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第7章 成就
勇気を胸に
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それはいつもと変わらない澄明な朝だった。
「…」
宇内は眠りから覚めた仰向けの姿勢のままでじっと横たわっていた。自室の白い漆喰の質素な天井に夢の残像が吸い込まれるようにかき消えていった。彼はほとんど夢を見ない。まして憶えていることもない。しかし昨夜のそれは違っていた。彼は強い導きを受け取ったと感じ、我意をかなぐり捨て、素直にそれに従おうと心に決めていた。罪と悔悟の念がその下支えをしていた。
音もなく窓から吹き込む風が不思議な予感を運んできて、小さな暗闇に閉じこもっていた彼を新しい今日へと連れ出す。やるべきことは山ほどあるのだ。若者たちの未来に道をつなぐために…。
永久煌炉と黄泉を封印した久遠たちは、封印樹の見守りと事後処理のために残った千尋たち数十人の同胞にしばしの別れを告げ、再び北に向けて出発した。主のいなくなった黒玉の城を解放するためだ。彼らは途中噂を聞きつけて馳せ参じた旅の同胞たちを続々と隊に加えながら街道を北上し、とうとう黒玉の城に達して、いくつかのごく小規模な戦いの後に難なくそこを攻略した。主の敗北を知った煌狩りの人間たちは早々と戦意を喪失し投降した。静夜は留守を預かっていた副首領を討ち取り、彼の人生をかけた大仕事の最初の一歩をそこに記した。
黄泉の本拠地であった黒玉の城は綿密な調査を要するので破壊することができない。そのためあらかじめ派遣要請していた支援部隊が到着するのを待って数日間駐留し、彼らと入れ替わりに黒玉の城を後にした。
そして今久遠と静夜は再び封印樹の根元に立っていた。
少し斜面を上がったこの場所から見渡すと、大樹の裾野の荒野に俄たちの宿営する天幕が地面から生えた丸く白い茸の群生のように密集している様子が一望できる。故郷に早く帰りたい気持ちは皆同じだったが、遠征の疲労が大きいため暫時逗留して休息を取る必要があった。
二人がいるのは永遠の願いが叶い現実の存在になったとこしえの庭の中心だ。しかしその景観は彼女の思念の中に見たあの予想図とは似ても似つかない。草木や花は依然まばらで水も乏しく、とても獣や鳥や虫が棲み着く環境ではなく、動くものや生命の気配はほとんどない。北方のこの荒れ地が緑の楽園に様変わりするには相当の時間と忍耐が必要だろうと思われた。
「私の仕事は、まだ始まったばかりだ」
声を発したのは、二人の頭上に張り出した太い枝の付け根に腰かけて素足をぶらぶらさせている永遠だ。生きているように見えるが、もちろん現し身ではない。ここに二人が来て呼びかけると、在りし日と同じかりそめの姿形を取って二人の前に現れる。三人はそれを『鍵を開けて扉から出てくる』と表現していた。
「ここで私が呼吸をし続ければ、やがて雲が沸き、雨が降り、小川や地下水脈ができて草花が萌え、そこに生き物が集まってくる。そうすると土が肥え、生態系の複雑さと多様性が増し、土地はさらに豊かになる。ただし時間はかかる…不確実で、予期せぬ事態に左右される可能性もある」
「だが発展や進歩、育つことというのはそういうものだ。循環に従ってあるべき形でゆっくりと移り変わり、緩やかに適応して定着する…淘汰されるものもあれば、変化して生き抜くものもあり、その混沌の中から新しく生まれてくるものもある」
「星はそうやって長い長い時間をかけて育ってきたんだね」
「俺たち人間も同じだ。時代の過渡期には混乱や争いもあったことだろう。それでも人間は今生きている。自分たちで工夫と努力を重ね、どうしても困難なときは原礎の力を借りながら。これまでも、もちろんこの先も」
静夜に寄り添って聞いていた久遠は、嬉しさと誇らしさに満ちたまなざしで彼を見上げた。
「静夜、よくわかってるじゃないか。人間と原礎は常に助け合い、親しみ合う間柄だ。僕たちも、今回の一件でそれが再確認できたよ」
「君たちが教えてくれたんだ、久遠、永遠。…本当にありがとう」
静夜は変わることができたが、黄泉はそうなれなかった。憎悪と復讐心に耳を塞がれ、魂を鋼鉄のように硬化させてしまい、信頼する友もなく、最後まで孤独だった。どこかで立ち止まって自身を省みることができていれば、ここまで多くの人々を巻き込み、自分の身まで滅ぼすことはなかったかもしれない。光の当たる場所に出られるか、闇の支配から抜け出せないままになるかの違いはほんの少しなのだ。
永遠も久遠と同じ笑顔で見下ろした。
「君もすっかり私たちの立派な同胞だな、静夜。…さて、黄泉と永久煌炉は封印され、君たち自身はよりを戻した。だが、まだやり残してることがあるだろう?」
現実を突きつけられて久遠と静夜は笑顔を引っ込めた。
「…ああ」
「僕たちのことを許してもらえるよう、宇内様を説得しなきゃ」
二人の交際の継続と旅立ちを認めてもらうことーー喜びの日々の中にも先延ばしにして考えないようにしてきた最後にして最大の試練のことを思い出し、二人とも不安のあまりうつむいてしまう。するとその気持ちが伝染してしまったように永遠も表情に影を落とした。
「私がこういう判断に踏み切ったせいで君たちの関係にまで飛び火してしまったのは申し訳なかったな。まさか宇内様が久遠と私を長老と補佐役に据えるおつもりだったとは思わなくて…だがこれも運命かも…」
「なあ静夜、いっそのこと駆け落ちしてこのまま二人旅に出発しちゃおう!そうだ、そうしよう!」
永遠の言葉を遮って久遠は静夜の腕に腕を絡め、駄々っ子のようにせっついたが、静夜はそれをぴしりと突っぱねた。
