茶や膳の支度をするのは侍女や召使の役割である。にもかかわらずこのとき応接室に茶を運んできたのはなんと成明の十六歳になるという長女だった。刺史の娘自ら侍女のように給仕をするとは、こはいかにーー末席の二人の従者が無言で目配せし合う傍らで芦弦は彼女が風衣のすぐ目の前に膝をついて茶碗に茶を注ぐ様子を横目で観察した。
彼女が自分からその役目を買って出たのか、それとも娘の将来を思う両親に押し切られたのかは定かではないしこの際問題でもなかったが、その場には曰く言い難いある種の緊張感が漂っていた。茶壷を持ち、傾け、茶を注ぐ彼女の小さな白い手はかたかたと震えていた。風衣は微動だにせずただ泰然とした穏やかな表情で待っているだけなのに、彼女の方はまるで食い殺される寸前の兎のようにおののいていた。父親である成明も固唾を呑んで見守っているし、どこかの戸の隙間から凝視してくるおそらく夫人のものであろう視線らしき気配も芦弦は感じ取っていた。この場はとにかく粗相なく曹風衣をもてなし、彼に好ましい印象を抱いてもらうことーーそれが彼女に与えられた唯一にして最大の役目であった。彼女は何とか練習どおりこぼさず茶を注ぎ、茶碗を丁寧に彼の方に押しやって、か細く鈴を転がすような声でどうぞ、と言った。
「ありがとうございます」
風衣は礼儀正しくそう言い、彼女の手が茶碗から離れるとそれをすぐ手に取って口にした。そして真っ直ぐに彼女の顔を見て微笑んだ。彼としてはそれは単なる作法のひとつであり、また見るからに緊張している彼女に対する率直な気遣い以上の何物でもなかったが、あの曹風衣から微笑みを向けられたというだけで純真で内気な彼女はたちまち顔を耳まで真っ赤に染め、さっとうつむいてわずかに会釈しただけでそそくさと芦弦の前に移動した。あとの三人にも彼女は無難に茶を供したが、風衣以外の男性に関心はないらしく、すでに心ここにあらずといった様子だった。
(この方は若様のことを前からご存じなのだろうか…朱家との関わりについて若様や当主からは何も聞いていないけれど…それとも世間の評判や噂話を聞いているだけで、実際にお会いになるのは初めてなのか…?)
芦弦の推測はどちらも当たらずと言えども遠からずであった。朱成明の長女は名を朱雪鈴といった。風衣も芦弦も知らなかったのだが、彼女は実は昨年第一公子である弟と一緒に都を訪れ、宮廷に客人として滞在していたことがあった。その滞在中、彼女はあるとき宮中の中庭で若い公子たちに剣術の手ほどきをしている風衣を偶然見かけ、ひと目で恋に落ちた。そして彼がその容姿のみならず人柄や才智においてもこの上なく優れた立派な若君であることを知ると、ますます彼に夢中になった。都から戻った娘がやがて母親にぽつりぽつりと打ち明けたその恋心を両親は諸手を挙げて歓迎した。少なくとも娘自身に風衣に寄せる想いがある分だけ、名門である曹家との姻戚関係の成立が現実味を帯びると考えたのである。
芦弦には、風衣を恋い慕う者の心の内が誰よりも鋭く察知でき、また誰よりも深く理解できた。しかし、まだ風衣のことを何も知らず、夜の間に降り積もったままの新雪のようなまっさらな心に年頃の夢見がちな乙女らしい憧れを抱いて恥ずかしそうに彼を見つめる雪鈴を前にしていると、突然その彼とすでに何年にも渡って肉体関係ありきの秘密の交際を続け、彼から普通の女性と普通の家庭を築く幸せを奪っている自分がひどく汚れた罪深い存在に思えてきて、恥ずかしくてたまらなくなった。それは彼に愛される悦びと表裏一体の分かち難い影の部分だった。
(私がいるせいで若様は婚約に踏み切れず、女性たちにいつまでも期待を持たせ、いたずらに世間を騒がせている…このままでは駄目だ…)
芦弦は腿の上に乗せていた両拳を人知れずきつく握りしめた。
用件がひととおり済み四人が帰り支度を始めると成明が風衣ににじり寄って、この後ささやかだが夕食の席を設けるので一緒にぜひ、そして良ければ今夜はこのまま屋敷に泊まるようにとしきりに勧めた。芦弦にはすべてが読めた。夜の会食の席で料理しか出ないということは絶対にない。昼は茶だったものが夜には酒になり、風衣に酌をするのは雪鈴以外に誰がいよう。成明は酒席という好機を利用して娘を風衣の隣に侍らせ、できることなら彼に隙を作らせて二人を近づけさせようとする魂胆なのだ。しかし風衣は、芦弦が彼は絶対にそうすると確信していたとおりその誘いを断り、焦った成明がどれほど熱心にかき口説いても、やんわりと、だが頑なに固辞してとうとう相手を黙らせた。風衣はもともと酒精に弱い体質であるのに加えて、面倒な付き合いを嫌がるたちなのだ。芦弦は予定調和に満足し、目論見の外れた成明が肩を落とす姿を見て溜飲を下げたものの、何の罪もなく風衣に淡い期待を寄せている雪鈴に対してだけは何か申し訳ない気持ちが残った。
