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第4章 群像
活路
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子供たちの訪問から一週間が過ぎた頃、日常生活にほぼ支障のなくなった静夜は永遠より先に妖精の臥所を退院し、その後ある人のもとに身を寄せていた。彼は形式上は今もまだ罪人の扱いであるため、宿舎で単独生活することが認められず、身元を引き受け監視する者と共同生活をすることが必要だった。
「本当に俺の身元引受人になってもらってよかったんですか、麗さん」
ひと仕事を終えて小屋に戻るなり振り向いてそう尋ねた静夜に、麗は麦藁帽子や手袋を外しながら答えた。
「当たり前じゃない。あたし、迷子の蜜蜂みたいに行き場所をなくして途方に暮れてる子はほっとけないたちなの」
「でも、ご迷惑なのでは…」
「何言ってるのよ、水臭いわね。困ったときは助け合いの精神よ。こうして作業を手伝ってもらってあたしも助かってるし。いつまででもいてちょうだいな」
「…ありがとうございます」
静夜が申し訳なさそうに礼を言うと、麗はどっしりと構えた屈託のない微笑みをにっこりと浮かべた。
今静夜は麗のところに厄介になっている礼に、咲野の生業である花卉栽培や養蜂の仕事を手伝っている。負傷した背中への負担にならない範囲で身体を動かし、居場所と役割を持つことで心に張り合いが生まれ前向きになるようにとの麗の配慮からだった。調子のいい日には養生のため麗に鍛練に付き合ってもらい、書庫での調べ物や永遠との面会にも通うなど、意外に充実した日々を送っていた。
ただ大森林内での彼への風当たりは依然強く、久遠との仲も相変わらず疎遠だった。静夜の退院後の身元引受先が再び問題になったとき、今回も久遠はやはり手を挙げなかった。静夜も自分から久遠に頼むこともできず、結局麗に白羽の矢が当たったのだった。
麗も二人を隔てる正体不明のよそよそしい空気に気づいていて、少なからず気を遣ってくれているようだった。
(…本当に申し訳ないな。麗さんにはしっかり恩返しをしないと)
「麗さん、他にすることはありませんか?俺はまだ動けそうなので」
「え?今日はもう十分よ。無理は禁物」
「でも…」
静夜がなかなか引き下がりそうにないのを感じた麗は少し考えた末、こう持ちかけた。
「じゃあ、まだ元気が余ってるなら、気分転換にお散歩に付き合ってくれない?緑とお花の綺麗なとっておきのお散歩道、教えてあげるわ」
「はい」
そこで麗は静夜をご自慢の秘密の散歩道に案内した。色とりどりの花畑やそよ風の吹き抜ける木立、青く清冽な泉、そしておとぎの世界へ誘われそうな神秘的な小径。けして雄大で壮観ではないが、箱に鍵をかけて大切に閉じ込めたくなるようなそれらの風景は静夜の心を魅了し、癒した。
「最後に、静夜ちゃんにどうしても見てもらいたい場所があるの」
そう言って麗が静夜を連れてきたのは、美しいが人気のない薄暗い森だった。
「ここは…?」
「ここは薄暮の森。…そしてあれが、誓いの繭よ」
(誓いの…繭…)
二人は木々に抱かれるように鎮座する、小さな家ほどもある巨大な純白の繭玉の前にやってきた。それはほんのりと白っぽい光を帯びていたが、まるで眠っているようにひっそりとして活力がない。正面には四人の衛士が立って警備に当たっていた。
「静夜ちゃん、憶えてる?あの日の宇内様のお話」
「はい。もちろんです…ここに黄泉が遥さんを無理矢理連れ込んで契りを結ぼうとしたんですよね」
「ええ。本来なら昼夜と季節問わず煌々と光り輝いてるんだけど、あの日から四十年間ここは宇内様のご命令で閉ざされたまま、みんなは別の場所で仮の儀式を行ってきたわ。いつかまたここが復活して開かれる日が来たらいいけど…」
麗は昔を懐かしんでそうつぶやき、泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔を静夜に向けた。
「守りたいものがあるのに、生きたくても生きられなかった人がここには大勢いるの。だから自分で自分を追いつめたりしないで、死んでもいいなんて思わないで、生きてちょうだい。みんな本当は誰にも死んで欲しくなんかないのよ。ただうまく言えないだけなの」
「…それが家族や友人を殺した冷酷無比な殺し屋でもですか」
「全然憎くないと言えば嘘になるわ。でも、その人が心の底から悔やんで悔やんで、苦しんで苦しみ抜いて、自分の命まで捨てて償おうとしてる姿を目の前で見るのは、やっぱりつらいもの」
「…そうでしょうか」
「そうよ。少なくともあたしはそう。みんなもきっと今頃心の中で考えて、悩んで、戦ってるわ。だから静夜ちゃんも、頑張って生きてちょうだいね」
「…」
即座にはいと返答するのはいかにも安直で軽薄な気がして静夜は口をつぐんだ。そんな彼の心中を見通しているかのように、麗は温かなまなざしを彼に送っていた。
その数日後、静夜は麗に教えてもらった別のある場所に向かってひとりで森の中の道を歩いていた。
そのときどこからともなく小石が飛んできて、彼の肩に当たった。
「ーー原礎殺し!」
「この悪党!血みどろの悪魔!」
「今すぐ大森林から出ていけ!」
木々の陰からさらにいくつもの石をぶつけられる。彼は一瞥もせずそのまま歩き続けたが、そのうちの一個が彼の頭目がけて投げつけられたとき、耳の前でその石を手に摑み取り、何も言わず、投げた者の顔をただじっと見た。