「駄目だ」
「えーっ、なんで?」
「君を奪って逃げたりしたら俺は宇内様や同胞の皆さんに顔向けできないどころか、また罪を重ねることになる。そんなやり方では本当に君を幸せにはできない。君を愛してるからこそ、正々堂々、誠意をもって向き合わなければ」
「…そうか?僕はおまえといられたらそれだけで幸せだけど…」
「いいや。君を大切に見守ってくれた方々の気持ちは無視できない。ここは二人の身の処し方や将来の見通しについて宇内様にきちんとご説明した上で言葉を尽くして理解していただき、それでも駄目と言われたら皆の前で土下座してでも許していただくしかない」
「土下座なんて、そこまでしなくても」
「君のためならそれくらいどうということはない。もともととっくに死んでた身だ。恥ずかしくも怖くもない」
毅然とした凛々しい顔つきでじっと見つめられ、大切にされているという実感が改めて湧く。自分だけでなく周りの人々に対しても節義を貫こうとする静夜が頼もしく、惚れ直す勢いだったが、込み上げてくるにやにや笑いをごまかすように久遠は唇を無理矢理ぎゅっと突き出した。
二人のやり取りを樹上で眺めていた永遠は呆れたような、だがどこか楽しんでいるような口調で言った。
「おまえと違って静夜は冷静でしっかり者だから、おまえは余計なことを言って宇内様のご気分を害さないよう、とにかく静夜と一緒に頭を下げて真面目にお願いしろ。その際は、宇内様が静夜と同じくらいおまえのことを大切に思っておられるということを忘れるなよ」
「はい…わかりました…」
星はその者が乗り越えられない試練は与えないーー論理も根拠もなく永遠にはそう直感できたが、言わなくても二人なら大丈夫だろうと思って口には出さなかった。
「二人とも頑張りたまえ。…さて、私はそろそろ戻って休ませてもらうとしよう。樹になってまだ日が浅いせいか、なんだか疲れやすくてね。だが二人にはいつでも会えるように鍵を開けて待ってるよ」
姿を消そうと身じろぎをした永遠を静夜が呼び止めた。
「待ってくれ、永遠」
「何だ?」
「実は耶宵が君に会えなくなってひどく落ち込んで、寂しがってるんだ。なんとかして元気づけてやりたい。近いうちに耶宵を会わせに連れてきて構わないか?」
それを聞いて永遠は心苦しそうに少し顔を曇らせる。
「そうか…思えば耶宵には別れを告げずじまいになってしまったからな…それにあの子には恩義もある。では耶宵にも特別に鍵を開けておこう」
「でも、耶宵さんがここまで旅してくるのはなかなか大変だよ。遠いし、道は険しいし」
「それもそうだな…ふむ。それならここはひとつ千尋様にお力をお借りできないか、相談してみよう。少し時間をくれ」
永遠には何か妙案があるのだろうか。だが彼女が具体的なことは何も明言しないので、久遠と静夜は怪訝な顔を見合わせた。
それからおよそ十日間の路程を経て、久遠たちは無事に大森林への凱旋を果たした。
戦が終わったため、大森林を囲んでいた巨大な結界はすでに解除され、街道から森を抜けていく道も元の静けさを取り戻していた。そしてたどり着いた懐かしの門前の広場は一報を聞いて集結した人々で早くもごった返していて、隊員たちを驚かせた。その規模や熱狂ぶりは、永遠の帰還やこれまでの遠征のときとはまるで比較にならない。何と言っても黄泉と永久煌炉が封印され、黒玉の城も制圧されてようやく脅威が去ったのだ。救世の勇士たちの輝かしい姿を誰よりも早く近くで見よう、そしてその無事を祝おうと興奮して待ち構えている彼らの顔には、恐怖と不安から解放された喜びと希望が満ちあふれていた。
「お帰りなさい!皆さん、よくご無事で…!」
「黄泉を封じてくれてありがとう!」
「本当にお疲れ様でした…!」
「我々こそ、温かな出迎えに感謝する」
「みんなも安心してくれたようで、何よりだ」
引きも切らない歓呼の声に俄や瞬たちは慣れた様子で手を振ってにこやかに応えている。ただ、最大の立役者であるはずの久遠と静夜は到着のときが近づくにつれて急激に緊張が高まり、ここに来ていよいよ頂点に達しようとしていた。二人の笑顔は少しぎこちなく、特に静夜は待ちわびていた耶宵たちが大喜びで駆け寄ってきても、普段以上に言葉少なに微笑んで見せるのが精一杯だった。それほどこの後のことが不安でたまらなかったのである。と、何者かが人混みをかき分けて猛然と突進してきた。
「久遠ちゃん、静夜ちゃん、お帰りなさーい!!」
「麗さん!」
麗は丸太のような両腕で二人をいっぺんに抱きしめ、ぎゅうぎゅうと締め上げた。
「ああ、二人とも、無事に帰ってきてくれてほんとによかった…!!あたしもう気が気じゃなくって…毎日毎日、心配で眠れなかったんだから…!!」
「ただいま、麗さん」
「ご心配をおかけしました」
「あら?んもう、二人ともつれないのね」
少し不満そうに唇を尖らせた後、麗は気を取り直して言った。
「騒いでる場合じゃなかったわね。すぐに琥珀の館に向かうんでしょう?宇内様が首を長くしてお待ちよ。それに彼方ちゃんも」
宇内の名が出ると静夜の目許がぴくりと反応した。
「彼方ちゃん、あたし以上に二人を心配して、ほんとに寝てないしごはんもろくに喉を通らなかったみたいなの。どうか早く元気な顔を見せて、安心させてあげてちょうだいね」
「彼兄…そこまで…わかった。じゃあ行ってくるね、麗さん。…静夜、行こう」
「ああ」
ちょうど馬丁に馬を預けた俄が瞬と千尋と連れ立って大門に向かおうとするところだったので、久遠と静夜もそれに加わり、曜と界と暁良が当然の如く続いた。他の隊員たちは諸々の役目のために残ったが、暇と好奇心を持て余しているのか、なぜか無関係の野次馬がぞろぞろと後を追ってくる。あわよくば何か話の種になりそうな場面や展開を目撃してやろうという魂胆なのだ。麗や耶宵たち親交の深いごく少数の者もちゃっかりそれに混ざっていたが、彼らは純粋な仲間意識からだった。
