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第2章 冒険
闇に蠢く狂気
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(こいつ…いつの間に…!!)
久遠と静夜の背筋を戦慄が走る。黒いフードを顎先まですっぽり下ろし、全身漆黒のマントで覆ったその人間は、久遠に振り向く暇も与えず彼の喉許に冷たいものを押し当てた。
「振り向かないで、そのまま歩いて」
意外にも若く平凡な男の声に驚きながら、久遠は言われたとおり足を前に運び続ける。レーヴンホルトを抜きかけていた静夜は手を出せずに見守るしかない。
「どういうことなんですか?相手は半獣半人の怪物なんじゃあ…」
「確かに…だが実際に見た人は数人しかいない」
静夜は顔をしかめたが、不意に頭に浮かんだその考えはひとまず脇に置いて久遠と謎の男の動きを注視する。
久遠は刃物の硬さを感じながら喉をこくんと上下させた。出発のときに手頃な草葉を拾ってドレスの内側に仕込んできていたが、いきなりここまで接近されるとは予想していなかったので身動きが取れない。
(これじゃ何もできない…怪物はどこに行ったんだ?静夜は…まさか先にやられたりしてないよな…?)
首を動かして静夜の姿を確かめたい衝動に駆られたが、懸命に抑えつけて歩き続ける。そうして二人はとうとう遺構の入り口に行き着いた。
「先に入って」
山中にぽっかりと口を開けた洞窟に久遠はランプの燈を差し出した。奥は真っ黒な闇がどこまでも果てしなく落ち込んでいくようだ。久遠は足許に注意し、背後の男の方向指示に従いながら進んでいった。
「僕の言ったとおりになりましたね」
「…ああ」
久遠が消えた遺構の入り口の闇を静夜は苦々しげに見つめる。彼から目を離すのは初めてのことなので本当は気が気でなかったが、フィンの前なので平静を装っていた。
「僕、お役に立てますよね?ね、連れてきてよかったでしょう?」
「不本意で予定外ではあったがな。ここからは君の案内だけが頼りだ。怖いとは言わせないぞ」
「怖くなんかありませんよ、昔よく侵入してましたから。でももし怪物や魔獣が襲ってきたらちゃんと守ってくださいね!」
「もちろんだ。こちらこそ頼む」
フィンは支度も万全らしく、鞄から小さな燭台を出して蝋燭に器用に火を灯し、ランプの代わりにした。鞄の中には他にも何かはわからないがいろいろ詰め込まれているようだ。
(まさかフィンに助けられるとは…てっきり消極的で臆病な少年かと思っていたが、案外好奇心が強くて行動力があるようだな)
「足許に気をつけてゆっくり進んでください。岩盤は頑丈ですがところどころ窪んでたり滑りやすくなってたりするので」
「わかった」
そして二人は夜の闇よりも暗い地の底へと踏み込んでいった。
久遠はひどく焦っていた。せっかくここまで通ってきた分かれ道の方向を記憶してきたのに、疑問と緊張で頭の中がこんがらがってわからなくなってしまったのだ。真っ暗闇の中、目印も記憶もなく、あるのは喉許の刃物だけで、自力で地上に出られる可能性はほとんどない。頼みの綱の静夜が助けに来てくれる保証もない。こんなことなら昼間に町中を駆けずり回って何としてでも遺構の内部の情報を入手しておくべきだった、と後悔の念が込み上げた。
(やっぱり下見とか事前の下調べって大事なんだなぁ…もしまた静夜に会えたら言ってやろう、備えあれば憂いなしだぞって…もし…また会えたら…)
静夜のじっと考え込む表情や微笑む顔が浮かんでなぜか胸が締めつけられる。甘いような、少し苦しいようなその痛みをふとまた思い出せるときが来て欲しいーーそう思ったとき不意に前方におぼろな光が見えた。道が終わり、彼は松明の炎の灯る壁に囲まれた広い空間に出た。
中央まで進むよう促され、そこで初めて振り返ることを許された。
ひょろっと背の高い、膝まで隠れる丈の長い黒いマントを着込んだ男が立っている。
(やっぱり人間か…でも何だろう、何か妙だぞ…それに、怪物はどうした?町長は半獣半人の怪物だって言ってたよな…もしかして使いか下っ端かな?)
