静かな夜をさがして

左衛木りん

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第7章 成就

君の歌声が聞こえる

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森の奥の美しいテラスを重苦しい沈黙が支配していた。とてもそれ以上会議を続ける雰囲気ではなくなっていた。宇内と彼方と俄が協議した結果、黄泉を永久煌炉におびき寄せる算段等についての詰めの話し合いは後日に持ち越される運びとなった。

場はひとまず解散となり、ほとんどの者が二人に気を遣ってそっと退席しようとする中、瞬ひとりだけが静夜につかつかと近づいてきて噛みついた。

「君は言葉の重みというものをまるで理解していない。今までさんざん僕たちを振り回して、おまけに久遠の気持ちまでもてあそんで…僕は以前君のことを存外悪い男かもしれないと言ったけど、正直ここまでひどい男だとは思わなかったよ。久遠を悲しませ続ける限り、僕は君を赦さないから」

「おっしゃるとおりです。どんな誹りも甘んじて受け止めます」

逃げはしないが正面から堂々と受け流そうとするような静夜の恬然たる態度に、怒りを露わに端整な眉を吊り上げ、食いしばった歯から苛立ったような息を漏らして瞬は立ち去った。明朗快活な美青年の外見によらず激しい気性と遠慮のなさを見せつけた瞬とは対照的に、情に厚く一本気な性格の俄は見るからに落ち込んで悄然としていた。

肩を怒らせた瞬の後ろ姿を見送ると、久遠は不安に少しおののきながら静夜に声をかけた。

「静夜、お願いだから二人だけで少し話させて…それくらいいいでしょ?」

「…ああ。俺も話したい」

二人は場所を変えるため会議のテラスを出ていった。



琥珀の木立を外れた人気のない区画にやってくる。

「なあ、いったいどういうことなんだよ、ひとりで旅に出るって…!」

二人きりになるなり久遠は感情的になって静夜に詰め寄った。

「おまえ、僕を置いてくつもりなのか?ずっと一緒にいるって約束したのに…なんで、なんで…!!」

腕を摑まれ問い詰められても静夜は何ら慌てたり激したりすることなく、普段と変わらず淡白な態度だった。

「すまない。君と一緒にいたい気持ちに変わりはないが…もう決めた」

「…いつ決めたんだよ。ひとりで旅に出るって」

「以前からその希望はあったが、昨日の間諜の報告を聞いて」

「それは僕も知ってたけど…そんな大事なこと、黙って勝手に決めて…!」

少なからず罪悪感のにじむ顔色で静夜は久遠から目をそらした。

「君と俺と迦楼羅、この三つが揃っている場所は世界で最も悪と欲を呼び寄せる場所だと永遠は言った。ならば三つのうち二つが去れば、敵の目と意識を分散させられる。君は生まれ育ったこの地で友人や師匠に守られて生きるのが自然で、その権利も当然あるが、俺はそうじゃない。これ以上皆に負担はかけられないし、争いにも巻き込みたくない。何より君を危険にさらしたくないんだ」

「二人一緒に生きるより、自分の命より、僕や同胞たちの命と安全を優先するっていうことか?」

「俺は大森林を去った方がいい。俺が迦楼羅を持ってここにいると煌狩りに常に標的にされ、大森林に争いや混乱や緊張を呼ぶ。最初の戦ではなんとか勝利を収めることができたが、二度目、三度目となるとそうはいかない。皆の目は冷たくなり、分断や軋轢を生むだろう。今は良くてもそのうち君まで禍いの因子を庇護する変わり者だと奇異の目で見られるようになる…俺が肩身が狭いだけならまだしも、君が故郷で同胞たちから異端視されるのは俺は耐えられない」

先ほど煌狩りの分裂の一報に接したときの皆の反応は、言葉にこそ出さなかったものの、非難がましい負の印象と後々の波乱の予感を彼に与えるものだった。

「おまえが責任感じる必要なんかない!元をたどればすべての原因は人間だった黄泉を大森林に招き入れて人礎に仕立て上げた僕たちなんだ。それをもう一度ちゃんとみんなに説明して理解してもらって、改めて団結を図れば…」

「君はそう言ってくれても、皆がそう思ってくれているわけじゃない。もともと俺を良く思わない者が大勢いることは最初からわかっていたし、その上俺は皆に必要とされる存在である永遠を奪ってしまった…もうここにはいられない」

