静かな夜をさがして

左衛木りん

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第6章 会戦

僕たちの帰る場所

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報告会の後、たった数日間休んだだけで静夜たちは三度目の遠征に出ることになった。

大門の前の広場ーー今では“野辺の止まり木”と呼ばれている、例の人間たちの野営地があるところだーーには、装備を整えた隊員たちが集まって雑談をしたり物資の確認をしたりして出立の時を待っていた。

久遠は静夜を見送るため付き添いの永遠と彼方とともに妖精の臥所から駆けつけていた。

「静夜、しっかり休めた?大丈夫?」

久遠が心配そうな目で見上げると、静夜はかすかな笑顔でうなずいた。

「ああ。大丈夫」

静夜の態度が淡白なのは相変わらずだ。だがそのそっけなさの中にも今はしっかりとした結びつきを感じる。

(そうだよな…瞬様と俄様が一緒なんだし、今の静夜なら自分を痛めつけるような真似はしない。信じて待っていよう。帰ってきたら、今の宿舎じゃなくて翡翠の屋根でゆっくり休んでもらえるように、僕もしっかり養生して早く退院しなきゃ)

行程は前回までより少し長く、およそ二週間ということだが、参加する隊員は疲労を考慮してか大幅な入れ替えが行われている。また今回、暁良は静夜の代理として西の新天地へ移転する人間たちの取りまとめと大森林側との協議の役目を任されたため、耶宵とともに見送る側にいた。その兄妹と気やすい雰囲気で話しているのは旅装を整えた曜と界の二人だ。彼らの間にすでに種族の垣根はない。永遠と彼方も静夜に同道する人間の若者たちと屈託なく話しているし、麗は体力がつき道中のちょっとした楽しみにもなる蜂蜜入りのお菓子を配り歩いている。それらの光景に久遠の胸はだんだんと温かく膨らんでいった。

(過去の罪は消えないけど、また新しく築いていくことはできる…人間と原礎、みんなが手を取り合って協力していけば…)

静夜と姉の永遠が命を賭してつないできた一本の糸は今、自分だけではない多くの同胞や人間の若者たちの手に確かに受け継がれていた。

(静夜は本当に原礎の友、人間と原礎をつなぐ架け橋になるのかもしれないな)

仲間たちや周りの様子に目を配っている静夜の横顔を久遠が頼もしさと誇りに満たされてじっと見つめていると、突然賑やかな一団がどやどやと押しかけてきて二人を…ではなく静夜を包囲した。

「…!?」

奇襲に遭って立ちすくむ静夜に一斉に群がったのは、二人とはすっかり顔なじみの、妖精の臥所で働く女性治療師たちだ。

「静夜さん、あれほど入院して治療受けてくださいって言ったのにまた遠征に行くんですか?」

「それが役目なので」

「本来ならしばらく入院しておとなしく療養してもらわないといけない状態なんですよ」

「せっかく以前の特別室を空けてお待ちしてたのに、よりによってまた遠征なんて…!何考えてるんですか!」

「すみません」

治療師たちは不平と責任感を露わに静夜の身体を気遣いながら、名残惜しそうにちゃっかり彼の厚い胸や背中を触っている。出発の直前でなければ即座に連行してベッドに縛りつけそうな鼻息の荒さだ。

「無理は禁物ですからね!?痛み止めの処置は毎日忘れずに!」

「帰還したら真っ先に診察受けに来てくださいね!絶対ですよ!?」

「はい」

嫌とは言わせない勢いと迫力に圧されてたじたじとしながら静夜はあのときと同じ気のない返事であしらっていた。

(人間と原礎関係なく女性にモテるって点でも…)

多少はやきもきさせられつつ、苦笑いで軽く受け流す久遠だった。

関わりのあるさまざまな人々が入れ替わり立ち替わりする中、ようやく俄と瞬が姿を現し、出発の時が高らかに告げられる。

「もう行かないと」

「うん」

淡々とした表情で鞄を肩にかける静夜に、ごまかして考えないようにしていた寂しさが急に込み上げる。

(また少しの間会えないんだな)

「…」

すると久遠の気持ちが伝わったのか、静夜はすぐには歩き出さず、反対に久遠の側に近寄った。

「?」

きょとんと訝しんでいるうちにその腕の中に包まれ、閉じ込められた。頭の端の方に柔らかく温かいものが一瞬そっと触れ、また離れた。

「いってくる」

甘く優しい瞳でそれだけささやくとそれきり静夜は隊列の方にすたすたと歩いていってしまった。

(髪にキスされた…しかも不意打ち…!)

