静かな夜をさがして

左衛木りん

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第7章 成就

新たな門出

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沐浴と支度を終えた二人は、向かい合って立ち、互いの身だしなみを入念に確認した。

「うん、いつも以上に男前だ」

「君も完璧だ」

相手の襟許を形ばかり直すしぐさをして二人は肩をすくめる。

「って言っても、いつもと同じ普段着だけどね…」

「むしろ気楽でいい。正装しろと言われても、まともな服なんて持ってないからな…」

(静夜、花嫁衣装のこと完全に忘れてるみたいだな…思い出させると面倒だから黙っとこうっと)

久遠は素知らぬ笑顔で静夜の手を引いた。

「じゃ、行こっか」

「ああ」

仲良く手をつなぎ、翡翠の屋根を出て並んで歩き出す。目指すのはもちろん、薄暮の森の奥、復活した誓いの繭である。そこは昨日のうちに儀式再開の準備が整い、今まさに二人の到着を待っているはずだった。

歩きながら静夜は久遠に尋ねた。

「久遠、今更かもしれないが原礎の結婚について教えてくれないか。原礎の男と人間の男という組み合わせはそもそも認められてるのか?」

「もちろん認められてるよ。僕はとっくに四十過ぎて成人してるし、両者の性別も関係ない。ただし通常はいくつかの決まりがある」

久しぶりに始まった特別授業に静夜は真剣に耳を傾けた。

「まず、原礎が人間と結婚する場合、一緒に大森林で暮らすことはできず、人間社会に出ていかなきゃいけない。そして原礎の方は二つにひとつの選択を迫られる」

「選択?」

「ひとつは、煌源を摘出して放棄し、完全に人間になること。そうすると煌気を失い、星養いの旅をして人間のために働く義務を免れる。以後は普通の人間として生きる」

久遠は、道端に落ちているそれぞれに異なる歳月を経た木の葉を何枚も拾い、手の中でその年数の順に並べ替えた。

「で、生まれてからの年数によってはその時点から急激に老化が進む。肉体が時間に追いつこうとするみたいにね。一番つらいのは、寿命が一気に縮まって死期が早まることだ。原礎として長く生きた分だけ人間としては儚い命になるんだ」

そう言って一番若い方の葉から数枚を抜いて捨てた。もし今の久遠がその道を選んだら、彼に与えられる人生の残り時間は自分よりもずっと短くなる。先日自分が言ったことと正反対の未来になるのだ。自分が久遠を見送る光景を想像して静夜は少し寒気を覚え、それを打ち消すように瞑目した。

人生に『もしも』はない。それが救いだった。

「もうひとつは原礎のまま人間社会で生きること。この場合その者は煌源と長寿は維持するけど、星養いの旅を続けなければならず、実生活でのすれ違いや相手との寿命の差っていう現実に否応なしに直面する。こちらも相当な覚悟が必要だ」

「君と俺がそれに当たるというわけだな。…ああ、生活がすれ違うことはないが…だが俺は、大森林に暮らし、出入りすることが許されてる。この点はどう受け止めれば…」

「おまえは原礎の友として認められてて、未来の長老の配偶者になる人だから例外中の例外だよ。普通は…あれ?」

そのとき久遠が唐突に話を中断して無言で何事か考え始めたので静夜は彼の横顔を覗き込んだ。

「どうした?」

「いや…今頃思い出したんだけど、そもそも人間は大森林では暮らせないから誓いの繭に入ったことはないはずなんだ。少なくとも過去に誰かが挑んだって話も聞いたことないし…しまった」

「じゃあ人間の俺は入れないかもしれないということか?そんな…」

静夜の表情は沈み、たちまち青ざめてしまう。久遠は静夜を元気づけねばと慌てて固く手を握りしめた。

「だ、大丈夫だよ!もし入れなくても交際しちゃ駄目ってわけじゃなくて、まあ…事実婚?というか…こないだまで考えてた二人一緒の人生に変わりはない。そうだろ?」

形式にこだわるつもりはなかったはずなのに叶わないかもしれないと思うと急に残念な気分になり、静夜は少し肩を落としている。

「…でも、せっかくの宇内様のお計らいなのにもし繭の目の前で拒絶されてしまったら、宇内様のお顔に泥を塗ることになる…そんなことになったら俺はどうすれば…」

「そんなことにはならないって。おまえは今や僕たちの同胞、仲間なんだから。きっと大丈夫!」

「…そうかな」

不安の拭えない二人だったが、今回の件の仕掛け人ともいうべき宇内には何か確信があるに違いないと久遠はひそかに推測していた。

「ちなみにさっきの話の続きだけど、どちらの場合も男女の間で子供をもうけることはできる。ただし生まれてくる子供は例外なく人間。人間と原礎の間では煌気は受け継がれないからね」

