静かな夜をさがして

左衛木りん

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第6章 会戦

賽は投げられた

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その日の午後、各礎主の居所に志願者たちが続々と詰めかけて担当者たちが対応に追われる間、琥珀の館のテラスでは防備の方針、周辺の地理、武器や物資の在庫状況などの重要な議題が話し合われた。

大きな円卓に広げられた地図を、要人と直属の補佐官たちが二重に取り囲んで会議は進んだ。

「皆さんご承知のとおり、ここ大森林は山腹や谷間ではなくなだらかで開けた丘陵地に位置し、堅固な要害や砦のような防壁もなく、外周の木立の途切れるところに緑の垣根や簡素な木の防御柵があるだけで、防衛や籠城には構造的に向きません」

そこで礎主のひとりが指で地図上にぐるりと円を描いた。

「ですが今から石壁や土塀を築いている時間はありませんので、いっそ大森林全体を巨大な結界ですっぽりと覆ってしまうのが良いかと」

その提案を宇内は良案として受け容れた。

「結界の敷設を得意とするのは我々土門と石動、そして静流の族だ。私が中心になって結界を発動し、できるだけ多くの同胞に参加してもらって内側から死守しよう。境界の川や瑠璃の入り江などの無防備な水辺はさらに静流が重点的に守ることとする」

今挙げられた三礎は実戦を不得手とする代わりに専守防衛に向く族だ。人数も比較的多いため、戦場に出るのは気が重いが何かしら貢献はしたいという者が、他の礎からも合わせてかなり集まるのではとの期待が持てた。

議題は次々と挙げられてはまとまり、大筋での決定案が積み重ねられていく。

「門前の野営地は結界の内側で敷地面積がありますので、残念ですが放棄して、宇内様の本営と救護所を置くことになります」

静夜と暁良はぐっと唇を噛んで歯がゆさを押し殺した。するとその表情を見て発言者はすぐに付け加えた。

「ご安心ください、野辺の止まり木にいた人々を含め人間の皆さんは全員無条件で大門の中にお入りいただけます。その上でどの役目を果たされるか決めていただきます」

「…わかりました」

静夜はうなずいた。愛着のある野辺の止まり木を明け渡す判断には胸が痛むが、現況ではやむを得ない。だが暁良は自分が静夜に任されて全精力を傾けてきた開墾地だけはどうしても譲れなかった。

「あの、待ってください!野辺の止まり木を放棄するのはしかたないとしても、日向の巣だけは何とか守っていただけませんか?あの土地は私たちの希望の象徴で、やっと形になり始めたところなんです!もしあそこが敵に見つかって踏み荒らされたりしたら、私たちはまた帰る場所を失ってしまいます…どうかお願いします…!」

今まで常に静夜の脇に黙って控え、けして話に割って入ることのなかった暁良の必死の訴えに、要人たちは虚を突かれたように目と目を見交わした。存亡と尊厳をかけた戦いを前に、西に離れた開拓中の人間の集落のことなど忘れられていた印象すらある。

しかし宇内は小さく肩を震わせている暁良を霜の降りた眉の下から温かく見つめてこう答えた。

「もちろん、わかっている。日向の巣は必ず守り通そう。ただし見張りを立てるとかえって目を引くので、人が引き揚げた後結界を張りまやかしの術で隠すことにする。こことの距離を考えても気づかれる恐れはあまりないだろう」

それを聞いた暁良の顔に安堵が広がる。

「ありがとうございます…!」

思わず大声を出して数十人の視線を集めてしまった暁良は打たれたように顔を赤らめると静夜の背後にそっと下がった。

別の者が森の中心部に小さな駒をいくつも置いて言った。

「非戦闘員は琥珀の館の最深部に避難させ収容します。また重傷者の治療、物資の管理や外との連絡などの補助的任務、老人子供の世話などは穂波、果菜、咲野の礎主に統括をお願いできますか?」

