静かな夜をさがして

左衛木りん

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第7章 成就

永久煌炉

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あっという間に一週間が過ぎ、大森林は先発隊の出陣前の最後の夜を迎えた。

黒玉の城にいる黄泉には久遠の名で永久煌炉での果たし合いの申し込みがなされ、すでに受けて立つとの返信が来ていた。戦術の決定と部隊の編成も終わっている。今は参加する者たちの誰もが決戦に向けて夜闇にじっと身を休め、力を蓄えているときだった。

久遠は俄と瞬とともに表の軍として正面から永久煌炉に進軍する予定だ。一方、封印樹の苗木を植える役目を担う静夜と千尋たち裏の部隊は、敵に気づかれないよう星養いの旅人のいくつかの集団に扮してそれぞれ別の経路で永久煌炉を目指すことになっており、行程が少し険しく長い。その分数日早く出発するので、久遠と静夜が一緒に過ごすのは事実上今夜が最後だった。

二人は夕食を取り、順に水浴びをし、静夜は自分の出立の支度を整えた。そして翌朝迦楼羅に天地神煌を喰わせるひと仕事だけを残して、いつもどおり並べて敷いた寝床に入った。しかしすぐに眠ってしまうのが惜しく、二人にしては珍しく長々とおしゃべりを続けていた。

「おまえが今夜初めて僕に作ってくれたごはん、すごくおいしかった。嬉しかったよ」

「ありがとう。今までずっと作ってもらってばかりだったから、いつか自分が作って食べてもらいたいと思ってたんだ」

久遠は静夜が振る舞ってくれた料理の出来栄えと味、さらにはそれを目にし口にしたときの喜びを思い出して微笑んだ。

「料理得意だったんなら、早く教えてくれたらよかったのに」

「得意というわけじゃない。大雑把で決まったものしか作れないし、腕前も君や耶宵には到底かなわない。だから正直自信はなかった」

彼曰く、煌狩り時代は野営や宿営が多く、副首領の彼も当番制で食事を作るのが当たり前だったとのことだった。

「思い出がひとつ増えたよ。…絶対忘れないから…」

「俺も…忘れない」

枕と枕の間で二人はそっと手を握り合い、優しいまなざしを交わした。久遠は掌の素肌が重なっただけで恋しさに襲われ、切々とした視線を静夜に送った。

「ねえ…そっち行っていい?」

静夜は一瞬目を大きくしたものの、すぐに微笑んで歓迎するように毛布を少しめくり上げた。

「おいで」

呼ばれていそいそと潜り込み、腕枕をしてもらってぴたりとくっつく。頭を撫でてくれる手とたくましい身体に挟まれてたちまち安心感に包まれた。

「こうしてるとすごくあったかい…」

「布団を敷いた意味はなくなるけどな」

「ふふふ」

肩を小さく揺すった後で久遠はふと唇を噛んだ。

(ほんとはもっと深く…近づきたい…)

寝衣の下の筋肉の隆起を掌に感じながら、この一週間の彼の表情を振り返る。

別れと旅立ちを決心してからの静夜は吹っ切れたように堂々として清々しく、しかもこれ以上ないというほど優しかった。各自の役目にいそしむのを除いては二人で過ごす時間をできるだけ長く取り、抱擁もキスもたっぷりとしてくれた。だが静夜は自分の首から下には指一本触れなかった。関係が深まってしまえば離れるのがつらくなることはわかっていたし、責任も持てないからと自らにそれを禁じている節もあった。自分はとても大事にされていると誇らしく感じるのと同じくらい寂しさも募った。紳士的に扱われることと壊れるほど愛されることのどちらがより幸せで、どちらがよりつらいのか、久遠にはわからなかった。

(きっと静夜は僕を大切に、綺麗なままここに置いてくつもりなんだ…その方がお互いのためだって…新しい、まっさらな人生を歩むために…)