「いろいろ知れてよかったよ」

二人は話しながらどんどん歩き、薄暮の森に近づいていったが、次第に道沿いの木立の後ろや家屋の窓から常に誰かにじっと見られていることに気づき始めた。言うなれば二人にぴたりと焦点を当てた色とりどりの目玉が左右両側、道の先までずらっと並んでいるような感覚である。そしてあるときふと振り返ると、二人はいつの間にか群衆を後ろに従えてその先頭を歩いていた。あの二人がついに結婚するらしいとの噂を聞き、彼らがやってくるであろう道沿いで朝から待ち構えていた原礎たちが勝手にぞろぞろついてきていたのだった。

久遠は静夜にこそっと耳打ちした。

「すごい数の野次馬だな…みんな僕たちをお祝いしてくれてるのか、それともただ単によっぽど暇なのか」

「さあ…」

道はすでに薄暮の森に差しかかっている。静夜が麗に案内されて初めて訪れたとき、ひっそりとして生き物の気配がしないと感じた森は、今日は静かでありながら午前の澄んだ光と空気に包まれて明るく喜ばしげに二人を迎え入れてくれた。

(あれほど侘びしそうだったあの森が本当に復活したんだな…こんなに美しい場所だとは思わなかった)

隣で一緒に歩く久遠の心も不思議と踊っていた。その表情はわくわくとした希望に満ちあふれ、なんとなくすべてが良い方向に運ぶという予感が胸に兆し始めていた。二人はどちらからともなくつないだ相手の手を強く握り直した。

そこへ道の脇から質素な身なりの人々が飛び出してきて、二人に駆け寄った。暁良始め、日向の巣の人間たちだ。

「静夜さん、久遠さん、結婚おめでとうございます!末永くお幸せに!」

「いよいよですね!頑張ってくださいね!」

「静夜さん、おめでとうございます…!あの…これ、見てください…!」

「…耶宵!おまえまで…それは?」

静夜が思わず目を奪われたのは、耶宵が胸の前に抱えたひと株の緑の苗木だ。

「千尋様が封印樹から実生の苗を育てて贈ってくださったんです。永遠には会えなくても、この木がきっとあたしの希望になるはずだっておっしゃって…」

「…そうだったのか。千尋様が…」

久遠と静夜は安堵の表情を交わし、大きくうなずいた。

耶宵は少し目を潤ませながら、込み上げる感情を堪えるかのように熱っぽく言った。

「あたし、この苗木を日向の巣の真ん中に植えて毎日大切にお世話します。…それから、決めたんです。ちょっと遅いかもしれませんけど、今から一生懸命勉強して村の治療師になります。永遠がみんなの希望になったように、あたしも自分にできることで誰かの力になりたいから…だから静夜さんも、あたしのこと応援しててくださいね!」

耶宵の語る夢に触れた二人のまぶたには、とこしえの庭の外でただ一本の封印樹の生ける写しが、日向の巣の象徴として畑の中にそびえ立っている風景が描き出されていた。その木は、大きく広がる枝葉の日陰で仕事に疲れた人々を癒し、甘くみずみずしい果実で彼らの喉を潤している。それからその下で小さな子供たちが元気に走り回ったり、老人たちがおしゃべりに花を咲かせたりしている光景が、ひとつ、またひとつと浮かんでは消えていった。木の根元で向かい合って立っている、穏やかに歳を重ねた耶宵と、変わらない永遠の姿も…。