四人は早々に安嶺の町を発つことにし、朱家の面々に付き従われて屋敷の玄関から外に出た。風衣は足を止めて何かの確認のため二人の従者と話していた。その間芦弦がひとり立って三人の話が終わるのを待っていると、今度は彼の方に成明が歩み寄ってきて低い小声で話しかけた。
「芦弦殿、少しお訊きしてもよろしいですかな」
「何でしょうか」
「…聞くところによると曹公子はまだお独りの身で、家同士で正式に決めた婚約者も今のところいらっしゃらないとのことですが」
「そのとおりです」
その点は紛れもない事実なので芦弦は何憚ることなく肯定した。すると成明はさらに一歩距離を詰め、期待感を込めて彼を見つめながら尋ねた。
「では、その…意中のご令嬢や、今現在ひそかに親密な交際をなさっているお相手などは…」
(なんて不躾な…娘可愛いにも程がある!!)
芦弦は心底腹が立ち、うんざりもしたが、その親心を慮って一応冷静に回答した。
「…公子の私的な交際関係については私は何も知りませんし、もし知っていたとしても、本人に無断で個人の秘密を口外するようなことはけしていたしません」
芦弦はまさか「それは私です」などと言えるはずもなく、自分の方がだんだんいたたまれなくなってきてふいと面を背けた。その粛然としてしかつめらしい態度からさすがに少々無礼が過ぎたと受け取った成明は詫びの言葉を残してすごすごと引き下がった。ちょうどそこへ話を終えた風衣たち三人が戻ってきて、一行は屋敷を辞したのであった。
(…朱刺史と夫人は今頃きっと縁組の申し込みについて真剣に話し合っているだろうな…若様を引き留めることはできなかったけれど、少なくとも若様の目に妙齢のご息女の存在を示すことには成功したわけだから…まあ申し込みが一件増えたところでうちの係の者の仕事が増えるだけだろうけれど…)
「…さっきから何を考え込んでいる?阿弦」
はっと我に返った芦弦は、怪訝そうに顔を覗き込んでくる風衣に首を振って見せた。
「若様…いえ、何も…」
しかし今度は風衣の方が柔らかい表情で首を振る番だった。
「隠さなくていい。君は正直だからすぐ顔に出る。それも昼間あの刺史府にいたときからずっとだ。…何かあったのか?」
やはり風衣の眼は欺けない。芦弦は寝台の上で風衣に背中を向けるように裸身を起こすと観念して口を割った。
「若様、朱刺史のご息女の雪鈴殿のことは憶えていらっしゃいますか」
「もちろん。一度お会いした方の顔と名前は忘れない」
「…そうですよね」
そのあっさりとした口調と言葉だけでこれは言っても無駄だとわかったが、また黙ったところではっきり言えと迫られるのは明白なので、短い溜め息をついただけで芦弦は続けた。
「どうやらかなり緊張されていたようで何もお話しになりませんでしたが、物静かで素朴で感じの良いお嬢様でした。…若様はどう思われますか?」
「…」
風衣はしばし沈黙した後、意味深な面持ちでつぶやいた。
「…君がああいう楚々とした雰囲気の女子が好みだったとは知らなかった」
「私の好みの話ではありません!…若様が雪鈴殿に好感を持たれたかどうかとお訊きしているんです」
風衣は瞳を丸く見開いて思わず上体を起こした。
「私が?雪鈴殿に?いったい何の話だ?」
「…いつどこで若様をお見初めになったのかはわかりませんが、雪鈴殿はもうすでに以前から若様のことを好いていらっしゃるようにお見受けしました。ご両親もそのことをご存じで、おそらく近いうちに縁組の申し込みが来るかと…」
芦弦は成明から風衣の女性関係に関する礼儀を欠いた質問を受けたことは伏せておいた。風衣はようやく疑問が腑に落ちて青白い溜め息をついた。
「なるほど、そういうことか。どうりで刺史府にいる間何か不自然な感じがしたわけだ…。ということはまた縁組の申し込みが増えて父上からいい加減そろそろ身を固めろとしつこく催促されるのか…縁談はすべてお断りしてくださいと何度もお願いしているのに」