久遠は静夜と離れたくない一心で、彼が翻意すべき根拠を思いつく限り捲し立てる。

「奪うなんて…!姉さんはおまえを助けるために現し身を放棄したんじゃないってことは、僕たちが一番よく理解してるはずだろ!?それにおまえを慕い、信じてくれる人たちだってたくさんいるのに…!」

「俺もそう思いたいが、遡って考えれば俺と迦楼羅の件がきっかけのひとつになったのは明白だ。皆が皆、物事の本質や因果関係を正しく理解できるわけじゃない。正確な情報や事実も、接した者の予断や固定観念を通せばたちまちその価値観の色に染まり、修正するのは極めて難しい。そういう人々が見ればやはり俺は宝石に混じったただの石…異質で場違いで悪目立ちする存在なんだ」

「…!」

久遠は引き留める言葉を出し尽くし、何も返すことができなくなった。彼の言うところの宝石の方のひとりである自分には、数奇な運命に翻弄される彼の微妙な立場や複雑で繊細な感受性をとやかく言う資格はないと思ったからだ。

「永遠の願いは必ず叶える。だがその先は…」

「どうしても旅に出るっていうなら、僕もついていく!」

久遠はますます感情を昂らせ、静夜の腕にすがりついて強い剣幕で迫った。

「僕は以前の僕とは違う。自分の身は自分で守れるし、おまえの邪魔や足手まといにならないよう頑張るから…!」

だが静夜は灰色の仮面の裏に本当の気持ちを隠して久遠を冷然と撥ねつけた。

「駄目だ。これは煌狩りの副首領筆頭として原礎たちを恐怖に陥れた俺の責任であり、迦楼羅を使える俺にしか為し得ない使命なんだ」

「ひとりでとか、自分のせいでなんて悲しいこと言うな!誰が何を言ってきてもこれからは僕が姉さんの分までおまえを守り支えるし、煌狩りを滅ぼすために煌気が必要なら僕の天地神煌を好きなときにいくらでも喰えばいい!だから僕も連れてって、おまえの力にならせて…おまえが戦うとき、僕もおまえの側にいたいんだ…!!」

涙を散らしながら懇願する久遠の悲痛な訴えに静夜の心が激しく、狂おしく揺さぶられたとき、突然二人の耳に別の声が突き刺さった。

「私からも言おう。久遠の同行は認めないと」

二人が驚いて振り向くと、ちょうど宇内が琥珀の木立を縫ってこちらに近づいてくるところだった。背後には陰鬱な顔をした彼方が付き従っている。

「…宇内様…!」

ぞっとするような寒気に満ちた気迫を伴ってゆっくりと歩み寄ってくる宇内に、さしもの静夜も戦慄を覚えて立ちすくむ。

宇内はかつて聞いたこともないほど冷酷で恐ろしげな声を発した。

「自分は以前の自分とは違うと?久遠よ、おまえはほとんど何も変わっていない。技術の研鑽も知識の修得も、精神修養もまったく足りていない。開戦の日までいったい何をしていた?できる限り修行に努めると口先では言って、実際は祭りの雰囲気や静夜殿との生活にうつつを抜かしていたのではないのか?」

厳しい指摘を受けた二人、とりわけ名指しされた久遠の方は過去の自分の怠惰で能天気な姿を再び見せつけられた思いがして羞恥に頬がカッとなった。宇内はさらに叱責を重ねる。

「おまえは怒りで我を忘れて黄泉に突撃し、さらには力を制御できずに天地神煌を暴走させて同胞たちを窮地に立たせた。二度も自制を失ったのだ。数十年の修行と旅に耐え抜いた永遠の実力の足許にも及ばない。急な出来事だったとは言え、たった一か月足らずで重要な戦の陣頭に出したのはやはり時期尚早だった…私の見込み違い、判断の誤りだ」

「っ…!」

確かにその二点については久遠も自らの至らなさを痛烈に自覚しており、今やほとんど心の傷と化していた。かさぶたになりきっていない、まだ赤く生々しいその傷口をこじ開けられたように一瞬身を固くしたが、自分の可能性に賭け、勇気を振り絞って久遠は声を上げた。

「…宇内様、お言葉を返すようですが、経験が足りないなら、なおのこと星の上を実際に旅して歩いて見識を高め、人間のために働くのに必要な能力や心構えを養うべきではありませんか。誰だって独り立ちしたばかりのときはまだ半人前の未熟者なんです!」