幻から覚めた静夜は微笑みながら耶宵の頭をぽんぽんと撫でた。

「遅くなんてない。おまえなら必ずなれる。…暁良を支えて、しっかりな」

「はい!」

耶宵は半泣きの顔を綻ばせ、白い歯を覗かせて笑った。

苗木を抱いた耶宵と暁良たちを集団に加え、久遠と静夜は薄暮の森を進んでいく。

すると道の先で、今度はなんと、四季と未来、そして五人の子供たちが首を長くして二人を待っていた。

「わぁーい!久ぅ兄~!」

「けっこんおめでとー!」

「静兄、おめれとー」

「…みんな!今日は四つ葉の学び舎でいつもどおりおとなしく過ごすって約束だったろ?…なのに、なんで…!」

恥ずかしさからつい大声を張り上げてしまう久遠に、子供たちはお構いなしに駆け寄って群がる。その中で日月だけは静夜の長い脚にぎゅっとしがみついた。

「ごめんなさいね久遠くん、私と未来ちゃんも何度も駄目ですって言ったんだけど、どうしても二人をお祝いするんだって聞かなくて」

「しまいにはみんな一斉に泣きそうになって、しかたなく連れてきてしまいました…本当にすみません…」

「そうだったの…しょ、しょうがないなあ、もう…!」

少し赤くなった頬を膨らませてぶつぶつ言う久遠とは対照的に静夜は迷わず日月を抱き上げて優しく答えた。

「俺たちの方こそお騒がせして申し訳ありません。でも嬉しいです。こうして賑やかにお祝いしてもらえて」

四季と未来も安心して微笑んだ。静夜が嫌な顔ひとつしないからというだけではない。初めて出会った日の彼の印象ーー子供に好かれる優しい人という直感が嘘偽りのない真であるとわかり、今ではそこに彼が罪と苦難の道を経て学んだ経験の深みが加わって、次代の長老の伴侶にふさわしい風格さえ醸し出しているからだった。

静夜に抱っこされた日月は彼の指にはめられた四つ葉の指輪をすぐに見つけて指差した。

「静兄、あたらしいゆびわ、ちゃんとしてう。日月がつくった、よつばの」

「もちろん。久遠と一対のお守りだからな」

「うん。こんどはなくしちゃだめ」

「ああ。絶対に失くさないよ」

久遠の方も次々と熱烈に抱っこをせがまれ、嬉しいやら困るやらでおおわらわだった。だが、最後のひとりになった千里はなぜかしょんぼりと突っ立っている。

「千里、どうした?抱っこしなくていいのか?ほら、空いてるぞー」

久遠が腕を広げて大歓迎しても、千里の表情は冴えない。

「だって…久ぅ兄がけっこんするのに、永遠おねえちゃんがいないの…たびにでちゃって、かえってきてないの…」

「千里…」

久遠とどちらか選べないというほど永遠のことが大好きで、彼女を憧れの存在としていた千里だ。久遠は胸がぐっと詰まるように切なくなり、思わず腕を下ろした。周りにいる大人たちも黙ってうつむく。実は沈んでいるのは千里だけではなかった。

まだ修行を始めていない幼い子供たちには今のところ永遠はかなり長い旅に出ていてしばらく戻らないという趣旨の説明がされていた。これはけして子供たちを納得させるための嘘ではなく、経緯が複雑であることを考慮した、あくまで混乱を避けるための措置であり、一定の年齢になり理解力が育てば順次両親や師匠から真実の説明がなされるという示達になっている。だが永遠に会えず寂しがる子供たちが予想よりもずっと多いことに長上たちは図らずも頭を悩ませる事態に陥っていた。

永遠が将来に道しるべを残して樹木に姿を変えたことはいずれ教わることだ。だが今の子供たちにそれを説明して理解させるのは難しい。そしてそこから何を考え、見つけ、学び取るかはその子供たちが自分で決めることなのだ。

(ごめん、姉さん、千里、みんな…今の僕にはこんなことしか言えない…でもきっといつか必ず会えるから…)

久遠は千里の小さな手を握り、目の奥に膨れ上がる気持ちを懸命な瞬きで抑えながら、噛んで含めるように語りかけた。

「そうだな…姉さんも一緒にいたらよかったよな。…確かに姉さんは今ここにはいないけど、きっと星のどこかで今日のこの知らせを聞いて、心から喜んでくれてるよ」

「永遠おねえちゃんもしってるの?」

「ああ、もちろん。それに、千里が大きくなっていつか星養いの旅をするようになったら、旅の途中で必ずまた会える。姉さんも、早くどこかで千里やみんなと会えるといいなって思ってるよ」

「ほんとに…?」

「ほんとだとも。おまえが賢くて強い大人になって目の前に現れたら、姉さんすっごく喜んで褒めてくれるぞ。それまでごはんいっぱい食べて、よく遊んで寝て、大きくなろうな」

「うん!あたち、はやくおおきくなってしゅご…しゅぎょうしてたびにでる!それでぜったいぜったい、永遠おねえちゃんにまたあう!」

(会えるよ…必ず…旅路の先、とこしえの庭で…)

成長して旅人になった子供たちは、いつの日か果てしなく続く緑野に立ち、封印樹を見上げ、そこですべてを知るだろう。歴史と、真実と、多くの人々の選択のことを…。

(みんな少しずつしっかり成長してる…姉さんの思い、ちゃんと子供たちにも伝えてくから、安心して、姉さん…)

