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第7章 成就
二重の運命
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翠玉の柱廊の道を外へ向かって歩く間、久遠と静夜は深い物思いに沈み、ひと言も口を利かなかった。相手の思索や沈黙を遮る気持ちにも、永遠の意志や選択について積極的に論じたり洞察したりする気持ちにもなれない。変化のない一本道に二人とも安心し、自分の体験を頭の中だけで反芻しながらただゆっくりと足を運んでいった。
衛士のいる門を抜け、そのまま森の外に出てくると、二人は途方に暮れたように立ち止まった。規則ではこの後静夜は外泊を終えて妖精の臥所に戻ることになっているが、まだ時間は残っていて、それまでどうするか決めていなかったからだ。久遠は少し遠慮ぎみに静夜の顔を見上げた。
「…とりあえず、家に帰る?」
「…うん…」
曖昧に同意してみたものの、静夜はすぐに首を振って答えを変えた。
「いや…まだもう少し歩きたい。どこまで、というのは特にないが…」
「じゃあ、もうちょっと散歩しよっか」
久遠は翡翠の屋根から来た道とは反対の方角へ、静夜の先に立って再び歩き始めた。
その後もほとんど言葉を交わさずに歩いた末、二人は瑠璃の入り江にやってきた。
静夜はこの場所にほんの二週間ほど前に一度だけ来たきりだった。美しく神秘的な夕景だったあのときとは異なり、晴れた午前の今は澄み切った空気が湖面と空の青さを際立たせる爽やかな眺望が広がっている。
二人は穏やかな水辺を見下ろす傾斜の上に立った。
ここは二人が初めて恋の甘い口どけを味わった思い出の場所だ。岸に向かう芝草に目を凝らすと、幸せそうに寄り添って唇を重ねる二人の幻が見える気がする。
ただ今は対岸の丘に大森林を覆う結界の障壁が見え、ごくたまに警備の者が巡回してくるなど、もともとの手つかずの美観にはそぐわない雰囲気だった。
「…星祭りの夜以来だね」
「ああ」
「…花火が打ち上がる中、あの空の彼方から父さんの乗った銀嘴鷲が飛んできて…戦が始まることがわかって…」
予測されたとおりのことと、予想もしなかったことが次々と起こった。久遠は空を指していた手を下ろし、胸の詰まるような微笑みを頬ににじませた。
「いろんなことがあったけど…おまえが無事でよかった…それに、姉さんの本当の気持ちを知れたことも…」
それが現し身としての別れのときだったのは運命の皮肉だった。
湖水の打ち寄せる水辺に静夜はひとり進み出た。
「…俺はいったいどれだけ多くのものを永遠に負っているだろう」
もうひとつの心臓とも言える、永遠から受け継いだ煌源のかすかなぬくもりを胸の奥に感じながら言った。
「…それまで信じていたものと居場所を失い、暗い海を漂流する小舟のように覚束なかった俺にとって、永遠は水平線の果てに輝く道しるべの星だった…けして赦されない罪を重ねてきた俺にも、迎え入れてくれる場所、光の射す明日があることを教えてくれた…」
潭月の郷から真鍮の砦に戻る街道、そして大森林へ至る峡谷の断崖で見上げたあの白い星の輝きは、一日たりとも忘れたことがない。
孤独と失望に支配されそうになったとき、いつも永遠が彼を励まし、支え、導いてくれたのだ。
静夜は自嘲しているかのような薄い微笑みで久遠の方に振り向いた。
「久遠、君は前に俺と永遠の仲を誤解してただろう?そう思われてもしかたがないくらい、俺は永遠がいなければ生きていけないような無様な状態だった。だが俺は永遠を女性として見たことはない。もし…これは本当に仮定の話だが、もしも俺が彼女をそういう気持ちで見たとしても、永遠は俺には見向きもしなかった。俺でなくても同じだ。永遠の愛は誰かひとりに特別に注がれるものじゃなかった」
もしそれが周囲の目に愛として映ったとしても、やはりその本質は純粋な憐れみと温情だっただろう。注いだ分と同じだけ自分が愛されることを求めていないからだ。
「確かに、姉さんの愛は、大木が深く根を張り広く枝葉を広げるように分け隔てや偏りのない愛だった…昔からそうだった…いつも自分じゃない誰かのことを考えてた。利己的で度量の小さい僕は同じにはなれないけど…」
静夜は無言で否定するように首を振った。
「永遠と君は俺に愛を教えてくれた。永遠は星や命に注ぐ愛を、そして君は自分以外の誰か、たったひとりに捧げる愛を」
光陰の、彼方の、そして遥の愛…それらはどれひとつとして同じではない。愛にはこれほどまでにさまざまな形があることを、若い二人は本当の意味でまだほとんど理解していなかったのだ。
「俺は舟、永遠は星、そして君は港…心が帰りたいと思う場所だ」
そう言った静夜の瞳の切ない色に、心臓がきゅうっと苦しくなる。
(僕は姉さんみたいにはなれない…でも静夜にとってのたったひとりの存在になれたんだ…)
しかしこのとき静夜がその言葉に二重の意味を込めていたことに、久遠は気づいていなかった。
「…あ、静夜さん!」
久遠と静夜が翡翠の屋根に戻ってくると、自宅のある巨木の下に暁良が立って二人の帰りを待っていた。
「突然押しかけてすみません。妖精の臥所に行ったら昨夜は外泊してまだ帰ってきてないということだったので、こちらに…ご迷惑かとは思ったんですが…」