「わかりました。妖精の臥所の患者で急を要さない人々は琥珀の館に移動させ、重傷者の収容に備えさせましょう」

「合わせて備蓄の確認と整理も始めます」

「大至急頼む。…さて、ここからが本題だ。結界の外側の警備と迎え撃つ兵力についてだ」

宇内が防備と攻撃の駒の群れを地図の上に並べ始めると誰かが宇内の言葉を疑問に思ったように首を傾げた。

「結界を展開して維持し続けることができれば外側の警備は不必要では?その分の人手を迎撃部隊に回した方が…」

すると別の者たちが反論する。

「結界は大森林を守る最後の砦だ。万が一にも穴など開けられることのないよう、常に警戒を怠らない方がいい」

「相手が斥候を派遣して周辺から様子を探りに来る可能性もあるからな」

「敵の軍勢は永久煌炉から南に下る街道を来ると思われるが、どの方角から変則的な動きで攻めてくるかわからないので、全方位に守備の小隊を並べる。目と耳が良く、森の中での戦闘や行動に長けた者たちが適任だろう」

中距離からの術や弓矢での攻撃、また近接戦闘も得意とするのは瑞葉と樹生の族だ。かなりの規模の人数も抱える二礎の礎主は心得たというようにうなずき合った。

「今回最も活躍を期待したいのは言うまでもなく珠鉄の兵力だ。もちろん瑞葉と樹生、風早と氷雨もいずれ劣らぬ強者揃いだ。兵力の組織は俄を中心に今挙げた四礎の礎主に一任する。礎を問わずひとりでも多く戦士や術師を集めてもらいたい。久遠と永遠、それに静夜殿も加わってくれ」

「はい」

後方支援に関わる七礎主たちは引き続き協議のために残り、五礎主と久遠たちは先に会議の場を辞した。兵士志願者がどれくらいの数集まってきているかを確認し、取りまとめるためだ。久遠は瞬に、永遠は樹生の礎主に付き従ってその居所に向かった。一方、静夜と暁良は急ぎ野辺の止まり木に戻った。自分の進む方向を決めた若者たちが指導者的存在である二人からの指示を待っているからだった。



翌朝、宇内と彼方の待つ琥珀の館のテラスには五礎主と久遠、静夜、暁良、そして補佐官たちが再び集まり、人員の配置と部隊の編成、戦術の策定といった開戦に向けての重要な話し合いを行っていた。

ただし永遠だけは、少し体調がすぐれないということで礎主の居所に留まっていた。

彼方の報告から会議は始まった。

「まず最初に、未明、敵軍の規模に関して偵察の雲居の鳥から知らせがありました。永久煌炉から進軍を開始した敵軍のうち、煌人がおよそ三百、人間の兵士が六千。この中には煌狩りの者だけではなくおそらく黄泉が雇ったと思われる山賊やはぐれ者や傭兵らしき者たちもおり、いずれも黒衣をまとい火天を携えているようです。それ以外に魔狼や怪鳥などの魔獣が数限りなく、と。それから…」

彼方は静夜の顔をちらりと見た。

「人間の中にひとり、ひときわ異質な存在感を放つ総大将然とした者がおり、その者が人間たちの軍団を率いているようです。“黒将軍”と呼ばれ、恐れられているとのことです」

「その男のことは知っています。北大陸の東の辺境にある煌狩りの拠点を束ねる副首領です」

静夜が言うと皆が彼方から彼に視線を移して次の言葉を待つ。疑問を含み説明を求めるようなまなざしだ。静夜はそれを理解して続けた。

「煌狩りの拠点は北大陸の各所に点在し、そのすべてに以前の俺と同等の階級の副首領がひとりずつ置かれ、管理を任されているのです。真鍮の砦だけは首領の明夜がいたので特殊でしたが」

「…確かに、以前の遠征で解放した拠点にも副首領がいたようだが…」

そこの二人の副首領は、俄や静夜たちが乗り込んできたと聞くや否や部下を放置して逃亡してしまったのだった。

「それで、実力の程は?」

「あいにく手合わせをした経験はありませんが、副首領としての評価において、すべての点で俺を上回ったことは一度もなく、武勇の噂も聞いたことはありません。ただ彼は非常に狡賢く嗜虐的な性格で知られています。その点を見込まれて今回抜擢されたのでしょう。いったいどんな汚い手を使ってくるか…腕っ節や剣術よりもそちらに気をつけなければなりません」

「その意味での『黒』か」

宇内がつぶやき、静夜がうなずく。

(きっと明夜みたいな奴なんだろうな)

