静かな夜をさがして

左衛木りん

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第6章 会戦

刹那に過ぎゆく者たちへ

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夜の帳が下りた琥珀の館の最奥部のテラスに篝火が焚かれることはめったにない。

今、宇内と彼方のもとには知らせを受けた十二礎主に、麗、曜、界といった関わりの深い者たちがすでに集まっていて、光陰たち六人を迎え入れた。どの顔にも祝祭の浮かれ気分は欠片ほどもない。成り行きでついてきて琥珀の館に初めて足を踏み入れた耶宵は緊張のあまり永遠の背後に縮こまっていたが、騒ぎを聞きつけて自ら急行してきた兄の暁良の顔を見ると安心して彼の隣に身を寄せた。

全員が揃うと、開口一番、光陰が感謝と謝罪の言葉を述べた。

「宇内様、並びに十二礎主の皆様。夜分にお目通りいただき誠にありがとうございます。まずは長きに渡る無沙汰と突然の訪問を心よりお詫び申し上げます」

宇内がそれを受けて挨拶を返した。

「久しぶりだな、光陰。まさかこんなにも早くまたこの場所でおまえの姿を見るとは思っていなかった。雲居の社の長の務め、ご苦労」

雲居の礎主は当然という表情でうなずいているし、他の礎主たちも顔色ひとつ変えない。光陰の居場所や近況は、長上たちにはどうやら周知の事実だったらしい。

(姉さんも瞬様も、父さんがどこでどうしてるか知ってたんなら教えてくれてもよかったのに…僕に余計な関心や恨みつらみを抱かせないように黙ってたのかな)

ただ光陰が永遠から口止めされていたため、宇内たちも永遠が光陰に匿われて無事でいたことまでは知らなかったというわけだ。久遠と並んで立つ静夜と界も概ね同じ感想と見え、あのときの驚きを思い出してどことなく複雑そうに考え込んでいる。

(まあ、今はその話してる場合じゃないよな…何だろう、父さんの用事って)

改めて父の背中を眺めたとき光陰は宇内に会釈をした。

「先ほど門衛に伝えたとおり、本日は皆様に大至急ご報告しなければならない重要事項があって参りました」

「話してくれ」

「はい。…その前に、まずは皆様にぜひ見ていただきたいものがあります」

そこで光陰は静流の礎主を見てこう言った。

「“彩水さいすいの鏡”をご用意いただけますか」

「すぐに」

静流の礎主は召使いに命じてテラスの中央のテーブルに大きな円形の水盤を運ばせた。磨き上げられた白銅製で満々と水をたたえた一見何の変哲もない普通の水盤だが、これには不思議な力があり、修行を積んだ高位の者であれば自分が目で見た物や光景をこの水面にそのまま映し出すことができるのである。光陰はその場にいる全員をその水盤の周りに集めた。

「黄泉が永久煌炉を復活させたとの話を聞いてからこの朧に偵察用の銀嘴鷲を使わせてひそかに周辺を監視させてきたところ、今朝動きがありました」

皆の表情が固く張り詰める中、光陰が朧を見る。

「朧、頼む」

「はい」

光陰に請われ、それまで慎ましく主の後ろに侍っていた朧はこのとき初めて最前列、輪の中心に進み出た。光陰以外には誰も朧の力量を知らない。だが光陰の信頼を勝ち得、さらには彩水の鏡を操れるというからにはどうやらただ者ではなさそうだ、と誰もが固唾を呑んで見つめる。そんな中朧は静かに瞑目して水盤の上に片手をかざした。すると暗い水面がわずかに震え、さざなみ立ち、揺らめく水紋の網目の中に何かの像を結び始めた。皆一斉に身を乗り出し、それに目を凝らした。