石を投げた者たちは矢で射抜くような凄みのあるその瞳に威圧されて震え上がり、泡を食って一目散に走り去っていった。
(これが俺の選んだいばらの道だ)
静夜は握った石を投げ捨てて再び歩き出した。
彼がやってきたのは四十年前の戦いで命を落とした原礎たちが葬られている墓地だった。旧潭月の郷の集団墓地を思い出させる、豊かな緑に囲まれた美しい場所である。ここには永遠と久遠の母の刹那と、奥まった小さな空き地に宇内の娘の遥の墓もあった。
静夜は最初に遥の、それから刹那の墓に花を手向けた。自分が彼女たちを死に至らしめた男の操り人形であったことは今は脇に置いた。そして、以前の自分が死なせて埋葬し、今は墓参をすることができない原礎たちの分まで深く祈りを捧げた。
(…刹那さん、遥さん。俺は謂れのない死と悲しみを増やしました。それなのに俺自身はまだ生きています。こんな俺でもまだ生きていていいのでしょうか…何の目的のために…誰を守るために…)
彼が始め守りたいと思ったのは永遠だった。だがその永遠を救い出したまさに今、彼女と新しい道を歩き始めているはずの今、どういうわけか彼は何の喜びも希望も感じられずにいた。永遠は自分に笑いかけ、故郷で守られて活力を取り戻そうとしているのに、それは今の自分の心の最も単純な部分が一番に望むものではけしてなかった。たったひとつのものが欠けるだけで、自分を取り巻く世界はこれほどまでに色彩と輝きを失ってしまうのだ。考えるのは、記憶を失い、永遠と離れていた間のことばかりだった。
(あの頃の方が幸せだったなんて…永遠には口が裂けても言えない)
何を、どこで、どう間違ってしまったのか。そう考えることすらひどく億劫で重荷に感じられ、静夜は疲れたように額に手を当てた。
(…もう戻ろう)
立ち上がり、刹那の墓の前を離れた。
真っ直ぐに外の道へ出ようとすると、意外な人とばったり出くわしてどきりとした。
「…久遠」
「静夜…」
久遠が胸に小さな花束を抱いて立っていた。
「静夜…どうして、ここに…?」
「遥さんと刹那さんの墓参りに…場所は、麗さんに教えてもらった。どうしても一度、手を合わせたくて」
少し目と唇を広げた久遠の反応で、分をわきまえない行動をしたことにようやく気づく。
「…迷惑だっただろうか」
しかし久遠はゆっくり首を振って否定した。
「ううん…母さんも遥さんも、きっと喜んでると思う…」
その答えに静夜はほっとしたが、二人の間はすぐに気まずい雰囲気になってしまう。
「…ごめん、僕…」
久遠は花束を握りしめて静夜の横を足早にすり抜け、母親の墓の方に歩いていく。静夜はとっさに振り向き、その背中に叫んだ。
「…どうして俺を避けるんだ!?…同胞たちを殺し、君のお姉さんを苦しめた俺を許せない君の気持ちはわかる…でも俺は永遠の恩に報いるために精一杯償おうと…」
「姉さんの…ために…?」
静夜ははっとして言葉を途切らせ息を呑んだ。永遠のためにという建前の裏に無意識に隠してきたものに不意に気づいたのだ。
久遠は悄然とした横顔を少しだけ向け、生気の抜けた声でつぶやいた。
「全部姉さんのため…そうだよね。…姉さんのこと、大切にしてあげて」
「久遠…」
静夜の声に耳を塞ぎ、目を背け、久遠は墓地の奥に歩き去る。
静夜は思わず指先を伸ばしかけ、やめた。数歩追いかければ手が届く距離なのに、腕を摑んでしまったら最後、何もかもが壊れてしまいそうで恐ろしい。
母親の墓の前にしゃがんでいる金髪の小柄な姿から目をそらし、胸の痛みに耐えながら静夜は墓地を後にした。
静夜にまつわる情報の漏洩に端を発した紛糾と混乱は一応の鎮静化を見たが、肝心の迦楼羅の破壊方法の探求と考察は一向に進展せずにいた。そんな中、ある日、宇内が永遠と静夜を始めとする関係者を琥珀の館に召集した。
「今日皆を呼び出したのは」
集まった面々に、前置きなく宇内は話を始めた。
「他でもない、迦楼羅の始末について重要な話があるからだ。と言っても有意義な手がかりが見つかったわけではない。今後の方針について、ある者たちから提案があった。申し出たのは、永遠と」
「俺です」
静夜と永遠が前に進み出た。静夜は白い布に包んだ迦楼羅を背負っている。久遠と界、彼方と麗、そして十二礎主たちは隣に立つ者と怪訝な顔を見合わせた。その中には曜の姿もあった。彼女は今は静夜の過去と笞刑のことを知っていた。
「なぜ私まで呼ばれなければならないんだ…」
曜は渋面をしかめて小声で不平を漏らしている。その曜の前に立ち、隆々とした腕を組んで皮肉剥き出しの言葉を投げかけたのは、彼女の主である俄だった。
「それで、二人からの提案とは?これだけ大騒ぎしておいて、持ち込んだ張本人たちが真っ先に白旗を上げて降参するのだけは勘弁してくれよ」
「もちろん違います。その逆です」
俄と静夜は束の間、冷ややかな目で見つめ合った。二人の関係は、他の礎主たちと同じく刑の執行人と罪人というだけではない。俄は最初に迦楼羅の検分をにべもなく断り、笞刑では静夜をただひとり五回打っている。二人は浅からぬ因縁のある間柄なのだ。
早く話せ、と言うように俄が視線を外すと、静夜は一同を見渡して言った。
「ご承知のとおり俺は迦楼羅を破壊する方法を探るため、永遠に導かれてここ大森林に来ました。知識の集積であるこの地の書庫ならば何らかの手がかりが得られるかもしれないとの一縷の望みに賭け、皆さんのお力をお借りして書庫に収められた書物を丹念に調べてきましたが、残念ながら今のところこれといった成果はありません」