再会してわずか数日。別々の場所で忙しく過ごし、怪我もしている静夜とは、手をつないだり抱き合ったりした以外に恋人らしいことは何ひとつしていない。自制ゆえのもどかしいその距離を突然詰められて嬉しい反面、ぼんやりして気の利いた反応が何もできなかったのが少し悔しくて、久遠は離れたところから大胆な行動に踏み切った。

「静夜ーっ!!」

両掌を口の横に当て、お返しにとばかりに広場の隅々まで響き渡るほどの声量で叫んだ。静夜が驚いて振り向くと、今度は目立つようにわざと子供っぽく、両手をぶんぶん振ったりぴょんぴょん飛び跳ねたりして見せた。

「いってらっしゃーい!!早く帰ってきてねー!!」

呆れた苦笑いや溜め息や冷やかしの声が馬上の静夜に集まる。いきなり注目を浴びた静夜は困り顔にくすぐったそうな笑みを織り混ぜ、軽く手を振って馬を進めていった。

馬や荷馬車の列が粛々と動くのを残された者が見送る光景の中、彼方がゆっくりと歩み寄ってきた。

「しばしのお別れの割には、意外とさっぱりして楽しそうだね」

「彼兄…えへへ」

久遠は肩をすくめて照れ笑いを浮かべて言った。

「同じ道なら、せめて雰囲気だけでも楽しい方がいいに決まってるから」

「それは、静夜くんの力になるためかい?」

「うん。…一緒にはいられなくても、思い出とか印象に残るものがあれば少しは心が軽くなるだろうし、また会えるときが楽しみになるかなと思って」

大切な誰かの力になるーー天地神煌という唯一無二の能力だけでなく、素直に相手と寄り添い合う方法を見つけた久遠の表情は、彼方もこれまで見たことがないほどまぶしく輝いていた。

(久遠の幸せが一番だし、静夜くんのことを妬みはするまいと思ってきたが、こんな顔を見せられると…やはり…)

その無邪気な笑顔をいつまでも自分の手許に置いて見つめていたかった。あの夜のことを思い出し、彼方は心臓を鷲摑みにされるような痛みを堪えて微笑んだ。

「これでもう、私の家に転がり込んでくることはないね」

「うん。…いや、待って。静夜と喧嘩したらまた転がり込みに行くかも」

「喧嘩は駄目だよ。ちゃんと話し合って仲良くしなさい」

「冗談、冗談だって!わかってるよ。…ふふっ」

そうして二人が談笑していると、お菓子のバスケットを抱えた麗がいそいそとやってきた。

「やだわ、あたしったら、張り切りすぎてお菓子作りすぎちゃったみたいなの。見て、こんなにいっぱい余っちゃった」

麗が差し出したバスケットを覗き込むと、そこには数種類の焼き菓子や飴がどっさりと残されていた。

「ほんとだ。おいしそう!」

「ねえ、今から彼方ちゃんの家でみんなでお茶会しない?永遠ちゃんも誘って…あれっ?永遠ちゃんは?」

「姉さん?姉さんならさっきまでそこに…彼兄、一緒じゃなかったっけ?」

「永遠なら先頭の静夜くんたちを見送った後すぐ中に戻ったよ。樹生の礎主と話したいことがあると言って」

「そっか」

(姉さんは超がつくほど真面目だから、きっと僕に遅れを取らないよう早く森羅聖煌を回復させてこっそり修行に励む気なんだ。僕も静夜が帰ってくるまで頑張らなきゃ!)

「あー…でも今日だけは久しぶりに麗さんの手作りお菓子食べたい!それに彼兄の家でお茶会したい!ねえ、いいでしょ、彼兄」

「いいけど、遊び歩いていると誤解されないように短時間だけだよ」

「はーい。やったぁ!」

彼方と麗の間に挟まり二人と腕組みしながら久遠はうきうきと、そしてゆっくりとした足取りで大門の中に戻っていった。



北東地域の荒涼として住む者もいない山間部に永久煌炉は巨大な口をあんぐりと開け、その内側になみなみとたたえた金色の流動体を沸騰した鍋のように盛んにたぎらせている。その中身の正体はかつて静夜と迦楼羅によって採煌され、黒玉の城に溜め込まれていた煌気だ。そして今ここに煌気が新たに注ぎ足されようとしていた。