結果、部隊よりも遥かに大人数の同胞たちを引き連れて俄たちは琥珀の館を目指した。
道中でさらに野次馬を増やしてどんどん集団を膨らませ、先頭は粛々と、後ろの方に行くにつれてわいわいと賑やかに、木立や集落の間を抜けて大森林の中心域へと分け入っていく。
程なく琥珀の館を囲む生垣に設けられた門へとやってきた一行は、そこで驚くべき光景に出くわした。俄が思わず声を上げた。
「宇内様…!!」
開いた門の前に宇内がすでに立っていて、一行を出迎えたからだ。少しやつれた印象ながら嬉しそうに頬を緩めた彼方が脇に控えている。俄たちは全員その場にさっと直立し、恭しく礼をした。野次馬たちも慌てておしゃべりやお祭り騒ぎをやめて行儀良く辞儀をした。
「…」
宇内は一同をぐるりと見渡してわずかな沈黙を置いてからこう言った。
「知らせは受けた。皆、大役ご苦労だった」
「…はっ」
さらに深々と腰を折り、隊を代表して感謝と敬意を表す俄に、宇内は何かと気がかりなことが多いのか、珍しくその場で矢継ぎ早に質問した。
「作戦は計画どおりに完了、成功したとのことだが、永遠と封印樹の状態はその後も変わりはないかね?」
「はい。生長の速度、活性、環境、すべて申し分ありません。また樹に宿った永遠の魂も安定しています」
「そうか。それはよかった。地下の煌炉と黒玉の城の方の首尾はどうだ?」
「そちらも問題はありません。煌炉は完全に封印され、黒玉の城も我々の管理下にあります。…ただどちらも北東地域の辺境にあり、厳しい地勢と重責ゆえ、駐留する部隊には若干の疲労が見られます」
「その点は私も考えていた。支援部隊と交代要員は組織してある。すぐに派遣しよう」
「ありがとうございます」
「明日の午前に改めて報告会を開くので、詳しい話はそのときに聞かせてもらう。今日のところは銘々の居所に戻ってゆっくり休んでくれ。では」
(あっ…)
宇内が踵を返す。てっきりここではなく琥珀の館の例のテラスに行って腰を据えて直談判することになると思っていた久遠は肩透かしを食らったような焦りに見舞われて、思わず隣にいる静夜を見上げた。
(どうしよう…でも明日また来れるなら、別にそのときでも…)
「お待ちください、宇内様」
それまで黙っていた静夜が突然口を開いたので久遠はどきっとした。宇内はもちろん、礎主三人も友人たちも野次馬連中も、皆が皆一斉に振り向いて静夜に注目した。
「何かね、静夜殿」
「明日まで待てません。今ここで、どうしてもお話ししたいことがあります」
いったんこうと決めたら最後、どっちつかずのまま先送りにすることができない気質の静夜は唇を真一文字に結び、きりっと引き締まった顔つきで俄よりも前につかつかと進み出た。久遠も彼の後を追って横に並んだ。
宇内は余裕綽々というふうに悠然と、それでいて受けて立つというように一分の隙もない気合いを漲らせてじっと待ち構えている。野次馬たちはいったい何が始まるのかとわくわくしながら息を詰めて見守り、二人と近しい者たちはついにこのときが来たと互いに目配せした。水を打ったような静寂と衆人環視の中で宇内と静夜は対峙した。
「この際ですからはっきり申し上げます。この戦いが終わったら久遠と別れてもう二度と会うなという宇内様のご命令、一度はお受けしましたが、やはり承服できません。俺はどうしてもこの先もずっと久遠と一緒に生きていきたいのです。どうか俺たちの交際と旅立ちを再考していただけないでしょうか」
「一介の客人で人間の君が、大森林の長老である私の意向を拒否すると?」
宇内は雪にたわむ枝のように白く太い眉の奥からぎらりと彼を睨みつけた。並の者なら二、三呼吸ももたずに膝が砕けてへたり込むような凄みだ。しかし静夜の表情やたたずまいはまったく揺らがない。ただしその頬は緊張の極みから石のように白かった。
「あれから何度も考えました。俺は今まで欲しいものもしたいことも何でも諦め、我慢し、遠ざけ、胸の奥に閉じ込めることで自分を保ってきました。ですが、久遠は違います。久遠だけはどうしても諦めたくない…生きてきてこれほど心から強くそう思えたことは一度もありませんでした。自分で考えることをやめ、誰かの言いなりに生きてきた自分が絶対に諦めたくないと思えたなら、それは…それこそが本当の運命だと思うのです」
「それは私とて同じだ。今となっては久遠ほど愛しい子は他にいない。久遠こそ私の希望、未来、光だ。この子を愛し育ててきた私から彼を奪う権利は誰にもない」
「では久遠自身の幸せは、光はどこにあるのでしょうか」
静夜に促されるまでもなく、久遠は勇気を奮い起こして彼の前に飛び出し、鳥籠の主に初めて楯突いた。
「僕も同じです。僕は生まれたときから役立たずのはみ出し者で、姉さんやみんなみたいに強くなりたいとか誰かの力になりたいって思ってもとてもかなわなくて、最初から何もかも駄目なんだって諦めて笑って済ませてきました…でも静夜と出会っていろんな困難を乗り越えたことで僕は少しだけ、少なくとも以前よりは強くなれました。それは天地神煌じゃない、本当の強さです。静夜と一緒でなければ僕はどれだけ修行してもきっと何も身につきません!だって…だって静夜は僕の心の支えだから…」
「久遠…」
静夜は久遠の言葉に胸を打たれ、その肩に腕を回し彼を抱き寄せた。いや、寄せるというには相当な力が込もっているので二人は皆の見ている前でほとんど身体を密着させるような形になった。
(わわっ…!)