「ならん!!」

宇内は凄まじい眼光と声量で久遠を喝破し、その場に串刺しにした。

「おまえ如きが口ごたえをするな!天地神煌という稀な力を有して、そして今のおまえ程度の力量で静夜殿と二人だけで外の世界に出してもし何かあったら取り返しがつかない。おまえにはいつの日か私の跡を継いで長老の座に就いてもらわなくてはならないのに」

久遠はぽかんとし、次に素っ頓狂な声を漏らした。

「僕が…長老に…!?」

「そうだ。おまえが長老に、そして永遠がおまえの補佐役に…二人には神聖煌気を持つ双子の双璧としてこの大森林を取り仕切り、発展させていってもらうつもりだった。それが私の唯一の願い、希望だった…永遠が姿を消すまでは」

黒曜石のような光を放つ瞳と情感の込もる言葉は、静夜の抱える自責の念をも残酷に苛む。

後ろに控えた彼方は初めて耳にする宇内の本心に呆然としているが、静夜の表情に驚きの色がないことに気づくと久遠は目を丸くして叫んだ。

「静夜、おまえ、今の話知ってたのか!?」

「…ああ。前に宇内様と二人だけでお話しした際に」

宇内はようやくふっと眼力を緩め、嘆くように軽くかぶりを振った。

「永遠はもう戻らない…あの子が原礎としての生き方を放棄した今、原礎と大森林の未来のため、私は久遠まで失うわけにはいかないのだ…」

見えない涙の浮かぶその目に、静夜の胸は息を奪われるほどきつく締めつけられる。娘と孫を一度に失った彼が、久遠と永遠をどれほど深く慈しみ、望みをかけ、愛してきたか身に沁みて強く感じられたからだ。

怒りの根源にある宇内の愛を久遠も痛感し、唇を噛みしめてうつむいている。約束された長老の座などどうでもよかった。ただ自分が抗議できる立場にあるとはとても思えなかったのだ。

「永遠にしろ千尋にしろ、若い者たちは皆勝手に物事を決め、好き放題に動き回って困る…彼らの独断を見過ごしたのは私の落ち度でもあるから、私自身に戒めるためにも久遠が静夜殿の旅に同行することは固く禁じる。最後の戦いを無事に終えたら久遠は当面大森林から出ず修行に専念するように」

「…はい…」

久遠はがっくりと肩を落とすと少し考え込み、やがて再び顔を上げ、しおらしい小声でこう切り出した。

「…でも、せめて旅の途中でときどき帰ってきて、僕の家に数日骨休めに滞在してもらうくらいは…たまに会うくらいは構いませんよね?だって僕たち…お互い好きで、交際してるんですから…」

「…」

宇内は静夜にすっと視線を移し、じっと彼を見つめた。

「君が言ったとおり、二人が一緒にいることが禍いの種になるとすれば…さて、どう考えるべきかな。静夜殿」

丁寧ではあるが不穏な響きのあるその口調に思わず隣の静夜の横顔を見上げると、その頬は生気が失せ、まるで石のようだった。途端に久遠の心臓は嫌な早鐘を打ち始める。

「…」

宇内が本気で自分を遠ざけ久遠を彼の管理下に置こうとしていることを、彼の瞳の中に静夜はとっくに読み取っていた。それはまったく包み隠されることなく堂々と剥き出しで、潔く諦めろとばかりに強迫的に突きつけられ、彼に決断を求めてくる。

宇内の意に背き怒りを買ってしまったら最後、大森林で生きる後ろ盾を失くしたも同然だ。おめおめと顔を出せるはずもない。それは事実上の追放宣告だった。皮肉にも自分の最初の宣言どおりとなったが、それでも胸が潰れるように苦しいのは、久遠への愛の深さゆえか、それとも自分への無力感ゆえか。

(今の宇内様にとって俺は久遠をたぶらかしているというだけでなく、永遠を自分の手から取り上げた、疎ましく忌むべき存在…結局のところ俺は厄介者だということだ…)

「…わかりました」

静夜は毅然と面を上げた。

「俺は久遠と別れ、大森林から身を引きます。二度とここには戻りません。それで赦していただけますか」

「…!!」

(僕と別れる?二度と戻らない?そんな…そんな…!!)