久遠が瑪瑙の窟でのぞっとするような出来事を思い出していると、議題はもう次に進もうとしていた。

「なお永久煌炉にはまだ戦力が残っており、戦況によっては増派される可能性もあります。…次に、武器または術を使って戦うことを志願した同胞の数ですが」

他の礎からの志願者の数も一括して集計していた俄がその総数を発表した。

「十二礎から合わせておよそ二万。ここに静夜の率いる人間たち五十二人の部隊が加わります。人数は少なく聞こえますが、非常に勇敢で腕も立つ若者たちです」

「五十二人も?すごいじゃないか」

瞬が目を丸くして静夜を見たが、彼は沈んだ表情で答えた。

「はい…ですがやはり十人ほどは同じ人間に刃を向けたくない、争いはもうしたくないと言ってここを去ることになりました。もともと去るか残るかずっと決めかねていて、今回のことで踏ん切りがついた、と…」

「それもまた個々人の判断だ。我々は彼らの意思を尊重する。旅の無事を祈るとその者たちに伝えてくれ、静夜殿」

「わかりました」

参戦しない数十人は結界の内側に入り、非戦闘員の原礎たちと同様それぞれにできる役割に就くことになる。耶宵はできるだけ最前線に近い場所で働きたいと熱望し、宇内の本営での救護の仕事を割り当てられる見込みだった。

俄に続き、瞬が言った。

「今二万人と申しましたが、いきなりその全員が最前線に出るわけではありません。この中からまず結界の内側の警備隊に千人、結界の外周を守備する小隊に二千人、戦力補充や状況に合わせた対応のための予備戦闘員を七千人、その特性や適性に応じて編成します。残った一万人で、三つの大隊を構成します」

「ちなみに、僕と姉さんは隊に属さず遊軍として自由に動きます。理由は…後でお話しします」

「大隊は第一が四千人、第二と第三が三千人ずつに分け、それぞれ俄と僕、氷雨の礎主、樹生の礎主が指揮します。静夜くんの率いる人間たちの部隊は第一大隊に組み入れ、風早の礎主が予備戦闘員の第四大隊を率いて待機します。総大将は俄が務めます」

風のない卓上の地図の上には一枚で千人の隊を表す円い葉が十枚置かれている。

「四つの大隊には戦士と術師を礎も人数も均等に割り振りします。その内訳などはこの後五人の協議で決めます。…次、具体的な作戦内容についてです」

居並ぶ要人たちの表情がよりいっそう真剣味を帯びて引き締まる。

「煌人と人間の戦士が持つ火天は大変な脅威ですのでこれを何とかしなければなりません。そこで久遠がひとつとっておきの策を披露したいということなのですが…久遠」

「はい」

瞬に促されて久遠は一座の中央に歩み出た。

「火天はもちろんですが煌人もそのままにはできません。彼らは煌狩りの戦士や傭兵たちとは違い、自分が望んでそこにいるわけではない人たちなんですから、こちらの身が危なくなるくらい絶体絶命の苦況に陥らない限りは見捨てずに助けなければなりません。ですが実際の戦場で、向かってくる敵の火天をその都度一本ずつ煌気で壊していたのではみんなの負担が大きい上に埒が明かない。そこで考えたのが、僕が天地神煌を使ってまず煌人の身体から煌気を一気に抜き取り、それをそのまま直接火天にぶち込んで破壊する。これを全範囲で同時に、正確に実行するーーという作戦です」

力強く自信にあふれた久遠の提案に、すでに事前にその相談を受けてきていた静夜と瞬以外の面々は驚きの声を漏らした。

「それは、おまえが天地神煌に覚醒したとき明夜に対して無意識に発動させたというあの力か?」

「そうです。煌気を除去して煌人を浄化し、人間に戻す。そして抜き取った煌気を火天の破壊に活用する、つまり一石二鳥です。いかがでしょう?」

俄に続いて氷雨の礎主が当惑の露わな顔で久遠に尋ねる。

「いかがも何も、そうしてくれると我々としてはありがたい限りだが…本当にそんなことができるのか?」

「できます。以前迦楼羅の破壊を試みたときにやり方とか感触は摑んでますから」

「あのときのたった一度きりでかい?」

「うん。…と言っても開戦までにあとちょっと特訓したいなあとは思ってるんだけど」

呆然と尋ねた彼方に、久遠がまるで朝食はちゃんと食べたかと訊かれた人のようにこともなげにうなずいたので、皆大きく見張っていた目をいっそう丸くした。天地神煌を自在に操るのはけして容易ではないことは誰もが想像できたが、久遠が答えるのを聞くとそれほどのことでもないかのように感じられてしまうのだ。煌礎水を飲み行動を制限しないと体力すら続かなかった以前の彼とはまるで別人である。