「構わない。実は昨日使いの者が現れていろいろと事態が動いたんだ。そのことについて明日会議が行われるから、おまえも出てくれ。そこですべて報告する」
「わかりました」
暁良は心に期するもののある顔つきでうなずいた。
「それで、おまえはどうして?」
「はい。…例の者たちのひとりが戻ってきましたので」
暁良が側に立つ太い木の幹の後ろから誰かを呼び寄せる。ところどころほつれた地味な旅衣装の若者は木陰から姿を現すと二人におずおずと会釈した。
「…おまえは…!」
「静夜さん…」
静夜は彼に近づくと思わず彼の手を握った。彼は以前静夜が煌狩りの内情を探るために送り出した間諜のひとりだった。
「ここに来る途中、暁良さんから戦のことを聞きました。早く戻らなければならなかったのに遅くなってしまい、参戦できず、申し訳ありません…」
「気に病むな。おまえこそ、危険な任務にもかかわらずよく進んで引き受け、無事に戻ってきてくれた…本当によかった。ありがとう」
静夜からねぎらいと感謝の込もる目で見つめられると、その若者はようやくほっとしたように表情の緊張を解いた。
「それで、何かわかったか?」
「はい。煌狩りはどうやら内部から分裂を起こしているようです。黄泉に心酔し絶対服従を誓う従前からの忠義派に対し、かねてより不満と野心を抱いていた過激な独立派、そして両派に共通して潜在する…寛容派、もしくは保守派と申しますか、ひそかに罪を悔い、組織を離脱して静夜さんのもとに身を寄せたいと考える者たちが一定数いるようです」
「組織から脱退したいのに残ってるってことですか?」
久遠が脇から尋ねると間諜の若者はいかにも苦しげに眉を寄せて答えた。
「それが…拠点としての活動方針は副首領の意向が絶対らしく、彼らは本心では僕たちのように煌狩りを脱退したいと思っているのにそう主張できる雰囲気ではなく、もちろん脱走などできず、幹部の命令にほとんど強制的に従わされてるらしいんです。僕たちは静夜さんたち遠征部隊が来てくれたおかげでたまたま離脱する機会に恵まれたから幸運でしたが…」
静夜はまたしても以前永遠が言及していた可能性に直面していた。副首領筆頭の静夜が原礎側につき、明夜が死んだことで他の副首領たちの仮面が一気に剥がれ、勢力図ががらりと変わるという予測が現実になった。統制の取れなくなった集団や派閥に留まることがどれほど危険かは想像に難くない。しかし今の彼らには逃げ道がないのだ。
(すべての拠点から希望する者全員を救い出すことはそもそも難しかったとは言え、これは彼らを組織に引き入れ、さらには放置してしまった俺の責任だ…)
静夜はそう痛感し、悔しさに歯噛みする。
「僕が潜入した砦は独立派の方で、先日の戦の召集には応じませんでした。そこの副首領は不穏な動きをしていて、博士と煌人を囲い込み、煌気移植装置や実験設備を占拠してるばかりか、こっそり盗み聞いた幹部たちの会話では、黄泉と同様に久遠さんと静夜さんの身柄拘束と迦楼羅の鹵獲を目論んでいるようなのです。しかもそこだけではなく複数の砦で同じような話が…」
それを聞いて静夜はさっと顔色を変えた。今まさに傷を癒し力を蓄えている黄泉だけでなく、力と欲望に目が眩んだ人間たちまでもが襲いかかってくるかもしれないという。これは黄泉に対する訣別宣言、さらには宣戦布告にも等しく、新たな争いや悲劇の端緒になり得るということを念頭に置かなければならない。
煌狩りの人間は一部が今や黄泉の手を離れ、ばらばらに散らばって予期せぬ動きを見せ始めている。
静夜が考え込む間に暁良が尋ねた。
「私は同行しなかったが、静夜さんたちが最後の遠征で入った拠点が完全に放棄されていたのはなぜだ?設備や人員が必要だっただろうに」
「そこはおそらく元は忠義派の拠点で、大森林侵攻のため戦力がごっそり引き上げられ永久煌炉に移された後だったからだと思われます。僕も潜入中にその噂は聞いていたんですが、監視が強く警告文を送れないまま戦に…」
「…いや、いいんだ。おまえも動くに動けなかったんだろう。それに知らせなら別のところから受けていたから…」
静夜は冷静に返したが、その声に抑揚はなく、内心は上の空だった。もし黄泉を封印できても、自分が生きている限りやはり煌狩りの刺客はどこまでもつけ狙ってくるのだ。組織は地の果てまでも追いかけてくると自分で自分の未来を予言していたことを不意に思い出して静夜は笑いそうになった。死ぬまで迦楼羅を守り通すことができればと永遠に言ったとき自分は現実感や危機感が希薄だったのではないか。迦楼羅の魔力や誘引力を忘れていたのではないか。考えるにつけ静夜の胸は急速に冷たくこわばっていった。
彼の硬い表情を久遠たち三人は心配そうに見つめている。沈黙に耐えかねた久遠は努めて明るい声で彼を励ました。
「でも、結局のとこ、相手は人間だろ?黄泉みたいな原礎とは違うんだ。警備の目も結界もあるし、今すぐどうこうということはないって。な?」
「…ああ。そう…そうだな…」
だが静夜の顔は依然として暗い。口先ではそう言っても、不器用で考えていることが顔に出やすく、物事を悲観的に捉えがちな静夜の性格をよく知る久遠はやけに不吉な予感がしてならなかった。
「…明日の会議ではこのことも報告しなければ。彼からもっと詳しく話を聞きたいから、久遠、君は先に帰っててくれ」