「や…やめろ!!助けてくれ…!!」

見事な巨躯の煌人二人に両脇を固められて、ひとりの原礎の男が引き立てられてくる。哀れな罪人か奴隷、あるいは生贄のように。

実験設備や装置のずらりと並ぶ煌炉の反対側の縁に立った黄泉は無表情でこう命じた。

「放り込め」

間髪入れず二人の煌人は恐怖にがたがた震えている原礎の男を、まるでいらなくなった人形を捨てるように無造作に足許へぽいと投げ飛ばした。

「うわああああああーっ!!」

男は血も凍るような悲鳴を上げて煌気の輝く海に飲み込まれ消えた。と、煌気の海はドクンと大きく波打ち、輝きをぎらりと増した後、元どおりに鎮まった。見たところ、特別な変化は見られない。

「ふん…やはり並の原礎ひとりではこんなものか」

物足りず、つまらなさそうにつぶやく黄泉の邪な思考の中には長らくひとつの策略が執念深く根を下ろしていた。

その身ひとつで即座にすべてを可能にする、この世に二人といない存在を手中に収めることだ。それによって永久煌炉を完璧な動力源に進化させ、静夜と迦楼羅を意のままに操って原礎の淘汰をも加速させることができるのだ。

(あのときそうと気づいていれば絶対に逃さなかったものを…再び、そう、次はが標的だ…!)

顔を上げて周囲を見渡すと、永久煌炉の縁をぐるりと取り囲んで数えきれないほどの魔獣と彼に忠実な煌人の戦士たちが居並んでいる。

つい先ほどまで露骨に不満げだった黄泉の面には、今は不敵な、愉快げとさえ言える笑みが浮かんでいた。



静夜たち遠征隊が出発してすぐ、久遠は早々と妖精の臥所を退院し、翡翠の屋根の自宅に戻った。もともと大怪我を負っているわけでも、永遠のように著しく煌気を消耗しているわけでもなかったので、久遠としても願ったり叶ったりといった久々の帰宅だった。樹上の家は四季の手による管理が行き届いていたが、永遠が出入りや寝起きをしている形跡はほとんどなかった。永遠は普段樹生の礎主のところに入り浸って修行し、夜は野辺の止まり木の耶宵の天幕で休む生活だと聞いていたので、久遠は一応それで納得していた。

(前は家に帰って僕の料理が食べたいって言ってたのに、やっぱり女の子同士の方が居心地がいいのかな。それかよっぽど耶宵さんの料理がおいしいのか…一度耶宵さんと料理の話してみたいな。静夜の好物とか人間の食べるものとか、いろいろ訊きたいし)

のんびりとそんなことを考えながら久遠は久しぶりに自宅の窯に火を入れてパンを焼き、自分のためだけの食事を作った。静夜にまた手料理を振る舞い、二人で食卓を囲む日が待ち遠しかった。

永遠はその後もずっと帰宅しなかった。耶宵に話を聞きに行くと少し前から樹生の礎主の居所に泊まり込んでいるらしく、そこを訪問して姉に会おうとすると、当面ひとりでこもって修行に集中したいということで結局会えずじまいだった。姉の本気を感じた久遠は姉を煩わせないようしばらく黙って見守ることにした。従って久遠は以前のようにまた翡翠の屋根でひとりで暮らすことになったが、永遠の心配をすることもなく、恋しい静夜の帰りを待つ生活はこれまでとはまったく違う、心浮き立つようでいて切なく胸のかき乱れるような初めての時間だった。

心配事や劣等感から解放されても久遠は慢心せず、自分自身の向上に努めることを忘れなかった。瞬が留守にしている緑柱の苑の静かな環境で心置きなく修行や瞑想に励み、疑問や知識欲が湧いたときは宇内や彼方がいて書庫もある琥珀の館を訪れ、時間がある限り四つ葉の学び舎にも通って今までどおりの保育の仕事に精を出した。

この日も久遠は芝生で子供たちに囲まれ…もとい、埋もれていた。

「…うう、暑い…重い…苦しいぃ…」

甘えん坊の周を胡座に乗せて遊ばせていたところ、他の四人も誘われるように集まってきて、背中に覆い被さったり膝にじゃれついたりと容赦のない攻撃を受けるはめになったのである。