(信じられない…本当にこれが落ちこぼれと見下されていたあの久遠なのか…)

秘めた可能性と末恐ろしさに、その場にいるほとんど全員が軽い身震いを覚えた。

「ただ、それには前線の兵士たちの協力と団結が不可欠です。効率性と確実性を高めるため、火天を持つ敵軍を凌ぎながらなるべく一か所に集めてもらう必要があるからです」

久遠はそう言いながら目の前の大きな地図の上に指先を伸ばした。

「門前の広場の先の森を抜けると丘陵地帯の真ん中に草原が広がってて、北からの街道はここを通ります。この草原を主戦場と設定し、ここで敵軍を迎え撃ちます」

皆が雁首を揃えて図面を覗き込む中、久遠は指先を北東の方角に動かし、反対の手で葉を並べ替え始める。

「敵軍が接近してきたら、強力な幻術が使える雲居の術師が奴らを主戦場に誘導し固めるためのまやかしの霧を起こします。この時点で街道の正面に第一大隊、街道を挟んだ両側の丘陵地に第二第三大隊を配置しておきます。一方僕は補佐役の姉さんと一緒に物見の岩山であるこの“玻璃はりの尖塔”で待機します。開戦と同時に挟撃しながら包囲網を狭め、北東の方角から退路も塞ぎ、火天を持つ兵士を囲い込んでもらえば、僕が天地神煌で火天を一気に破壊します」

「敵軍は一個大隊とは限らないぞ。主力部隊は真正面から来ても、一部は小隊に分散させて別方向から突破口を探りに来るかもしれない。裏をかかれないよう備えなければ」

「そうですね。…では第一第二で全体を包囲し、第三大隊はいくつかの中隊に分割して要所要所に置きましょう。ただそうすると主戦場の包囲網は少々薄くなりますが…」

「それならば第二大隊を四千に増やし、私たち第三は二千としましょう。結界外周の守備小隊もいますので、状況次第で主戦場に援軍を回します」

「そうだな。それがいい」

「もし第三大隊の方で火天に苦戦するようなら、主戦場の様子を見て僕か姉さんが駆けつけて対処します。まずは主戦場の火天を破壊して敵の戦力を大幅に削ぐことが先決なので。そのために、第一第二大隊には最初のうちは魔獣の群れを蹴散らしながらとにかく耐え忍んでもらわなければならず、こちらの戦力は大きく強いに越したことはありません。そこで出陣の直前に僕の天地神煌を迦楼羅に喰えるだけ喰わせておき、静夜に攻撃に役立ててもらいます。…迦楼羅を使うことにまだ抵抗のある同胞もいるかもしれませんが、この点は昨日の演説の中ですでに多数決で了承済みという認識で構いませんよね?」

久遠がぐるりと一座を見渡すと、おもむろに宇内が首肯した。

「無論、問題ない。私が認める」

五礎主たちからも異論は出ない。まだ少しの不安を抱いていた静夜は確認と安堵を得て答えた。

「ありがとうございます。同胞たちを守るため、精一杯戦います」

静夜が煌気を蓄積した迦楼羅を実戦で振るう姿を見たのは永遠だけで、ここにいる者は誰も、久遠さえ見たことがない。しかもそれは森羅聖煌であり、それを超える天地神煌を満たした迦楼羅の真の威力となると未知数だ。煌喰いの魔剣の本領が発揮される様をついにこの目で見ることができるーー老獪で冷静なまなざしの奥にうずくような期待と興味をひそかに忍ばせて、五礎主たちは静夜を見つめていた。



開戦に向け、大門の前の野営地では人間の生活用の天幕や道具がすでに撤去され、代わりに宇内の本営と救護所の天幕が新しく設営されていた。ここにはあらゆる情報や伝達事項が絶えず持ち込まれては集積され、彼方たち補佐官らによって管理されていた。指揮系統の中枢である本営の周囲では戦の支度のための雑多かつ重要な労働にいそしむ人々が昼夜を問わず駆けずり回っていて、東の空の端がかすかに明るみ始める頃、ようやく束の間の静穏に包まれるに過ぎなかった。