「今日の午前に朧が見た永久煌炉の状況です」

それは山間部の上空を鳥に乗って飛びながら眼下を見下ろしている風景だった。朧の視点からの眺めだ。荒れ果てた山々の狭間に不自然な金色に輝く池のようなものが見えてきて、その周りに何かが雲霞の如くびっしりと群がっていることがわかった。さらに距離が縮まり鳥が旋回して池の周囲がぐるりと見渡されると一同はどよめいた。猛獣に猛禽、爬虫などの無数の魔獣、そして武装した煌人たちと煌狩りの人間の戦士たち。そこに集結していたのは軍備を整え出撃間近の黄泉の大軍勢だった。皆愕然として青ざめ、束の間言葉を失っていたが、ひとり、またひとりと口々に不安と疑問を漏らし始めた。

「黄泉は我々に対し戦を仕掛けるつもりなのか…」

「煌人や煌狩りの人間は俄たちのおかげで多少数を減らしたが、それでもこの大人数とは…」

「…手にした武器は火天でしょうか」

「はっきりとは確認できませんが、明夜が使っていたものと非常によく似ているように見えます」

眉根を寄せてつぶやく礎主のひとりに、火天と刃を交えたことのある静夜が厳しい顔つきで答えた。術を解くよう朧に命じると光陰は言った。

「早ければ軍勢は明日の夜明けにも隊列を整えて出撃するでしょう。黄泉がこれほど大規模な兵力を築き上げ、投じてまで攻撃しようと考える場所は、星の上広しと言えどもそうはありません」

「ここだ。黄泉は大森林を攻め落とす気だ」

宇内のきっぱりとした確言にテラスはしんと静まり返り、しばらく誰も何も言葉を発しなかった。宇内の隣にいた彼方が、皆の心を引き受けるように勇気を振るって尋ねた。

「…それはつまり、ここが…大森林がもうすぐ戦場になるということですか…?」

「…現実はそういうことだ」

それを聞いた全員が遠からず訪れる血生臭い嵐の予感に声と息を呑んだ。篝火がいくつも焚かれ、これだけの大人数が集まっているにもかかわらずテラスの空気は真冬の早朝のように冷え込んでいた。

未だかつて原礎の故郷であるこの地が外部から直接侵攻を受けたことはなく、大森林は黄泉の叛乱以来長年平和を謳歌してきた。戦闘経験の少ない若者や争いを不得手とする礎の者も多い中、この美しい森に苛烈な猛攻が加えられることはもはや避けられない。最悪の事態を想像して久遠はこくんと小さく喉を鳴らした。

(永久煌炉や黒玉の城の攻略に踏み切る前に向こうが仕掛けてくるなんて…ぼやぼやなんてしてられない。後手に回った分対策を急がないと…!)

「…お父様、朧様。重大な情報の速やかな提供に心から感謝します」

永遠は二人に丁寧に会釈をすると、この場にいる者たちの中でもとりわけ小柄な身でありながら、誰よりも毅然と真っ直ぐに顔を上げ、一同に向き直った。

「黄泉の目的は明らかです。狙いは迦楼羅を持つ静夜と天地神煌に目醒めた久遠…この三者が一か所に揃っている今こそ好機だと考えるのが自然でしょう。二人を同時に捕らえ、互いの存在を弱みにして両方を限界まで酷使する気としか思えません」

その言葉に、久遠と静夜、両方の表情が凍りつく。

「僕を狙って…僕がいるがために、大森林や同胞たちが危険にさらされるってこと…?」

「いや、君はもともとこの場所にいる人だ。…俺の方が本来招かれざる客人なんだ」

悪事や戦の誘因としての自分の存在価値を見せつけられた思いで苦渋を浮かべる二人に、永遠は逃れることのできない現実を提示した。

「二人とも落ち着いて聞け。これは二人に責任があるという話ではなく、私はあくまでどんなものも私利私欲のために独占し悪用しようと考える輩がいるということを言ってるんだ。星の上でただひとり天地神煌を宿すおまえは生涯を通じてどこにいても身柄を狙われる危険がある。まして迦楼羅を持つ静夜と一緒なら…何も今回の黄泉に限ったことではない」