久遠としてはこれまでの人生で募り募らせてきた思いを素直に吐露しただけだったので、嬉しい反面恥ずかしさがどっと押し寄せて頬を赤く染めた。固い決意に満ちたまなざしで静夜は何憚ることなく堂々とこう宣言した。
「俺はもう久遠と離れたくありません。どんなに危険でも、どんな試練が待ち受けようとも、久遠は俺が必ず守り抜きます。そして俺たちの将来と宇内様のご意向をきちんと両立させてご覧に入れます」
「今君が語った将来の展望は、熱意はあっても漠然としていていささか現実味や信頼性に欠ける。久遠を守ると言っても、具体的にはどうするつもりかね」
静夜を評定するような厳粛な面持ちで宇内が尋問すると、静夜は自分で自分に課した心構えを再認識する気持ちで答えた。
「はい。もし二人で旅をすることができたら、移動する際は慎重の上にも慎重を期し、目的地や道のりについて事前に調べて入念に旅程を計画します。常に二人一緒に行動し、怪しく危険な場所には近寄りません。もし煌狩りの拠点に踏み込むときは、久遠には自身の身の守りを最優先させることをお約束します」
「うむ」
静夜の回答に対し宇内は反論も容認もせずただうなずく。
曜は隣の界に背を屈めてこっそり耳打ちした。
「いくらなんでもちょっと過保護じゃないか?淡白な奴だと思ってたが、意外と溺愛して甘やかすタイプなのかもしれないな、静夜は」
「別にいいんじゃないの。好き同士、好きでやってるんだったら」
外野のひそひそ話も意に介さず、静夜は胸を張り、明瞭な口調で堂々と続けた。
「久遠の身の安全が第一ですが、その中においても久遠の星養いの経験や学びの機会は積極的に見つけ、取り入れるつもりです。同時に俺自身は周囲をよく観察し、状況に即した臨機応変な言動を心がけます。もちろん迦楼羅の扱いにも細心の注意を払います」
(静夜、ちゃんと考えてくれてたんだ…)
彼の温かい心配りに胸がじんわりと浸されるのを感じる。でもなんだか引率の先生とちびっ子みたいだな、と久遠は静夜の腕に包まれ胴にぎゅっとしがみついたまま思った。まるで自分にとっての周たちになった気分だ。ただ二人の旅は遠足や遊歴ではない。互いの背中を預けてともに戦う過酷な旅路となるからだ。
それでも二人はもはや離れ難いのである。
その未来に全力で立ち向かおうというように、話しきった静夜は息を大きく吐いて整える。抱きしめられた久遠には彼の肺の動きが伝わっている。生涯で一度の緊張と鼓動までも。
「自分がわがままで欲深だということはわかっています。ですがそれ以上に自分のすべてをかけて煌狩りを滅ぼし、これまでの罪を償い、皆さんに許して認めていただけるよう努力し続けます。ですからどうか、俺たちの交際と二人一緒に旅に出ることをお許しください…!」
「…僕も…!」
久遠も静夜を庇うように前に身を乗り出した。
「僕も静夜の足を引っ張らないようしっかりと彼を支え、守ります!宇内様の期待に応えていつの日か長老にふさわしい者にもなれるよう頑張ります…だから、どうかお願いします…!!」
「…」
宇内は返答をする代わりに計り知れないほど奥深い色の瞳で、抱き合わんばかりに固く身を寄せ合う二人を少しの間見つめた。三者を取り巻いた友人と野次馬たちは固唾を呑んで宇内の言葉を待つ。
やがて宇内は物々しげに声を発した。
「静夜殿。すでに知れているとおり、君の身柄は煌狩りに狙われている。天地神煌を宿す久遠もだ。二人が迦楼羅を持って大森林の外に出ればどんな魔の手が二人を待ち受けるかわからない。それはおわかりか?」
「はい。ですが必ず撃退します。もう何も恐れません。久遠を失うこと以外」
「うむ。…久遠よ。世界には未熟なおまえがまだ知らない謎や危険がたくさんある。それでも挫けずにそれに挑み、静夜殿と二人、ともに生き抜こうという勇気と覚悟はあるのか?」
「はい。僕も静夜と一緒なら、何も怖くはありません」
「…」
宇内は眉を寄せてまたもや唇を閉ざし、沈黙で辺りを支配した。
静夜は腹を括った。そして跪くために迦楼羅を下ろそうとしたまさにそのとき、宇内は唐突に言った。
「努力し続けるには生き甲斐や支えがなくてはならない。静夜殿には、罪を償うのではなく恩を返していただこう。君を煌狩りから引き離し、匿い、庇護した我々に対する恩を」
「…え?」
「それは…」
二人が当惑して目と目を見交わしていると、宇内は緊張を緩めるように身体の向きをゆったりと変え、おもむろに話し始めた。
「ご存じのとおり久遠はまだあまりに若く半人前で、修行も経験もまったく足りていない。どうやら長老の座を譲り渡すのも、その決定をするのすらも早すぎるようだ。そこで近々久遠を武者修行と星養いの旅に出すことにする。静夜殿には以前と同様久遠の護衛、また今度は魂の片割れとして公私ともにこの子を支えること、さらに煌狩りを壊滅することで報恩としていただこう。よって二人が旅に出ることを許可する」
「…!!」
二人の顔が輝き、言葉にできない喜びがあふれた。だが宇内の話は終わらない。
「ただし条件がある。静夜殿は久遠が長老になるまでに煌狩りを滅ぼす仕事を完遂し久遠を無事大森林に戻すこと。また久遠はその日までに天地神煌を完全に自分のものとすること。そしてときどきは帰郷するか、長旅になるときは最低限近況を伝える文を送って我々を安心させること…すべてが片づいて落ち着いた後はここで二人で幸せに暮らすがいい」
「…!!はい!!」
「ありがとうございます」
二人は力いっぱい宇内に一礼し、それからもう一秒も辛抱できずにその場でひしと抱き合った。ぐるりと取り巻いてはらはらと成り行きを注視していた友人や野次馬たちからも拍手と歓声がどっと上がった。どのような過去や経緯があれ、誰かが幸せになる姿は見る者の心も自然と幸せにするものなのだ。傷つき、苦しみ、涙を乗り越えてここまでたどり着いた二人の絆の強さを知る者ならなおさら。
同胞たちの真ん中で祝福を受けもみくちゃにされている二人を優しい祖父のまなざしで見つめている宇内に、彼方がそっと歩み寄って問いかけた。