静夜がひと言の反論も嘆願もせず淡々とそう答えたので、久遠はみるみる顔面蒼白になった。反対に宇内は我が意を得たり、と大きくひとつうなずいた。

「そうしてくれれば久遠は誘惑と執着を振り払い、これに打ち克って、日々精進することができる。賢明な判断に感謝と敬意を表する。君が旅立つ最後の日まで翡翠の屋根に暮らすことは認めよう。だが次の戦いでは失敗は許されない。二人とも心して備えるように」

宇内はくるりと踵を返す。

「戻るぞ、彼方」

「は…はい」

彼方は後ろ髪を引かれる思いで、置いていかれないように急いでついていく。途中で一度だけ二人の方を振り向きそうになったとき、彼の胸に想起されたのは静夜に笞刑の決定を伝えたときのあの無抵抗で従順な表情だった。

(静夜くんはまた自分を犠牲にしようとしている…いや、彼自身だけじゃない…今度は久遠の気持ちまで…)

琥珀の木立を抜ける道まで戻ってくる間際、彼方はそれ以上黙ってはいられなくなり、彼としては珍しく宇内に苦言を呈した。

「宇内様…本当に静夜くんと迦楼羅を厄介払いし、久遠を閉じ込めるおつもりですか?未来のある若者たちを権力を揮って押さえつけたり引き裂いたりすることは後々のためになりません。二人を無理に引き離せば久遠の心は壊れてしまい、ひいてはそれが大森林の衰退にもつながります」

すると宇内は長年信頼する右腕の彼方をも鋭い横目で射抜いた。

「久遠の最初の旅立ちに難色を示していたおまえが今度は真逆のことを言うのか。静夜殿はすでに心を決めていた。これがむしろ良い後押しになり、潔く未練を断ち切れるのではなかろうか」

「…しかしそれでは久遠はまた籠の中の鳥に戻ってしまいます」

「自らの羽でまだ飛べない鳥にはそれがふさわしい。二人とも甘い夢を見て楽しんだことだろう。そろそろ醒めるべきときだ」

今この場で宇内を説得することは難しいと悟り、彼方はしかたなく口をつぐむと、無言で歩く宇内の背中を追っていった。



宇内と彼方が姿を消すと久遠はそれまで抑えていた感情をあふれさせて静夜の胸にしがみついた。

「どういうことだよ静夜…なんでいきなりあんなこと…別れるなんて…僕、何の気持ちの整理もできてない…!!」

「俺が去れば懸念のほとんどが解消されて宇内様のご気分も落ち着く。それに君の将来を俺のせいで狭めたくない」

「みんなが勝手に動いた責任をひとりで取るつもりなのかよ…なんでそうやっていつもいつもひとりで全部背負おうとするんだよ…!」

静夜は黙って眉を曇らせている。旅に同行できず待つことしかできないのは身が切られるようにつらいと思ったのに、今はそれすらもましだったと感じるほどの絶望感に久遠は襲われていた。

「ねえ静夜…僕たち、ほんとにもう二度と会えなくなるのか…?あれだけ好きだって言って…何度も、何度も…約束して、誓ったのに…」

「愛していても一緒にいられないこともある…君を守るために離れることも愛のひとつだと思う」

その瞬間、強い痛みにズキンと貫かれる。

熱い波が目の奥に一気に押し寄せた。

「俺は以前のような隠し事はしていないし、嘘もついていない。話すべきこと、心にあることはすべて話した。…君の気持ちもよく理解しているつもりだ」

「嘘だ。言ってないことがひとつある…それは、おまえが本当は過去も外聞も何も関係なく心から僕を愛し、僕と一緒に生きていきたいと思ってることだ…!!」

身を二つに引きちぎられるような叫びに、静夜は瞳の奥で小さくうなずいたようだった。しかし彼の唇からこぼれる言葉は変わらなかった。

「…戦いが終わって俺が旅に出たら、どうか俺の無事を祈っていてくれ…俺も君の成長と栄達を祈っているから…」

「静夜…」

久遠は打ちのめされ、それ以上彼を引き留める気力をついに喪失した。

「本気なんだね…僕たち、もうすぐ終わりなんだね…」

諦めの言葉とともに、力が抜けたように久遠は静夜の胸に寄りかかった。

「最後の戦いが終わったら僕たちもう会えなくなっちゃうんだ…どうかそれまで一緒に暮らして、僕に最後の思い出をちょうだい…おまえがいなくなってもひとり寂しくならないように…」