取り巻いた野次馬の中でその様子を見ていた耶宵は、涙ぐみながら何も言わずに封印樹の小さな苗木を胸に抱きしめた。その肩に暁良がそっと手を乗せた。

子供たちが笑顔になったところで四季がぱんぱんと手を打ち鳴らした。

「さあさあみんな、もうこの辺で。二人が時間に遅れちゃうといけないから」

元気良く返事をして子供たちも当然の如く行列に連なり、引率の二人とともに園外学習よろしく意気揚々と歩き出した。

さらに薄暮の森深く分け入っていくと、立ち並ぶ木々の間からうっすらとした白い光が漏れているのが見えてきた。それとともに、ざわざわとしきりに動く無数の人影も。

静夜の胸に、薄暗く沈んでいたあの日の記憶が今の光景に重なるように蘇る。その対比はまるであの日の自分と今の自分だ。

(…確かそこが、誓いの繭がある場所…)

繭の前に開けた空き地に出たとき、二人は午前の明るい光と挨拶や祝福の声に出迎えられた。

驚いたことに、すでにそこは二人の門出を見届けるべく集まった人々でぎっしりと埋め尽くされていた。正面には虹色のきらめきと真珠のような光沢を放つ大きな球体が鎮座し、また二人のために空けられた通り道の両側には二人と縁の深い人々が詰めかけて二人を待ち受けていた。彼方と麗、曜と界、十二礎主と補佐官たちはもちろんのこと、久遠の古くからの友人知人、珠鉄の戦士や職人たち、妖精の臥所の治療師たち、琥珀の館の賢人集団などだ。そのひとりひとりの顔からたくさんの思い出が、物語の封印の紐を解きページを広げるように次々とあふれ出し、二人をいくつもの時、いくつもの場所にたちまち連れ去った。気づけば二人は役立たずと罪人ではなく、皆の希望、原礎と人間の絆の象徴、大森林の中心的存在だった。皆の温かい笑顔が言葉よりも明らかにそのことを証明していた。

人混みの最前列で微笑みを浮かべて自分を見つめている彼方を発見すると久遠は顔をぱっと輝かせて走り寄り、弟が自分の頑張りを兄に褒めてもらおうとするように熱心に話しかけた。

「彼兄!あのさ、僕、今日静夜と結婚するんだ。…って言ってもまだ正式に星に認められたわけじゃないんだけど…でも結果はどうあれ、僕は静夜と一緒に生きてくって決めた。…それで、ねえ、彼兄…僕たちの結婚、お祝いしてくれる…?」

最後にはやはり気恥ずかしくなってもじもじとしてしまった久遠に、彼方は何のわだかまりも思い残しもない最高の祝福の言葉を贈った。

「もちろんだよ。小さくて甘えん坊だった君がこんなに立派になって、愛する人と誓いを交わすときが来るなんて、私にも夢のようだ。心から二人をお祝いするよ。おめでとう、久遠。静夜くん」

「彼兄…ありがと!」

無邪気に頬を染める久遠の真後ろでその会話を聞いていた静夜は、彼方が降り積もる思いと尽きせぬ願いを託すようなまなざしを送ると、黙ってひとつ辞儀をした。

二人が立ち去った後、微笑みを唇に残したままその背中を見送っている彼方の肩に麗が優しく手を置いたのだった。

「久遠、静夜くん。このたびは誠におめでとう」

その後も歓声に応えてゆっくりと歩いていた二人に話しかけたのは雲居の礎主だった。

「君たちに渡すものがある。朝一番の銀嘴鷲が届けてくれた。雲居の社の光陰からの文だ」

「と、父さんからの…?」

急なことに戸惑う久遠だったが、静夜の微笑みに背中を押されて、渡された手紙の封を開けた。



『風早の忘れ形見へ 二人歩む道に常に良き風が吹かんことを』



緊張が解けた久遠は呆れたように肩の力を抜いた。

「…なんだ、お祝いの手紙かあ…もう、父さん、せっかく銀嘴鷲を飛ばすんなら一緒に乗ってきたらいいのに」

「光陰様はお忙しい身なんだからそう憎まれ口を叩くな、久遠。お会いするなら俺たちの方が出向いて改めてきちんとご報告しなくては」

「えーっ、別にいいよぉ、わざわざ行かなくても…こうして認めてもらったんだし」

「そういうわけにはいかない。俺たちの肉親で今も健在なのは光陰様だけなんだから、精一杯礼を尽くしてご挨拶しないと…」

「あー、わかった、わかったから!静夜は相変わらずお堅くて真面目だなあ…今日はその話はいいだろ?ほら、宇内様がお待ちかねだ。これ以上のんびりしてられないよ」

目を向けた視線の先、繭の前にはあのときのように警備の衛士ではなく繭の管理者の術師たち、そして宇内がこちらを向いて立っている。友人たちも野次馬も、皆が二人の一挙手一投足を食い入るように見つめ、絶えず目で追いかけていた。

