静かな夜をさがして

左衛木りん

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第2章 冒険

悪魔の条件

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突如として始まった変局から目をそらすことができず、久遠はその場に凍りついていた。

ひ弱そうな痩躯が体内から泡立つように膨れ上がる筋肉で急激かつ異常に量感を増し、衣服を引きちぎりながらぐんぐん伸び上がる。血気のはち切れそうにたぎる隆々とした肉体の頂上に不釣り合いに小さい人の頭部が乗り、その中央の二つの眼球は焦点を失った黒一色で、ぞっとするほど虚ろに落ち窪み、まるで死にきれずにさまよう亡者だ。

「げっ…何だよこいつ!!本当に人間か!?」

思わず叫びながら碧縄を翠刃に持ち替えたまさにそのとき怪物が雄叫びを上げて床を蹴った。

「…殺す…貴様…殺す…!!」

「!!」

向こうは殺す気でも、こちらは殺したいわけではない。久遠は圧倒的に不利な立場を承知で、ただ動きを止めることだけを念頭に翠刃を構えた。

「足周りを狙え!〈翠刃〉!!」

十指から放たれた葉刃が瞬く間に怪物の巨体をかすめて背後に回り込み、自ら整然と散って主の意思どおり腰の後ろから足首に命中した。

「グアアアアアアッ!!」

怪物は苦悶の絶叫をほとばしらせたが、一瞬立ち止まっただけで翠刃を突き立てたまま突進してきた。

「…なんで!?」

目を丸くしてとっさにひらりとかわしたところに岩ほどもある拳が降ってきて地面を砕き陥没させた。まともに食らえば身体の強い原礎と言えどひとたまりもない。そもそも一撃で野生の巨狼の息の根を止める翠刃を下半身に受けてこれほど動けるはずがないのだ。

(半獣半人の怪物ってそういうことか…確かにこいつは怪物だ…!)

久遠は空間の広さと自身の身軽さを目一杯使って縦横無尽に駆けながら二射目を試みる。怪物の体表から抜け出た十の葉刃は宙で旋回して速度をつけたのち再びその肉に深々と突き刺さったが、結果は同じで久遠は早くも焦りを覚え始めた。

「くそっ、翠刃が効かないなんて…膝をつかせさえすれば碧縄が使えるのに…!静夜、何やってんだよ…!」

怪物は痛覚が麻痺しているのか、腰から下を血まみれにしながらそれでもなお鼻息荒く執拗に久遠に摑みかかってくる。次の選択を迫られた久遠は十分に距離を取ったところで隠していた長い葉を抜き出した。それは掌の中で光り輝きながらみるみるうちに大きさを変えてひと振りの翠緑の草刀と化した。煌気の弱い彼でも本気で斬れば致命傷は必至の、瑞葉の誇る秘剣である。

金色の煌を帯びる切先を突きつけ、久遠は挑むように怪物を睨みつけた。

「剣術は得意じゃないけど、一応及第点はもらってるんだからな…!甘く見るなよ!」

「邪魔だ…殺す…殺す!殺す!!」

久遠の瞳に燃え立つ煌気と剣の輝きに闘争心を刺激されたのか、怪物は唾液の糸を引く歯を剥いて猛々しく吠えると久遠目がけ突撃した。振り下ろされる巨大な拳を紙一重でかわす動きのまま流れるように連続で久遠は斬りつける。鷲摑みにしようとしても指をすり抜ける蝶のようにひらりひらりと逃げる小さな身体に怪物は苛立って地団駄を踏んだ。その隙に久遠の白い脚が地面を踏み切った。

「…えいっ!」

太い腕の上をひと息に駆け上がり、急接近に度肝を抜かれる怪物の肩を蹴って回転で飛び降りると、そこは剥き出しで無防備な膝裏だ。もらった、とばかりに久遠は渾身の草刀を繰り出した。