「う、うん…」
言われるまま久遠がうなずくや否や、静夜は間諜の若者と暁良を連れて少し離れた木立の奥に分け入っていく。
(何だろう、この胸騒ぎ…嫌な感じがする…)
本当はその背中に駆け寄って抱きつきたい気持ちだった。そうでもして捕まえていなければ静夜がどこかに去ってしまうのではないかという不安さえ感じたのだ。しかし久遠は衝動をぐっと堪えて踏み止まる。静夜を煩わせないために。
(僕が動揺してちゃ駄目だ…落ち着け…まだ何も起きてはいないんだから…)
自身の心にそう言い聞かせて、久遠は樹間に消えていく三人の姿をじっと見送っていた。
次の日の朝、琥珀の館の会議の場は騒然とした空気に包まれていた。永遠の真意がついに要人や関係者、友人たちに明かされたからだ。
説明を締め括った千尋は席からすっと立ち上がると、宇内に向け深々と頭を下げた。
「宇内様のお許しを得ず、相談もせずに永遠に樹木化の秘術を授け、実行させたこと、また召喚に応じなかったことは心よりお詫びいたします。私ひとりはどのような処分も受ける所存です。しかしどうか永遠の覚悟と願いは否定しないでいただきたいのです。青空高くどこまでも伸びようとする若木を管理の敷かれた小さく綺麗な庭に縛りつけておくことなど、どうしてできましょうか。永遠の魂を意のままに従えられる者はこの星の上にはいないのです」
まったくそのとおりだと久遠と静夜は思った。
千尋の謝罪を受けて宇内は真っ青な溜め息をついた。
「おまえに処分を下したところで永遠は戻らないし、過ぎた時間も巻き戻せない。処分を考える気にもなれない。この件は無期限で保留とする」
「寛大なご判断に感謝いたします」
千尋は涼しい顔で着席したが、他の十一礎主は宇内の顔色を不安げに窺っている。永遠が千尋のもとで自身の生き方を変える重大な決断をしていたことを知らされていなかった宇内としては、まさに青天の霹靂、愛弟子や側近に鼻を明かされたような気分なのだろう。宇内は体面や外聞を気にする器ではないが、彼にとって永遠は原礎の未来を担う貴重な人材のひとり、さらに言えば自分の後継者候補のひとりとして幼い頃から大切に育ててきた掌中の珠だ。その彼女がすべてをなげうち、別れの挨拶もなく突然自分のもとを去ってしまったのである。その落胆、苦悩、そして喪失感。戦の疲労と老齢も重なって宇内はここ数週間で一気に老け込んだ印象があり、皆の心配を誘っていた。とりわけ永遠を久遠と一緒に長年見守り、宇内の職務の補佐をしてきた彼方の表情は沈痛だ。
その永遠が用意した迦楼羅の始末の好機を固辞した静夜にも参加者たちの注目は集まっていた。
「…では静夜くんは、永久煌炉に迦楼羅を封印せず、一生所持し続けると決めたということですか?」
礎主のひとりから改めて問われると静夜は自分の率直な気持ちを口にした。
「はい。両親の形見として、また自分自身の生きる証、力として、肌身離さず守り続けると誓いました。このことはもちろん永遠も了承済みです」
「これは今更語るまでもないことかと思いますが、あなたが迦楼羅を持ち続ければこの先将来に渡ってどんな危険が待っているかわからないこと、このような好機は二度とないこと、そして永遠があなたのために自分の人生を放棄してお膳立てをしてくれたことは十分おわかりですね」
静夜は何ら抵抗感を抱かず即座にその言葉を肯定しようとしたが、久遠がそこにすかさず横槍を入れた。
「今おっしゃった三つの点のうち、最後の一点にだけ反論させてください。姉さんの選択は迦楼羅を始末するよう静夜に強制したり忖度させたりするものではありません。姉さんは自分の力の使い道を自分で決めたんです。愛する人たちのために自分にできることをする、その勇気のひとつの形を後世に示したかったんです。これは尊い自己犠牲ではなくむしろ自己実現で、その後の選択はあくまで後に残る者の自由意思です。ですから静夜に圧力をかけるのはやめてください」
久遠はその礎主の用いた表現を黙って聞き流すことができなかったのだった。解釈の誤りを鋭く明確に突く彼の姿勢に、末席に固まって傍聴していた界たちはうなりを発したりしきりにうなずいたりしている。年若の者から指摘された礎主は少し気分を害した様子だったが、それ以上自分の理解不足を露呈したくないのか、論戦に発展させることは控え、訂正して陳謝した。
静夜は久遠に小声で礼を言った。
「ありがとう、久遠」
そして再び座の中央に向けて発言する。
「確かに永遠の真意は今久遠の言ったとおりですが、あまりに唐突な出来事のため、そのように受け取られてしまうのも無理のないことと承知しています。それに、原礎にとって脅威となり得る迦楼羅が世に残ることで皆さんが不安になるのも当然です。しかしご心配には及びません。黄泉と永久煌炉を封印する最後の戦いが終わったら、俺は迦楼羅を持って大森林を離れ、ひとりで旅に出ますので」
「えっ…?」
久遠はぽかんとし、とっさに声も出ず、隣で落ち着き払っている静夜の横顔に釘づけになった。
(静夜、今、何て…)
思わず自分の耳を疑い、今彼が言ったことを自分の心に繰り返す。だが何度考えても結果は同じで、服の下の素肌がざわっと粟立った。
(ひとりで旅に出る?何言ってるんだよ静夜…嘘だろ?)