「…宇内様、いったいいつの間にお考えを変えられたのですか?以前は、あれほど…」
頑なに拒絶しておられたのにーーとっさに言葉を濁した彼方の疑問を、宇内は壁を作らず率直に受け止めて答えた。
「うむ。…実は少し前のある夜、遥が初めて夢枕に立った。遥は私に言った、未来のある若者たちを引き裂かないで、二人を信じて見守ってあげて欲しい、と…娘に諭されて心を入れ替えるなどいかにも安直だが、夢見の導きを無視してはならない。おかげで私も覚悟ができた」
「では今日は最初から二人のことをお許しになるおつもりで…?」
「二人には気の毒だったが、最後に少しだけ試させてもらったのだ」
彼方は緊張のほぐれた顔に深い理解と感慨の笑みを浮かべた。
「…やはり可愛い子には旅をさせよ、ですね」
今では賢人集団の出入りもなくなった琥珀の館の奥の書庫に、ぽつんとひとり、久遠の姿がある。
いずれそう遠くない日に静夜と二人旅に出ることになり、今できることを、との思いから、世界地図や地理誌を読んで情報を蓄えているのだ。
(書庫での調べ物…前はちょっと憂鬱だったけど、今はすごくわくわくして有意義に感じる)
充実感に口角をきゅっと上げながら地図を眺めていたときだった。
「捜したよ、久遠」
彼方がゆっくりとこちらに歩いてきた。
「彼兄、どうしたの?」
立ち上がって近づいた久遠に彼方は真剣な表情で告げた。
「実は…君に重大な知らせがある」
「…?」
久遠はきょとんと首を傾げたーー
「…」
宇内は眠りから覚めた仰向けの姿勢のままでじっと横たわっていた。自室の白い漆喰の質素な天井に夢の残像が吸い込まれるようにかき消えていった。彼はほとんど夢を見ない。まして憶えていることもない。しかし昨夜のそれは違っていた。彼は強い導きを受け取ったと感じ、我意をかなぐり捨て、素直にそれに従おうと心に決めていた。罪と悔悟の念がその下支えをしていた。
音もなく窓から吹き込む風が不思議な予感を運んできて、小さな暗闇に閉じこもっていた彼を新しい今日へと連れ出す。やるべきことは山ほどあるのだ。若者たちの未来に道をつなぐために…。
永久煌炉と黄泉を封印した久遠たちは、封印樹の見守りと事後処理のために残った千尋たち数十人の同胞にしばしの別れを告げ、再び北に向けて出発した。主のいなくなった黒玉の城を解放するためだ。彼らは途中噂を聞きつけて馳せ参じた旅の同胞たちを続々と隊に加えながら街道を北上し、とうとう黒玉の城に達して、いくつかのごく小規模な戦いの後に難なくそこを攻略した。主の敗北を知った煌狩りの人間たちは早々と戦意を喪失し投降した。静夜は留守を預かっていた副首領を討ち取り、彼の人生をかけた大仕事の最初の一歩をそこに記した。
黄泉の本拠地であった黒玉の城は綿密な調査を要するので破壊することができない。そのためあらかじめ派遣要請していた支援部隊が到着するのを待って数日間駐留し、彼らと入れ替わりに黒玉の城を後にした。
そして今久遠と静夜は再び封印樹の根元に立っていた。
少し斜面を上がったこの場所から見渡すと、大樹の裾野の荒野に俄たちの宿営する天幕が地面から生えた丸く白い茸の群生のように密集している様子が一望できる。故郷に早く帰りたい気持ちは皆同じだったが、遠征の疲労が大きいため暫時逗留して休息を取る必要があった。
二人がいるのは永遠の願いが叶い現実の存在になったとこしえの庭の中心だ。しかしその景観は彼女の思念の中に見たあの予想図とは似ても似つかない。草木や花は依然まばらで水も乏しく、とても獣や鳥や虫が棲み着く環境ではなく、動くものや生命の気配はほとんどない。北方のこの荒れ地が緑の楽園に様変わりするには相当の時間と忍耐が必要だろうと思われた。
「私の仕事は、まだ始まったばかりだ」
声を発したのは、二人の頭上に張り出した太い枝の付け根に腰かけて素足をぶらぶらさせている永遠だ。生きているように見えるが、もちろん現し身ではない。ここに二人が来て呼びかけると、在りし日と同じかりそめの姿形を取って二人の前に現れる。三人はそれを『鍵を開けて扉から出てくる』と表現していた。
「ここで私が呼吸をし続ければ、やがて雲が沸き、雨が降り、小川や地下水脈ができて草花が萌え、そこに生き物が集まってくる。そうすると土が肥え、生態系の複雑さと多様性が増し、土地はさらに豊かになる。ただし時間はかかる…不確実で、予期せぬ事態に左右される可能性もある」
「だが発展や進歩、育つことというのはそういうものだ。循環に従ってあるべき形でゆっくりと移り変わり、緩やかに適応して定着する…淘汰されるものもあれば、変化して生き抜くものもあり、その混沌の中から新しく生まれてくるものもある」
「星はそうやって長い長い時間をかけて育ってきたんだね」
「俺たち人間も同じだ。時代の過渡期には混乱や争いもあったことだろう。それでも人間は今生きている。自分たちで工夫と努力を重ね、どうしても困難なときは原礎の力を借りながら。これまでも、もちろんこの先も」
静夜に寄り添って聞いていた久遠は、嬉しさと誇らしさに満ちたまなざしで彼を見上げた。
「静夜、よくわかってるじゃないか。人間と原礎は常に助け合い、親しみ合う間柄だ。僕たちも、今回の一件でそれが再確認できたよ」
「君たちが教えてくれたんだ、久遠、永遠。…本当にありがとう」
静夜は変わることができたが、黄泉はそうなれなかった。憎悪と復讐心に耳を塞がれ、魂を鋼鉄のように硬化させてしまい、信頼する友もなく、最後まで孤独だった。どこかで立ち止まって自身を省みることができていれば、ここまで多くの人々を巻き込み、自分の身まで滅ぼすことはなかったかもしれない。光の当たる場所に出られるか、闇の支配から抜け出せないままになるかの違いはほんの少しなのだ。
永遠も久遠と同じ笑顔で見下ろした。
「君もすっかり私たちの立派な同胞だな、静夜。…さて、黄泉と永久煌炉は封印され、君たち自身はよりを戻した。だが、まだやり残してることがあるだろう?」
現実を突きつけられて久遠と静夜は笑顔を引っ込めた。
「…ああ」
「僕たちのことを許してもらえるよう、宇内様を説得しなきゃ」