「食らえ!!」

「ギャアアアアアア!!」

筋をまともに切り裂かれた怪物は苦痛の叫びを上げ、動きを止めた。

「…やったか!?」

草刀を下ろした久遠の顔が安堵に緩む。と、眼前の股の間に逆さまの顔がヌッと現れてギョッとした。

「…!?」

硬直すると同時に突き出てきた野太い指に足首を摑まれて前に引きずり出され、捕まった鼠よろしく宙ぶらりんにされる。垂直に下がってさらさらと揺れる金髪を怪物は首を傾げてまじまじと眺めた。しかし久遠の意思に反応した翠刃の一群が手に突き刺さると指が開いて久遠は地面に着地した。そこへ飛んできた反対の拳を剣身を盾代わりに受け止める。最後の力を振り絞って放った煌気の障壁で巨体を跳ね飛ばしたとき、久遠はとうとう万策尽きて剣を握る手をだらりと下げた。

(駄目だ…体力の差がありすぎて…これ以上はもう…)

だんだん膝が落ち、肩が大きく上下する。怪物の巨体の前では久遠の身体はあまりにか細く、ドレスの残骸はぼろぼろで、おまけに擦り傷と打ち身だらけだ。煌気もほとんど使い果たし、なす術もなく立ち尽くす久遠に、人にあらざるおぞましい化け物が地響きを立てて迫る。もはやここまで、というこのときに口からこぼれたのは不思議なくらいに滑稽な皮肉だった。

「どこ行っちゃったんだよ静夜…花嫁の大ピンチなのに…僕を守るって言ってたくせに…ここで駆けつけるのが白馬に乗った王子様だろ!?」

振りかざされた無慈悲な拳に久遠がギュッと目を瞑ったときだった。

ブンッ!!

高速回転する松明の炎が突然明後日の方向から襲来し、怪物の頭部を直撃した。

不意打ちに泡を食ってたたらを踏み、怯む怪物に黒い影が矢の如く肉薄した。怒りに燃える白銀の刃が煌気の輝く尾を引いて標的に容赦のない猛攻を加えた。神がかったようなその反撃に徹底的に痛めつけられ圧倒された怪物はよろめいて後退した。

「遅いよ、静夜!!」

立腹と隠しきれない喜びの声を背にして、静夜は怪物にレーヴンホルトの切先と冷たい双眸をギラリと据えた。

「久遠を傷つけたら殺す」

その声音の凄みから、どうやら静夜が本気で怒っているらしいと気づいた久遠は大慌てで声を張り上げた。

「気持ちは嬉しいけど、こいつまだ隠してることがあるから殺しちゃダメだ!おまえが自分で言ったのに忘れちゃったのか!?」

「…そうだったな」

冷水を浴びせるような久遠からの注意喚起に静夜は表情と殺気を緩めた。

「遅くなってすまなかった。訊きたいことは山ほどあるが話は後だ。まずはこいつの動きを止める。君は下がって休んでいろ」

「前衛は任せる…でも、できる限り翠刃で援護するよ」

「…無理だけはするな」

見ると、血だらけでうずくまっていた怪物は今にも立ち上がろうとしている。静夜はわざと存在を誇示するように大きな動作で剣を構え直した。

「来い。次は俺が相手だ。化け物」

静夜を新たな敵と定めた怪物は、食いしばった歯列の隙間から憎々しげな息を漏らすと猛然と飛びかかってきた。

「…オオオオオオオオッ!!」

握り潰さんと伸びてきた丸太のような腕をかいくぐり、静夜は一瞬で怪物の懐に飛び込んだ。身体も動きも大きい分隙も生まれやすいのだ。ここから心臓をひと突きにするのは訳ないーーだが狙いは命ではなく脚部で、レーヴンホルトの太刀筋は主の意図に完璧に忠実だった。肉づきの比較的薄い膝頭をまともに斬られた怪物は絶叫を上げてふらつく。まるで歩き始めたばかりの赤ん坊のような拙さだ。

(なんて醜い…なぜこんな姿になってしまったんだ、こいつは…)

とん、と爪先を胴体にかけて跳び上がり、蹴り飛ばす反動からの後方宙返りで静夜は軽々と舞った。それを見ていた久遠は口笛を鳴らすと、無防備に傾ぐ巨体に格好の的とばかりに翠刃を撃ち込んだ。そして翠の嵐を追って静夜が黒い疾風のように再び強襲し、今度は脛に痛烈な斬撃を加えた。静夜は終始冷静に立ち回り、袖口にかすりもさせず、完全な優勢を保って怪物を追いつめていった。