十二礎主と友人たちはもちろん、宇内までもが予想外の驚きに目を大きくしている。ここにいる全員、誰ひとり想像すらしていなかったのだ。しんと静まり返る一同の中から瞬が沈黙を破って声を発した。
「…いったいどういう意味か、説明してくれるかい?」
「はい。実は昨日、俺が以前煌狩りの内情を探るために送り込んだ間諜のひとりが戻ってきたんです。彼の報告を要約して申しますと、煌狩りは今黄泉に忠誠を誓う忠義派、人間だけで別の新たな狩人集団を築こうとする独立派、さらに罪を悔い脱退を望む寛容派の三つに内部分裂を起こしています」
静夜はまったく動じず、表情をぴくりとも変えずにすらすらと話し続ける。
「そのうち独立派はかなり過激な思想を持っており、黄泉から与えられた設備と博士と煌人を奪い取って独占しています。彼らの標的は久遠と俺と迦楼羅…企んでいることは黄泉とほぼ同じです」
出席者たちはざわめいたが、あの祭りの夜に永遠が言及したときの反応に比べれば、その驚きの鮮烈さの度合いは低い。つらい戦を経験した今はその分だけ倦み疲れたような厭気の色が濃く見える。
「…」
彼らの表情の底に見え隠れする現実を無言で確かめ、静夜は自分の決断が間違いや早計でなかったことを悟った。
その間久遠は青ざめた顔で、膝に乗せた両方の握り拳を穴が開くかというほど固く凝視していたが、久遠のその様子も静夜は知った上であえて振り向かなかった。
俄がかすかな溜め息混じりに言った。
「違うのは原礎に対する私怨がないことだけか…その点では煌狩りの原理の粋を極めていると言えるかもしれんな」
そしてそれは彼らがより頑迷で強硬な態度で戦に臨んでくるであろうことを示唆していた。
「黄泉を封印したら主を失った忠義派の残党も仇討ちのために戦を仕掛けてくる恐れがあります。まして俺が久遠と一緒にいれば一網打尽とばかりに…同じことの繰り返しです。ですが大森林にこれ以上戦が起こる事態は避けなければなりません。そのため俺は迦楼羅を持ってここを去り、大森林や原礎の皆さんから距離を置きます」
「…!」
(皆さん…って…それにはまさか僕も含まれてるのか?)
ずっと一緒にいると誓った静夜が旅に出ようとするときに自分を置いていくはずはない。少なくとも理屈ではそうだ。久遠はそう信じたかったが、今の彼の言葉の中には自分の存在や役割がほとんど感じられない。まるでいないものとされているかのようだ。
久遠が唇を震わせていると、瞬がさらに踏み込んで問い質す。
「それならばなおのこと迦楼羅も封印してしまった方が君も血脈の束縛と身の危険から解放され、自由に安全に生きられるというものだろう。それなのになぜそこまで迦楼羅に固執するのか、たとえご両親の形見でも、いささか理解に苦しむのだが」
「迦楼羅は今後、俺にとってなくてはならない武器なのです。なぜなら煌狩りの拠点を潰し、組織を滅ぼすために絶対に必要な力だからです」
居並ぶ出席者たちの顔に稲妻のような衝撃が走った。
「煌狩りの拠点を潰し組織を滅ぼす、ですって?」
「拠点の制圧は以前俄殿や瞬殿と遠征する前提で掲げていた目的だろう。今後はそれにひとりで挑むつもりか?」
「はい。大陸を回って副首領を殺し、火天や研究施設を破壊し、実質囚われの身となっている人間や原礎たちを救い出していきたいと思っています。現し身の存在の永遠や多くの同胞たちの命を皆さんから奪い秩序をかき乱した償いと、自分の為し得ることを為す道にこの後の人生を捧げることに決めました」
それを聞いて、雪の積もったように白く深い宇内の眉がぴくりと動く。友人の中でも曜はとりわけ険しく目尻を尖らせた。礎主たちが堰を切ったように口々に質問を始めた。
「その旅には誰が同行する?」
「誰も。ひとりで行くつもりですので」
久遠は愕然とし、乾いた悲しみと疑問に満ちた目で静夜を見つめる。だが誰も寄せつけない高い氷の壁を張りめぐらせているようなその横顔に、どんな言葉をかけていいかもわからない。
「大森林を出て、今度は煌狩りの拠点に単身乗り込み、孤独な戦いに身を投じる気か?」
「ひとりで迦楼羅を持って煌狩りの懐に飛び込むなんてあまりに無謀だ。自殺行為だぞ…危険すぎる…!」
「死ぬよりもつらい、恐ろしい日々が待っているかもしれないのですよ?」
矢継ぎ早に向けられる礎主たちの言葉を集約し包括するような重々しい口調で俄が語りかけた。
「静夜。おまえはもう十分に罪を償い、それどころかすでにそれ以上の働きや貢献を成し遂げている。今や罪人ではなく我々の友だ。誰の助けも得ずひとりで戦うなどと水臭いことは言わず、どうか我々にも協力させてくれ。以前のように遠征の旅をしてともに戦い、目的を果たそう」
しかし静夜は頑なに首を振った。
「いいえ、お断りします」
「…しかし…!」
食い下がってくる俄を彼は戸惑いの透ける目で真っ直ぐに見つめた。
「…そうまで言っていただけるとは正直思っていませんでした。ではぜひともお願いしたいことがあります。黄泉はこれまで集めた煌気をまだ相当量黒玉の城に溜め込んでいるはずです。黄泉を封印してそこを制圧したら、そこに残る煌気を俺に譲って使わせていただきたいのです。迦楼羅に喰わせ、火天や設備を破壊する力に換えるために。俺が来たら手違いや滞りなく通してもらえるよう、現場の担当者に命令を出しておいていただけると助かります」
俄は唖然とする。部下に出入り許可の命令を一件出すなど、命と生涯をかけた静夜の仕事に比べればなんとささやかな役目だろう。静夜はそれでいいと言うが、俄は自分が小さな枠に収まった凡人に思えた。あれほど憎み、激しく鞭打った相手の罪人の方が実は澄んだ眼と死をも恐れぬ勇気を持ち合わせた剛毅の士であることを思い知らされていた。
その心証は他の礎主たちも同じのようだった。
「あくまでひとりで行くつもりなのか…」
「はい」
凛として揺るがない態度で静夜がうなずくと、出席者たちはぎこちなく視線を動かしてその彼の隣に座っている久遠の様子を見た。底が抜けたように硬直したままのその目つきから、どうやら恋人である久遠でさえ何も知らされていなかったらしいと察した彼らは、いたたまれない空気に覆われて唇を閉ざした。
(なんでそんなに落ち着いてるんだよ、静夜…僕たちの約束は、未来は…僕の気持ちはどうなるんだよ…!!)