静夜は久遠を抱いたままじっと黙っている。もしかして寝ちゃったかな、と思い頭を少し起こすと、まだしっかりと起きていた彼も反応して二人はぱっと目が合い、同時にきょとんとした。

「…あ」

「どうかしたか?」

「…」 

「久遠?」

久遠はやおら静夜の腕から抜け出すと、何も言わずに彼の腰の上を膝で跨ぎ、星明かりを塞いだ影の中に彼を閉じ込めた。

「…久遠…」

驚きと当惑に揺れる表情も、少しはだけた襟から覗く首筋も、月下に膨らむ秘密の花のように馥郁として色っぽい。

(僕だけが見られる静夜のこの顔…これが本当に最後の思い出だ…)

久遠は熱く切ない気持ちをぐっと抑え、泣き笑いのような笑顔を精一杯静夜に注いだ。



静夜と千尋たち裏の部隊がひそかに出立した二日後、久遠と俄たち表の軍は美しく整然とした騎馬と徒歩の隊列を成して大門から出陣した。

彼らは武器を帯び戦いには赴くが、その真の目的は先の合戦のように大人数が入り乱れての戦いに勝利することではなく、久遠が囮となって黄泉を引きつけ、静夜と千尋が封印樹を植えるための時間を稼ぐことだった。俄と瞬たちはあくまで久遠の護衛であり、うまくいけば勝利の見届け人、最悪の場合は永久煌炉の生贄または黄泉の虜囚となる身だった。戦う戦わないに関係なく敗北は許されない決死の任務なのだ。

従ってその規模は全体で百名程度の中隊級だが、顔ぶれは十二礎から選び抜かれた少数精鋭の部隊だった。

最低限の身軽な旅装の久遠は武装した先頭の俄と轡を並べ、俄に比べればほっそりと小柄な体躯ながら、背筋をぴしりと伸ばして凛々しげに軍列を率いている。俄に随行して後ろについた曜の目には、久遠は旅をするようになる前より背丈が伸び、顔つきもきりりと大人びた雰囲気に変わったように見えた。しかし色白で端整なその貌には悲しい決意を経た悲愴感と憂いも漂っていた。彼と静夜と宇内、この三者の気持ちの落としどころがついに見出せなかったからだ。

(いったいどうするんだ久遠…このままだと本当に別れることになるぞ)

曜は顔をしかめ、久遠の背中からそらした視線を周りの風景へと移した。

今彼らは先の合戦で主戦場となった、街道の通る平原を進んでいた。そこでは戦死した同胞たちの遺体の収容はすでに終わっており、今は人間たちの埋葬が行われていた。敵対者だった人間たちは死んでもなお大森林に入ることを許されず、いくつも築かれた大きな塚山にまとめて葬られるという話だった。反対に静夜の部下で原礎とともに戦い命を落とした若者たちの亡骸は同胞たちとともに全員大森林に搬入され、丁重に弔われていた。

埋葬が終わった後には魔獣の死骸と血に汚れた武具などがごろごろ転がる一帯の浄化の仕事が待っている。大変な労苦を伴うつらいこの作業に黙々と当たっている仲間たちに敬意を表する合図を送って、久遠と俄たちは街道を北東へと向かった。

この道は黄泉の軍勢が永久煌炉から下って大森林へと進軍した経路である。久遠たちは今同じその道を逆に上っていたのであるが、予想しない驚きの光景を目の当たりにしていた。

煌狩りの兵士たちは宿営のためか、進軍途上の道沿いで手当たり次第に草木を切り払い、芝土を荒らし、川の水を汚していた。食べ残しや塵芥もあちこちに散乱し、見るに堪えない無残な有様だ。礎を通して星とつながる久遠たちの耳には大地がさめざめとすすり泣く声が聞こえてきていた。