「グルウウウウ…!!」

手ごたえはあるものの怪物はまだ倒れない。何か違和感を感じた静夜は剣を振るいながらふと眉をひそめた。

(脚部を損傷してるのは確かだし、体力も相当削られてるはずなのにまだ動けるとは…不死身でもあるまいし…)

静夜の豪剣をからくも避けた怪物が今にももつれそうな足取りで数歩横に移動した。奇妙なその動きを静夜が訝しんだちょうどその瞬間くるりと向きを変えその方に駆け出した。そこは地上へ戻る通路の口だった。

「外に出る気だ、静夜!!」

「しまった!」

静夜の動線が出口の側から離れるときを見計らっていたのだ。息を荒らげて逃走する怪物を追って二人も暗闇の通路を全力で駆け上る。夜目と鼻が利き、すべての分岐を正確に記憶していた静夜は消耗の激しい久遠をあえて引き離して単独で怪物を猛追した。もしダートンの町や周辺の人里に逃げ込まれたら取り返しがつかない。ここは何としても追いついて、脚を切り落としてでも動きを封じなければならなかった。

怪物は遺構の入り口から夜の山道へと飛び出すと、ダートンの方か山奥に向かう方か、どちらへ進むべきか迷って二の足を踏んだ。そこへ静夜が猟犬のように驚異的な俊足で急迫した。

「逃がさん!!」

レーヴンホルトの切先が夜気を裂いて怪物の背後を襲う。今度は月明かりの山道での死闘が始まった。そこへ久遠が息を切らしながら外へ出てきた。

「静夜を助けなきゃ…ん?」

久遠はある気配を感じて自分の来た道の方をーー今となっては何日も前のことのように思えたーーふと振り向いた。

中年の男女が互いに支え合うように寄り添いながらよろよろと山道を下ってくる姿に久遠は目を疑った。

「…町長!?なんであなたがここに…」

「久遠さん…」

「待って、これ以上近づかないで!静夜を邪魔しないでください!」

慌てて駆け寄り、広げた両腕で二人を阻んだ久遠に女性の方が切羽詰まった必死の形相ですがりついた。

「お願い、殺さないで、もうやめて…は…あれは私の息子のギルなんです…!」

「えっ!?あなたの…息子さん…!?いったいどういうことですか?」

女性がそれ以上は説明する気力もない様子で泣き崩れるので町長の方を見ると、彼は青ざめた表情ながら落ち着いて代わりに話し始めた。

「三か月ほど前のことです…息子があるとき突然家を出て姿を消し、一か月ほど経ってまたふらふらと戻ってきました。最初は私たちもただの家出だったと思って安心していたんですが、だんだん息子の様子がおかしいことに気づき始めたんです」

久遠は彼の両親につらい光景を見せないよう二人を太い木の幹の陰に誘導した。町長は続けた。

「息子はもともと身体が弱い上に繊細で内気な性格で、人付き合いもしたがらずほとんど引きこもりの生活でした。それなのに、家出から戻ってくると急に人が変わったように気が短く乱暴になり、理由もないのにものすごい力で暴れたり意味のわからないことをぶつぶつつぶやいたりするようになって…息子の暴力と奇行は日増しに激しく異常になり、とうとう手がつけられなくなった私たちは話し合った末、息子を…実の息子を例の遺構の奥に閉じ込めたのです…」

「そんな…」

あまりのことに絶句する久遠に今度は母親が涙を拭いながら言った。

「夫は町長としての職務や周囲の目があって山や遺構に出入りするわけにはいかないので、私が夜な夜な食べ物や必要なものを届けにギルのもとに通いました。最初のうちはそれで済んでいたのですが、ギルには、その…何かに対して激しい執着か欲求のようなものがあったらしく、週にひとり、町に暮らす金髪の娘さんを花嫁として連れてこいと言い出したのです…断ったり叱ったりしようものなら私が殺されかねない剣幕だったので…どうしようもなく…」

久遠はギルが自分の顔を見て『違う、違う』と喚いていたのを思い出していた。

(彼は誰か…特定の誰かが来てくれるのを待ってたんだ…でも、こんなやり方…!)