「…ああ」

手が腰の後ろにそっと回される。額に頬を乗せて微笑んだ静夜の声と体温は、泣きたくなるほど柔らかく、優しかった。



それから数日後、青天の床に建つ彼方の石造りの家では珍しく大人数が集まって茶会が開かれていた。

家主の古くからの親友である麗はこの家の常連だ。今日はそこに曜と界が加わっていて、小さな食卓は満席、卓上には紅茶のポットや人数分のカップ、それに麗お手製の焼き菓子の皿などが所狭しと並べられている。だが正確にはここの家主が客を招いて茶会を催したわけではない。大森林の統治の中枢にいる家主のもとに情報を求めてひとり、またひとりと集まってきた結果、自然と茶話会になっていったのである。

だが、食卓周りは楽しさや賑やかさとは程遠く、しんみりと塞いだ空気に包まれている。彼方と界はともかく、普段はからりと明るい雰囲気の曜と麗まで口数が少なく沈みがちだ。

それというのも、静夜が近いうちに久遠との交際関係を解消し、大森林を出ていくことがほぼ確実になったからだ。

麗は膝に座らせた小さな人をあやすようにぽんぽんと叩きながらぽつりとつぶやいた。

「…久遠ちゃんと静夜ちゃん、戦いが終わったらほんとにさよならしちゃうつもりなのかしら…」

「静夜がそう言ったのなら、そうするつもりなんだろう。あいつは一応他人の話を聞く姿勢は見せるが、妙に頑固で自分の意思を曲げない奴だし」

誰に向けられたわけでもない麗の問いに、突き出した下唇から吐息で前髪を吹き上げながら答えたのは曜だ。

この家の食卓には椅子が二脚しかないので、曜は片脚の不自由な彼方が生活に役立てるために居間に置いているスツールを引っ張ってきて、どっかり腰を下ろしている。

「…それに、前々からいつか自分ひとりで煌狩りの拠点を潰したいと言ってたからな」

曜は記憶を手繰り寄せたように眉間に少し皺を刻んだ。

「宇内様の逆鱗に触れたって思っちゃったんでしょ。それでいろいろ考え合わせた結果、別れるのが一番いいって思い込んじゃったんだ」

椅子もスツールも埋まっているので、身体の小さい界は麗の膝の上に尻をちょこんと乗せている。その体格の対比はさながらたくましい母熊ところころの仔熊だ。

「バカじゃないの?ほんとに好きなら他人なんか敵に回してでもとことん二人で愛を貫けばいいのにさ」

「あら、界ちゃんって恋愛に対しては意外と情熱的で向こう見ずなのね。まだ子供なのに」

「ボクは子供じゃなひぃ!」

麗が界のまんまるな頬をつまんで引っ張ると、頬は左右に柔らかくもっちりと伸びた。

「自分は子供じゃないって吠える奴ほど子供なんだよ。自分さえ良ければ周りの者の気持ちなんてどうでもいいなんて自己中心的な考え方ではまともな人間関係は築けない。静夜にはそんなこと絶対できないんだ」

「そして曜ちゃんは意外と冷静で現実主義、っと…」

界はまだむくれていたが、麗が蜂蜜入りのクッキーを餌付けするようにその口許に持っていくと、すぐにぱくっと食いついた。

「あの後二人はどうしてるの?」

「一緒に静かに暮らしてるみたいよ。久遠ちゃんは空元気で気丈に振る舞ってるし、静夜ちゃんも見た感じ落ち着いた様子で。昨日の会議もいつもどおり二人揃って出席して」

「残された最後の時間か…愛し合う者たちが別れなければならないのはさすがに不憫だな…彼方、二人のこと、どうにかならないのか?」

それまでほとんど沈黙していた彼方は暗い顔でうつむき、重たい口を開いた。

「今の私にはどうにもできない。二人を引き離して久遠をご自分の目の届く範囲に置きたいという宇内様のご意思は固い。静夜くん自らもそう宣言したのだから、今のところ私が割って入ってとりなせる余地はなさそうだ…残念ながら」

『…』

三人はあからさまに落胆してまた黙り込む。彼方は続ける。

「私も宇内様がここまで頑なな態度を取られるのは初めて見るので正直戸惑っている。純粋な親心なのかもしれないが、よほど永遠と久遠に期待をかけておられたのだろう…二人を自分から奪おうとする静夜くんの存在を以前のような寛容な精神で受け入れきれなくなったようだ。ただ、静夜くんが自分が去る代わりに日向の巣で生活を営める目処が立つまでは暁良くんたちへの支援を続けて欲しいと願った件は快諾してくださったから、人間の存在自体を忌避、嫌悪されているということではない」