永遠がその後を引き取って続けた。
「確かにここの書庫は蔵書数が豊富ですが、それは一方で対象の母数があまりにも膨大であることも意味します。またそもそも迦楼羅に関する書物がここに所蔵されているかどうかも、本当のところはわかりません。存在するという確証のないものを探し続けるのは、並外れた根気が要り、非常に骨の折れる仕事です。そこで宇内様と静夜と私とで話し合った結果、これ以上この方法に頼り続けることは非現実的だという結論に至りました」
「それはやはり匙を投げたということでは?」
礎主のひとりが木で鼻を括ったように眉をそびやかす。しかし永遠は静夜と同様に落ち着いた真顔で返した。
「いいえ。そうではありません。書庫での調査は継続するとして、同時に別の道を模索してみようということになりました」
「別の道?」
「他に何か可能性が?」
口々に声を上げる出席者に再び静夜が言った。
「まず最初にどうしても会って話してみたい人がいます。その人は例の放火と殺戮の数少ない生存者で、迦楼羅の存在を知っています。…以前俺が一度だけ偶然出会ったとき俺は動揺して冷静さを失い、まともに話を聞くことができませんでした。住まいはわかっていますので、訪問して話を聞いてみようと思います」
「採煌装置を操る博士たちにもわからなかったことを一般の郷人が知っているとは少し考えにくいのでは?その人は刀鍛冶か武器商人か、それとも鉱物学者なのか?」
別の礎主が懐疑的な顔つきで痛いところを突いてくる。他の者たちも概ね同じ印象を持ったらしく、皆不安げなまなざしを注いでくるので、静夜も心もとない気持ちで少しうつむいた。
「確かに…ですが仮に専門家でなくても話を聞く意義はあると思います。もし収穫がなければ…おそらくそうなるだろうと思いますが、明夜に奪われた迦楼羅に関する書物、もしくはその写本を探すつもりです」
麗が質問した。
「ひと言で探すと言っても、いったいどこを探すの?あてというか、目星はついてるの?」
「煌狩りのいくつかの拠点か黄泉の鍛冶場に置かれているかと。…最も確実性が高いのは黄泉の根城である黒玉の城かと思いますが、俺はそこに行ったことがありませんし、敵の懐に飛び込んで探索するのは危険が大きすぎるので避けたいところです」
「特に、迦楼羅を持った静夜くんが乗り込むのは賢明ではありませんね」
「それを言うならどこに乗り込むのも危険だぞ。静夜殿は面が割れていて、しかも今はお尋ね者なのだから」
「ですが俺が行かなければ意味がありません。…ともかく今はあまり先のことは考えず、行動に移すべきだと思っています」
そうは言ったものの、この望み薄き探索の旅の経由地とそこで起きるであろう危難を想像しないわけにはいかず、それは静夜にとって極めて気の重いことだった。捕まることは許されず、そのために可能な限り入念に準備をし、もし見つかればかつての仲間たちに嫌でも刃を向けなければならないからだ。極限まで緊張を強いられる任務になるのは必至だった。
(永遠が一緒に来てくれるのは心強いが…今の俺の状態では、宇内様の仰せつけに従うしか…)
あの人がいったいどんな顔をするだろうと思うと静夜の心はますます安まらなかった。
「それでその旅には誰が一緒に行くのですか?まさか静夜さんひとりで行くつもりではないでしょうね?」
「最初はそのつもりでしたが、三人でよく話し合ってまず永遠が同行してくれることになりました」
静夜が隣にいる永遠を見ると皆の視線も一斉に彼女に集まった。しかし永遠は真正面を見つめたまま、はっきりとよく通る声でこう言った。
「私は行かない」
(…!?)
驚きと戸惑いが波紋のように広がったが、一番意表を突かれたのは静夜本人だった。
「どういうことなんだ、永遠…!こないだ話し合ったときは一緒に来ると言ってくれたのに、なぜ急に…!」
永遠はおもむろに静夜に顔を向けた。
「私も一緒に行きたいのは山々なんだが、実は煌気の回復が思うほど進んでいなくて、治療師から旅はまだしばらく控えるようにと言われてるんだ。足手まといになってもいけないから…すまない」
「…」
たちまちぽつんと放り出されたような心細さに襲われて静夜が黙り込むと、永遠は彼の腕に軽く手を添え、固唾を呑んで見守っている一同に目線を戻した。
「そういうわけなので、私はこの新しい旅の同伴者を辞退します。…その代わり」
永遠の視線の先が動き、久遠を捉えた。
「久遠。おまえに、私の代わりに静夜と一緒に行ってもらいたい」
「え…!?」
先ほどよりも強い、どよめきといってもいいほどの大きな衝撃が走り、その場にいる全員が久遠を見た。何も知らされていなかった静夜も、呆然として大きく目を見開いている。すっかり傍聴者の気分で油断し、突然名指しされた久遠は仰天のあまり目を白黒させた。
「…ね、姉さん、いきなり何言い出すんだよ!?なんで僕が…それこそ足手まといにしかならないじゃないか!!」
「…久遠には酷な言い方ですが、彼の言うとおり、仮に煌気を落としているとしても、彼よりは永遠の方が知識と経験の分だけ静夜さんの役に立てるかと」
「同感だ。今度の旅は以前とは違う。静夜くんは怪我が治りきっておらず、その上お尋ね者だ。危険は多く、望みは少ない…そんな旅に力足らずな久遠を一緒に送り出すなど、正気の沙汰とは思えない」
矢継ぎ早に浴びせられる非情な現実が胸に突き刺さる。あまりの重圧に久遠は逃げ出したくなった。