「…ひどい」

「だが今は手当てや清掃をする時間の余裕はない。我々にはやるべき仕事が山のようにある…無事に戻ることができたら」

「山のような仕事をこなしてくたくたになれる喜びを味わうことができますように」

瞬は土や植物や水を慰める短く優しい歌を歌った。後で必ず助けに来ると約束し、久遠たちは先を急いだ。



「静夜さん、久遠さんから文が来ました」

二通目の文を運んできた七尾鶲ななおびたきを冷え冷えとした青空に放して暁良はそう言った。

永久煌炉のある山に無事に先着した静夜たちは警備兵のいない隣の山腹に隠れ潜んでいたが、久遠たち表の軍が永久煌炉まであと半日のところまで近づいたという知らせをひそかに受け、いつでも出動できるよう永久煌炉が見晴らせる地点まで下りてきていた。彼らを援護する三つの小隊もすでに付近で待機していた。そこに今、二通目の文が届いたのである。

暁良から渡された文を読むと静夜は一同を見渡して真剣な面持ちで告げた。

「久遠たちが間もなく到着します。俺たちも最後の準備をしましょう」

千尋と樹生の女性術師がうなずく。彼女は永遠が姿を変えた封印樹の苗木を納めたバスケットを大切に抱えている。

静夜と千尋には界と暁良も同行していた。苗木と迦楼羅を持った二人は最も身の安全を図るべき対象だからだ。他の部隊には戦闘要員と土門と静流の術師が分かれて編成されていた。

黄泉はとっくに黒玉の城からここへ移動し、久遠たちの接近も知らないはずはなかったが、まだ姿を見せていない。眼下の煌気の池の周りでは相変わらず煌狩りの戦士や煌人が働いたり魔狼がうろうろと徘徊したりしている。しかしその密度はというと、彩水の鏡の中に見た出撃直前の光景に比べれば相当にまばらだ。今度の果たし合いは雑兵の数にものを言わせる戦いではないからだ。

皆が支度を急ぐ中、静夜に界が歩み寄ってきて声をかけた。

「…いよいよだね」

「ああ」

「本当にいいの?」

「…何が?」

「決まってるじゃない。久遠とのこと。…ほんとにこの戦いが終わったら、あいつと別れる気なの?」

「もちろん。…もう決めたから」

彼の顔色は変わらなかったが、言葉や表情とは裏腹にその瞳は彼の本当の気持ちを如実に語っている。

界はやきもきしながら顔を真上に高く上げて静夜をきっと見据えた。

「ほんとは別れたくないんでしょ?せっかく二人でいろんなこと乗り越えてきたのに、ちょっと反対されただけでそんな簡単に諦めちゃっていいの?」

「それこそそんな簡単に我を押し通せることじゃない。望まれない結びつきを無理に貫けば、結局は不和や諍いを呼ぶ。久遠をそれに巻き込みたくはない」

「大人って嫌だね。自分の幸せやほんとの気持ちを犠牲にしなきゃ生きていけないなんて」

「では、君は…」

「子供のままでいいなんて言わないよ。ただボクは自分のやりたいことも欲しいものも諦めない。そういう大人になるから。絶対」

静夜は薄い微笑みをこわばらせたような顔で返した。

「…それならその心意気で将来久遠を助けてあげてくれ」

界はそれを聞いて唇をつんと尖らせたが、否とも応とも言わず彼に背を向けて自分の荷物のところに戻っていった。

静夜は鞘に入った迦楼羅を手に取り、じっと考えた。それは久遠から与えられた天地神煌に満たされている。

(久遠を愛する運命と煌狩りを滅ぼす旅をする運命、二つが相容れないなら、離れてでも二人両方が生きられる道を取らなければ…そう…これでいいんだ…)

「…」

暁良は二人のやり取りと静夜の様子を心配そうに見つめていたが、そのとき永久煌炉の周辺が突然慌ただしくなったので思わずぱっとそちらを見た。

「!」

あとの四人も一斉に振り向くと同時に岩陰に身を隠す。

と、麓から登ってくる山道の方から俄の騎兵の吹き鳴らす角笛の音が高らかに響いてきて、山肌に跳ね返って幾重にも谺した。久遠と俄を先頭に、磨き抜かれた武具に身を固め金髪をなびかせた美しい騎馬の一団が静々と行進してきた。小規模な中隊級とは言え、その壮麗な雄姿は待ち受ける敵方の人間たちをも驚嘆させ見惚れさせた。