「それはせめてもの幸いね。暁良ちゃんたちのことは、静夜ちゃんも心残りでしょうからね」

自分自身よりも久遠や部下たちの今後を思いやって行動していた静夜の姿のひとつを彼方は思い出していた。それはつい昨夜のことだ。

彼方が会議と残務を終えて帰宅し、星空の下の水辺の岩に腰かけて少し考え事をしていると、静夜が突然来訪してきて彼にこう告げた。

『…彼方さん。最後の戦いが終わったら俺は久遠と別れ大森林を離れます。無責任かもしれませんが、これは信頼できるあなたにしか頼めません。どうかこれまでどおり久遠を見守ってあげてください。…お願いします』

彼方はのろのろと顔を向け、けだるく平板な声を絞り出した。

『もはや私の役割は終わった。久遠には後にも先にも君しかいない。…君は自惚れ屋な上に傲慢で残酷だ。私から久遠を取り上げておいて、私が諦めた頃にまた突き返すなんて…私に、私が先に死ぬまで久遠の悲しみに暮れる姿を眺め続けろというのか』

すると静夜は当惑の色をありありと目に浮かべた。

『久遠は誰のものでもありません…まして俺などのものでは…』

『久遠の心はとっくに君のものだ。たとえ私や友人たちに守られて平和に安全に生きることができても、久遠の心は壊れ、二度とその顔に本当の笑顔は戻らない。久遠は輝かしい立身の道を歩き始めると同時に、誰にも救い出せない孤独の闇へと迷い込んでいくのだから…』

『…』

静夜は何も答えず、彼方に背中を向けて夜闇へと消えた。

以前の自分なら嫉妬と怒りで胸が千々に乱れていたところだが、静夜なしに久遠の幸福はあり得ないとわかっている今、彼の苦悩する姿に自然と心を寄せている自分自身を彼方は別の角度から不思議な気分で眺めていた。

(二人の幸せは二人でひとつ…なるほどここまで私たちの感情を強く動かす静夜くんは今や真の原礎の友、大森林の命運を握る鍵なのだろう…だとすれば星の意思は宇内様のご意思をも超えたところにあるはず…)

かつて静夜にはきっと何か大事な役割があると言った者がいることを彼方は知らなかったが、静夜が態度を変えないとしても、最後の最後まで二人を信じ続けることが唯一自分たちにできることなのかもしれないと思えた。

紅茶のカップを口に運んでいた曜は、彼方が束の間思索に没入しているのに気づかず、悠然とした態度で彼に尋ねた。

「昨日の会議では暁良たちのことだけじゃなくて例の作戦の概要も決まったんだろう?そちらの方が先決だろうに」

「ん?…ああ、決まったよ。曜と界はこの後すぐ召集されるだろう。そのとき礎主の方々から詳細の説明がある」

彼方がさらりとそう言うと二人は飛び上がらんばかりに驚いた。

「この後すぐ?なんだ、それならそうと早く言え。戻って待機してないと」

「のんびりお菓子食べてる場合じゃない!急いで帰ろう、曜さん」

曜と界の二人は血相を変えて慌ただしく出ていった。

残された彼方と麗はその後もしばらく二人だけで静かに話していた。話題は自ずと久遠と静夜のことになる。

「ねえ彼方ちゃん…静夜ちゃんは始めから久遠ちゃんと別れて二度と戻らないつもりだったのかしら…」

「微妙なところだろう。自分でも完全に決断しきれていなくて、現実にはそうなるとわかっていても、口に出すのは怖いと思ったとしても不思議じゃない。心のどこかでそうならずに済むことを願っていたのではないだろうか」

「心にあることを口に出しちゃうと、何気なく言ったことでも言葉の力で現実になっちゃうものだからね」

「そこに宇内様からのあの言外の圧力だ。自分の意思に関わらずそれがすべてだ、従うしかないと思ったに違いない…静夜くんは自分の気持ちや願望を最優先した経験がほとんどないのだろう。そうして自分が譲り、諦め、辛抱すればすべて丸く収まると考える傾向にある」

「久遠ちゃんもけなげで我慢強いし…取り返しがつかなくなる前に二人で壁を乗り越えられればいいんだけど…」

彼方と麗はやるせない溜め息を漏らす。解決の糸口が見つからないまま、情勢は着実に二人の人生の分岐点となる最後の戦いへ向かおうとしていた。
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