「みんなの言うとおりだ…役立たずの僕には無理だよ…。だいたい、静夜が記憶を取り戻して姉さんが帰ってきた時点で僕の旅はもうとっくに終わってるんだ。せっかく元の生活に戻れたのに、今更また旅なんて…」
静夜は眉を曇らせじっとうつむいている。久遠も彼と同じことを考えていた。すると永遠が不意に真摯な瞳で血を分けた片割れをひたと見つめた。
「もうひとつの目的を忘れたのか、久遠」
「えっ?」
「真鍮の砦を出て静夜と別れるとき、私は静夜とおまえの二人、両方に希望を託した。おまえもすでに今後の運命を左右するいくつもの大きな力のひとつなんだ。世界の異変の謎を解くという目的が果たされていない以上、おまえもまだこの先を見届けに行くべきだ。どうか私の頼みを聞いて、私の代わりに静夜とともに行ってくれ」
「大きな…力…」
自分のような者が、そんな存在であるはずがないーーどんなに危険でも旅に出たいと思えた以前のような、心に燃え立つ勇気やはやる気持ちというものがまるで生まれず、かと言って言い返す気力もない。だが、宇内や静夜や十二礎主の前でこれ以上尻込みして幼児のようにぐずぐずと渋っているわけにもいかず、議論をまとめるためにもしかたなく首を縦に振るしかなかった。
「…わかったよ…やればいいんでしょ、やれば…」
(久遠…)
静夜は振り向いて宇内の表情を見た。宇内は始まりからひと言も発せず、このときも無言を貫いていた。三人であらかじめ話し合った後、さらに永遠と二人で内密に申し合わせていたと見える。開かれた場で意思決定を急がせれば、久遠も自分もきっと拒否できないと踏んだのだろう。
(…永遠に一杯食わされたな)
永遠は何食わぬ様子で微笑んでいる。二人の仲を修復させるために気を回してくれたのはありがたいが、道中久遠とどう接すればいいかと考えると不安であり、彼を危険にさらす可能性も高いので、やはり少し恨めしい。久遠も同じ気持ちのようで、二人は互いの顔を直視できなかった。
ここまで若者たちに任せて成り行きを見守っていた宇内がそこでようやく口を開いた。
「静夜殿は笞刑による負傷が完治しておらず、本来の力が発揮できない状態だ。久遠もある程度術は使えるが十分ではない。そこでだ。…曜」
「は、はい」
俄の隣で、久遠と同様に完全に傍観者を決め込んでいた曜は虚を突かれて居住まいを正す。
その曜に、厳かに宇内は言った。
「すまないが二人と一緒に行ってやってはくれぬか。苦しい旅になろうかと思うが、どうか二人を助けてやって欲しい」
「わ、私がですか…!?」
曜は素っ頓狂な声を上げた。
「うむ。おまえは経験豊富で腕も立ち、治療の技の心得もあろう。二人にはおまえの力が必要だ」
「し、しかし私には黒鳥兵団副長としての職務が…」
曜の反応は静夜の予想していたとおりのものだった。曜は顔色を変え、礎主になんとか救いを求めようとしたが、俄は助け舟を出すどころか意外にも宇内の援護に回った。
「行ってこい、曜。いずれ静夜と再試合したいのなら、彼が死んでは元も子もないだろう。もし任務を終えて無事に帰ればおまえの評価はうなぎのぼりだぞ」
「…!?」
すかさず永遠がけしかけにかかる。
「私からも頼みます、曜さん。どうか弟のことも守ってやってください。あなたがついていてくださると私も安心です」
「…っ!」
曜は喉許まで出かかった反論の言葉をぐっと呑み込んだ。
「そ、そこまで言われたら断れないじゃないですか…!…わかりました、お引き受けいたします」
「ありがとうございます」
「弟をよろしくお願いします、曜さん」
見事に自尊心をくすぐられてうまく丸め込まれた形になった曜は、静夜と永遠から丁寧に礼を述べられると、何か腑に落ちないものを感じつつも胸を張って鼻の穴を膨らませた。永遠が言った。
「それでは書物の精査は今後は彼方さんと界と私の三人で引き続き進めます。彼方さん、界、それでいいですか?」
「待ってください。ボクも一緒に行きます」
彼方がうなずくのと同時に界が驚く大人たちをかき分けて堂々と前に歩み出た。四人目を想定していなかった永遠と静夜、そして宇内は思わず顔を見合わせた。
「…界、私たちは君をこれ以上巻き込むつもりはないのだが…でも、どうして?」
「だって永遠、静夜と曜さんの組み合わせじゃ筋肉割合高すぎでしょ。技や術なら久遠よりボクの方がきっと力になれるし、少々の危険は怖くも何ともないし。連れてって損はないと思うけど?」
「な…!わ、私だって怖くなんかないし、術だってちゃんと使えるぞ!」
「宇内様、そういうことですから、ボクも同行してよろしいですか?」
いきり立つ曜を無視して界は宇内の返答をじっと待つ。
少し思案をめぐらせた後、宇内が氷雨の礎主の顔を見ると彼はただ一度だけうなずいた。
「よろしい。ただし、おまえはまだ若い。十分に注意を払い、四人で協力し合うように」
「はい」
以前の彼なら想像もできなかったその変わりように礎主たちは時折静夜の顔を見ながらひそひそと何かささやき合っていた。
臨時の会合は終わり、それぞれが思い思いに動き始める。静夜と宇内はまだ立ち話をしている。久遠が指名されたときからずっと憂わしげな目で彼を見つめていた彼方は、ここぞとばかりに彼に近づき話しかけようとした。
「…久遠、君…」
そのとき久遠は頭の中がいっぱいで彼方の声に気づかず、歩み寄ってきた永遠に小声で語気鋭く詰め寄った。
「姉さん、病室に帰ったら話がある」
「…わかってる」
