静かな夜をさがして

左衛木りん

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第4章 群像

迷える羊

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夜になって静夜の意識が戻り、容体が少し落ち着いたというので、久遠と永遠は入室を認められた。

「まだ予断を許さない状況なので、手短にお願いします」

案内された奥の治療台に静夜はうつぶせに横たえられていた。上半身は包帯で隈なく覆われ保護されていたが、まだ完全には止血できていないらしく、ところどころに血が染み出し赤い斑を作っていて、目を背けたくなるほど痛ましい。二人は横向きになった静夜の顔の側にそっと近寄り、呼びかけた。

「…静夜…?」

「静夜…わかるか?」

静夜は眠るように瞑目していたが、二人の声と気配を感じるとわずかにまぶたを開け、弱々しいまなざしで二人を見た。そして皮肉な笑みにぎこちなく唇を曲げた。

「…あれほどの死をもたらした俺を、まだ死は連れていってくれないらしい…」

干からびて錆びついた声に、久遠と永遠の胸は激しくかきむしられた。待つ間にぐらぐらと煮えたぎり、蓋の下に押さえつけていたさまざまな思いが喉の奥に瞬時に膨れ上がったが、二人とも私情をぐっと堪え、優しく彼を見つめた。久遠は今だけは意地も躊躇いも投げ捨て、静夜の命に寄り添いたい一心でささやいた。

「…何も…もう何も言わなくていいから…お願いだから早く良くなって…」

「…」

静夜はまぶたの上下で相槌を打った。その彼の目によく見えるように、永遠はあの白詰草の指輪を差し出した。

「これは私がもらうわけにはいかない。君に返すよ。…日月からのお守りだと思って、今まで以上に大切にしろ」

力強くそう励まして永遠は指輪を彼の指にはめ直した。

「…すまな…っく…っ!!」

静夜が激痛に思わず呻き声を漏らすと、女性治療師たちが慌てて駆けつけてきて二人を制した。

「今日はもう無理です。しばらく眠っていただきます」

咲野の治療師が静夜の鼻と口に眠り花の粉の成分を含ませた手巾を当てる。今の彼は自分で薬を飲むことができないからだ。薬を吸い込むとたちまち静夜は目を閉じたが、眠りに落ちる間際、彼の灰色の瞳が最後まで見つめていたのは永遠ではなく久遠の顔だった。

久遠の心臓が大きくひとつ脈打った。

(…どうして?)

姉さんの方が大切なはずなのに。彼の真意がわからず、必死で純粋だったさっきの気持ちが再び疑いと引け目に濁り始める。

(わからないよ…おまえが何考えてるのか…ちっともわからない…)

曖昧な感情の境界線に久遠が囚われ揺れ動く間、静夜を取り囲んだ治療師たちは忙しく手を動かしながら感嘆に近い驚きの言葉を上げていた。

「あの裁鞭で十六回も打たれて死なないなんて、なんて強い身体…生命力…いえ、胆力かしら」

「まるで星に守られてるみたい」

「この人にはきっと何か大事な役割があるのよ。だから絶対に死なせちゃ駄目…私たちの技と誇りにかけて、この人を治すわよ…!」

「はい!!」

永遠は使命に燃える治療師たちの輪から久遠を引き離すように後ずさった。

「私たちにできることは何もない。…あとは皆さんにお任せしよう」

「…うん…」

外に出ると彼方と麗、それに界がじりじりと気を揉みながら待ち構えていて、そこに宇内も現れた。六人は静夜の容体と今後について少し話し合った後、それぞれの部屋に引き上げた。



公開笞刑の後、興奮と騒動が落ち着くにつれ、大森林の各所からは遅まきながら静夜を擁護する声が聞こえ始めていた。宇内が十二礎主を通じ、漏洩した情報を補い修正すると同時に、静夜に関する酌量すべき正確な事実を伝えたからだ。静夜が処罰されて鬱憤が晴れた後でなければ誰も聞く耳を持たなかっただろう。まともな状況、妥当な決断ではなかったが、結果として静夜が死を覚悟の上で正々堂々と罰を受け、それに耐え抜いたことが皆の心を動かした形だった。しかし、煌狩りによって大切な人を亡くした者もそうでない者も、静夜憎しと敵意を抱く者が依然大多数で、もし妖精の臥所を一歩出れば、外の世界は静夜にとって針の筵に変わりはなかった。