「さあ行こう、静夜」

「うん」

たっぷりと時間をかけてやっと繭の入り口までたどり着いた二人を宇内は両手を広げて歓迎した。多少待たされたとしても、試練を乗り越えた二人が同胞たちから祝福される光景を見ることができるなら、そのための時間はこれっぽっちも惜しいとは彼は思っていなかった。

「久遠、静夜殿、ようこそ、誓いの繭へ。そしてよくこの日を迎えられた。…二人とも、逆境をくぐり抜けてよくここまで頑張ったな。本当におめでとう」

「ありがとうございます」

宇内の簡潔な言葉と真心からの微笑に二人が胸を熱く膨らませて答えると、集まった群衆から拍手と歓声と口笛が上がった。

「今日は年寄りの長話や退屈な式典などはない。封印はすでに解かれ、中の支度も整っている。さあ、どちらからでもいいので中に入りなさい」

「…は、はい」

宇内は繭の正面に向けてにこやかに手を差し出したが、またしても困惑したことに、そこには一般的に扉と呼ばれる目に見える部材や入り口としてくり抜かれた造作がなく、完全につるりとした平面で、扉というよりは外壁そのものだった。二人が足を止めて顔を見合わせると、脇に控えていた術師が小声で言った。

「お二人が意思を持って近づけば自然と扉は開かれます」

「…はい」

ここに来て静夜の心臓は不安の鼓動を打ち鳴らし始めた。かつて人間がこの扉を開けようと試みたことはない。もし原礎でないという理由で繭に拒まれたらーーこの雰囲気に水を差し、せっかくの厚意を無駄にしてしまうかもしれないと思うと足が少しすくんだ。

(それだけで久遠との仲を否定されたということにはならない…でも…ここまで来たら認めてもらいたい…!)

と、そのとき静夜の胸の真ん中が小さく、明るく輝き出した。久遠の胸もいつしか同じように金色に光っている。それとともに、継ぎ目さえ見えなかった目の前の繭の白い表面に金色のインクで紋様を描くように発光する線が縦横無尽に走り、あっという間に扉の形を浮かび上がらせた。

一同が驚きの表情で見守るうちに、やがて中央の縦線が割れて扉が左右手前側に開いた。永遠の森羅聖煌の煌源が力を顕し、繭が静夜を同胞と認めたのだ。

静夜はまだ輝きを放っている胸許に手を置き、呆然としてつぶやいた。

「…永遠からのもうひとつの贈り物だ」

久遠も唇を噛みしめ、祈るようにそっと頭を垂れた。

「姉さん…ありがと」

このとき背後で宇内が首尾は上々、と何度も何度もうなずいていたことを二人はとうとう知らずじまいだった。

「君が先に入れ、久遠」

開いた戸口に立った静夜はそう言って次代の長老に敬意を表し、久遠を促した。だが久遠は取り合わず、首を横に振った。

「いや、せーので二人一緒に入ろう」

「うん…?」

答えた久遠の言葉から並々ならぬ特別な気概が感じられたので、静夜は少し不思議に思って彼の横顔を見た。すると久遠は再びこう答えた。

「ここに来るまでも二人横に並んでずっと歩いてきたろ?それが僕たちらしくてなんかすごくいい。僕たちはお互いが相手の夫、対等な立場になるんだから」

その考え方は静夜の心にも違和感なくすとんと収まった。二人はどちらの方が弱いだとか、一方的に譲られたり守られたりということがないからだ。

もちろん今後は静夜が常に久遠の身の安全に留意することになるし、反対に久遠が行く先々の原礎たちの間で静夜の身上を担保する役目を負う。そこだけ切り取れば一方が守られているように見えても、それはあくまで持ちつ持たれつで、相手を慈しみ尊重しながら平等に義務を果たすのがこれからの二人の新しい関係性だった。

「僕、『ずっと見つめていたい』って、なんか違う気がするんだよね。向かい合って見つめ合ってるだけじゃ相手の顔しか見えないし二人ともそこから動かない。でも同じ方向を見て一緒に歩いていけば、一緒に成長できる。相手を信じてるってことも空気で伝えられる。顔は見えてなくても、存在は確かに感じられるから」