双子は連れ立って立ち去り、彼方はしかたなく足を止めてうなだれる。静夜はそんな双子の背中にちらりと視線を投げかけた。
危険で不確実性の高い新たな旅路を前に、旅立つ四人と後に残される者たちの先行きには早くも暗雲が垂れ込め始めていた。
「本当に俺の身元引受人になってもらってよかったんですか、麗さん」
ひと仕事を終えて小屋に戻るなり振り向いてそう尋ねた静夜に、麗は麦藁帽子や手袋を外しながら答えた。
「当たり前じゃない。あたし、迷子の蜜蜂みたいに行き場所をなくして途方に暮れてる子はほっとけないたちなの」
「でも、ご迷惑なのでは…」
「何言ってるのよ、水臭いわね。困ったときは助け合いの精神よ。こうして作業を手伝ってもらってあたしも助かってるし。いつまででもいてちょうだいな」
「…ありがとうございます」
静夜が申し訳なさそうに礼を言うと、麗はどっしりと構えた屈託のない微笑みをにっこりと浮かべた。
今静夜は麗のところに厄介になっている礼に、咲野の生業である花卉栽培や養蜂の仕事を手伝っている。負傷した背中への負担にならない範囲で身体を動かし、居場所と役割を持つことで心に張り合いが生まれ前向きになるようにとの麗の配慮からだった。調子のいい日には養生のため麗に鍛練に付き合ってもらい、書庫での調べ物や永遠との面会にも通うなど、意外に充実した日々を送っていた。
ただ大森林内での彼への風当たりは依然強く、久遠との仲も相変わらず疎遠だった。静夜の退院後の身元引受先が再び問題になったとき、今回も久遠はやはり手を挙げなかった。静夜も自分から久遠に頼むこともできず、結局麗に白羽の矢が当たったのだった。
麗も二人を隔てる正体不明のよそよそしい空気に気づいていて、少なからず気を遣ってくれているようだった。
(…本当に申し訳ないな。麗さんにはしっかり恩返しをしないと)
「麗さん、他にすることはありませんか?俺はまだ動けそうなので」
「え?今日はもう十分よ。無理は禁物」
「でも…」
静夜がなかなか引き下がりそうにないのを感じた麗は少し考えた末、こう持ちかけた。
「じゃあ、まだ元気が余ってるなら、気分転換にお散歩に付き合ってくれない?緑とお花の綺麗なとっておきのお散歩道、教えてあげるわ」
「はい」
そこで麗は静夜をご自慢の秘密の散歩道に案内した。色とりどりの花畑やそよ風の吹き抜ける木立、青く清冽な泉、そしておとぎの世界へ誘われそうな神秘的な小径。けして雄大で壮観ではないが、箱に鍵をかけて大切に閉じ込めたくなるようなそれらの風景は静夜の心を魅了し、癒した。
「最後に、静夜ちゃんにどうしても見てもらいたい場所があるの」
そう言って麗が静夜を連れてきたのは、美しいが人気のない薄暗い森だった。
「ここは…?」
「ここは薄暮の森。…そしてあれが、誓いの繭よ」
(誓いの…繭…)
二人は木々に抱かれるように鎮座する、小さな家ほどもある巨大な純白の繭玉の前にやってきた。それはほんのりと白っぽい光を帯びていたが、まるで眠っているようにひっそりとして活力がない。正面には四人の衛士が立って警備に当たっていた。
「静夜ちゃん、憶えてる?あの日の宇内様のお話」
「はい。もちろんです…ここに黄泉が遥さんを無理矢理連れ込んで契りを結ぼうとしたんですよね」
「ええ。本来なら昼夜と季節問わず煌々と光り輝いてるんだけど、あの日から四十年間ここは宇内様のご命令で閉ざされたまま、みんなは別の場所で仮の儀式を行ってきたわ。いつかまたここが復活して開かれる日が来たらいいけど…」
麗は昔を懐かしんでそうつぶやき、泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔を静夜に向けた。
「守りたいものがあるのに、生きたくても生きられなかった人がここには大勢いるの。だから自分で自分を追いつめたりしないで、死んでもいいなんて思わないで、生きてちょうだい。みんな本当は誰にも死んで欲しくなんかないのよ。ただうまく言えないだけなの」
「…それが家族や友人を殺した冷酷無比な殺し屋でもですか」
「全然憎くないと言えば嘘になるわ。でも、その人が心の底から悔やんで悔やんで、苦しんで苦しみ抜いて、自分の命まで捨てて償おうとしてる姿を目の前で見るのは、やっぱりつらいもの」
「…そうでしょうか」
「そうよ。少なくともあたしはそう。みんなもきっと今頃心の中で考えて、悩んで、戦ってるわ。だから静夜ちゃんも、頑張って生きてちょうだいね」
「…」
即座にはいと返答するのはいかにも安直で軽薄な気がして静夜は口をつぐんだ。そんな彼の心中を見通しているかのように、麗は温かなまなざしを彼に送っていた。
その数日後、静夜は麗に教えてもらった別のある場所に向かってひとりで森の中の道を歩いていた。
そのときどこからともなく小石が飛んできて、彼の肩に当たった。
「ーー原礎殺し!」
「この悪党!血みどろの悪魔!」
「今すぐ大森林から出ていけ!」
木々の陰からさらにいくつもの石をぶつけられる。彼は一瞥もせずそのまま歩き続けたが、そのうちの一個が彼の頭目がけて投げつけられたとき、耳の前でその石を手に摑み取り、何も言わず、投げた者の顔をただじっと見た。
石を投げた者たちは矢で射抜くような凄みのあるその瞳に威圧されて震え上がり、泡を食って一目散に走り去っていった。
(これが俺の選んだいばらの道だ)
静夜は握った石を投げ捨てて再び歩き出した。