「…まったく、一時はどうなることかと思ったが…反論も再考の請求もせずに笞刑を受け入れるなんて、君は潔いを通り越してもはや命知らずだよ。…何にせよ、助かって本当によかった」

あの一件から数日後。一時生死の境をさまよった静夜は、治療師たちの懸命の処置と驚異的な回復力によって一命を取り留め、状態が安定したため永遠の隣の特別室に無事移されたのだった。

静夜はベッドの上に身体を起こして座っていて、その肩から胴回りの上半身には包帯がきっちりと巻かれている。

今、彼のもとには永遠と久遠の二人が見舞いに来ていた。最初は久遠が永遠の病室を訪れたのだが、静夜を心配しつつもひとりでは行きづらそうにしている久遠を永遠が引っ張って連れてきたのである。二人は預かっていた三振りの剣を持参してきていた。

「調子はどうだ?」

「…少し痛むが、悪くはない」

静夜は肩の後ろの方に手を置いた。自分の目では見えないため実感が湧かないが、広範囲に及ぶ裂傷は最初の痂皮にしっかりと覆われ、快方に向かう兆しを示しているらしい。だが治療師たちの見立てによると、傷そのものは癒えても、熟練した彼らですら顔をしかめるほどのその凄絶な傷痕はおそらく一生消えないだろうということだった。

「処分は保留されてたのに、どうしてその点を主張しなかったんだ。せめて私を呼んでくれれば弁護できたものを」

静夜は沈んだ表情でぼそりと言った。

「…俺はそれだけのことをしたからだ。光陰様もおっしゃっていた、その業は一生ついて回ると…どんな形であろうと、そうしろと言われれば従うのが当然だ」

「だとしても限度というか、常識の範疇を超えてるぞ。君にはまだ為すべきことがたくさんある。償わなければならないと思うなら、ちゃんと生きて償え。迦楼羅の始末も自分の命も、そう簡単に諦めるな」

せっかく自分の意思で煌狩りと訣別する選択をしたのに、管理や命令を諾々と受け入れてきたそれまでの生き方をまだ彼は引きずっていて、望ましくない方向で発揮してしまっている。永遠は溜め息をつき、それから隣で終始黙って聞いている久遠を見た。

「ほら、どうした久遠。おまえも静夜に訊きたいことがあるんじゃないのか?」

「えっ…」

「えっ、じゃないだろう。ずっと考えてるくせに…さあ」

「…あ」

永遠に背中を押されておずおずと静夜の前に出た久遠は、どんな顔をしていいのかわからずうつむき加減で尋ねた。

「あの…教えて欲しいんだ、処罰の場に行く前に、どうしてあの白詰草の指輪を姉さんの指につけていったのか…あんなに大切にしてたのに…気になって」

久遠の指先も唇も、緊張と不安で冷たくなっている。聞きたくない告白を聞くことになるかもしれないと身構えているのだ。

そう訊かれて静夜は目線を外し、再び指輪をつけた自分の指に落とすと、眉を寄せて沈黙した。久遠の指にも同じ指輪は変わらずはまっている。

(…やっぱり姉さんの前では言えないかな)

久遠がうっすらと確信し始めたとき静夜は口を開いた。

「…原礎を裏切っていた俺には、日月の優しい気持ちが込もった贈り物を持ち続ける資格はないと思った…だから、原礎からもらったり借りたりしたものは返さなければならないと…永遠、君が久遠とお揃いで持っていてくれるのが一番いいと思ったんだ」

(えっ…)

久遠の想像は間違っていた。あれは姉への想いの証ではなく、純粋な義理堅さから出た行動だったのだ。

「形見として?それでレーヴンホルトとナイフと一緒に私の部屋に置いていったのか。迦楼羅も、私に後のことを託そうと?」

ベッドを挟んだ向かいの卓には戻された三振りの剣が置かれている。無言で首を縦に振った静夜に、永遠は呆れたような、それでいて理解にあふれた温かい笑みを注いでいる。

(でも、だからって姉さんのことが好きじゃないってことにはならないし、迦楼羅を託すくらい姉さんを信頼してるなら…少なくとも今の答えの中には僕への気持ちはこれっぽっちもない…)