久遠の胸は絶望的に凍えたり、また諦め悪く火照ったりと相反する感情のあわいを激しく往来する。
「…」
しかしなぜか宇内ひとりだけは確固たる手ごたえを得たように、皺深く疲れた顔の奥の黒い双眸をきらりと光らせていた。
衛士のいる門を抜け、そのまま森の外に出てくると、二人は途方に暮れたように立ち止まった。規則ではこの後静夜は外泊を終えて妖精の臥所に戻ることになっているが、まだ時間は残っていて、それまでどうするか決めていなかったからだ。久遠は少し遠慮ぎみに静夜の顔を見上げた。
「…とりあえず、家に帰る?」
「…うん…」
曖昧に同意してみたものの、静夜はすぐに首を振って答えを変えた。
「いや…まだもう少し歩きたい。どこまで、というのは特にないが…」
「じゃあ、もうちょっと散歩しよっか」
久遠は翡翠の屋根から来た道とは反対の方角へ、静夜の先に立って再び歩き始めた。
その後もほとんど言葉を交わさずに歩いた末、二人は瑠璃の入り江にやってきた。
静夜はこの場所にほんの二週間ほど前に一度だけ来たきりだった。美しく神秘的な夕景だったあのときとは異なり、晴れた午前の今は澄み切った空気が湖面と空の青さを際立たせる爽やかな眺望が広がっている。
二人は穏やかな水辺を見下ろす傾斜の上に立った。
ここは二人が初めて恋の甘い口どけを味わった思い出の場所だ。岸に向かう芝草に目を凝らすと、幸せそうに寄り添って唇を重ねる二人の幻が見える気がする。
ただ今は対岸の丘に大森林を覆う結界の障壁が見え、ごくたまに警備の者が巡回してくるなど、もともとの手つかずの美観にはそぐわない雰囲気だった。
「…星祭りの夜以来だね」
「ああ」
「…花火が打ち上がる中、あの空の彼方から父さんの乗った銀嘴鷲が飛んできて…戦が始まることがわかって…」
予測されたとおりのことと、予想もしなかったことが次々と起こった。久遠は空を指していた手を下ろし、胸の詰まるような微笑みを頬ににじませた。
「いろんなことがあったけど…おまえが無事でよかった…それに、姉さんの本当の気持ちを知れたことも…」
それが現し身としての別れのときだったのは運命の皮肉だった。
湖水の打ち寄せる水辺に静夜はひとり進み出た。
「…俺はいったいどれだけ多くのものを永遠に負っているだろう」
もうひとつの心臓とも言える、永遠から受け継いだ煌源のかすかなぬくもりを胸の奥に感じながら言った。
「…それまで信じていたものと居場所を失い、暗い海を漂流する小舟のように覚束なかった俺にとって、永遠は水平線の果てに輝く道しるべの星だった…けして赦されない罪を重ねてきた俺にも、迎え入れてくれる場所、光の射す明日があることを教えてくれた…」
潭月の郷から真鍮の砦に戻る街道、そして大森林へ至る峡谷の断崖で見上げたあの白い星の輝きは、一日たりとも忘れたことがない。
孤独と失望に支配されそうになったとき、いつも永遠が彼を励まし、支え、導いてくれたのだ。
静夜は自嘲しているかのような薄い微笑みで久遠の方に振り向いた。
「久遠、君は前に俺と永遠の仲を誤解してただろう?そう思われてもしかたがないくらい、俺は永遠がいなければ生きていけないような無様な状態だった。だが俺は永遠を女性として見たことはない。もし…これは本当に仮定の話だが、もしも俺が彼女をそういう気持ちで見たとしても、永遠は俺には見向きもしなかった。俺でなくても同じだ。永遠の愛は誰かひとりに特別に注がれるものじゃなかった」
もしそれが周囲の目に愛として映ったとしても、やはりその本質は純粋な憐れみと温情だっただろう。注いだ分と同じだけ自分が愛されることを求めていないからだ。
「確かに、姉さんの愛は、大木が深く根を張り広く枝葉を広げるように分け隔てや偏りのない愛だった…昔からそうだった…いつも自分じゃない誰かのことを考えてた。利己的で度量の小さい僕は同じにはなれないけど…」
静夜は無言で否定するように首を振った。
「永遠と君は俺に愛を教えてくれた。永遠は星や命に注ぐ愛を、そして君は自分以外の誰か、たったひとりに捧げる愛を」
光陰の、彼方の、そして遥の愛…それらはどれひとつとして同じではない。愛にはこれほどまでにさまざまな形があることを、若い二人は本当の意味でまだほとんど理解していなかったのだ。
「俺は舟、永遠は星、そして君は港…心が帰りたいと思う場所だ」
そう言った静夜の瞳の切ない色に、心臓がきゅうっと苦しくなる。
(僕は姉さんみたいにはなれない…でも静夜にとってのたったひとりの存在になれたんだ…)
しかしこのとき静夜がその言葉に二重の意味を込めていたことに、久遠は気づいていなかった。
「…あ、静夜さん!」
久遠と静夜が翡翠の屋根に戻ってくると、自宅のある巨木の下に暁良が立って二人の帰りを待っていた。
「突然押しかけてすみません。妖精の臥所に行ったら昨夜は外泊してまだ帰ってきてないということだったので、こちらに…ご迷惑かとは思ったんですが…」
「構わない。実は昨日使いの者が現れていろいろと事態が動いたんだ。そのことについて明日会議が行われるから、おまえも出てくれ。そこですべて報告する」
「わかりました」
暁良は心に期するもののある顔つきでうなずいた。
「それで、おまえはどうして?」
「はい。…例の者たちのひとりが戻ってきましたので」
暁良が側に立つ太い木の幹の後ろから誰かを呼び寄せる。ところどころほつれた地味な旅衣装の若者は木陰から姿を現すと二人におずおずと会釈した。
「…おまえは…!」
「静夜さん…」
静夜は彼に近づくと思わず彼の手を握った。彼は以前静夜が煌狩りの内情を探るために送り出した間諜のひとりだった。
「ここに来る途中、暁良さんから戦のことを聞きました。早く戻らなければならなかったのに遅くなってしまい、参戦できず、申し訳ありません…」
「気に病むな。おまえこそ、危険な任務にもかかわらずよく進んで引き受け、無事に戻ってきてくれた…本当によかった。ありがとう」