久遠と静夜の胸は死神の息吹に当てられたようにさらに冷たくなった。彼方は力とは責任を伴うものだと言ったが、同時にそれは命と尊厳の危機すらも連れてくる。無限の可能性を秘める天地神煌、特異な能力を持つ迦楼羅、そして迦楼羅を唯一操ることのできる静夜ーーこの三者が揃っている場所は世界で最も悪と欲を呼び寄せる場所なのだ。静夜は人知れず拳を固く握りしめた。

(永遠がどんな表現を用いようと、俺が久遠と一緒にいることが災いの元凶だという現実に変わりはない…)

誰かが特別じろじろと二人を見ているわけではなく、皆むしろ二人の心中を気遣って目を合わせないようにしているくらいなのに、なぜかどこからか白い視線と無言の圧力が向けられてくるように感じられ二人は思わずうつむいた。永遠はそんな二人を慰め励ますようにそれぞれの腕を軽く叩いた。

二人が絶句して生じている沈黙の間に俄と瞬がそれぞれの見解を冷静に口にした。

「将来的なことはともかく、今が黄泉としては一挙両得で計画を推し進める絶好の機会だな。いや、原礎の本拠地を滅ぼし私怨を晴らすという意味では三つ、四つもの得があるというわけか」

「しかも反逆と脱退を拒んだより過激で盲信的な煌狩りの戦士たちが付き従っている。大量に量産された火天を与えられて」

彼方が細い顎に手を置いて少し考えた後で言った。

「煌狩りの拠点を二つ潰しておいたのはやはり効果的でした。進軍途上での補給や戦力増強の源を多少なりとも断つことができたのですから」

宇内が光陰に質問した。

「明朝出撃するとして、ここまで何日かかると思う?」

「どのくらい統率が取れているかわかりませんし、部隊によって進軍の速度もまちまちでしょうから断言はできませんが、距離を考慮すると遅くとも十日後には全軍が到達するかと」

(十日後…十日しかないなんて…)

十日後には確実にこの大森林に戦の嵐が吹き荒れる。それまでに今はまだ何も知らない同胞たちを動かし、対策と軍備を進め、黄泉を迎え撃つ態勢を整えなければならない。それを指揮するのが今ここにいる者たちの急務だった。

「四十年前のあの日、大森林は黄泉の邪悪な炎によって蹂躙され、我々は多くの命を失った。今度は大門の中で黄泉に好き放題はさせない。大森林で二度目の惨事を起こしてはならない。皆、持てる力と知恵を結集して事に当たってくれ」

宇内の言葉に、ある者は応と返事をし、またある者は深くうなずき、別の者は黙って一礼する。久遠はどきどきと高鳴る自分の心臓に懸命に言い聞かせた。

(先のことは考えるな…今はこの戦を勝ち残らなければ全部が終わってしまうんだ…。これは静夜や同胞たちや故郷だけじゃない、僕が僕自身を守る戦いだ…!)

隣に立つ静夜を見上げる。先ほどまでの快活さや優しさや熱っぽさはすでにその顔から消え失せ、蒼白で険しい戦士の表情がそれらに取って代わっていた。



宇内と十二礎主と光陰はそのままテラスで緊急の会議を開き、今後の見通しと大筋の方針を話し合った。久遠と静夜を始めとする原礎と人間の若者たちも、情報を共有するため引き続き同席して参加した。会議は夜を徹して続き、ようやく一段落する頃には夜が明けようとしていた。

正午から同胞たちに対して演説を行うことが決まり、それのために再び集まることを申し合わせて、一同はひとまずそれぞれの居所に引き上げることになった。光陰と朧も雲居の社に戻るためテラスを出ていこうとした。雲居の社の者たちは今回の戦に出陣しないものの、監視と偵察の任務を続け、必要があれば大森林に戻れなくなった旅の途中の同胞たちに臨時の避難場所を提供すると約束して。

去り際、その光陰に宇内が声をかけた。

「光陰よ。疲れているとは思うが、この機会に刹那の墓に立ち寄っていかぬか。あのときは黄泉の叛乱の直後ということもあって警戒して大門を閉じていたゆえ、招き入れてやることができず、本当にすまなかったな」