緩い傾斜の山道を登りきった煌炉の脇の台地に達すると、一団はぴたりと行進を止めた。

白馬に跨った久遠が単身ゆっくりと前に進み出る。人間たちは固唾を呑んで相手の出方を待ち、魔狼は久遠のエメラルドの双眸が放つ煌に怯え、背を低くし四肢を突っ張って硬直している。数呼吸の間、誰も動かず、何の音も聞こえず、すべてが完全に静止した。

(ここが永久煌炉…姉さんの新しい始まりの地…)

鋭い観察能力で煌炉や地形の様相を確かめながら十分に間を取って自分の存在を場の中央に置くと、冷たく乾いた大気を切り裂くような凛とした声で久遠は呼ばわった。

「瑞葉・アリスタ・久遠だ。文に記したとおり、果たし合いのため今日ここに参上した。姿を見せろ、黄泉!!」

人間たちはおそるおそる身じろぎを始め、誰からともなくそろりと後ろを見る。それらの視線の先は煌炉の縁に並ぶ建屋のひとつにすべて合わさっていた。久遠たち原礎、さらには距離を置いて見守る静夜たちの注意も自然とそこに吸い寄せられた。誰の耳にも緊張した自分の鼓動が鳴り響いていた。

黄泉は来た。何の変哲もない建屋から悠然と出てきて、久遠を舞台の中央から押し出そうとするかのような存在感を放ちながらひときわゆっくりと地面を踏みしめて歩いてきた。彼のまとう異様で不気味な気魄に、彼が一歩進むたび進路沿いに立っていた人間たちは身震いして後ずさり、見えない露払いの腕に押しのけられるように道を空けた。その道の先に待ち構えるのはもちろん久遠だ。

だが下馬した彼は怖ける気配など微塵もなく、細身に軽装の丸腰で真っ直ぐ堂々と立っていた。

再び相見えた久遠と黄泉はしばし無言で睨み合った。黄泉はもともと骨太の立派な体格の男だが、その顔は青白くやつれ、頬の肉が削げ、眼球は眼窩に落ち窪んでいた。その様子からは珠鉄の剣が与えた深傷に苦しんだ影が窺えた。

先に口を開いたのは黄泉だった。

「まさか自分から望んでのこのこと墓穴へやってくるとはな…再度進軍する手間が省けたぞ」

変わらない力強さにさらに壮絶な凄みを加えた支配的な口振りで語りながら、久遠の後ろに立つ曜に目を止めた。

「…やはりあのときの珠鉄の女戦士か…真鍮の砦では明夜ともやり合っていたな。あのときのひと刺し…いや二刺しは効いたぞ」

まだ痛みが残るのか、黄泉は腹を押さえながら冷ややかに笑った。

「もうひとりの人間の男の方はいないようだが…いずれ報復してやろう」

曜は何も言わなかったが、その分ぎりっと険悪な目つきで抵抗の意思を示した。

黄泉は曜以外の面々をひととおり見ると眉をひそめた。

「静夜はどこだ。私と育ての父を裏切って逃げた上、今度は匿ってくれた恩人たちを見捨てて大森林に隠れているのか?」

逃れられない運命にまだ静夜を縛り続ける諸悪の根源への憎さを偽りの言葉に込めて久遠は叫んだ。

「よくもぬけぬけとそんなこと…静夜は死んだよ。おまえが邪悪な炎で殺したんだ!だからこの果たし合いは仇討ちの戦でもある…静夜の…そして僕の母さんの」

だが黄泉はやはり簡単に鵜呑みにせず、かと言って嘘と決めつけて高を括るわけでもなかった。しかも久遠の母親のことには触れもしなかった。

「はったりはやめて真実を言え。静夜は本当に死んだのか?」

「炎叢の灼舌を人間の身体がもろに受けて生き延びられるわけないだろ!おまえ、自分の技の威力を自分で承知してないのか?…とにかく、静夜の人生や迦楼羅の力を悪用することはもう誰にもできない」