「そろそろ誰か離れてくれない?でないと僕、潰れちゃうよ…」

「周、はやく久ぅ兄のおひざ、あたちにかわってよ!」

「やぁ!まだ周のばん!」

「ちょっ…やめ…」

「じゃあはんぶんこ!こっちがわあけて!」

「んんんんー!」

悲痛な抗議もどこ吹く風で、子供たちは久遠の膝を奪い合って押し合いへし合い、ぎゅうぎゅうの団子状態になる。その様子を眺めていた四季が微笑ましそうに目尻を下げた。

「あらあら、まあまあ。みんな、久遠くんのこと本当に好きなのね」

「でも、久遠様は修行でお疲れなのに…久遠様、ここは私たちに任せてもっと休んでくださって大丈夫なんですよ」

「平気平気。これも僕の仕事だから」

子供たちのじゃれつきは今に始まったことではないが、このところ久遠は旅や入院で不在がちだったのでその分子供たちの甘えん坊の度合いは一段と増しているようだった。

(…でも、これだけ吸引力があれば四季さんと未来ちゃんの負担が減るからな。これくらい別に何とも…) 

次の瞬間朔の全体重が背骨にのしかかってきて悶絶した。

「…ううううっ!!…こら、朔、やめなさい!腰が折れちゃうだろ!」

「だって、おひざ、あいてないもん!」

わあわあ大騒ぎをする団子の中、日月だけはひとりおとなしく久遠の腕にぴたりとくっついていた。

「ねえ久ぅ兄、静兄、またいそがしいの?おしごと、たいへんなの?」

「…ん?ああ、そうなんだ。静夜にはどうしてもやらなきゃいけない大事な仕事があってな。今それを頑張ってるんだよ」

日月に静夜は忙しくて来られないと言うのはこれで二度目だが、そう言い聞かせる久遠の声も表情も、互いに背を向けていたあのときとはまったく違う色合いだ。それを察した四季と未来は安堵の笑顔を交わしている。

「…」

だが静夜を慕っている日月は今度もしょぼんとして寂しそうだ。その気持ちは誰よりもよく理解できたので、久遠はその小さな頭をとびきり優しく撫でてやった。

「でも、静夜も日月に会いたいって言ってたから、帰ってきたらすぐ連れてきてやるよ。それまでいい子にして待ってような?」

「うん!」

ふと気づくと、子供たちはいつの間にか落ち着いて久遠にしなだれかかり、思い思いに歌を歌ったりおしゃべりしたりしていた。

「ねーえ、、もうすぐだねぇ」

「ことしはどんなことがあるかなぁ?」

「たのしみだね!」

(今年ももうそんな季節か…去年の今頃は、まさかこんな一年になるとは思いもしなかったな…)

日月の温かく柔らかい身体をぽんぽんと叩きながらぼうっと見下ろす視線の先には、この学び舎の代名詞でもある、咲き乱れる白詰草と四つ葉の絨毯が。

「…」

だんだんと心地良く緩んでいく久遠の意識の中には、いつしかひとつの美しい幻が結ばれていくのだった。



予定よりも少し早く静夜たち遠征隊は無事に帰還した。

通例どおり昼下がりの琥珀の館に早馬の伝令から帰還の知らせがもたらされたとき、偶然宇内のもとに居合わせてそれを聞いた久遠は、まだ少し早いにもかかわらず大門の外にすっ飛んでいって野辺の止まり木をうろうろしながらそのときを今か今かと待ち構えていた。やがて辺りが熟れきった橙のような濃密な暮色に沈み始める頃、俄の率いる隊列の影が夕霞に煙る森の道の奥から現れた。

「お帰りなさい!よくぞご無事で!」

「お疲れ様!」

喜ばしげに出迎える同胞や人間たちの人垣から抜け出してきょろきょろしていると、続々と到着し集結する隊員たちの馬や荷馬車の間にすぐさま目当ての人の姿を見つけた。

「静夜!!」

ちょうど下馬したばかりの静夜に駆け寄り、驚く彼の胸に飛び込もうとしたが、本人に両肩を摑まれ止められる。久遠は彼の怪我のことをうっかり忘れていた。

「あっ…ごめん!」

「違う。汗臭くて埃っぽいから」

「そんなことない」

久遠は静夜の硬く乾いた大きな手を自分の手にそっと包み込んだ。

「お帰り。今回もお疲れ様」

「…ただいま」

少しはにかんだように笑うその顔は出発前よりもさらに体力を消耗しているだけでなく、何らかの理由による精神的疲労を浮き彫りにしていて、否応なしに不安を煽る。

(…何かあったのかな)