(えっ…)

結局自分に対してひと言もなく帰ろうとする光陰の後ろ姿を目で追っていてそれを聞きつけた久遠ははっとして耳をそばだてる。

「…いえ」

光陰の整った顔が霞をまとうようにうっすらと翳る。珍しく少し当惑しているようだ。

「おまえが改めて再訪してくれるのを私はずっと待っていたのだが…やはりあのように拒まれると、四十年間根に持つのもしかたないだろうか」

「そのようなはずはありません。あのときのような非常の折には当然の措置です。それに私は…自分の意思で出奔した身ですから」

(父さん、本当は一度は母さんのお墓参りをするつもりで来てたのか…)

知らされていなかったとは言え、不甲斐なさと後悔が重たく募る。

(僕は…ほんとに何も知らないで…)

あのとき自分が父にぶつけた、いつ思い出しても嫌な後味のする罵詈雑言を久遠がまた舐めさせられている間、光陰は沈黙してじっと立ち尽くしていた。それで自分はどうすればいいか、と諾々として指図を待つように。

それを極めて消極的な受諾と受け取り、宇内は今度は久遠を見た。

「久遠。それに永遠と静夜殿。光陰が刹那の墓参りをしたいそうだ。三人で案内して差し上げなさい」

「は、はい」

久遠が返事をし、静夜と永遠が歩み寄る。朧には銀嘴鷲のところで少し待つよう言いつけて、光陰は三人と琥珀の館から墓地へ向かった。



星祭りから一夜明けた大森林は、あの歓喜と熱狂が嘘のような静けさと朝靄に包まれていた。

飲食やダンスや催し物はとっくに終わり、大森林は普段の日常に戻ろうとしていた。道は掃き清められているが、よく見ると片方だけの靴や踏みつけられた帽子、使い終わった食器や何かの残骸といったお祭り騒ぎの置き土産が道沿いに押し出され固められていて、なんとか道を開けとりあえず通行だけはできるようにしたという印象だ。

木立の奥や建物群のそこかしこには酔い潰れて座り込んでいる者やまだ肩を組んで調子っ外れな歌を歌っている者たち、対照的に黙々と片づけ作業に励む者たちがいる。戦が近づいているなどとは露ほども疑わず祭りの余韻に浸っている同胞たちの姿を光陰は横目でちらりと眺め、何も言わずにまた視線を前に戻した。久遠は忸怩たる思いに奥歯を噛みしめた。

(僕も、つい昨日の夕方まではお祭り気分で、頭の中は静夜とのことばかりで…なのにまさかこんな事態になるなんて、想像もしなかった…)

永遠が歩きながら低い声で言った。

「昼を過ぎれば皆嫌でも不都合な現実を知ることになる。あと少しだけそっとしておこう。…誰しも生きていくには楽しい、幸せな思い出が必要だから」

「…そうだな」

静夜は昨夕の久遠との満ち足りた時間を思い出し、それを戦う理由、生きる糧にして戦に臨むことを心に誓った。

その後四人はほとんど何も話すことなく刹那たちの眠る墓地にやってきた。祭りのときでも正しい心根を忘れぬ者たちの行いだろう、すべての墓に真新しい同じ花束が分け隔てなく供えられている。その光景は、生者が歓楽に耽り浮かれ騒ぐその陰で、死者に静かに思いを傾け、今こそ敬意と感謝を伝えようとする者がいた証だった。

久遠は光陰を刹那の墓前に導いた。

「…母さん。父さんが来てくれたよ」

四人はそれぞれ手にしていた花束を順に供えた。光陰が正面で膝をつき、三人の若者はその後ろに立って祈りを捧げた。誰も一切口を利かず、ただ朝靄を吹き抜けてきた微風が森の木々の枝葉をさやさやと揺らす軽い音だけが聞こえていた。久遠は手を握り合わせたまま、跪いている光陰の斜め横顔をこっそり窺った。光陰は今、薄く目を開け、唇を固くつぐみ、微動だにせず刹那の墓標を見つめている。