「俺も君のその考え方は好きだ。ずっと見つめ合っていられるような暇は俺たちにはないからな。…ただ」

「ただ?」

「見つめ合っていなくても、いつも側にいる。…こうしてすぐに捕まえられるくらい近くに」

静夜は久遠と並んで戸口に立ち、その手を握りしめた。久遠は頬に熱が差すのを感じたのも束の間、照れ隠しの悪態をついてしまう。

「捕まえるって何だよ…すぐ飛んで逃げてっちゃう鳥みたいに」

「だって君は好奇心が人並み外れて旺盛で、その上うまい食べ物には目がない食いしん坊だからな」

久遠はお返しに静夜の素顔や生態のあれやこれやを披露しようかとも思ったが、そろそろ周囲の視線が気になり出したのでしかたなく口を閉じた。

「じゃ、入るぞ」

「うん」

二人はいつもどおりに手をつなぎ、意を決して扉の内側に同時に足を踏み入れた。

小さな家ほどの大きさに見えた繭の内部は見たとおりの容量の空洞だった。内壁は、手触りは優しいが頑丈そうな謎の材質でできており、これも外観と同様真珠のようななめらかな艶と光沢を帯びて淡く光っていて、有機的とも無機的とも感じられる。窓の類のものも当然ないが、煌々と燈を灯しているかのように明るく、日光が燦々と降り注ぐ窓辺のようにぽかぽかと暖かい。

二人が繭の内外の境界を跨いで越えると、両開きの扉はひとりでにぱたりと閉じ、金色の紋様も溶けるように消失して元の平面の壁に戻った。要するに閉じ込められたのだ。怖くはないが、何が起こるかわからず、とにかく不思議で興味深い。

「奥はどうなってるのかな…」

内部の詳細をさらに観察しながら二人は空間の中央へとおっかなびっくり足を運ぶ。

一見した限りでは何もない空間だったが、実際には床の真ん中に籐製の二枚の円座が並べて置かれていた。ここに座って祈りを捧げるべし、ということなのだろう。ただそれ以外には本当に何もなく、祈りの手順や作法を示すものどころか方向を指定するような目印すらない。

(それもこれも全部二人次第ってことなのか?意外とざっくりして緩いんだな)

久遠が首をひねっていると静夜が言った。

「ここは二人だけの誓いの場だから、向かい合って座りたいんだが」

「賛成。宇内様からは何の説明もなかったことだし、僕たちの思うようにやってみよう」

そこで二人は差し向かいで円座に腰を下ろし、ゆったりと胡座を組んで身を落ち着けた。

「じゃ、始めようか」

「うん」

瞑想を行う意識で二人とも膝の上に手の甲を置き、まぶたを下ろし、焦らずそれぞれの速さで呼吸を整える。

(何をどう祈ればいいのかさっぱりわからないけど、僕は単純に静夜とめおとになりたい…ただそれだけ聞き届けてもらえたらいい…)

山と谷の異なる波形を交互に繰り返していた二人の深い呼吸はだんだんと差を狭めて近づき、二本の糸が撚り合わされて一本になるように自然と同調する。二人でひとり分の息遣いのかすかな気配だけが純白の静寂の中に延々と繰り返された。始めこそ静夜がどんな様子なのか目を開けて確かめたいという衝動を感じていた久遠だったが、無音の安らぎの中に包み込まれるうちに気にならなくなっていた。

(顔は見えなくても存在は確かに感じられる…そうだ、静夜を信じて…)

久遠は頭の中が空っぽになり、そのまま半分眠り、半分覚醒しているような奇妙な気分になった。二人とも、温かな水底に揺蕩って沈みきらずに抱かれている、ぼうっとして快い波間にしばらく漂った。

(…ん…)

いったいどれくらいの時間が経過しただろう。祈りを絶やさないつもりが、あまりに気持ちが良くてうっかりうたた寝をしてしまったのかもしれない。子供たちのお昼寝に付き合ってそのまま一緒に眠ってしまうことがときどきあり、そのときの感覚に似ていたが、今が一生に一度の大切な儀式のときであることは忘れていない。はっと身震いして睫毛をぱちぱち瞬かせると、静夜が目を見張ってこちらをじっと見つめていたのでどきりとした。

「あ…!ごめ…」

そのとき静夜は無言で唇の前に人差し指を当てた。いきなり声を出すのが憚られてとっさに声を呑んだ久遠は、次の瞬間あることに気づいて彼とまったく同じように目を丸くした。

自分の腹の前に白い筋を引く無数の小さな光が四方八方から集まってきている。

(これは…!?)