常日頃風衣に厳しくもあれば甘くもある父親の曹雨錦にとって、ただひとりの後継者である長男の婚姻は目下最大の懸案事項であった。
「若様がお相手を決めて世に公表しない限り、いくら断っても申し込みはやみませんよ。どの家も駄目元であわよくば抜け駆けできる可能性に賭けているのですから。ご令嬢方が成長されるにつれて候補者はむしろ増えていく一方でしょうね」
「…気が進まない」
風衣のその声色は気取っているとか鼻にかけているというものではなく、心底憂鬱で嫌そうなものだった。
文武両道に長け、人望もあり、その上名門の令息で美男子でもある風衣は行くところ行くところ若い娘たちの視線の的だ。あけすけに言ってしまえば、風衣はどんな美女も令嬢も、その気になれば公主でさえもよりどりみどりなのである。世間では生まれてすぐ親に許婚を決められ、成年に達すると同時に婚儀を挙げることも珍しくないのに、風衣のような名門の公子が、幼少期こそ親の意向で自由にさせてもらっていたとは言え十八の歳になるまで婚約すらしていないのは極めて異例で、ここ数年都や宮廷では曹公子がどこの誰を花嫁に迎えるかという噂話でもちきりだ。焦った両親からしきりに説得されても年頃の娘を持つ廷臣たちにせっつかれても、風衣はそれらをのらりくらりとかわしてすべての申し込みを断り続けている。理由は極めて単純明快で、今の彼に芦弦以外の者と交際する意思はないからだ。
芦弦はこのまま風衣と離れたくない気持ちを燻らせながら、彼と曹家の行く末を思い、いつかは身を引く覚悟で冷静にこう意見した。
「若様は曹家のご長男で次期当主です。遅かれ早かれいつかは奥方様をお迎えにならなければならないお立場なのはおわかりでしょう。…それに世間には若様に恋心を抱き、晴れて曹公子の花嫁になる日を夢見ている良家の女子が大勢いるのです。その中のたったひとりだけでよろしいのです…その夢を叶えて差し上げては?」
「阿弦…こんなの、閨でする話じゃないだろう…」
風衣は鼻白んだように額に手をやり、話題に背を向けるように布団から出た。均整が取れてすらりと美しい裸体が露わになると芦弦は慌てて目をそらす。と、風衣は寝衣をさっと羽織って少し離れたところの小卓に近づいた。そしてそこに置いてあった湯冷ましの薬罐から茶碗に一杯注いで飲み干し、ふうっとひとつ息を吐いた。
「私の立場については、言われなくともわかっている。ただ私はまだ当主ではなく、未熟で若輩の身だ。日々の修練や務めにも忙しく、見合いにかまけている暇などない。まして家同士、親同士が決めた相手など、私には到底受け入れ難い」
言っていることは非常に謙虚で真っ当だが、要するに結婚などしたくないということだ。芦弦はあの雪鈴のことを考えていた。彼の頭には風衣に相対した彼女の不安げでいじらしい表情が妙にありありとこびりついていたのだ。雪鈴はけして花のある垢抜けた美人ではなく、化粧っ気もほとんどなく一見地味で目立たない容姿だが、よく見るとなかなか気品と落ち着きのある顔立ちをしており、風衣が敬遠しそうな類の娘とも思えず、きっかけや接点さえあれば自然と距離が縮まる可能性もあると芦弦は直感していた。当人たちがそうは思わなくても周囲の目には似合いの男女に映ったり、嫌々会ってみたら意外とうまが合ってとんとん拍子に話が進むということも珍しくはないのだから。
茶碗を置いてまた寝台に歩み寄ってくる風衣に、芦弦は穏やかに忠告するように言った。
「始まりは親が勝手に決めた縁談でも、けして悪いことばかりではないと思いますよ。結婚が家同士ではなく当人同士の問題だとおっしゃるのならなおのこと会ってみないとわかりませんし、食わず嫌いを押し通しているといつの間にか運命の伴侶に逃げられてしまうかもしれません。いい機会です、朱家から申し込みが来たら応じてみては?一度お会いしてお顔や雰囲気を知っている分お話はしやすいでしょう」
寝台の脇に立った風衣は腕組みをして少々呆れぎみに芦弦を見下ろした。
「阿弦…どうしてそんなに私を結婚させたがる?君はもしかして私と別れたいのか?」
「何よりも、若様のお幸せと曹家の安泰のために。…そのときが来れば、そうしなければなりません」
芦弦は自分を見つめる風衣の顔を直視できず、乱れて垂れた前髪に表情を隠すようにうつむいた。