二人の交際の継続と旅立ちを認めてもらうことーー喜びの日々の中にも先延ばしにして考えないようにしてきた最後にして最大の試練のことを思い出し、二人とも不安のあまりうつむいてしまう。するとその気持ちが伝染してしまったように永遠も表情に影を落とした。
「私がこういう判断に踏み切ったせいで君たちの関係にまで飛び火してしまったのは申し訳なかったな。まさか宇内様が久遠と私を長老と補佐役に据えるおつもりだったとは思わなくて…だがこれも運命かも…」
「なあ静夜、いっそのこと駆け落ちしてこのまま二人旅に出発しちゃおう!そうだ、そうしよう!」
永遠の言葉を遮って久遠は静夜の腕に腕を絡め、駄々っ子のようにせっついたが、静夜はそれをぴしりと突っぱねた。
「駄目だ」
「えーっ、なんで?」
「君を奪って逃げたりしたら俺は宇内様や同胞の皆さんに顔向けできないどころか、また罪を重ねることになる。そんなやり方では本当に君を幸せにはできない。君を愛してるからこそ、正々堂々、誠意をもって向き合わなければ」
「…そうか?僕はおまえといられたらそれだけで幸せだけど…」
「いいや。君を大切に見守ってくれた方々の気持ちは無視できない。ここは二人の身の処し方や将来の見通しについて宇内様にきちんとご説明した上で言葉を尽くして理解していただき、それでも駄目と言われたら皆の前で土下座してでも許していただくしかない」
「土下座なんて、そこまでしなくても」
「君のためならそれくらいどうということはない。もともととっくに死んでた身だ。恥ずかしくも怖くもない」
毅然とした凛々しい顔つきでじっと見つめられ、大切にされているという実感が改めて湧く。自分だけでなく周りの人々に対しても節義を貫こうとする静夜が頼もしく、惚れ直す勢いだったが、込み上げてくるにやにや笑いをごまかすように久遠は唇を無理矢理ぎゅっと突き出した。
二人のやり取りを樹上で眺めていた永遠は呆れたような、だがどこか楽しんでいるような口調で言った。
「おまえと違って静夜は冷静でしっかり者だから、おまえは余計なことを言って宇内様のご気分を害さないよう、とにかく静夜と一緒に頭を下げて真面目にお願いしろ。その際は、宇内様が静夜と同じくらいおまえのことを大切に思っておられるということを忘れるなよ」
「はい…わかりました…」
星はその者が乗り越えられない試練は与えないーー論理も根拠もなく永遠にはそう直感できたが、言わなくても二人なら大丈夫だろうと思って口には出さなかった。
「二人とも頑張りたまえ。…さて、私はそろそろ戻って休ませてもらうとしよう。樹になってまだ日が浅いせいか、なんだか疲れやすくてね。だが二人にはいつでも会えるように鍵を開けて待ってるよ」
姿を消そうと身じろぎをした永遠を静夜が呼び止めた。
「待ってくれ、永遠」
「何だ?」
「実は耶宵が君に会えなくなってひどく落ち込んで、寂しがってるんだ。なんとかして元気づけてやりたい。近いうちに耶宵を会わせに連れてきて構わないか?」
それを聞いて永遠は心苦しそうに少し顔を曇らせる。
「そうか…思えば耶宵には別れを告げずじまいになってしまったからな…それにあの子には恩義もある。では耶宵にも特別に鍵を開けておこう」
「でも、耶宵さんがここまで旅してくるのはなかなか大変だよ。遠いし、道は険しいし」
「それもそうだな…ふむ。それならここはひとつ千尋様にお力をお借りできないか、相談してみよう。少し時間をくれ」
永遠には何か妙案があるのだろうか。だが彼女が具体的なことは何も明言しないので、久遠と静夜は怪訝な顔を見合わせた。
それからおよそ十日間の路程を経て、久遠たちは無事に大森林への凱旋を果たした。
戦が終わったため、大森林を囲んでいた巨大な結界はすでに解除され、街道から森を抜けていく道も元の静けさを取り戻していた。そしてたどり着いた懐かしの門前の広場は一報を聞いて集結した人々で早くもごった返していて、隊員たちを驚かせた。その規模や熱狂ぶりは、永遠の帰還やこれまでの遠征のときとはまるで比較にならない。何と言っても黄泉と永久煌炉が封印され、黒玉の城も制圧されてようやく脅威が去ったのだ。救世の勇士たちの輝かしい姿を誰よりも早く近くで見よう、そしてその無事を祝おうと興奮して待ち構えている彼らの顔には、恐怖と不安から解放された喜びと希望が満ちあふれていた。
「お帰りなさい!皆さん、よくご無事で…!」
「黄泉を封じてくれてありがとう!」
「本当にお疲れ様でした…!」
「我々こそ、温かな出迎えに感謝する」
「みんなも安心してくれたようで、何よりだ」
引きも切らない歓呼の声に俄や瞬たちは慣れた様子で手を振ってにこやかに応えている。ただ、最大の立役者であるはずの久遠と静夜は到着のときが近づくにつれて急激に緊張が高まり、ここに来ていよいよ頂点に達しようとしていた。二人の笑顔は少しぎこちなく、特に静夜は待ちわびていた耶宵たちが大喜びで駆け寄ってきても、普段以上に言葉少なに微笑んで見せるのが精一杯だった。それほどこの後のことが不安でたまらなかったのである。と、何者かが人混みをかき分けて猛然と突進してきた。
「久遠ちゃん、静夜ちゃん、お帰りなさーい!!」
「麗さん!」
麗は丸太のような両腕で二人をいっぺんに抱きしめ、ぎゅうぎゅうと締め上げた。
「ああ、二人とも、無事に帰ってきてくれてほんとによかった…!!あたしもう気が気じゃなくって…毎日毎日、心配で眠れなかったんだから…!!」
「ただいま、麗さん」
「ご心配をおかけしました」
「あら?んもう、二人ともつれないのね」
少し不満そうに唇を尖らせた後、麗は気を取り直して言った。
「騒いでる場合じゃなかったわね。すぐに琥珀の館に向かうんでしょう?宇内様が首を長くしてお待ちよ。それに彼方ちゃんも」
宇内の名が出ると静夜の目許がぴくりと反応した。
「彼方ちゃん、あたし以上に二人を心配して、ほんとに寝てないしごはんもろくに喉を通らなかったみたいなの。どうか早く元気な顔を見せて、安心させてあげてちょうだいね」