久遠はすっかり疑心暗鬼に陥っていた。静夜の行動や表情の何もかもすべてが永遠に向けられているものとしか思えない。久遠が本当に気になるのはその点だったが、それこそ絶対に口には出せないし、知ること自体ある意味では恐怖だった。

「納得したか、久遠」

「…う、うん」

永遠は安心した顔で何度もうなずいたのだった。

二人はそこで静夜との面会を切り上げ、一緒に隣の永遠の病室に戻った。そこへちょうど入れ替わる形で静夜の病室を訪れた者がいた。

珠鉄の女戦士、黒鳥兵団副長の曜だ。

突然乱暴に扉が叩かれたので、静夜が怪しみながらどうぞと返事するや否や、旅装と武装をしたままの曜はものすごい剣幕で踏み込んできて、呆然としている静夜のベッドの横に仁王立ちした。

「久しぶりだな、静夜!魔獣退治の遠征から帰投したらおまえが帰ってきてると聞いたから再試合を申し込みに来てみたら、大怪我をしてるそうじゃないか。それで旅の途中ですごすごと帰ってきたのか?ふん、情けない奴!」

「いえ…そういうわけでは」

どうやら詳しい経緯を何も知らず、一直線にすっ飛んできたようだ。挨拶もなく、再試合という言葉の意味もわからず、何から話すべきか静夜が瞬間的に困惑していると、曜は腕を組んでふんぞり返り、つんと顎を持ち上げた。

「言い訳なら聞きたくない。私の方は雪辱を果たすために鍛練を積んできたのに、この私に土をつけたおまえともあろう者がこの体たらくとは笑止千万。私が目標としてきた男はこんなやわな腑抜けじゃない!!」

(…だいぶ言われてる気がするが、これは激励と受け止めるべきなのだろうか)

曜は実は全部聞いて知っているのではないかと勘繰ってしまう静夜だった。

「わかったらとっととその怪我を治せ!治ったらすぐに再試合だ。言っておくが、今の私は前とは違うぞ。舐めてかかるとまた大怪我をすることになるから、せいぜい覚悟しておくんだな!」

「どうかお手柔らかにお願いします。ちょうどよかった…曜さん、実はお借りしてたレーヴンホルトとナイフをお返ししたいんです」

「何?」

曜は眉をぴくっと動かした。

「俺は記憶を取り戻し、失くしてた自分の剣も見つけました。…もう必要ありませんので。手入れはしてあります。貸してくださってありがとうございました」

「…」

静夜が手で示した先には、その二振りの剣と、曜も見たことのない漆黒の大剣が置かれている。曜はそれらをしばしじっと見つめた後、ぶるぶると首を振った。

「いいや、断る。両方ともおまえがまだ持っていろ。旅が終わってないなら、返してもらう理由もない。おまえなら二刀をうまく使い分けられるだろうし」

「…いいんですか?」

本心では愛着もあって手放すのが惜しい気がしていた静夜は、心がわずかに浮き上がるような感じを覚えた。

「ああ。いずれ再試合する日まで、レーヴンホルトの感触を鈍らせるなよ。…そっちのバカでかい剣では明らかに不公正だからな。じゃ、私は帰る。早く荷を解いて休みたいのでな」

一方的に言いたいだけ言って曜はさっさと出ていった。

「…」

旅装のまま、疲れた身で駆けつけてくれた曜に感謝の念と申し訳なさがじわりと込み上げる。だが、彼女もこの後同胞たちの輪の中に戻れば、すぐに自分の本当の姿を知ることになるだろう。それでも彼女が自分と再び手合わせをしたいと思ってくれるとは、静夜には到底思えなかった。



当初は起き上がるのにも人の手を借りなければならなかった静夜だが、日に日にめざましい回復を遂げ、負傷してから一週間後には自分で基本的な身の回りのことができるようになり、担当の治療師を驚かせた。今の段階で彼に必要なのは皮膚を保護する塗り薬と身体を作る栄養、そして傷の治療には乾燥と冷えは禁物という観点からの温泉浴だった。

妖精の臥所の敷地内には傷や病に効く温泉が湧く場所があり、そこに通うのが彼の今の日課だった。その日もそこへ温まりに行こうと静夜が病室で支度をしていると、思いがけない人がやってきた。