彼がやってきたのは四十年前の戦いで命を落とした原礎たちが葬られている墓地だった。旧潭月の郷の集団墓地を思い出させる、豊かな緑に囲まれた美しい場所である。ここには永遠と久遠の母の刹那と、奥まった小さな空き地に宇内の娘の遥の墓もあった。
静夜は最初に遥の、それから刹那の墓に花を手向けた。自分が彼女たちを死に至らしめた男の操り人形であったことは今は脇に置いた。そして、以前の自分が死なせて埋葬し、今は墓参をすることができない原礎たちの分まで深く祈りを捧げた。
(…刹那さん、遥さん。俺は謂れのない死と悲しみを増やしました。それなのに俺自身はまだ生きています。こんな俺でもまだ生きていていいのでしょうか…何の目的のために…誰を守るために…)
彼が始め守りたいと思ったのは永遠だった。だがその永遠を救い出したまさに今、彼女と新しい道を歩き始めているはずの今、どういうわけか彼は何の喜びも希望も感じられずにいた。永遠は自分に笑いかけ、故郷で守られて活力を取り戻そうとしているのに、それは今の自分の心の最も単純な部分が一番に望むものではけしてなかった。たったひとつのものが欠けるだけで、自分を取り巻く世界はこれほどまでに色彩と輝きを失ってしまうのだ。考えるのは、記憶を失い、永遠と離れていた間のことばかりだった。
(あの頃の方が幸せだったなんて…永遠には口が裂けても言えない)
何を、どこで、どう間違ってしまったのか。そう考えることすらひどく億劫で重荷に感じられ、静夜は疲れたように額に手を当てた。
(…もう戻ろう)
立ち上がり、刹那の墓の前を離れた。
真っ直ぐに外の道へ出ようとすると、意外な人とばったり出くわしてどきりとした。
「…久遠」
「静夜…」
久遠が胸に小さな花束を抱いて立っていた。
「静夜…どうして、ここに…?」
「遥さんと刹那さんの墓参りに…場所は、麗さんに教えてもらった。どうしても一度、手を合わせたくて」
少し目と唇を広げた久遠の反応で、分をわきまえない行動をしたことにようやく気づく。
「…迷惑だっただろうか」
しかし久遠はゆっくり首を振って否定した。
「ううん…母さんも遥さんも、きっと喜んでると思う…」
その答えに静夜はほっとしたが、二人の間はすぐに気まずい雰囲気になってしまう。
「…ごめん、僕…」
久遠は花束を握りしめて静夜の横を足早にすり抜け、母親の墓の方に歩いていく。静夜はとっさに振り向き、その背中に叫んだ。
「…どうして俺を避けるんだ!?…同胞たちを殺し、君のお姉さんを苦しめた俺を許せない君の気持ちはわかる…でも俺は永遠の恩に報いるために精一杯償おうと…」
「姉さんの…ために…?」
静夜ははっとして言葉を途切らせ息を呑んだ。永遠のためにという建前の裏に無意識に隠してきたものに不意に気づいたのだ。
久遠は悄然とした横顔を少しだけ向け、生気の抜けた声でつぶやいた。
「全部姉さんのため…そうだよね。…姉さんのこと、大切にしてあげて」
「久遠…」
静夜の声に耳を塞ぎ、目を背け、久遠は墓地の奥に歩き去る。
静夜は思わず指先を伸ばしかけ、やめた。数歩追いかければ手が届く距離なのに、腕を摑んでしまったら最後、何もかもが壊れてしまいそうで恐ろしい。
母親の墓の前にしゃがんでいる金髪の小柄な姿から目をそらし、胸の痛みに耐えながら静夜は墓地を後にした。
静夜にまつわる情報の漏洩に端を発した紛糾と混乱は一応の鎮静化を見たが、肝心の迦楼羅の破壊方法の探求と考察は一向に進展せずにいた。そんな中、ある日、宇内が永遠と静夜を始めとする関係者を琥珀の館に召集した。
「今日皆を呼び出したのは」
集まった面々に、前置きなく宇内は話を始めた。
「他でもない、迦楼羅の始末について重要な話があるからだ。と言っても有意義な手がかりが見つかったわけではない。今後の方針について、ある者たちから提案があった。申し出たのは、永遠と」
「俺です」
静夜と永遠が前に進み出た。静夜は白い布に包んだ迦楼羅を背負っている。久遠と界、彼方と麗、そして十二礎主たちは隣に立つ者と怪訝な顔を見合わせた。その中には曜の姿もあった。彼女は今は静夜の過去と笞刑のことを知っていた。
「なぜ私まで呼ばれなければならないんだ…」
曜は渋面をしかめて小声で不平を漏らしている。その曜の前に立ち、隆々とした腕を組んで皮肉剥き出しの言葉を投げかけたのは、彼女の主である俄だった。
「それで、二人からの提案とは?これだけ大騒ぎしておいて、持ち込んだ張本人たちが真っ先に白旗を上げて降参するのだけは勘弁してくれよ」
「もちろん違います。その逆です」
俄と静夜は束の間、冷ややかな目で見つめ合った。二人の関係は、他の礎主たちと同じく刑の執行人と罪人というだけではない。俄は最初に迦楼羅の検分をにべもなく断り、笞刑では静夜をただひとり五回打っている。二人は浅からぬ因縁のある間柄なのだ。
早く話せ、と言うように俄が視線を外すと、静夜は一同を見渡して言った。
「ご承知のとおり俺は迦楼羅を破壊する方法を探るため、永遠に導かれてここ大森林に来ました。知識の集積であるこの地の書庫ならば何らかの手がかりが得られるかもしれないとの一縷の望みに賭け、皆さんのお力をお借りして書庫に収められた書物を丹念に調べてきましたが、残念ながら今のところこれといった成果はありません」
永遠がその後を引き取って続けた。
「確かにここの書庫は蔵書数が豊富ですが、それは一方で対象の母数があまりにも膨大であることも意味します。またそもそも迦楼羅に関する書物がここに所蔵されているかどうかも、本当のところはわかりません。存在するという確証のないものを探し続けるのは、並外れた根気が要り、非常に骨の折れる仕事です。そこで宇内様と静夜と私とで話し合った結果、これ以上この方法に頼り続けることは非現実的だという結論に至りました」