「もしかして、それでどこからともなく半獣半人の怪物が現れて棲みついたと作り話を…?町の人を怖がらせ、誰も近づけさせないために?」

「すみません…本当にすみません…」

「あの子は悪くないんです…悪いのは私なんです…私が甘やかしたからこんなことに…!」

久遠は何とも言えない気持ちで頭上を仰ぎ深い溜め息をついた。ギルは表向きは今もあの瀟洒な屋敷の奥にこもって誰とも会わない生活を送っていることになっているのだろう。もし花嫁に素顔をさらしたとしても気づかれにくく、最悪花嫁も監禁するか口封じをすれば済むというわけだ。

正体不明の怪物も魔獣もいなかった。いたのは悲しく不幸せなひとつの家族だったのだ。

(でもギルはなぜあんな身体に…あれは絶対両親のせいなんかじゃない。彼兄が言ってたのはこのことだったのか…家出してた間に彼の身にいったい何があったんだ…?)

その点だけはギルを押さえ込み元の姿と心に戻して聞き出すしか知る術はない。静夜のおかげで煌気が少し回復してきたのを感じていた久遠は碧縄を手にし、決意を込めて町長夫妻に向き直った。

「お二人はここで待っててください。僕は静夜に加勢しに行きます。そして必ず息子さんを連れ戻します…息子さんには僕からも訊きたいことがたくさんありますから」

夫妻は二人とも目に涙を溜め、言葉も出ないという面持ちでただうなずいた。久遠は励ますような笑顔を二人に残して再び山道に踊り出、未だ怪物と激闘を繰り広げている静夜に駆け寄りかけた。そこへまたもや思いがけない人物が現れた。

「はあ、はあ、はあ…」

久遠は足を止めて目を凝らした。先ほど町長夫妻がやってきた道を、今度はひとりの少女が小走りに駆けてくる。その後ろに二人の男女が続く。

「待って、メグ!危ないからもう戻りなさい!」

「だって…だって、フィンが静夜さんのお手伝いをするって置き手紙置いて急にいなくなっちゃったのよ!私…心配で…!」

「だからっておまえまで来ることは…せっかく久遠さんが身代わりになってくれたのに、これじゃ申し訳ないばかりか邪魔になってしまうだろう…!」

(フィンまで来てるのか!?いったい今どこに…っていうかみんな揃いも揃ってほんとじっとしてないんだな…!)

逃走を試みる怪物とそれを阻止しようとする静夜の本気の一騎討ちは緊迫の度合いを増している。静夜に加勢すべきかロディ一家を止めに行くべきか、久遠が激しく悩み葛藤したときだった。

「フィン…!フィン、どこにいるの!?もうこれ以上私を心配させないで…私と一緒に帰りましょう!」

月光よりも冴え冴えとした少女の呼び声が暗闇としじまを貫いて響き渡り、その場にいた全員がーー静夜も、怪物さえもが攻撃の手を止めて振り返った。

山道の頂に立ち、淡く輝く金髪をなびかせた少女の華奢な輪郭が月明かりの夜空に浮かび上がる。

静夜はメグがここにいることに驚いたが、さらに意外だったのはメグを見た怪物の反応だった。その目はただ見たというものではなく、メグの姿を、存在をはっきりと認識した目だった。全身に張り詰めていた怒りと興奮がすーっと抜け、悲しみ嘆くような太い呻きをひと声漏らすと、怪物は静夜が攻撃の手を止めた隙に森の中に飛び込んで脱兎の如く遁走を始めた。

「ーー待て!!」

追走する静夜を振り切り、此処を先途となりふり構わず怪物は逃げる。茂みの土手を滑り下り、泡立つ急流のほとりを真っ直ぐに下流へ…。

「そっちは駄目だ!!」

ロディが見せた地図を憶えていた静夜はとっさに制止の声を張り上げたが、怪物は速度を緩めず突き進む。歯がゆさを堪えて追う静夜に久遠も全速力で追いついてくる。

そしてついに二人が立ち止まったとき、彼は急流が垂直に流れ落ちる崖の縁にこちらを向いて立っていた。

見るも痛ましいほど痩せこけ、生きる気力も望みも失くした人間の姿で。

「やめろ、ギル!!戻ってこい!!」

久遠が呼びかけ、静夜も剣を収めてじっと見つめる。

だがギルは応える代わりに何もかも捨て去った清々しい微笑みを浮かべ、両腕を大きく広げると、そのまま背中から宙に倒れ込んだ。

『ーー!!』

久遠と静夜は同時に飛び出した。ギルが消えた崖の突端から身を乗り出してその姿を捜したが、眼下に見えるのは白い飛沫を撒き散らしながら闇の底に消えていく瀑布だけだった。