「彼兄…そこまで…わかった。じゃあ行ってくるね、麗さん。…静夜、行こう」
「ああ」
ちょうど馬丁に馬を預けた俄が瞬と千尋と連れ立って大門に向かおうとするところだったので、久遠と静夜もそれに加わり、曜と界と暁良が当然の如く続いた。他の隊員たちは諸々の役目のために残ったが、暇と好奇心を持て余しているのか、なぜか無関係の野次馬がぞろぞろと後を追ってくる。あわよくば何か話の種になりそうな場面や展開を目撃してやろうという魂胆なのだ。麗や耶宵たち親交の深いごく少数の者もちゃっかりそれに混ざっていたが、彼らは純粋な仲間意識からだった。
結果、部隊よりも遥かに大人数の同胞たちを引き連れて俄たちは琥珀の館を目指した。
道中でさらに野次馬を増やしてどんどん集団を膨らませ、先頭は粛々と、後ろの方に行くにつれてわいわいと賑やかに、木立や集落の間を抜けて大森林の中心域へと分け入っていく。
程なく琥珀の館を囲む生垣に設けられた門へとやってきた一行は、そこで驚くべき光景に出くわした。俄が思わず声を上げた。
「宇内様…!!」
開いた門の前に宇内がすでに立っていて、一行を出迎えたからだ。少しやつれた印象ながら嬉しそうに頬を緩めた彼方が脇に控えている。俄たちは全員その場にさっと直立し、恭しく礼をした。野次馬たちも慌てておしゃべりやお祭り騒ぎをやめて行儀良く辞儀をした。
「…」
宇内は一同をぐるりと見渡してわずかな沈黙を置いてからこう言った。
「知らせは受けた。皆、大役ご苦労だった」
「…はっ」
さらに深々と腰を折り、隊を代表して感謝と敬意を表す俄に、宇内は何かと気がかりなことが多いのか、珍しくその場で矢継ぎ早に質問した。
「作戦は計画どおりに完了、成功したとのことだが、永遠と封印樹の状態はその後も変わりはないかね?」
「はい。生長の速度、活性、環境、すべて申し分ありません。また樹に宿った永遠の魂も安定しています」
「そうか。それはよかった。地下の煌炉と黒玉の城の方の首尾はどうだ?」
「そちらも問題はありません。煌炉は完全に封印され、黒玉の城も我々の管理下にあります。…ただどちらも北東地域の辺境にあり、厳しい地勢と重責ゆえ、駐留する部隊には若干の疲労が見られます」
「その点は私も考えていた。支援部隊と交代要員は組織してある。すぐに派遣しよう」
「ありがとうございます」
「明日の午前に改めて報告会を開くので、詳しい話はそのときに聞かせてもらう。今日のところは銘々の居所に戻ってゆっくり休んでくれ。では」
(あっ…)
宇内が踵を返す。てっきりここではなく琥珀の館の例のテラスに行って腰を据えて直談判することになると思っていた久遠は肩透かしを食らったような焦りに見舞われて、思わず隣にいる静夜を見上げた。
(どうしよう…でも明日また来れるなら、別にそのときでも…)
「お待ちください、宇内様」
それまで黙っていた静夜が突然口を開いたので久遠はどきっとした。宇内はもちろん、礎主三人も友人たちも野次馬連中も、皆が皆一斉に振り向いて静夜に注目した。
「何かね、静夜殿」
「明日まで待てません。今ここで、どうしてもお話ししたいことがあります」
いったんこうと決めたら最後、どっちつかずのまま先送りにすることができない気質の静夜は唇を真一文字に結び、きりっと引き締まった顔つきで俄よりも前につかつかと進み出た。久遠も彼の後を追って横に並んだ。
宇内は余裕綽々というふうに悠然と、それでいて受けて立つというように一分の隙もない気合いを漲らせてじっと待ち構えている。野次馬たちはいったい何が始まるのかとわくわくしながら息を詰めて見守り、二人と近しい者たちはついにこのときが来たと互いに目配せした。水を打ったような静寂と衆人環視の中で宇内と静夜は対峙した。
「この際ですからはっきり申し上げます。この戦いが終わったら久遠と別れてもう二度と会うなという宇内様のご命令、一度はお受けしましたが、やはり承服できません。俺はどうしてもこの先もずっと久遠と一緒に生きていきたいのです。どうか俺たちの交際と旅立ちを再考していただけないでしょうか」
「一介の客人で人間の君が、大森林の長老である私の意向を拒否すると?」
宇内は雪にたわむ枝のように白く太い眉の奥からぎらりと彼を睨みつけた。並の者なら二、三呼吸ももたずに膝が砕けてへたり込むような凄みだ。しかし静夜の表情やたたずまいはまったく揺らがない。ただしその頬は緊張の極みから石のように白かった。
「あれから何度も考えました。俺は今まで欲しいものもしたいことも何でも諦め、我慢し、遠ざけ、胸の奥に閉じ込めることで自分を保ってきました。ですが、久遠は違います。久遠だけはどうしても諦めたくない…生きてきてこれほど心から強くそう思えたことは一度もありませんでした。自分で考えることをやめ、誰かの言いなりに生きてきた自分が絶対に諦めたくないと思えたなら、それは…それこそが本当の運命だと思うのです」
「それは私とて同じだ。今となっては久遠ほど愛しい子は他にいない。久遠こそ私の希望、未来、光だ。この子を愛し育ててきた私から彼を奪う権利は誰にもない」
「では久遠自身の幸せは、光はどこにあるのでしょうか」
静夜に促されるまでもなく、久遠は勇気を奮い起こして彼の前に飛び出し、鳥籠の主に初めて楯突いた。
「僕も同じです。僕は生まれたときから役立たずのはみ出し者で、姉さんやみんなみたいに強くなりたいとか誰かの力になりたいって思ってもとてもかなわなくて、最初から何もかも駄目なんだって諦めて笑って済ませてきました…でも静夜と出会っていろんな困難を乗り越えたことで僕は少しだけ、少なくとも以前よりは強くなれました。それは天地神煌じゃない、本当の強さです。静夜と一緒でなければ僕はどれだけ修行してもきっと何も身につきません!だって…だって静夜は僕の心の支えだから…」
「久遠…」
静夜は久遠の言葉に胸を打たれ、その肩に腕を回し彼を抱き寄せた。いや、寄せるというには相当な力が込もっているので二人は皆の見ている前でほとんど身体を密着させるような形になった。
(わわっ…!)