「それはやはり匙を投げたということでは?」
礎主のひとりが木で鼻を括ったように眉をそびやかす。しかし永遠は静夜と同様に落ち着いた真顔で返した。
「いいえ。そうではありません。書庫での調査は継続するとして、同時に別の道を模索してみようということになりました」
「別の道?」
「他に何か可能性が?」
口々に声を上げる出席者に再び静夜が言った。
「まず最初にどうしても会って話してみたい人がいます。その人は例の放火と殺戮の数少ない生存者で、迦楼羅の存在を知っています。…以前俺が一度だけ偶然出会ったとき俺は動揺して冷静さを失い、まともに話を聞くことができませんでした。住まいはわかっていますので、訪問して話を聞いてみようと思います」
「採煌装置を操る博士たちにもわからなかったことを一般の郷人が知っているとは少し考えにくいのでは?その人は刀鍛冶か武器商人か、それとも鉱物学者なのか?」
別の礎主が懐疑的な顔つきで痛いところを突いてくる。他の者たちも概ね同じ印象を持ったらしく、皆不安げなまなざしを注いでくるので、静夜も心もとない気持ちで少しうつむいた。
「確かに…ですが仮に専門家でなくても話を聞く意義はあると思います。もし収穫がなければ…おそらくそうなるだろうと思いますが、明夜に奪われた迦楼羅に関する書物、もしくはその写本を探すつもりです」
麗が質問した。
「ひと言で探すと言っても、いったいどこを探すの?あてというか、目星はついてるの?」
「煌狩りのいくつかの拠点か黄泉の鍛冶場に置かれているかと。…最も確実性が高いのは黄泉の根城である黒玉の城かと思いますが、俺はそこに行ったことがありませんし、敵の懐に飛び込んで探索するのは危険が大きすぎるので避けたいところです」
「特に、迦楼羅を持った静夜くんが乗り込むのは賢明ではありませんね」
「それを言うならどこに乗り込むのも危険だぞ。静夜殿は面が割れていて、しかも今はお尋ね者なのだから」
「ですが俺が行かなければ意味がありません。…ともかく今はあまり先のことは考えず、行動に移すべきだと思っています」
そうは言ったものの、この望み薄き探索の旅の経由地とそこで起きるであろう危難を想像しないわけにはいかず、それは静夜にとって極めて気の重いことだった。捕まることは許されず、そのために可能な限り入念に準備をし、もし見つかればかつての仲間たちに嫌でも刃を向けなければならないからだ。極限まで緊張を強いられる任務になるのは必至だった。
(永遠が一緒に来てくれるのは心強いが…今の俺の状態では、宇内様の仰せつけに従うしか…)
あの人がいったいどんな顔をするだろうと思うと静夜の心はますます安まらなかった。
「それでその旅には誰が一緒に行くのですか?まさか静夜さんひとりで行くつもりではないでしょうね?」
「最初はそのつもりでしたが、三人でよく話し合ってまず永遠が同行してくれることになりました」
静夜が隣にいる永遠を見ると皆の視線も一斉に彼女に集まった。しかし永遠は真正面を見つめたまま、はっきりとよく通る声でこう言った。
「私は行かない」
(…!?)
驚きと戸惑いが波紋のように広がったが、一番意表を突かれたのは静夜本人だった。
「どういうことなんだ、永遠…!こないだ話し合ったときは一緒に来ると言ってくれたのに、なぜ急に…!」
永遠はおもむろに静夜に顔を向けた。
「私も一緒に行きたいのは山々なんだが、実は煌気の回復が思うほど進んでいなくて、治療師から旅はまだしばらく控えるようにと言われてるんだ。足手まといになってもいけないから…すまない」
「…」
たちまちぽつんと放り出されたような心細さに襲われて静夜が黙り込むと、永遠は彼の腕に軽く手を添え、固唾を呑んで見守っている一同に目線を戻した。
「そういうわけなので、私はこの新しい旅の同伴者を辞退します。…その代わり」
永遠の視線の先が動き、久遠を捉えた。
「久遠。おまえに、私の代わりに静夜と一緒に行ってもらいたい」
「え…!?」
先ほどよりも強い、どよめきといってもいいほどの大きな衝撃が走り、その場にいる全員が久遠を見た。何も知らされていなかった静夜も、呆然として大きく目を見開いている。すっかり傍聴者の気分で油断し、突然名指しされた久遠は仰天のあまり目を白黒させた。
「…ね、姉さん、いきなり何言い出すんだよ!?なんで僕が…それこそ足手まといにしかならないじゃないか!!」
「…久遠には酷な言い方ですが、彼の言うとおり、仮に煌気を落としているとしても、彼よりは永遠の方が知識と経験の分だけ静夜さんの役に立てるかと」
「同感だ。今度の旅は以前とは違う。静夜くんは怪我が治りきっておらず、その上お尋ね者だ。危険は多く、望みは少ない…そんな旅に力足らずな久遠を一緒に送り出すなど、正気の沙汰とは思えない」
矢継ぎ早に浴びせられる非情な現実が胸に突き刺さる。あまりの重圧に久遠は逃げ出したくなった。
「みんなの言うとおりだ…役立たずの僕には無理だよ…。だいたい、静夜が記憶を取り戻して姉さんが帰ってきた時点で僕の旅はもうとっくに終わってるんだ。せっかく元の生活に戻れたのに、今更また旅なんて…」
静夜は眉を曇らせじっとうつむいている。久遠も彼と同じことを考えていた。すると永遠が不意に真摯な瞳で血を分けた片割れをひたと見つめた。