だが今ここで詳しい話を聞くのは難しそうだ。久遠は気を取り直し、からっと元気良く尋ねた。

「うちに来る?すぐ夕食作るし、泊まってもらえるけど」

「行きたいのは山々なんだが、この後全員帰着して中に入ったら確認と点呼と解散があるし、その後すぐに宇内様に報告しなければならないことがあって、かなり遅くなると思う。今夜は宿舎に帰るよ」

「…そっか」

期待が一気に萎んで、日月と同じように肩を落としそうになったが、多忙と疲労を極める静夜の手前、久遠は明るく笑った。

「わかった。翡翠の屋根にはいつでも来てくれ。もし僕がいなくても勝手に上がってくつろいでくれてていいから」

「ありがとう。待っていてくれたのに本当にすまない。明日の朝、報告会でまた会おう」

別れ際優しく頭を撫でてくれたのも束の間、さっと踵を返し俄と瞬に近づいていくその背中はすでに厳しく近寄り難い雰囲気だった。どうやら今回の遠征で得られたのは前回までとは違う結果、あるいは事実のようだった。

(気にはなるけど、きっと明日の報告会に参加すれば全部わかる。あとは静夜の予定と気分に任せよう)

俄たちと真剣に話し込んでいる静夜の目立つ背の高い後ろ姿を確かめると、久遠はひとまず自宅に戻った。



大森林から西に少し離れた丘陵地に、原礎たちの故郷と人間世界の境界、海と陸が混ざり合う渚の如く、大いなる森の裾からにじみ出す礎の恵みにひたひたと浴する豊かな土地がある。ここでは野辺の止まり木から移転することになっている人間の若者たちが自らの定住の地を築き上げるため、原礎の助けを借りて新規開墾の事業に営々と精を出していた。大森林の西方に位置するため、この土地は“日向ひむかいの巣”と名づけられていた。

静夜がこの土地を訪れるのは今日が初めてだった。帰還の翌日の昼過ぎ、馬に乗った静夜が開通したばかりの仮の街道を通って現れると、野良仕事に汗を流していた若者たちが作業の手を止めて次々と駆け寄った。

「静夜さん、来てくださったんですか?」

「ああ。うまくいってるか心配だったが、皆元気そうだな」

「やることが山のようにあって大変ですけど、原礎の皆さんが丁寧に指導してくれるおかげで毎日すごく充実してますよ」

「そうか。それならよかった。だが無理はするなよ」

「はい!」

まだ道半ばではあるものの、本来の人間らしく労働の喜びと未来への希望に生き生きと目を輝かせている若者たちの姿に、静夜の胸も自然とぬくもりに満たされた。

かつての部下に声をかけながら開墾途中の耕作予定地や仮住まいの集落を見て歩いていると、泥だらけの若者たちにあれこれと指示を与えている暁良を見つけた。暁良も静夜に気づいて慌ててやってきた。彼にしては珍しく目を丸くしてひどく驚いている。

「静夜さん、もう来られたんですか?あの後妖精の臥所には行かれたんですよね?」

あの、というのは今朝一番に開かれた報告会のことだ。静夜は溜め息をついてうなずいた。

「診察ならちゃんと受けてきたよ。経過は順調だ。だが治療師たちは人間の身体にずいぶん関心があるらしくて、なかなか帰してもらえそうになかったから適当なところで抜け出してきた」

「いや…それは違う気が…」

完全に勘違いをしている静夜に苦笑いする暁良だった。

二人は少しの間敷地内を見て歩きながら開墾の現状と今後について意見を交わした。

「…煌狩りとして生きると決めてた自分が、まさか原礎の故郷のすぐ隣に人間の村を切り拓くことになるとは思いもよりませんでした」

真っ直ぐに目を上げ、懐古の情と新しい日々への展望を込めて開墾途中の荒々しい風景を見渡す暁良に対し、静夜は少しうつむいた。

「おまえにはいつも責任と負担の重い役目を押しつけてしまって申し訳ない。真鍮の砦に残ったときも、瑪瑙の窟でも」

「静夜さんに信頼していただいてる証拠ですから」

曇りもなく温かい暁良のまなざしから静夜はまた目をそらしてしまう。

「それに耶宵や他の多くの者たちまで、俺たちの計画に巻き込み、振り回してしまっている…今の仕事や生き方は本当に皆が望んでいるものなのだろうか。…ときどき無性に不安になるんだ」

「私も耶宵も他のみんなも、真実に目を開き、新しい道に踏み出すことができて感謝してます。原礎たちが辛抱強く親切に面倒を見てくれるのも静夜さんが道を示してくださったおかげですよ。今だから言えることですが、もしあの世界にずっといたらいずれにせよ未来はなかったのでは、と…」