「…界くん」

「どうしてるかなって気になって…大丈夫?」

静夜がうなずくと界はとことこと入ってきて小さな花束を卓に置いた。界がひとりで面会に来るとは予想していなかったので、静夜は不思議に思いながら彼の様子を眺めていた。

と、界は静夜の手許を見て目をぱちくりとさせた。

「どこかに行くところだった?」

「湯浴みに。治療のために毎日通ってる」

「あ…」

界はたちまち気落ちした表情になった。何か話があったようだ。そこで静夜はふと思いついたことをそのまま口にした。

「一緒に来るか?」

「えっ?でも…」

「本来は患者専用だが、この時間帯は利用者はほとんどいないし、子供が足を浸けるくらいなら誰も怒らないだろう」

子供と言われて界はすべすべの頬をぷうっと膨らませたが、さほど立腹することもなく静夜の提案を容れた。

「じゃあ、お言葉に甘えて。でももし怒られたら、謝るのは連れてきたキミの仕事だからね」

静夜もその点を了承し、凸凹な二人は一緒に部屋を出た。



静流の族が管理する温浴場に来ると、案の定無人なので係の者は界の入館を特別に許可してくれた。さらには静夜が先に入る間に、界のために足を浸ける湯桶と小さな椅子まで用意してくれた。

「…はぁ…気持ちいい~…」

こわばっていた素足に熱めの湯加減がちょうど良く、界は思わず表情をとろんと緩める。ここの湯は身体を芯から温めてくれるともっぱらの評判なので、界は常日頃から一度利用してみたいとひそかに思っていたが、病気か怪我でもしない限り利用できる機会がないためほぼ諦めていたところだったのだ。たとえ足先だけでも、その湯を貸し切り状態で楽しめるのは幸運だった。

もうもうと途切れなく立ち込める湯煙の幕の向こうでは、髪をまとめ上げた静夜が身体を鎖骨の辺りまで湯に沈めて目を閉じていた。

「…」

彼が浸かっているのは肌に優しいぬるめの湯船だ。その表情も姿勢も界が入ってきてからほとんど動いておらず、まるで思索か瞑想に耽っているようだが、よくよく見ればその目許や口許はくつろぐように少し和んでいる。どうやら彼もここの湯の気持ち良さと効能を満喫しているらしい。

「…」

静夜はじっとして何も話さず、時折上半身を湯から引き上げてひと息つきながら長々と身体を温めている。今は雑談なんてする気分じゃないかな、と迷いつつ、界は思い切って話しかけた。

「ねえ。怪我の具合はどう?治りは順調?」

すると静夜は薄く目を開けて答えた。

「順調だ。ときどき痛みはあるが、問題ない」

「そう。よかった」

「…」

少しの沈黙を挟んで静夜は低い声で、率直にこう言った。

「…本当にすまなかった。君にも、君の同胞たちにも」

「うん…」

界は湯桶の中の爪先をもぞもぞと擦り合わせた。血行が良くなってきたのか、うずうずとして少し落ち着かない。静夜はこちらの頭の中を見抜きながら、彼自身の考えはまったく悟らせないよう高く厚い壁を張りめぐらせているようだ。身体は何も覆っていないのに。

「…キミはどうしてそこまでできるの。過剰に不当なものまで全部受け入れて、どうして抵抗しないの」

「…君まで俺を質問攻めにするんだな」

「…やっぱりボクなんかには話したくない?」

「そうじゃない。誰にも話したくないんだ」

すっと顔をそらす静夜のしぐさになぜか寂しさを覚える。摑み取ったはずの雪片が、次の瞬間もう掌で解けて消えてしまっているように。

「でも、君の気持ちには感謝してる。こうして身近に接してもらえるだけで十分だ。君には将来がある。あまり俺にかかずらわない方がいい」

(…そう言われると、それはそれで少し寂しい気もする)

とっさにそう感じた自分がまるで自分ではないようで、胸の奥にすうっと風が通るのを感じた。界はもじもじしながら勇気を振り絞って切り出した。

「静夜…あ、あのさ、ボク…その…あのときは…」

と、外の脱衣場で気配がし、ガラガラッと戸が開いてひとりの利用者がのんびりと入ってきた。その者は静夜がいることに気づくと一瞬気まずそうな顔をしたが、特に何か言ったりしたりということもなく黙って洗い場の方に行った。

「そろそろ時間だ。俺は戻る」

「えっ?」

「実はこの後特別な来客があるんだ。それじゃ」

「それじゃ…って、じゃあボクも出ないと…っ!?」

ザバッ!!