「もうひとつの目的を忘れたのか、久遠」
「えっ?」
「真鍮の砦を出て静夜と別れるとき、私は静夜とおまえの二人、両方に希望を託した。おまえもすでに今後の運命を左右するいくつもの大きな力のひとつなんだ。世界の異変の謎を解くという目的が果たされていない以上、おまえもまだこの先を見届けに行くべきだ。どうか私の頼みを聞いて、私の代わりに静夜とともに行ってくれ」
「大きな…力…」
自分のような者が、そんな存在であるはずがないーーどんなに危険でも旅に出たいと思えた以前のような、心に燃え立つ勇気やはやる気持ちというものがまるで生まれず、かと言って言い返す気力もない。だが、宇内や静夜や十二礎主の前でこれ以上尻込みして幼児のようにぐずぐずと渋っているわけにもいかず、議論をまとめるためにもしかたなく首を縦に振るしかなかった。
「…わかったよ…やればいいんでしょ、やれば…」
(久遠…)
静夜は振り向いて宇内の表情を見た。宇内は始まりからひと言も発せず、このときも無言を貫いていた。三人であらかじめ話し合った後、さらに永遠と二人で内密に申し合わせていたと見える。開かれた場で意思決定を急がせれば、久遠も自分もきっと拒否できないと踏んだのだろう。
(…永遠に一杯食わされたな)
永遠は何食わぬ様子で微笑んでいる。二人の仲を修復させるために気を回してくれたのはありがたいが、道中久遠とどう接すればいいかと考えると不安であり、彼を危険にさらす可能性も高いので、やはり少し恨めしい。久遠も同じ気持ちのようで、二人は互いの顔を直視できなかった。
ここまで若者たちに任せて成り行きを見守っていた宇内がそこでようやく口を開いた。
「静夜殿は笞刑による負傷が完治しておらず、本来の力が発揮できない状態だ。久遠もある程度術は使えるが十分ではない。そこでだ。…曜」
「は、はい」
俄の隣で、久遠と同様に完全に傍観者を決め込んでいた曜は虚を突かれて居住まいを正す。
その曜に、厳かに宇内は言った。
「すまないが二人と一緒に行ってやってはくれぬか。苦しい旅になろうかと思うが、どうか二人を助けてやって欲しい」
「わ、私がですか…!?」
曜は素っ頓狂な声を上げた。
「うむ。おまえは経験豊富で腕も立ち、治療の技の心得もあろう。二人にはおまえの力が必要だ」
「し、しかし私には黒鳥兵団副長としての職務が…」
曜の反応は静夜の予想していたとおりのものだった。曜は顔色を変え、礎主になんとか救いを求めようとしたが、俄は助け舟を出すどころか意外にも宇内の援護に回った。
「行ってこい、曜。いずれ静夜と再試合したいのなら、彼が死んでは元も子もないだろう。もし任務を終えて無事に帰ればおまえの評価はうなぎのぼりだぞ」
「…!?」
すかさず永遠がけしかけにかかる。
「私からも頼みます、曜さん。どうか弟のことも守ってやってください。あなたがついていてくださると私も安心です」
「…っ!」
曜は喉許まで出かかった反論の言葉をぐっと呑み込んだ。
「そ、そこまで言われたら断れないじゃないですか…!…わかりました、お引き受けいたします」
「ありがとうございます」
「弟をよろしくお願いします、曜さん」
見事に自尊心をくすぐられてうまく丸め込まれた形になった曜は、静夜と永遠から丁寧に礼を述べられると、何か腑に落ちないものを感じつつも胸を張って鼻の穴を膨らませた。永遠が言った。
「それでは書物の精査は今後は彼方さんと界と私の三人で引き続き進めます。彼方さん、界、それでいいですか?」
「待ってください。ボクも一緒に行きます」
彼方がうなずくのと同時に界が驚く大人たちをかき分けて堂々と前に歩み出た。四人目を想定していなかった永遠と静夜、そして宇内は思わず顔を見合わせた。
「…界、私たちは君をこれ以上巻き込むつもりはないのだが…でも、どうして?」
「だって永遠、静夜と曜さんの組み合わせじゃ筋肉割合高すぎでしょ。技や術なら久遠よりボクの方がきっと力になれるし、少々の危険は怖くも何ともないし。連れてって損はないと思うけど?」
「な…!わ、私だって怖くなんかないし、術だってちゃんと使えるぞ!」
「宇内様、そういうことですから、ボクも同行してよろしいですか?」
いきり立つ曜を無視して界は宇内の返答をじっと待つ。
少し思案をめぐらせた後、宇内が氷雨の礎主の顔を見ると彼はただ一度だけうなずいた。
「よろしい。ただし、おまえはまだ若い。十分に注意を払い、四人で協力し合うように」
「はい」
以前の彼なら想像もできなかったその変わりように礎主たちは時折静夜の顔を見ながらひそひそと何かささやき合っていた。
臨時の会合は終わり、それぞれが思い思いに動き始める。静夜と宇内はまだ立ち話をしている。久遠が指名されたときからずっと憂わしげな目で彼を見つめていた彼方は、ここぞとばかりに彼に近づき話しかけようとした。
「…久遠、君…」
そのとき久遠は頭の中がいっぱいで彼方の声に気づかず、歩み寄ってきた永遠に小声で語気鋭く詰め寄った。
「姉さん、病室に帰ったら話がある」
「…わかってる」
双子は連れ立って立ち去り、彼方はしかたなく足を止めてうなだれる。静夜はそんな双子の背中にちらりと視線を投げかけた。
危険で不確実性の高い新たな旅路を前に、旅立つ四人と後に残される者たちの先行きには早くも暗雲が垂れ込め始めていた。
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