頼むから今は信じてくれと必死に祈りながら、遺されて悲しみに暮れる同胞の演技に精一杯徹すると、黄泉はそれ以上追及しなかった。

「ふん…まあいい。今焦らずともいずれ大森林を征服した後、隅々まで暴いて改めればわかること…鼠一匹逃すものか」

「もし静夜が生きてたとしても、そんな侵略行為は絶対させない!僕が今日ここでおまえを討つ!」

「面白い!ならばやってみろ!返り討ちにして煌炉の真上に吊し、静夜をおびき出す餌にしてやる!」

挑戦者の久遠は煌剣を、迎え撃つ黄泉は煉牙をそれぞれ虚空から振り出して構える。

俄たちと黄泉の配下の者たちは余計な手出しをせず二人の妨げにならないよう少し下がって空間を空ける。金色に煮えたぎる煌炉の縁の空き地をさながら闘技場のようにして二人は対峙する。

緊張から久遠の喉の脈動は激しく高まり、呼吸は速まっていた。

(静夜、見てるか…?僕、おまえと姉さんのためにできる最後の仕事をするから…三人がこれからもちゃんと生きていくために…)

「いくぞ、黄泉!!」

じわりとにじみそうになる涙を乾かすように久遠は大地を蹴って駆けた。

「望むところだ、瑞葉の小童!」

黄泉もほとんど同時に走り出し、二人の剣と闘志が真っ向から交差した。紅と金色の煌を撒き散らし、凄まじい衝撃波を広げて、運命の帰趨を決める一騎打ちが始まった。

二人の死闘は開始してすぐに早くも傍観者たちの度肝を抜いてその目を釘づけにした。怪我もしておらず、天地神煌の金色の煌に包まれて燃える星のように攻め立てる久遠に対し、手負いの黄泉は紅い陽炎の如き揺らめきで眩惑しながら熟達した身さばきで応戦した。

「原礎の力に甘え、頼りきっている人間の目を覚まさせ、自分たちだけでこの星を繁栄させるために私はここまで来た。厳しい修行と学問を積み、多くの犠牲を払った。それだけのものを費やした大仕事があと少しで完成するのだ!大森林に邪魔はさせん!」

「遥さんの死をそんなひと言で片づけるな!!おまえに世界の仕組みを作り変える資格などない!誰にもそんなものはない!原礎の存在は太古より星の意思そのものだ!」

二人は両足に煌気の風をまとわせ空中戦にもつれ込む。煌剣と煉牙の猛烈な打ち合いと激越な主張の応酬にも、双方一歩も譲らなかった。

「星の意思で授けられた力を星と人間のために発揮することがなぜ許されない?望みさえすれば叶えることのできる無尽蔵の力を、私は正しいこと、求められることのために惜しみなく用いる!」

「なんだかんだ言ったところで結局は自分の恨みを晴らしたいだけだろう!家出人を拉致し、部下や兵士を捨て駒にし、最後は見殺しにして…本当に彼らを救いたいならそんな扱いは絶対しないし、戦で大地を荒らしたりもしない!自分の利益しか考えていない証拠だ!!」

「私の願いは私以上に人間に利益をもたらす。ただでさえ人間はひ弱で短命で知力も体力も原礎に劣るのに、使える力を使わずますます人間から幸福と充足を取り上げて、自分は全能の神にでもなったつもりか!?」