残された日数はおよそ一週間。この日もとっくに夕闇が下り、篝火と煌気のランプが各所に焚かれていたが、昼間と変わらず人がせわしなく行き交ったり大門を出入りしたりして本営周辺は活発に動いていた。

多忙を極めるその本営を、静夜は珠鉄の兵団との鍛練を終えたその足でひとり訪れた。

「宇内様。少しよろしいでしょうか」

「静夜殿か」

地図や報告書が山と積まれた卓を彼方を始めとする数人の補佐官と囲んでいた宇内はすぐに振り返った。

「どうかなされたか?」

「実は、折り入ってご相談が。長い話ではありませんが、できれば二人だけで」

「もちろん」

宇内が指示するまでもなく、彼方たちはすでに書類をまとめて引き下がろうとしていた。

「私たちは席を外します」

「うむ。しばし休んでいてくれ」

出口ですれ違う間際、彼方はいたわるような控えめな笑みを静夜にそっと送り、同僚とともに退出していった。

「お忙しいのに申し訳ありません」

「構わない。そろそろ皆に休憩を取らせなければと思っていたところだ」

屈託なく答える宇内の顔を見ると、かつて見たことがないほど疲労の色が濃い。宇内は今や一日の大部分を琥珀の館ではなくここでの情報分析や対策案の協議に費やしていた。ほとんど不眠不休で職務に当たっているに違いない。貴重な時間を割いてもらうことを後ろめたく思いつつ、宇内の悠然として温厚な雰囲気に緊張を解きほぐされて静夜は彼の側に歩み寄った。

宇内は別の小卓の上に置かれていた葡萄酒の壜に手を伸ばした。

「飲みながら話すかい?」

「せっかくですが遠慮します」

「そうか。それは残念だ。常々君とは一度ゆっくり盃を交わしたいと思っていたのだが…それで、相談とは?」

「…はい」

静夜はかすかにうつむき、この数日の間頭の中で繰り返してきた思考を初めて言葉に出した。

「先日の演説で俺は半ば脅すようなやり方で人々の恐怖心に訴え、彼らの戦意を煽りました。一度火がつくともう後戻りはできず、戦が始まれば、敵味方双方に多数の犠牲者が出ることは絶対に避けられません」

「犠牲者が出るどころの話ではない。街道筋の一帯は死体で埋め尽くされるだろう。原礎と人間と魔獣とを問わず」

「俺は卑怯で臆病で弱い人間です。宇内様から言質をいただき、それをもって自身の行いを正当化しようとしているのですから。罪を償いきれないまままた迦楼羅を抜こうとしている今、ただ信頼する誰かの言葉に根拠を見出し、迷いから解放されたい一心なのです」

宇内は静夜の暗に言わんとすることを鋭敏に見抜き、彼の揺れ動く灰色の目の奥に激しい葛藤を見た。

「俺は永遠と真鍮の砦を脱出するとき、もう誰も殺さないと心に誓ったにもかかわらず、義憤に駆られて養父を殺しました。そしてこの戦いで今度は自分と同じ人間を殺そうとしています…そうしなければ恩人や同胞たちを守れないからという建前を振りかざして…」

静夜は震える喉から吐息と声をやっと絞り出すようにして言った。

「宇内様、単刀直入にお訊きします…今回の戦において、俺が再び誓いを破って人を殺すこと、また同胞たちを人間殺しの罪へと突き進ませることは許されると受け止めていいのでしょうか」

「それはまた、私にとってもずいぶん重圧だ」

「…申し訳ありません」

「いや。よいのだ。それが大なり小なり、組織や集団の上に立つ者の宿命なのだから」

静夜は自分がいかに強気な言動で皆を焚きつけたか自覚していた。それに自分は暁良たち五十二名の若者の命を預かる小隊長の立場でもある。それなのに心の深いところにまだ自家中毒のような病巣を抱え、発作のように不安に苛まれてしまう自分が恥ずかしく、とても顔を上げることなどできなかった。