静夜がいきなり湯船から立ち上がって出てきたので界はぎょっとしてそのまま固まった。当然、静夜は全裸である。

「きゅ…きゅ…急に出てこないでよ…!!」

「…?」

濡れそぼつたくましい裸体を唐突に目の当たりにして二の句が継げない界に、静夜はこともなげに言い放った。

「ああ、すまない。男しかいないから何も考えてなかった」

そして、先にすたすたと出ていってしまう。

(そ…そりゃそうだよね…いや、だからって…あーもう!ボクだって大人になったら、あれくらい…!)

結局言いたかったことは言えず、訊きたかったことも訊けなくて、気持ちばかり空回りしながら急いで即席の足湯の片づけにかかる界だった。



午後、静夜と永遠が待つ彼の病室に、いつもとは違う、にぎやかで可愛らしい一行がやってきた。四つ葉の学び舎の五人の子供たちと、引率の四季と未来、そして久遠だ。

「永遠おねえちゃん、おままいにきたよ!」

「永遠おねえちゃん、げんき?」

「ああ、元気だよ。みんなも元気そうだね」

子供たちは真っ先に永遠に走り寄り、勢いよく抱きついて早速未来に大慌てでなだめられている。永遠との面会は今も制限されているので、子供たちが永遠に会うのはずいぶんと久しぶりなのだ。一方静夜はベッドの中に座って、微笑ましそうに、また同時に少し気後れぎみにその光景を眺めている。

「永遠おねえちゃん、径ね、やぎさんのちちしぼりできるようになったの!こんどみにきて!」

「周、トマトいっこだけたべれるようになったよ!」

「そうか。頑張ったな。えらいえらい」

「これ、あたちがかいた永遠おねえちゃんのにがおえ!」

「朔、いしころでくびかざりつくったの。はい」

「みんな上手だな。ありがとう。大切にするよ」

この日を心から楽しみにしていた子供たちがすっかり興奮して大はしゃぎなので、四季はにこにこと、そして未来は少しはらはらしながら見守っているが、永遠は優しく頭を撫でてやったりしっかりとうなずいて答えたりしながら、子供たちの何気ない表情も言葉もどれひとつとして余さず噛みしめるように受け止めていた。

「ねえ、永遠おねえちゃん、なんかやせちゃった?」

「うん、少しな。でも今毎日ごはんをたくさん食べてるから、すぐ元に戻るぞ」

「でも、あんまりたべすぎてふとっちゃダメだよ?」

「わあー、永遠おねえちゃん、ふとっちゃやだあ!」

「ぷくぷくのぷーになっちゃうよ!」

どっと笑い声を上げる永遠と子供たちを黙って眺めていた静夜は、先ほどまで浮かべていた微笑を消し、慚愧に堪えない様子でじっとうつむいている。

その顔からは拭い去られない罪と責任の意識が如実に伝わっていた。

(ごめん、静夜…)

何も知らない子供たちの言葉はあまりにも無垢で、それゆえに残酷に現実を突きつけてくる。だが、久遠にも他の三人にも、子供たちの真っ直ぐなまなざしや感性を堰き止めることはできなかった。

その久遠の脚には日月が入ってきたときからずっと固くしがみついて、人見知りをするように顔を隠したり、また覗かせたりを繰り返していた。

「日月、どうした?恥ずかしいのか?」

「…」

日月は永遠と友達の輪を気にしながらも、静夜の方をちらちらと見ている。

(…日月、静夜と遊びたいって言ってたもんな…今日は静夜も姉さんと一緒に待ってるって言ったらすごく嬉しそうだったし)