この台詞は煉牙よりも荒々しく乱暴に久遠の胸を貫いた。煌剣を振るい続ける久遠のまぶたに、彼の知る人間たちの顔、顔、また顔ーーたくさんの素朴で優しく、たくましい人間たちの笑顔が次々と浮かんだ。労働に汗を流し祭りを楽しむ暁良や耶宵たち。思い出と哀悼に生きる浅葱親子。エヴェリーネの農民たちやダートンのメグ一家とフィン、ギルたちもいる。そしてその真ん中で微笑んでいるのは言うまでもなく静夜だった。

人間はひ弱で短命で知力も体力も劣るーーその表現に久遠は怒り心頭に発し、まなじりを裂いて瞋恚を噴出させた。

「おまえは人間を侮辱し彼らの可能性を軽視している!!彼らの秘めた力や勇気は僕たちにも匹敵する、いや、僕たちよりも遥かに大きく未知数だ!!人間への愛を語り彼らの未来を憂うなら、本当に、本気で彼らに混じって喜びや悲しみを共有した経験がおまえにあるのか!?腹を割って同じ目線で話し合ってみようとしたことがあるのか!?」

久遠は黄泉が意表を突かれ押されるほどの猛攻を繰り出した。詰ったところで無意味だと承知していても憤怒を叩きつけずにはいられなかった。久遠のその変貌ぶりは黄泉とのあの前回対戦のときとほとんど同じで、宇内が最も不安視し危機感を抱くものだった。もし宇内がここにいたら再度厳しく咎め懲らしめるべきと判断しただろう。しかしここにいる者は誰も彼のその信念や義憤が道理に外れて罰を受けなければならないような短慮で浅薄なものだとは思わなかった。その証として、俄や瞬や曜たちはもちろん、煌狩りの兵士たちまでもが心を奪われたようにぼうっと聞き入っているではないか。

「相変わらず口の達者な餓鬼だ…腕は上げたようだが、天地神煌でも私の煌源は支配できんぞ!」

黄泉も防戦一方のまま黙ってはいない。互いに押し返さんと固く交わった剣の向こう側から黄泉は巌のように堅固で冷酷なまなざしをひたと据えた。

「おまえは私を殺す気でも、私は負けたおまえを殺しはしない。おまえの力があればこの星を理想郷にできる。生かさず殺さず、何も考えずに時間を素通りするだけでいい生き方を教えてやる!…そうだ」

そして蜜のように甘いささやきで久遠の耳に安楽と退廃を説く。

「…おまえを捕らえ静夜を取り戻したら彼をおまえの近くに置いて愛玩させてやってもいいぞ。これはけして悪い話ではない。なぜなら、喜べ、おまえは私とおまえ以外のすべての原礎が死に絶えた後も生き残り、人間だけの新たな世界の黎明を見ることになるのだから!」

「断る!!それは…そのときこそ終わりの始まりだ!!」

努めて周りを見ないよう我慢しながらも久遠の心は静夜たちが最後の任務に向けて動き出す姿を懸命に希求した。

(静夜…千尋様…早く…!)

「恐怖も誘惑も克服したか…ならば心の底から絶望するがいい」

蜜を凍らせ粉々に砕くかのような冷たい声音が届いたかと思うと、黄泉は突然方向転換して煌炉の方に飛ぶ。

「待て、黄泉!」

久遠は反射的に彼を追い、沸騰する巨大な金色の池の真上に浮かんで待つ黄泉と向かい合った。

黄泉は青白い顔を金色の照り返しに不気味に染め上げ、にやりと不敵な笑みを刻んだ。赫く光るその指が久遠の足の下を指す。

「見ろ。おまえの心が一番に求めるものを」

久遠が疑念を抱いてゆっくり視点を下げると、そこでは濃密な金色の液体が急激に渦を巻きながら中央の水面を浅い摺鉢状に窪ませていた。その中心部から表面で流動する像のような物体がむくむくとせり上がり、無駄な部分を削ぎ落として内側から輪郭を描き出すように徐々にその真の形を象っていくと、やがて久遠の白い顔から血の気が引いた。

この世のものとは思えぬほど美しい悪魔の姿をその目で見たからである。
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