強い渦を巻くように回転する核に光はどんどん取り込まれ、輝きを増しながら膨らみ、最後には自分の頭と同じくらいの大きさにまでなって膝と腕の真ん中の宙にぷかりと浮かんでいた。

(…!)

落ちたら危ない、と久遠が思わず両手を下から添えるように差し出すと、その光の塊は静かに降下してすっぽりとそこに収まった。その瞬間に表面の光の薄膜がぱっと飛び散って霧消すると、そこにあったのはほんのりと淡い虹色に光る球形に近い楕円形の白い物体だった。静夜が円座から少し背中を伸ばしてきてそれをしげしげと観察した。

「…それは?」

「わ、わかんないけど…もしかしてこれが、星からの贈り物…?」

「ということは、俺たちの祈りが星に届いたのか…?」

「多分…」

これが何かはさっぱりわからないが、そう考えるのが自然に思えた。腕に抱いたその謎の玉を、ようやく感じられた安堵と喜びに胸を熱くしながら久遠はこわごわ撫でてみた。その感触の柔らかく繊細でありながら丈夫でしっかりとしているところはこの繭の壁に非常によく似ていた。まるでこの誓いの繭そのものが小さな分身を生んで久遠に託したかのようだ。

「もしそうなら、僕たち、ほんとに星に認められてめおとになったってこと…?」

「…そうなる…よな」

「…」

誰かがそう宣言してくれるとか、見てわかるはっきりとした変化があるというわけではないので、手ごたえはあるもののまだ実感が湧かず、二人はどっちつかずな気まずさと照れ臭さに顔を少し赤らめた。

「ど、どうしよう、これ?宇内様なら何かわかるかな。とりあえず外に出て見ていただかなくちゃ」

「だが扉はさっき閉じたまま消えてーー」

静夜が入ってきた方の壁を見て驚いたのは、そこに扉の解錠を示す金色の光の紋様が再び浮かび上がり始めているからだ。まるでそれをもって儀式の終わりを宣言しているように。

「これ以上ここにいても意味はないだろう。出ようか」

「うん」

二人は円座を立って扉に向かった。久遠は胸に抱いた謎の玉を注意深く抱え直した。

(なんとなく感覚で全部済ませちゃった感じだなあ。でも感覚で思ったとおりに進んだってことは、やっぱ…)

終始淡々と冷静に振る舞う静夜を久遠はこれまでとはひと味違う気持ちで見上げた。

二人は入ったときと同様仲良く並んで外に出てきた。繭の中が十分に明るかったため目が眩むことはなかったが、久しぶりに吸う外気はずいぶんと涼しく爽快に感じられた。その空気を吸ったとき二人は長めの散歩をして身体が温まったような心地良い疲れがあることに気づいた。

繭の外では宇内や友人たち、そして野次馬たちが気を揉んでいる様子でうろうろしながら今か今かと二人が戻るのを待っていた。

「あ、出てきたぞ!」

誰かが叫ぶと皆一斉に二人に注目し、人混みの輪を詰めた。

「お待たせしました。今終わりました…と思います」

誰よりも前に出て久遠の抱いた物体に興味津々の様子で歩み寄ってきた界がぽつりと言った。

「…それ何?」

「新しい命を授かった」

そう言われた界の目には、その白い楕円形の玉が本当に赤ん坊のおくるみに見えてきたらしい。

「…久遠って女の子だったの?だとしても早すぎでしょ」

「バカ、物のたとえだ!だってこれ、卵みたいだろ?ちょっと巨大だけど、丸っこくてなんかあったかいし」

「えっ…産卵?」

久遠は界そっちのけできょろきょろと辺りを見渡した。

「それより、僕たち、どれくらい中にいたんだろう。もしかしてそろそろ夕方?」

界の隣にいた曜がすかさず答えた。

「お茶を一杯飲むくらいだ。そんなに経ってない」

「えっ、たったそれだけ?なんかもう一日の終わりくらいの感じなんだけど…」

静夜は久遠の腕の中の玉に視線を止めながら宇内に近づいて尋ねた。

「…宇内様、二人で祈りを捧げた後突然久遠の手の中にあの玉が出現したのですが、あれはもしや…」

宇内は重畳至極というような、彼にしては珍しく晴れやかな口調で言った。

「そのとおり。あれは“虹の繭玉”。中には星が契りを交わした二人にその証として授ける特別な贈り物が入っている。何が入っているかは星が決めることだから私も知らない。いつ開くかもわからない。ただ何であってもそれは二人にふさわしい、あるいは二人を守ってくれる唯一無二の宝物になる」