もとより知れた運命だった。風衣が日向に咲き誇る大輪の牡丹なら、自分は木陰でひっそりと咲く片栗だ。尖ったか細い花弁を力なく広げ、地面に首を垂れてうつむいている。しかもどこから飛ばされてきたかもわからない、偶然そこに落ちた種から生えただけの雑草同然の存在なのだ。そんな自分が、どうして彼の側にずっといたいなどと望むことができるだろう。
「…若様、逆に私からお訊きしますが、どうしてそんなに女子を遠ざけるのですか?女子がお嫌いなわけではないでしょう?」
「嫌いではないが、求めてもいない。それに遠ざけているのは女子だけじゃない、男もだ。どうしてかって?君だけが好きだから、君だけを愛しているからに決まっている。私の幸せというなら、君を愛し君と生きている今がまさにそうだ。もし君が女子だったらもうとっくに君を嫁にもらって皆を黙らせているんだがな」
(…よ、よく臆面もなくそんなこと…!!)
自分が彼を取り巻くすべての男女を差し置き、蹴落としてたったひとり風衣に選ばれていることを思い知らされ、芦弦は寝具の中の何も身につけていない身体が熱い誇らしさにかっと燃え立つのを感じながら、なおも甲斐のない言葉を連ねた。
「…ですが、若様、そう言われましても私は男で、若様の妻にはなれませんし、こ、子供も産めません…このままではいずれ曹家の後継問題に発展しかねないではありませんか。お言葉は大変嬉しいですが、この上は私はそのお気持ちだけありがたくいただいて、若様の御身は後継者をお産みになるご婦人のもとへいらした方が…」
「…君は本当に曹家に忠誠を尽くす覚悟なんだな。だが言っただろう?私は君だけを愛していると」
「…若様…」
そのとき風衣はふとどこか遠いところを見つめるようなまなざしをして言った。
「君と一緒にいるときだけ、私は本当の私でいられる気がする。伝統やしきたりに縛られ、親に決められた生き方しか許されない私が、それでも普通の人間らしい気持ちを保っていられるのは、他でもない君が側にいてくれるからだ。君が私に光を照らしてくれた。私に知らない風を吹かせてくれた。それはどんな血筋や財産を有していても手に入れることのできない、人を人たらしめる真の宝だ」
(そんな…救われているのはむしろ私の方なのに…)
十数年前、孤児だった芦弦が縁あって曹家に引き取られると、二人の妹だけで男きょうだいがいなかった風衣と芦弦はすぐにうちとけ、親密になった。寛容で篤実な曹雨錦の庇護と教育のもと、二人は本当の兄弟か幼なじみのように仲良く育ったが、年齢が上がるにつれて芦弦は風衣との身分の差を痛感するようになった。本来ならいつのたれ死んでも不思議ではない命だったのに、幸運にも曹家の当主に拾われ、何不自由ない暮らしと将来の道を拓く機会を与えられた芦弦は周囲の嫉妬と羨望の対象だった。しかし風衣は、どこの馬の骨とも知れぬみなしごの分際で、と蔑まれ陰口を叩かれる芦弦を堂々と人生で最高の友と呼び、弟、家族だとも言って守った。風衣は何かあればいつでも芦弦を背中に庇い、誰に対しても臆することなく立ち向かうばかりか、もし口論に発展したら最後、相手が非礼を認めて引き下がるまで一歩も譲らなかった。
そして彼は衣食住や立場、役割のみならず、愛でも自分を満たしてくれたのだ。
始めそれは憐れみや情けから来る慰めの行為だったかもしれない。しかし二人の結びつきは、身体が成長して大人に近づくにつれ、純粋ないたわりや親愛の情という範疇では抱えきれないほど情熱的なものに発展していった。心の奥に似通った影を抱える二人だからこそここまで強く惹かれ合うのではないか。今の芦弦にはそう思えた。
風衣はにこりと笑い、寝台の端に腰を下ろすと芦弦の頬に指で軽く触れた。
「私が君がいいと言っているんだからいいんだ。…まあ、そう心配するな。あまり先読みしてあれこれ考えすぎるのは良くない。私はまだ十八だし、そのうち気が変わって結婚を考える可能性もある。君にもうこれ以上心配をかけないという意味でも」
「…はい」
芦弦は安心し、嬉しい反面また瞳を曇らせた。風衣が結婚を考えるときーー身を固めて欲しいと言いながらいつか風衣の気持ちが他の誰かに移るときが来ることを思うと途端につらくなったのだった。風衣は彼の表情を見てそこに根を下ろした不安に気づき、優しくささやいた。
「だがもし私がいつの日か家のために妻を娶って子を成したとしても、君に対する私の気持ちは終生変わらない。私が生涯を通じて真に愛するのは阿弦…君だけだ」
(…!!)