従って彼は宇内が厳しくも優しい表情で彼を見つめていることに気づいていなかった。

「こちらを殺す、あるいは屈服させるつもりで向かってくる相手に対して生半可な躊躇いや手加減はかえって相手の死を遅らせ、いたずらに恐怖や苦痛の時間を長引かせるだけだ。大切なものを守り生き抜くためには時として非情にならなければならない。今回志願した二万人の心の内にもそれぞれの覚悟があるだろう」

静夜はうなずいた。速やかに死を与えることこそ情けであり、最適の方法だという認識は彼の過去の記憶の中にもしっかりと残されている。皮肉なことに。

「四十年前、黄泉への追及を躊躇し足踏みした結果、我々はあまりに大きな犠牲を払った。それが元凶で今君にこれほどまでに深い苦悩を抱かせている。君の決意や覚悟は私が引き受ける。君がこの大森林と同胞たちを守るために命をかけて戦ったことを私たちは絶対に忘れない。過去を隠し書き換えるような愚は二度と犯さない」

「宇内様のお言葉にはいつも心を励まされます…ですが…状況の変化に流されて自分に殺しを許していると、自分がまた血まみれの殺戮人形に戻っていくようで、そんなはずはないとわかっているのに意味もなく恐ろしい気持ちになるのです…」

「…うん」

今にも消え入りそうな声色で苦しげに言葉を紡ぎ、またもやうつむいてしまう。煌狩りや明夜と訣別した今でもなおその古傷と過去の影に静夜はひとり抗い続けているのだ。毅然と立ち振る舞う指導者の顔の彼と、支えがなければ立っていられない繊細な青年の素顔の彼は同じ空が見せる昼と夜のように異なっていながら、その境を危うげに揺れ移ろい、どちらも確かに本当の彼であると教えている。その覚束なさに宇内の心は深く動かされた。

「君は支配者に使役される殺戮人形などではなく、命の重みや死の虚しさも知る生きた戦士だ。大切なものを守る戦いは殺戮とは違い、そこには勇気と決意と誇りがある。そのことを忘れない限り、君は過去の君に逆戻りすることはない。私の言葉を信じて己の支えとしなさい」

宇内の助言を真剣に聞いていた静夜はようやく曇りが取れ和らいだ表情で微笑むことができた。

「はい。絶対に忘れません」

余分な力の抜けたその返答に宇内も満足そうに微笑み、心を開くように話を続けた。

「先ほど四十年前に大きな犠牲を払ったと言ったが、悲痛極まる喪失の中にもまだ残されていたものはあった。久遠と永遠の存在だ」

「天地神煌と森羅聖煌の宿主だからですか?」

「うむ…だが、それだけではない。実は生前、娘の遥と二人の母の刹那は歳が近く、仲のいい友人同士でな。娘と腹の中の孫を一度に亡くした私にとって、その娘の親友が遺した久遠と永遠は実の孫のような存在なのだ。特に久遠は、出来の悪い子ほど可愛いとは言いたくないが、本当に目に入れても痛くないほど可愛い子だった」

そう語る宇内の目尻と眉はいつしか優しい弓形に下がっている。久遠がかつて宇内を師匠でありおじいちゃんでもあると言っていたことを静夜は不意に思い出した。

「皆にはまだ内密だが、私は久遠にはいつの日かこの大森林で私の後を継いで長老になり、永遠とともに皆を束ねていって欲しいと思っている。皆から愛されるあの二人は同胞と大森林にとってかけがえのない宝物だ。だから何としてでも敵の手に渡すわけにはいかないのだ」

それを聞いた瞬間、静夜の胸は冷たくざわりと騒いだ。

(久遠がいずれこの故郷で…長老に…)

宇内の描いて見せた久遠の将来像は可能性と叡智にあふれた偉大な賢者そのものだ。それほど喜ばしく輝かしい未来が久遠には約束されている。それにもかかわらず、静夜の鼓動は低く不穏に鳴り響き続けている。未来はまだ漠然としていて確かな事実は何もないのに。

「久遠を守り抜きたいのは君も同じだろう。どうか私の分も彼を守って戦い抜いてくれ。そして勝利を収めた暁にはぜひとも私の盃を受けてもらいたい」

「…喜んで」

静夜は本営を辞し、物憂い心を抱えて家路についた。その胸の奥底には、久遠にまつわる宇内の言葉が柔らかい内襞を食い破って早くも固く根を下ろし始めていた。
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