静夜からねぎらいと感謝の込もる目で見つめられると、その若者はようやくほっとしたように表情の緊張を解いた。
「それで、何かわかったか?」
「はい。煌狩りはどうやら内部から分裂を起こしているようです。黄泉に心酔し絶対服従を誓う従前からの忠義派に対し、かねてより不満と野心を抱いていた過激な独立派、そして両派に共通して潜在する…寛容派、もしくは保守派と申しますか、ひそかに罪を悔い、組織を離脱して静夜さんのもとに身を寄せたいと考える者たちが一定数いるようです」
「組織から脱退したいのに残ってるってことですか?」
久遠が脇から尋ねると間諜の若者はいかにも苦しげに眉を寄せて答えた。
「それが…拠点としての活動方針は副首領の意向が絶対らしく、彼らは本心では僕たちのように煌狩りを脱退したいと思っているのにそう主張できる雰囲気ではなく、もちろん脱走などできず、幹部の命令にほとんど強制的に従わされてるらしいんです。僕たちは静夜さんたち遠征部隊が来てくれたおかげでたまたま離脱する機会に恵まれたから幸運でしたが…」
静夜はまたしても以前永遠が言及していた可能性に直面していた。副首領筆頭の静夜が原礎側につき、明夜が死んだことで他の副首領たちの仮面が一気に剥がれ、勢力図ががらりと変わるという予測が現実になった。統制の取れなくなった集団や派閥に留まることがどれほど危険かは想像に難くない。しかし今の彼らには逃げ道がないのだ。
(すべての拠点から希望する者全員を救い出すことはそもそも難しかったとは言え、これは彼らを組織に引き入れ、さらには放置してしまった俺の責任だ…)
静夜はそう痛感し、悔しさに歯噛みする。
「僕が潜入した砦は独立派の方で、先日の戦の召集には応じませんでした。そこの副首領は不穏な動きをしていて、博士と煌人を囲い込み、煌気移植装置や実験設備を占拠してるばかりか、こっそり盗み聞いた幹部たちの会話では、黄泉と同様に久遠さんと静夜さんの身柄拘束と迦楼羅の鹵獲を目論んでいるようなのです。しかもそこだけではなく複数の砦で同じような話が…」
それを聞いて静夜はさっと顔色を変えた。今まさに傷を癒し力を蓄えている黄泉だけでなく、力と欲望に目が眩んだ人間たちまでもが襲いかかってくるかもしれないという。これは黄泉に対する訣別宣言、さらには宣戦布告にも等しく、新たな争いや悲劇の端緒になり得るということを念頭に置かなければならない。
煌狩りの人間は一部が今や黄泉の手を離れ、ばらばらに散らばって予期せぬ動きを見せ始めている。
静夜が考え込む間に暁良が尋ねた。
「私は同行しなかったが、静夜さんたちが最後の遠征で入った拠点が完全に放棄されていたのはなぜだ?設備や人員が必要だっただろうに」
「そこはおそらく元は忠義派の拠点で、大森林侵攻のため戦力がごっそり引き上げられ永久煌炉に移された後だったからだと思われます。僕も潜入中にその噂は聞いていたんですが、監視が強く警告文を送れないまま戦に…」
「…いや、いいんだ。おまえも動くに動けなかったんだろう。それに知らせなら別のところから受けていたから…」
静夜は冷静に返したが、その声に抑揚はなく、内心は上の空だった。もし黄泉を封印できても、自分が生きている限りやはり煌狩りの刺客はどこまでもつけ狙ってくるのだ。組織は地の果てまでも追いかけてくると自分で自分の未来を予言していたことを不意に思い出して静夜は笑いそうになった。死ぬまで迦楼羅を守り通すことができればと永遠に言ったとき自分は現実感や危機感が希薄だったのではないか。迦楼羅の魔力や誘引力を忘れていたのではないか。考えるにつけ静夜の胸は急速に冷たくこわばっていった。
彼の硬い表情を久遠たち三人は心配そうに見つめている。沈黙に耐えかねた久遠は努めて明るい声で彼を励ました。
「でも、結局のとこ、相手は人間だろ?黄泉みたいな原礎とは違うんだ。警備の目も結界もあるし、今すぐどうこうということはないって。な?」
「…ああ。そう…そうだな…」
だが静夜の顔は依然として暗い。口先ではそう言っても、不器用で考えていることが顔に出やすく、物事を悲観的に捉えがちな静夜の性格をよく知る久遠はやけに不吉な予感がしてならなかった。
「…明日の会議ではこのことも報告しなければ。彼からもっと詳しく話を聞きたいから、久遠、君は先に帰っててくれ」
「う、うん…」
言われるまま久遠がうなずくや否や、静夜は間諜の若者と暁良を連れて少し離れた木立の奥に分け入っていく。
(何だろう、この胸騒ぎ…嫌な感じがする…)
本当はその背中に駆け寄って抱きつきたい気持ちだった。そうでもして捕まえていなければ静夜がどこかに去ってしまうのではないかという不安さえ感じたのだ。しかし久遠は衝動をぐっと堪えて踏み止まる。静夜を煩わせないために。
(僕が動揺してちゃ駄目だ…落ち着け…まだ何も起きてはいないんだから…)
自身の心にそう言い聞かせて、久遠は樹間に消えていく三人の姿をじっと見送っていた。
次の日の朝、琥珀の館の会議の場は騒然とした空気に包まれていた。永遠の真意がついに要人や関係者、友人たちに明かされたからだ。
説明を締め括った千尋は席からすっと立ち上がると、宇内に向け深々と頭を下げた。
「宇内様のお許しを得ず、相談もせずに永遠に樹木化の秘術を授け、実行させたこと、また召喚に応じなかったことは心よりお詫びいたします。私ひとりはどのような処分も受ける所存です。しかしどうか永遠の覚悟と願いは否定しないでいただきたいのです。青空高くどこまでも伸びようとする若木を管理の敷かれた小さく綺麗な庭に縛りつけておくことなど、どうしてできましょうか。永遠の魂を意のままに従えられる者はこの星の上にはいないのです」
まったくそのとおりだと久遠と静夜は思った。
千尋の謝罪を受けて宇内は真っ青な溜め息をついた。