「ギル…!ギル!!」

滝壺に下りる道を探そうとした久遠の腕を静夜が摑んで止め、そっと首を横に振る。

自らの意思で、覚悟の上での選択だったのだ。それを無理矢理引き戻す権利は、彼らにはない。

静夜のまなざしからそのことを理解すると久遠は緊張を解いてうなだれ、轟々と唸る滝壺を見下ろしてぽつりとつぶやいた。

「…きっともう終わりにしたかったんだ…あんなこと」

「何があったのか教えてくれるか」

静夜は追跡と戦闘に終始し、肝心なことは何も知らされていない。そこで久遠は自分が見聞きしたこと、そして町長夫妻から聞かされたことを手短に静夜に話した。

「そうか…やはり町長が関与していたんだな」

「おまえ、気づいてたのか?」

「確証はなかったが、うすうすおかしいとは思っていた。だがその町長もある意味で犠牲者のひとりだったんだな」

背後の闇の向こうから人々の声が聞こえてきたので山道の方を振り向くと、三人の少女たちを連れ自力で脱出してきたフィンがメグたちと再会して喜び合っている。その様子を見ていると少しだけ救われる思いがして久遠はかすかに表情を和ませた。

「…欲しいものや好きな人がいるなら、勇気を出して素直にはっきり言えばよかったのに」

「言えないから皆苦しむんだろう、きっと…もっとも、言いたいことが何でも言えれば必ず幸福になれるとは思えないがな」

「…うん」

久遠と静夜は顔を見合わせ、少し疲れたような、それでいて肩の荷が下りた穏やかな笑みを交わした。

「戻ろう。町長ご夫妻にこのことを伝えて…謝らないと」

「うん。…いや、待て。その前に…」

「え?」

久遠の剥き出しの肩や切り落とされて汚れた花嫁衣装を見かねた静夜は自分の上衣を脱いで彼に着せた。

「その格好はひどすぎる」

「ああ…ありがと」

黙ってうなずいただけで先に歩き出す静夜を急いで追いかける。

(隠し事せずに何でも話せて、納得して理解し合えたら一番いいのに…僕にもいつかそういう人ができるのかな)

貸してもらった上衣に残る体温が温かく、安心させてくれる。久遠は静夜の背中についていきながら上衣の前の合わせ目をぎゅっと摑んだ。

立ち去る二人の姿を、離れたところの幹の後ろからじっと見つめている者がいた。

「…噂を聞いて来てみれば、あの方は…あの顔、あの剣術は間違いない。…やはり生きておられたのか…」

黒装束の男はすっと身を引くと二人とは反対の方向ーー滝壺に下りる道を音も立てずに下っていった。



その後、静夜はフィンとロディ一家と少女たちを、久遠は彼らに気づかれないように町長夫妻を、それぞれ分かれて家まで送り届けた。町長夫妻は悲嘆に暮れながらも現実を受け入れ、別れ際久遠に深い感謝の意を込めて何度も頭を下げた。疲れている上にかなり遅い時刻に宿に帰った二人だったが、結局ほとんど眠れず、代わりにいろいろなことを話し合って夜を明かし、そのままあっという間に日の出を迎えた。

朝の支度をするとすぐ二人は再び山に入り、前夜ギルが落ちた滝壺やその周辺を捜索したが、遺体はおろか彼の痕跡すら見つからず、遺構の内部も同じだった。ギルは完全に姿を消してしまっていた。下流まで際限なく捜し続けることはできず、二人はそれ以上の捜索は諦めざるを得なかった。そして探索に向かったという原礎の女性二人の行方もついに摑めなかった。

昼に宿に戻った二人は、例の三人の少女たちの家族の訪問を受けたり、町長夫妻の様子を見に屋敷を訪れたりと、ひと息つく暇もないほど忙しく町中を駆けずり回った。町長夫妻以外は真実を知らないまま、すでに二人は正体不明の怪物を退治し失踪した花嫁を救出した英雄として有名になっていた。さらに夕刻からロディ一家が関係者を招いて自宅で二人の慰労のための食事会を開くということで、二人はとうとうその日静かに休む機会を失った。そして多忙を極めた一日が明けた…。
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