静夜は遠慮して終始沈黙と傍観に徹している。すると両者の微妙な気持ちを察した四季が日月の小さな肩を抱いてそっと静夜を指差した。

「ほら日月くん、今なら静夜くんを独り占めできるわよ?ずっと会いたかったんでしょう?」

日月は小さくこくんとうなずく。だが、まだ少し照れ臭そうだ。

「行っておいで、日月」

「…うん!」

久遠に後押しされて日月が駆け寄ってきたのに気づいた静夜はとっさに戸惑い、久遠を見た。久遠は黙っていたが、代わりに四季が優しく声をかけた。

「日月くん、静夜くんは怪我してるから前みたいに遊ぶのは無理よ。おとなしくしてね」

「静兄、けがしてうの?もしかして、いたい?」

「少しだけ」

「じゃあ日月がいたくなくなるおまじないしたげう!」

「え?」

呆気に取られる静夜の手に日月は小さな両手をぽんと置き、それからぱっと振り上げた。

「いたいのいたいの、とんでけー!」

もちろん癒しの煌気など含んではいない。だが、それで痛みが引くと信じているその一生懸命なしぐさが何とも言えず可愛らしくて静夜は軽く苦笑した。今日初めての笑みが彼の胸を温かく染めた。

「ねえ、いたくなくなった?」

「うん。もう痛くない」

日月はぽてっとした頬を嬉しそうな薔薇色に染め、ご褒美をくれ、と言うように腕を伸ばしてきた。

「静兄、だっこ…」

「うん。おいで」

静夜は日月をひょいと抱え上げ、膝の上に座らせた。

「静兄、ぽかぽか。あったかーい」

「さっき湯浴みしてきたからな」

「ゆあ…い?」

「風呂に入ることだよ」

「日月おふろすき!あのね、おふろにおはなとかくだものいれるときもちよくてすごくたのしいよ。えっと、こないだはね…」

たどたどしく元気にひとりでおしゃべりしている日月と、優しくあやしながら目を細めて聞いている静夜の姿に、久遠はぼうっと突っ立って見入っていた。

(静夜のあんな顔見たの、いつ以来だったっけ…)

何も知らず、二人助け合って仲良く旅をしていたいつかの日の面影を記憶の奥から手繰り寄せようとしていたときだった。

「あ、ちょうちょ!」

日月がきらきらと目を輝かせて開け放されたテラスを指差している。思わずそちらに視線を持っていかれると、黄色い翅の一羽の蝶がテラスに迷い込んでいた。

「近くで見るか?」

「うん、みゆ!」

静夜も笑ってうなずき返し、日月を抱いたままベッドから降りてテラスに出る。静夜の怪我を心配した未来がこれ以上は見過ごせないとばかりに止めに入った。

「駄目ですよ静夜様、まだ痛みがおありなのに…いくら相手が子供でも、無理はなさらないでください」

「大丈夫です。おんぶや肩車はまだできませんが、抱っこくらいなら」

「静夜様…」

本人がそう言い、何より日月が静夜の胸にぴったりとくっついて離れてくれそうにないので、未来も安心して彼の腕に日月を任せた。彼が意外に子供に優しく、日月も彼に懐いていることはとっくに明らかだからだ。四季や永遠も、テラスの二人に温かなまなざしを注いでいる。日月は手をすり抜けてひらひらと舞う蝶を必死に追いかけていた。

「ちょうちょさん、こっちおいで、おいで…あっ!」

「あっ」

「久ぅ兄、みてみて、ほら!日月のゆびわにちょうちょさんとまったよ!」

「え?」

久遠がどきりとして二人を見ると、確かに、日月を抱く静夜の手の白詰草の指輪に蝶が止まって翅を休めていた。

「久ぅ兄もこっちきて!はやく、はやく」

「あ、ああ…」

一瞬躊躇ってから、日月に誘われて急いで二人に近づく。

「ちょうちょさん、かわいいね」

「うん」

蝶の止まった手を同時に覗き込み、限りなく近い二人のその距離に、久遠と静夜は忘れかけていた互いの存在感を思い出した。だが視線は交わることなくすれ違い、うわべだけの言葉すら生まれない。

(…こういうとき、ちょっと気の利いたひと言でも言えたらいいのに)

目は指輪と蝶に止めながら、頭では静夜のことばかり考えている。

少し上目遣いにおそるおそる静夜の表情を窺うと、向こう側にそらされた彼の瞳は胸が詰まるほどの切なさに震えていた。
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