「おまえに処分を下したところで永遠は戻らないし、過ぎた時間も巻き戻せない。処分を考える気にもなれない。この件は無期限で保留とする」
「寛大なご判断に感謝いたします」
千尋は涼しい顔で着席したが、他の十一礎主は宇内の顔色を不安げに窺っている。永遠が千尋のもとで自身の生き方を変える重大な決断をしていたことを知らされていなかった宇内としては、まさに青天の霹靂、愛弟子や側近に鼻を明かされたような気分なのだろう。宇内は体面や外聞を気にする器ではないが、彼にとって永遠は原礎の未来を担う貴重な人材のひとり、さらに言えば自分の後継者候補のひとりとして幼い頃から大切に育ててきた掌中の珠だ。その彼女がすべてをなげうち、別れの挨拶もなく突然自分のもとを去ってしまったのである。その落胆、苦悩、そして喪失感。戦の疲労と老齢も重なって宇内はここ数週間で一気に老け込んだ印象があり、皆の心配を誘っていた。とりわけ永遠を久遠と一緒に長年見守り、宇内の職務の補佐をしてきた彼方の表情は沈痛だ。
その永遠が用意した迦楼羅の始末の好機を固辞した静夜にも参加者たちの注目は集まっていた。
「…では静夜くんは、永久煌炉に迦楼羅を封印せず、一生所持し続けると決めたということですか?」
礎主のひとりから改めて問われると静夜は自分の率直な気持ちを口にした。
「はい。両親の形見として、また自分自身の生きる証、力として、肌身離さず守り続けると誓いました。このことはもちろん永遠も了承済みです」
「これは今更語るまでもないことかと思いますが、あなたが迦楼羅を持ち続ければこの先将来に渡ってどんな危険が待っているかわからないこと、このような好機は二度とないこと、そして永遠があなたのために自分の人生を放棄してお膳立てをしてくれたことは十分おわかりですね」
静夜は何ら抵抗感を抱かず即座にその言葉を肯定しようとしたが、久遠がそこにすかさず横槍を入れた。
「今おっしゃった三つの点のうち、最後の一点にだけ反論させてください。姉さんの選択は迦楼羅を始末するよう静夜に強制したり忖度させたりするものではありません。姉さんは自分の力の使い道を自分で決めたんです。愛する人たちのために自分にできることをする、その勇気のひとつの形を後世に示したかったんです。これは尊い自己犠牲ではなくむしろ自己実現で、その後の選択はあくまで後に残る者の自由意思です。ですから静夜に圧力をかけるのはやめてください」
久遠はその礎主の用いた表現を黙って聞き流すことができなかったのだった。解釈の誤りを鋭く明確に突く彼の姿勢に、末席に固まって傍聴していた界たちはうなりを発したりしきりにうなずいたりしている。年若の者から指摘された礎主は少し気分を害した様子だったが、それ以上自分の理解不足を露呈したくないのか、論戦に発展させることは控え、訂正して陳謝した。
静夜は久遠に小声で礼を言った。
「ありがとう、久遠」
そして再び座の中央に向けて発言する。
「確かに永遠の真意は今久遠の言ったとおりですが、あまりに唐突な出来事のため、そのように受け取られてしまうのも無理のないことと承知しています。それに、原礎にとって脅威となり得る迦楼羅が世に残ることで皆さんが不安になるのも当然です。しかしご心配には及びません。黄泉と永久煌炉を封印する最後の戦いが終わったら、俺は迦楼羅を持って大森林を離れ、ひとりで旅に出ますので」
「えっ…?」
久遠はぽかんとし、とっさに声も出ず、隣で落ち着き払っている静夜の横顔に釘づけになった。
(静夜、今、何て…)
思わず自分の耳を疑い、今彼が言ったことを自分の心に繰り返す。だが何度考えても結果は同じで、服の下の素肌がざわっと粟立った。
(ひとりで旅に出る?何言ってるんだよ静夜…嘘だろ?)
十二礎主と友人たちはもちろん、宇内までもが予想外の驚きに目を大きくしている。ここにいる全員、誰ひとり想像すらしていなかったのだ。しんと静まり返る一同の中から瞬が沈黙を破って声を発した。
「…いったいどういう意味か、説明してくれるかい?」
「はい。実は昨日、俺が以前煌狩りの内情を探るために送り込んだ間諜のひとりが戻ってきたんです。彼の報告を要約して申しますと、煌狩りは今黄泉に忠誠を誓う忠義派、人間だけで別の新たな狩人集団を築こうとする独立派、さらに罪を悔い脱退を望む寛容派の三つに内部分裂を起こしています」
静夜はまったく動じず、表情をぴくりとも変えずにすらすらと話し続ける。
「そのうち独立派はかなり過激な思想を持っており、黄泉から与えられた設備と博士と煌人を奪い取って独占しています。彼らの標的は久遠と俺と迦楼羅…企んでいることは黄泉とほぼ同じです」
出席者たちはざわめいたが、あの祭りの夜に永遠が言及したときの反応に比べれば、その驚きの鮮烈さの度合いは低い。つらい戦を経験した今はその分だけ倦み疲れたような厭気の色が濃く見える。
「…」
彼らの表情の底に見え隠れする現実を無言で確かめ、静夜は自分の決断が間違いや早計でなかったことを悟った。
その間久遠は青ざめた顔で、膝に乗せた両方の握り拳を穴が開くかというほど固く凝視していたが、久遠のその様子も静夜は知った上であえて振り向かなかった。
俄がかすかな溜め息混じりに言った。
「違うのは原礎に対する私怨がないことだけか…その点では煌狩りの原理の粋を極めていると言えるかもしれんな」
そしてそれは彼らがより頑迷で強硬な態度で戦に臨んでくるであろうことを示唆していた。
「黄泉を封印したら主を失った忠義派の残党も仇討ちのために戦を仕掛けてくる恐れがあります。まして俺が久遠と一緒にいれば一網打尽とばかりに…同じことの繰り返しです。ですが大森林にこれ以上戦が起こる事態は避けなければなりません。そのため俺は迦楼羅を持ってここを去り、大森林や原礎の皆さんから距離を置きます」
「…!」
(皆さん…って…それにはまさか僕も含まれてるのか?)