「では、俺たちは…」

「うむ」

宇内は広げた両腕の前に久遠と静夜の二人を招き寄せ、群衆の輪の中央から力強く重厚な声を朗々と響かせた。

「皆の者よ、聞け。長老の名においてここに宣言する。今このときをもって二人はめおととなった。何人も二人を引き裂くことはできない。二人とも喜べ、おまえたちの苦悩と勇気が報われたことを。そして同胞たちよ、原礎と人間の愛が星の認めるところとなる、大森林の歴史に刻まれるであろうこの瞬間に立ち会えたことを誇りとせよ!」

拍手喝采と祝福の声が沸き起こり、地面と大気を伝わって大森林を普く震わせた。色とりどりの花びらが撒かれて暖かな雪のように絶え間なく降り注ぐ中、久遠は幸せに満たされた表情で静夜を見上げた。

「静夜、僕たち今までいろいろあったけど、全部ひっくるめて何もかもが今日のためにあったんだと思ってる…これからはお互いに夫として、末永くよろしくな…!」

その笑顔は誰よりも生気と夢にあふれ、まぶしく華やぎ、輝いていた。静夜は不意に深い海の底からうねりながら突き上げる潮のような熱い感慨に襲われ、声を失った。

自然と身体が動いた。一歩踏み込んで久遠の前髪をこまやかな手つきで脇によけ、その両手で頬を包んで上向かせる。

「?…静夜?」

突然落ちてきた影の中で久遠はきょとんとする。そのまま顔と顔が近づいてーー

ちゅううううっ

(えっ!?)

『!!!?』

無数の視線を一身に集め、身体がぎくっと硬直した。皆の見ている前でキスをされていると頭でわかると全身の血が沸騰した。

「むーっ!んむー!」

暴れるか突き飛ばすかしようにも、虹の繭玉を抱いているので手が出せない。どよめきに冷やかしの口笛、さらには黄色い悲鳴が聞こえたが、静夜の情熱的な唇はぴたりと吸いついて離れない。そこに可愛らしく遠慮のない声が突き刺さってきた。

「あーっ、久ぅ兄と静兄、ちゅーしてる~!」

「ねえねえ四季おねえちゃん、久ぅ兄がおよめさんで、静兄はおむこさんになったの?」

「ちょっと違うわね。二人はお互いにお互いのお婿さんになったのよ。ねえ、とっても素敵でしょう?」

「そうなの?へえー、そうなんだー!」

ようやく解放されると息を荒らげて静夜に噛みついた。

「おい、こ、こら!ちびっ子たちが見てるだろ!?こ…こういうことは家で…!」

真っ赤になってあたふたしている久遠に、静夜は何事もなかったかのような真顔でささやいた。

「すまない。気持ちが昂って、つい」

「…つい、って、おまえなあ…!」

落ち着き払って嬉しそうに微笑んでいる静夜に、とてもそれ以上怒る気になれず、久遠ははにかみながらもごもごと口をつぐんだのだった。

「…永遠、見てる?あんたの弟たち、ついに願いを叶えたよ。ほら、あんなに幸せそうに笑ってる…!」

耶宵の腕の中で封印樹の苗木も喜んで祝福するような光をきらきらと盛んにこぼしていた。

「…」

彼方が感極まったように手で目許を覆っているので、麗は気遣いながらも明るい表情で彼の顔を覗き込んだ。

「あらやだ、彼方ちゃん、もしかして泣いてるの?久遠ちゃんが結婚しちゃって、悲しくなっちゃったのかしら?」

「泣いてなんかいないよ…私にくっついて歩いていたあの小さな久遠が立派に、幸せになった姿が見られて、嬉しくて感激しているだけだ…」

「顔で笑って、心で泣いて…大人の失恋はこたえるわね…でも大丈夫!彼方ちゃんにはあたしがいるから安心して!ほら、慰めてあげる!さあさあ!」

「やめなさい、麗!!」

花吹雪とたくさんの笑顔の真ん中、身を寄せ合って幸せに浸る久遠と静夜に勇気づけられ、人目を忍んでそっと手を結び合う者たちがいる。二人に続き、自らの誓いの日を心待ちにする若者たちだ。

この星に生きる限り、悲しみが尽きることはない。それでもその悲しみを、小さな喜びや幸福の積み重ねで少しずつでも包んで癒していけたらーー誰もがそう願った。
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