そんなふうに思ってくれているとは想像すらしておらず、俄に熱いものがぐっと込み上げた。しかし風衣の愛を一身に受ける喜びに胸を焦がす一方で、風衣のその拭い去られない想いが彼の未来の家族に対して不敬や不実になるのではとの恐れを同時に抱き、芦弦は震える声をようやく絞り出すように言った。
「…だ、駄目です若様…ご結婚なさる以上はやはり私のことは忘れていただき、奥方様とお子様にすべての愛を捧げてくださらなければ…私は…」
「もちろん私は私の妻や子を全力で愛する。君がめぐり会わせてくれた大切な人たちを…心に君を想いながら、君の真情に感謝し、報いるために」
「…」
自ら進んで言質を与えるような風衣のその言葉で芦弦はようやく自分の気持ちを落ち着けた。それが芦弦の理性が最も切望する未来だからだ。芦弦の表情が和らいだのを見て取ると、風衣も微笑みを浮かべた。
「女子や将来の話はやめよう。せっかくの夜なんだ。貴重な時間を無駄にしたくない…」
風衣の唇が、返事をしようとして少し開いた芦弦の唇をそっと塞いで声を奪った。甘やかしながら誘い、誘われながらすがりつくように二つの唇と舌がもつれ合う。だが芦弦は自分が持ち出した話題を自分で意識するあまり無性に気が引け、そこからだんだん意固地になってきて、昂りを覚えつつも拒むように恋人の肩を押した。
「いけません、若様…ん…もう、休まない、と…っ」
すると風衣は首を横に振って芦弦を抱き寄せた。
「…休むにはまだ早い」
「…!」
吐息のぬくもりを感じるほどの間近でそう告げられて、どきりとするや否や芦弦は優しく褥に横たえられ、再び組み敷かれた。落ちかかる風衣の長い黒髪と影の中に閉じ込められる。
「君が心底愛おしい、阿弦…朝になったらまた次がいつかわからない生活に戻ってしまうから、眠る前に、最後にもう一度君を感じたい…駄目かな…?」
最後、というひと言が胸にじわりと沁み入って芦弦はまぶたをぎゅっと閉じ、睫毛を細かく震わせた。
(やっぱりお別れなんてしたくない…男にも女にも、誰にも盗られたくない…!!)
自分でも驚くほど激しく燃え上がる執着で胸がいっぱいになり、気づくと恥ずかしさも躊躇いも忘れて抱かれ慣れた男娼のような甘えた涙声でささやいていた。
「駄目じゃないです…一度なんて言わないで、何度でも何度でも、壊れるまで…離さないで…」
芦弦の肩口に唇を這わせていた風衣ははっと動きを止め、潤む瞳を揺らして、きつく抱きしめた彼の首筋に鼻先を埋めた。
「阿弦…君がどうしてこんなにも私を狂わせるのか、いくら考えてもまだわからない…知りたい…それまでは君を離せない…」
息もできないほどの甘美な束縛感に芦弦は思わずうっとりととろけるように全身の力を抜いた。自然に無防備に開いてしまう身体を彼に委ねると、やがて内から外から惜しみなく注ぐ愛にまた固く結びつけられる。そうして二人は夢中で四肢を絡めて深く身体をつなげ、体力と意識が途切れるまで、互いの一途な情熱に溺れ続けた。
ーーあなたと私には、いつか必ず別れのときが訪れる…それはわかっています。でももし許されるなら、もう少しだけ、あなたと同じ風に揺れ、同じ光を浴びて…あなたの隣に寄り添って咲いていてもいいですか?
(終)
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