(…父さん、何考えてるんだろう)

自分が捨て、弔いもしなかった妻の墓に、その子供たちに連れてこられ、その目の前で手を合わせる。常人なら責め苦に等しいと思われるが、そもそも妻子を捨てるなどという身勝手で傍若無人な振る舞いができるのはまともな神経や良心を持ち合わせていないからであり、そういう者ならこの状況もさほど苦ではないだろう。久遠は物心ついた頃から自分の父はそういう人だとずっと思ってきた。だが宇内の前で不意に父が見せた動揺の色が久遠のまぶたには強く焼きついていた。拭い去られずに長年こびりついた罪悪感の、いわば亡霊を見たように感じたのだ。それは凝り固まっていた久遠の心をも惑わせていた。

(宇内様…もしかしてそれに気づいてて、父さんの背中を押すために…)

無言ですぐに帰ろうとしたあたり、できれば問題に直面したくなくて避けようとした節さえあったが、宇内の勧めなら光陰と言えどもおいそれと断ることはできない。心残りと気位の高さの板挟みからこのような形で解放されるとは光陰自身も予想していなかっただろう。

そして、確かなことは、風早・オーゼル・刹那という人がそれほどまでに強くこの光陰の心を摑み、揺さぶる女性だったということだ。

永遠と久遠が母親と過ごしたのは今の周や日月と同じ年頃までで、夫婦としての二人のことや結婚する前の話などは何も聞かされていない。今、余分な言葉を排して刹那の墓に向かい合う光陰の脳裏にはもしや、誰も知らないそれらの思い出、あるいは自分の知らない若かりし日の母の優しい面影が行き過ぎているのだろうかと久遠は考えた。

そのうち光陰は祈りと思索に区切りをつけたと見え、立ち上がって小さく溜め息をつくと久遠に尋ねた。

「天地神煌の鍛練と修養は順調か」

「まだ十分じゃないけど…あと十日で、できる限り身につける」

「そうか。精一杯励め。…それから、翡翠の屋根のあの家は今どうなっている?」

「全然変わってないよ。旅に出てた間は管理してくれる人がいたし、姉さんは最近ずっと樹生の礎主のところにいて住んではないけど、代わりにというか、その…今は静夜と一緒に暮らしてる…」

久遠は途端に決まりが悪くなり、だんだん訥々として口ごもった。後ろ暗い覚えもないのに、ましてこの父親に対して気後れする必要などないのに、次の言葉が出てこない。

久遠がついに口をつぐんでしまうと、永遠が何食わぬ顔をして少し身を引いた。

「私は先に戻るよ。正午前にまた会おう。…お父様、私はこれで」

「ああ。案内、感謝する。…必ず生き抜け、永遠」

「はい」

永遠は二人に意味深な微笑みで目配せしてその場から立ち去った。

永遠が自分と久遠に気を遣って離れていってくれたのだとわかると静夜は意を決して光陰に対峙しようと口を開きかけたが、他ならない久遠が彼より先に再び声を発した。半ば勢いに任せるように。

「父さん、実は僕たち、交際してるんだ…それで、ええっと…」

「二人の様子を見ていればわかる。二人とも子供ではないのだから、自分たちのことは自分たちで考えて決めろ。…ああ、静夜くんはともかく、おまえは頭がまだ幼稚で未熟だったな」

「なっ…」

「今日は」

まだそんなこと、とカチンときて思わず噛みつこうとした久遠を光陰はぴしゃりと遮った。

「おまえに話しておきたいことがある」

「僕に?…何?」

「私が大森林を出奔する前、なぜ刹那ときっぱり離縁しなかったのかとおまえが尋ねたとき、私は自分が彼女に別れを告げず、何も話さず黙って家を出たからだと答えたが…あの答えは事実ではない」

「…えっ」

唐突な告白に、久遠はさっと目の色を変えた。静夜は父と子の間でひそかに家族の機微に関わる会話があったことを推し量り、横槍を入れないよう聞く側に回った。久遠は憮然としてつぶやいた。