久遠としてはこれまでの人生で募り募らせてきた思いを素直に吐露しただけだったので、嬉しい反面恥ずかしさがどっと押し寄せて頬を赤く染めた。固い決意に満ちたまなざしで静夜は何憚ることなく堂々とこう宣言した。
「俺はもう久遠と離れたくありません。どんなに危険でも、どんな試練が待ち受けようとも、久遠は俺が必ず守り抜きます。そして俺たちの将来と宇内様のご意向をきちんと両立させてご覧に入れます」
「今君が語った将来の展望は、熱意はあっても漠然としていていささか現実味や信頼性に欠ける。久遠を守ると言っても、具体的にはどうするつもりかね」
静夜を評定するような厳粛な面持ちで宇内が尋問すると、静夜は自分で自分に課した心構えを再認識する気持ちで答えた。
「はい。もし二人で旅をすることができたら、移動する際は慎重の上にも慎重を期し、目的地や道のりについて事前に調べて入念に旅程を計画します。常に二人一緒に行動し、怪しく危険な場所には近寄りません。もし煌狩りの拠点に踏み込むときは、久遠には自身の身の守りを最優先させることをお約束します」
「うむ」
静夜の回答に対し宇内は反論も容認もせずただうなずく。
曜は隣の界に背を屈めてこっそり耳打ちした。
「いくらなんでもちょっと過保護じゃないか?淡白な奴だと思ってたが、意外と溺愛して甘やかすタイプなのかもしれないな、静夜は」
「別にいいんじゃないの。好き同士、好きでやってるんだったら」
外野のひそひそ話も意に介さず、静夜は胸を張り、明瞭な口調で堂々と続けた。
「久遠の身の安全が第一ですが、その中においても久遠の星養いの経験や学びの機会は積極的に見つけ、取り入れるつもりです。同時に俺自身は周囲をよく観察し、状況に即した臨機応変な言動を心がけます。もちろん迦楼羅の扱いにも細心の注意を払います」
(静夜、ちゃんと考えてくれてたんだ…)
彼の温かい心配りに胸がじんわりと浸されるのを感じる。でもなんだか引率の先生とちびっ子みたいだな、と久遠は静夜の腕に包まれ胴にぎゅっとしがみついたまま思った。まるで自分にとっての周たちになった気分だ。ただ二人の旅は遠足や遊歴ではない。互いの背中を預けてともに戦う過酷な旅路となるからだ。
それでも二人はもはや離れ難いのである。
その未来に全力で立ち向かおうというように、話しきった静夜は息を大きく吐いて整える。抱きしめられた久遠には彼の肺の動きが伝わっている。生涯で一度の緊張と鼓動までも。
「自分がわがままで欲深だということはわかっています。ですがそれ以上に自分のすべてをかけて煌狩りを滅ぼし、これまでの罪を償い、皆さんに許して認めていただけるよう努力し続けます。ですからどうか、俺たちの交際と二人一緒に旅に出ることをお許しください…!」
「…僕も…!」
久遠も静夜を庇うように前に身を乗り出した。
「僕も静夜の足を引っ張らないようしっかりと彼を支え、守ります!宇内様の期待に応えていつの日か長老にふさわしい者にもなれるよう頑張ります…だから、どうかお願いします…!!」
「…」
宇内は返答をする代わりに計り知れないほど奥深い色の瞳で、抱き合わんばかりに固く身を寄せ合う二人を少しの間見つめた。三者を取り巻いた友人と野次馬たちは固唾を呑んで宇内の言葉を待つ。
やがて宇内は物々しげに声を発した。
「静夜殿。すでに知れているとおり、君の身柄は煌狩りに狙われている。天地神煌を宿す久遠もだ。二人が迦楼羅を持って大森林の外に出ればどんな魔の手が二人を待ち受けるかわからない。それはおわかりか?」
「はい。ですが必ず撃退します。もう何も恐れません。久遠を失うこと以外」
「うむ。…久遠よ。世界には未熟なおまえがまだ知らない謎や危険がたくさんある。それでも挫けずにそれに挑み、静夜殿と二人、ともに生き抜こうという勇気と覚悟はあるのか?」
「はい。僕も静夜と一緒なら、何も怖くはありません」
「…」
宇内は眉を寄せてまたもや唇を閉ざし、沈黙で辺りを支配した。
静夜は腹を括った。そして跪くために迦楼羅を下ろそうとしたまさにそのとき、宇内は唐突に言った。
「努力し続けるには生き甲斐や支えがなくてはならない。静夜殿には、罪を償うのではなく恩を返していただこう。君を煌狩りから引き離し、匿い、庇護した我々に対する恩を」
「…え?」
「それは…」
二人が当惑して目と目を見交わしていると、宇内は緊張を緩めるように身体の向きをゆったりと変え、おもむろに話し始めた。
「ご存じのとおり久遠はまだあまりに若く半人前で、修行も経験もまったく足りていない。どうやら長老の座を譲り渡すのも、その決定をするのすらも早すぎるようだ。そこで近々久遠を武者修行と星養いの旅に出すことにする。静夜殿には以前と同様久遠の護衛、また今度は魂の片割れとして公私ともにこの子を支えること、さらに煌狩りを壊滅することで報恩としていただこう。よって二人が旅に出ることを許可する」
「…!!」
二人の顔が輝き、言葉にできない喜びがあふれた。だが宇内の話は終わらない。
「ただし条件がある。静夜殿は久遠が長老になるまでに煌狩りを滅ぼす仕事を完遂し久遠を無事大森林に戻すこと。また久遠はその日までに天地神煌を完全に自分のものとすること。そしてときどきは帰郷するか、長旅になるときは最低限近況を伝える文を送って我々を安心させること…すべてが片づいて落ち着いた後はここで二人で幸せに暮らすがいい」
「…!!はい!!」
「ありがとうございます」
二人は力いっぱい宇内に一礼し、それからもう一秒も辛抱できずにその場でひしと抱き合った。ぐるりと取り巻いてはらはらと成り行きを注視していた友人や野次馬たちからも拍手と歓声がどっと上がった。どのような過去や経緯があれ、誰かが幸せになる姿は見る者の心も自然と幸せにするものなのだ。傷つき、苦しみ、涙を乗り越えてここまでたどり着いた二人の絆の強さを知る者ならなおさら。
同胞たちの真ん中で祝福を受けもみくちゃにされている二人を優しい祖父のまなざしで見つめている宇内に、彼方がそっと歩み寄って問いかけた。
「…宇内様、いったいいつの間にお考えを変えられたのですか?以前は、あれほど…」
頑なに拒絶しておられたのにーーとっさに言葉を濁した彼方の疑問を、宇内は壁を作らず率直に受け止めて答えた。
「うむ。…実は少し前のある夜、遥が初めて夢枕に立った。遥は私に言った、未来のある若者たちを引き裂かないで、二人を信じて見守ってあげて欲しい、と…娘に諭されて心を入れ替えるなどいかにも安直だが、夢見の導きを無視してはならない。おかげで私も覚悟ができた」
「では今日は最初から二人のことをお許しになるおつもりで…?」
「二人には気の毒だったが、最後に少しだけ試させてもらったのだ」
彼方は緊張のほぐれた顔に深い理解と感慨の笑みを浮かべた。
「…やはり可愛い子には旅をさせよ、ですね」
今では賢人集団の出入りもなくなった琥珀の館の奥の書庫に、ぽつんとひとり、久遠の姿がある。
いずれそう遠くない日に静夜と二人旅に出ることになり、今できることを、との思いから、世界地図や地理誌を読んで情報を蓄えているのだ。
(書庫での調べ物…前はちょっと憂鬱だったけど、今はすごくわくわくして有意義に感じる)
充実感に口角をきゅっと上げながら地図を眺めていたときだった。
「捜したよ、久遠」
彼方がゆっくりとこちらに歩いてきた。
「彼兄、どうしたの?」
立ち上がって近づいた久遠に彼方は真剣な表情で告げた。
「実は…君に重大な知らせがある」
「…?」
久遠はきょとんと首を傾げたーー
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