ずっと一緒にいると誓った静夜が旅に出ようとするときに自分を置いていくはずはない。少なくとも理屈ではそうだ。久遠はそう信じたかったが、今の彼の言葉の中には自分の存在や役割がほとんど感じられない。まるでいないものとされているかのようだ。
久遠が唇を震わせていると、瞬がさらに踏み込んで問い質す。
「それならばなおのこと迦楼羅も封印してしまった方が君も血脈の束縛と身の危険から解放され、自由に安全に生きられるというものだろう。それなのになぜそこまで迦楼羅に固執するのか、たとえご両親の形見でも、いささか理解に苦しむのだが」
「迦楼羅は今後、俺にとってなくてはならない武器なのです。なぜなら煌狩りの拠点を潰し、組織を滅ぼすために絶対に必要な力だからです」
居並ぶ出席者たちの顔に稲妻のような衝撃が走った。
「煌狩りの拠点を潰し組織を滅ぼす、ですって?」
「拠点の制圧は以前俄殿や瞬殿と遠征する前提で掲げていた目的だろう。今後はそれにひとりで挑むつもりか?」
「はい。大陸を回って副首領を殺し、火天や研究施設を破壊し、実質囚われの身となっている人間や原礎たちを救い出していきたいと思っています。現し身の存在の永遠や多くの同胞たちの命を皆さんから奪い秩序をかき乱した償いと、自分の為し得ることを為す道にこの後の人生を捧げることに決めました」
それを聞いて、雪の積もったように白く深い宇内の眉がぴくりと動く。友人の中でも曜はとりわけ険しく目尻を尖らせた。礎主たちが堰を切ったように口々に質問を始めた。
「その旅には誰が同行する?」
「誰も。ひとりで行くつもりですので」
久遠は愕然とし、乾いた悲しみと疑問に満ちた目で静夜を見つめる。だが誰も寄せつけない高い氷の壁を張りめぐらせているようなその横顔に、どんな言葉をかけていいかもわからない。
「大森林を出て、今度は煌狩りの拠点に単身乗り込み、孤独な戦いに身を投じる気か?」
「ひとりで迦楼羅を持って煌狩りの懐に飛び込むなんてあまりに無謀だ。自殺行為だぞ…危険すぎる…!」
「死ぬよりもつらい、恐ろしい日々が待っているかもしれないのですよ?」
矢継ぎ早に向けられる礎主たちの言葉を集約し包括するような重々しい口調で俄が語りかけた。
「静夜。おまえはもう十分に罪を償い、それどころかすでにそれ以上の働きや貢献を成し遂げている。今や罪人ではなく我々の友だ。誰の助けも得ずひとりで戦うなどと水臭いことは言わず、どうか我々にも協力させてくれ。以前のように遠征の旅をしてともに戦い、目的を果たそう」
しかし静夜は頑なに首を振った。
「いいえ、お断りします」
「…しかし…!」
食い下がってくる俄を彼は戸惑いの透ける目で真っ直ぐに見つめた。
「…そうまで言っていただけるとは正直思っていませんでした。ではぜひともお願いしたいことがあります。黄泉はこれまで集めた煌気をまだ相当量黒玉の城に溜め込んでいるはずです。黄泉を封印してそこを制圧したら、そこに残る煌気を俺に譲って使わせていただきたいのです。迦楼羅に喰わせ、火天や設備を破壊する力に換えるために。俺が来たら手違いや滞りなく通してもらえるよう、現場の担当者に命令を出しておいていただけると助かります」
俄は唖然とする。部下に出入り許可の命令を一件出すなど、命と生涯をかけた静夜の仕事に比べればなんとささやかな役目だろう。静夜はそれでいいと言うが、俄は自分が小さな枠に収まった凡人に思えた。あれほど憎み、激しく鞭打った相手の罪人の方が実は澄んだ眼と死をも恐れぬ勇気を持ち合わせた剛毅の士であることを思い知らされていた。
その心証は他の礎主たちも同じのようだった。
「あくまでひとりで行くつもりなのか…」
「はい」
凛として揺るがない態度で静夜がうなずくと、出席者たちはぎこちなく視線を動かしてその彼の隣に座っている久遠の様子を見た。底が抜けたように硬直したままのその目つきから、どうやら恋人である久遠でさえ何も知らされていなかったらしいと察した彼らは、いたたまれない空気に覆われて唇を閉ざした。
(なんでそんなに落ち着いてるんだよ、静夜…僕たちの約束は、未来は…僕の気持ちはどうなるんだよ…!!)
久遠の胸は絶望的に凍えたり、また諦め悪く火照ったりと相反する感情のあわいを激しく往来する。
「…」
しかしなぜか宇内ひとりだけは確固たる手ごたえを得たように、皺深く疲れた顔の奥の黒い双眸をきらりと光らせていた。
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