「どういうこと…?」

「四十四年前のあの日の早朝、赤ん坊のおまえと永遠がまだ眠っているとき、私は流浪の旅に出たいと言って刹那に別れを切り出し、もうここに戻ることはないだろうから離縁して欲しいと告げた。無責任であることは承知していたが、故郷と家庭に収まるより、何物にも縛られず星の上をどこまでも旅したいという雲居の魂の方が勝った。そのためには刹那も自由にしてやらなければと思ったのだ。だが刹那は離縁はしないとはっきりと言った。そして、明るく笑いながら、私はあなたの妻になると誓ったのだからこれからもあなたの妻でいる、ここで子供たちと一緒に家を守りながらあなたを待っているからいつでも帰ってきて、と言って私を送り出した。おそらく二度と帰ってこないとわかっていて」

「母さんが…?…本当に…?」

驚きと意外のあまり、久遠の両目は一対の大粒のエメラルドのように大きく見開かれていた。光陰は眉ひとつ動かさずにただうなずいた。

「本当だ。私にとっても予想外の回答だったが、刹那は私の心変わりと決心に気づいていて、自分の気持ちも、覚悟すらも決めていたのかもしれない。いつか来ると思っていたときが来たと」

「それならそうとありのままに話してくれればよかったのに…なんであのとき、あんな嘘をついたの?」

「意固地になっていたあのときのおまえに話しても混乱させるだけだったし、私ひとりが憎しみと恨みを買い、おまえの中の刹那の心証が夫に捨てられてもけなげに生き抜いた罪のない美しい犠牲者のまま保たれるならそれで構わないと思ったからだ。刹那には何の責任も落ち度もなかったから」

自分が悪者になり、憎しみを抱かせ、離れていくよう仕向けるーー水よりも濃いという血のつながりは天涯孤独の静夜には理解が難しかったが、少なくとも光陰が意図したことは、久遠を遠ざけようとした自分と同じだと思った。

「刹那は籠の外に出ることを自ら拒み、私との操や束縛の内側に留まった。これを男冥利に尽きると言う者もいるだろう。だが刹那の決断は私の雲居の魂をもある意味で縛った。いったい何度雲居の魂を呪い、いったいどれほどこれに打ち克ち折り合いをつけることのできる精神の強靭さが欲しいと願ったことか知れない。私は修行に専念することでこの迷いと葛藤を昇華し克服しようとしたが、代償はあまりに大きかった。…そして、その刹那はもういない」

久遠と静夜は、頂に雲を冠る高峰のように冷徹で近寄り難かった光陰の目の端に生身の苦悩の痕がまざまざと刻まれているのを初めて見た。光陰は短くまた嘆息し、後ろに下がるように半身になった。

「私たち原礎は長寿とは言え有限の命には変わりなく、星の命に比べれば瞬きのように短く儚い。まして誘惑に弱く心身の脆弱な人間は…。道をあざない離れずにいるのは難しく、流れにとらわれ引き離されるのはたやすい。試練の残酷な目はおまえたちの心の隙間や古傷をいついかなるときも虎視眈々と狙っているということを覚えておけ。私から言えるのはそれだけだ。では」

半身からくるりと踵を返し、二人の反応を確かめもせずに光陰はひとり、森の中へ消えていった。

残された久遠と静夜は呆気に取られてしばしその場にぼうっと立っていたが、やがてどちらからともなく顔と顔を見合わせた。

「なあ静夜…今の、どういう意味かわかる?」

「うん…俺が思うに、運命を受け入れながら、運命に支配されないよう自分たちの道を切り拓き、後悔のないよう貫け、ということじゃないかと…」

「それって、僕たちのこと、許してもらえたってこと?」

「…多分」

(ほんと、無責任な上に、偏屈でややこしい人なんだから…)

少し肩をすくめ、久遠は刹那の墓を振り向いて見た。

「ねえ、母さんはどう思う?」

刹那は当然、何も語ったり教えたりしてはくれない。ただ静かにそこにたたずみ、彼らを見守っているだけだった。
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