「…そう言ってもらえると嬉しいが、その言葉に安心してますますおまえに頼ってしまいそうだ。皆から話をよく聞いて、不満や至らない点があればいつでも忌憚なく言って欲しい」

「わかりました」

静夜はようやくほっと気持ちがほぐれて表情を緩ませた。

敷地内をひととおり回って戻ってきたとき暁良は今朝から気になっていたことについて口にした。

「…静夜さん、なんですが」

「…ああ」

静夜の凛々しい眉がわずかに険しく尖る。

「人選はもう済んだんですか?」

「すでに手配してきた。急なことで申し訳なかったが、今頃支度してくれてると思う」

「えっ、もう?」

暁良は思わず瞠目して静夜の横顔をまじまじと見た。

(仕事が速すぎる…この短時間によくそれだけ…)

昨日の夕方遠征から戻ったばかりで、朝一番から報告会、その後に受診、そして必要な人員の手配に開墾地の視察と静夜は激務続きだ。遠征だけを見ても、人間より身体が強い原礎でさえ入れ替えがされたのに、静夜は合間に数日の休みを挟んだだけで毎回帯同している。その顔は以前に比べると肉が落ち、血色もあまり良くない。睡眠も休息も十分でないことは誰の目にも明らかだった。

「さすがに詰め込みすぎですよ、静夜さん。久遠さんも心配してましたし、急ぎでない仕事は断ってください。次の遠征は未定なんですよね?」

「ああ…確かにそうだが、実は珠鉄の各兵団から剣術指南の依頼が来てるんだ。曜さんにはずっと再試合を申し込まれてるし、四つ葉の学び舎の子供たちもぜひ遊びに来て欲しいと…」

想像しただけで眩暈が襲い、足許がふらつく。

「早く行きたいが…さすがに疲れが来てるか…」

両目の間をつまんでまた溜め息をつく静夜の腕に手を添えて暁良は気遣わしげに言った。

「大丈夫ですか?あそこの小屋で少し休みましょう」

「いや、いい…そろそろ大森林に帰るよ」

「それなら、私が馬を引いてお供します」

「大丈夫…ひとりで帰れるから…それじゃ」

生気の乏しい微笑をかろうじて残し、付き添おうとした暁良を弱々しく制して静夜はひとりで歩き出す。

(早く帰りたい…翡翠の屋根に…そして…)

久遠に会いたいーーただその一心で。



静夜は野辺の止まり木に帰り着くと、耶宵に馬を預け、だが彼女と話す気力もなく大門の中に入った。何も考えず、脇目も振らず翡翠の屋根を目指して歩いていると、道すがら行き遭った原礎たちが次々と彼に注目した。

「…あっ、静夜さん!」

「見て見て、静夜さんよ!」

「静夜様ーっ!…あーあ、行っちゃった」

彼に気づいて反応するのは必ずと言っていいほど女性ばかりだ。最近特に女性たちからじっと見られたり声をかけられたりすることが増えていたが、そんなことはどうでもよく、むしろ放っておいて欲しかった。石を投げたり罵倒したり、今まであれほど大罪人、悪魔、原礎殺しと目の敵にしてきたのに、自分の何を見てそんなふうにもてはやすのだろう。何百人、何千人に賞賛されたところでたったひとりの恋しい人に見つめてもらえなければ何の意味もないのだ。

木漏れ陽の降り注ぐ緑の森の美しい小径をとぼとぼと歩き続け、やっと翡翠の屋根にたどり着いたとき、彼の足取りはふらふらで今にももつれそうだった。背中の迦楼羅もかつて感じたことがないほどひどく重い。

それでもなんとか樹上の家を抱くあの古い大木の足許までやってきた。久遠が言っていたとおり、縄梯子は家人と静夜を歓迎するように下ろされていた。

(あのときと違って、ここには久遠が戻ってきてる…それにもう無言で俺を拒むことはないんだ…)

素朴な喜びに知らず知らず頬が持ち上がる。静夜は迷うことなく横木を摑んで梯子を上ろうとした。しかし樹上へと先走る気持ちとは裏腹に、膝は地面へ引き戻されるように頑なに上がらなかった。意識はだんだん朦朧としてきて、彼はとっさに迦楼羅を下ろし胸に抱えて座り込んだ。そして深々と息を吐いたきり、もう何も考えられなくなった。
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