久遠がベール越しに男の姿を凝視していると彼はいきなり近づき、久遠のランプを奪い取って脇に投げ捨てた。
「顔を見せて」
「…」
自然光ではないこの明かりの中で顔をさらすだけなら、身体に触れられない限りは男だとは気づかれにくいだろう。だが時間は稼いでおくに越したことはない。静夜が駆けつけてくれる万にひとつの可能性に賭け、久遠は思い切ってひと芝居打つことにした。
「ベールを上げて。早く」
「…」
「どうした?」
声を出せば男だとばれる危険がある。久遠は躊躇うしぐさも交えてたっぷりと沈黙を引き延ばすと、あらかじめ練習したとおり、喉を意識して鼻にかかった小さな声を絞り出した。
「…恥ずかしくて…」
相手が息を呑む気配が伝わり、思わずひやりとした。
(我ながらなんて声だ!…逆効果にならなきゃいいけど)
すると男は気が急く様子で引きむしるように先に自分のフードを剥いだ。どんよりと濁った両目に重たげなまぶた、土中の爬虫類のように冷たく生っ白い肌。声からして若者のはずなのに生気がまるで感じられず、異様に年を取って見える。俄に眼前に現れたその素顔に生理的な嫌悪感を禁じ得ず、久遠はベールの陰の眉を強くひそめた。男は苛立ちのにじむ声色で久遠に迫った。
「無駄な時間を取らせるな…!顔を見せろ!」
あっ、と思った瞬間には手が伸びてきてベールが剥ぎ取られ、長い金髪がふわっと広がった。久遠は思わず目を閉じた。
(頼む、バレないでくれ…!!)
もし女装がばれて危害を加えられそうになったらそのときは実力行使に出る、と久遠は決めていた。ひそかに背後に回した手はすでに隠し武器を握っている。だがようやく久遠の顔を見た男は表情をこわばらせ、一歩、二歩とにじり下がると、突然ぶるぶると激しく頭を振り始めた。
「…違う…違う、違う、違う…!!」
(え?)
女でないからか、それとも町の娘でも、そもそも人間でもないからかーー瞬時にいくつもの疑問が脳裏を駆け抜けたが、相手の反応はそのどれにも当てはまらないように思えた。あまりの奇妙さに久遠は束の間呆然とした。
「どうして、どうして気づいてくれないんだ…こんなにもこんなにも強く呼びかけて、ずっとずっと待ってるのに…君まで僕を見放すのか…!!」
どうやら誰かを待っているらしい。この雰囲気なら感情に任せて何もかもぶちまけてくれるかもしれない、と久遠は意を決して尋ねた。
「誰を待ってるん…の?」
とっさに語尾を取り繕ったのにも気づかず、髪を振り乱して身悶えしていた男は怒りか悲しみかわからないギラギラと尖る目つきで久遠を睨みつけた。
「おまえなんかに僕の気持ちがわかるものか…!おまえもいらない…あの三人と同じ運命にしてやる!!」
(三人とも殺されてしまってるのか?僕はやすやすと殺される気なんてないけど、静夜は来ないし、一戦交えるにはまだ早いぞ…!)
「待って!花嫁の他に原礎の女の子が二人来たでしょ?彼女たちはどこ?」
「原礎?知らない…きっとあの人が連れてったんだろ…けどそんなことはどうでもいい!!」
「あの人?あの人って…!」
久遠の言葉はそこで途切れた。突然ぬっと伸びてきた手が顔面を摑んで絞め上げてきたからだ。窒息させて気絶させる気だ、と直感的に見抜いた久遠は後ろ手を素速く回しその腕目がけて振り出した。
ビシュッ!
「…!!」
わずかに赤黒いものが飛んだ。離れた腕を払いのけ、がら空きになった胴に回し蹴りを叩き込むと純白のドレスの裾がふわりと広がった。もんどり打って地面に転がった男は反撃されるとは思っていなかったのだろう。脇腹を押さえよろめきながら立ち上がると愕然とした顔で久遠を見た。
「お、おまえ、何者だ!?女の子…じゃないのか!?」
「それはこっちの台詞だよ!あーあ、せっかく念入りに変装してここまで我慢したけどもう限界だ!」
久遠はドレスの裾をがしっと摑み上げると、手にした翠刃でひと思いに大胆にぐるりと生地を切り裂いた。ビリビリビリッ!ギョロリとした目をいっそう剥き出して釘づけになる男の前にしなやかな脚が露わになった。軽いキュロットを下に穿いているのでもう何も気にする必要はない。
「騙してごめんね。僕、男なんだ。…さあ、芝居は終わりだ。先に手を出したのはおまえの方だからな。おとなしくお縄について洗いざらい吐いてもらうぞ!」
久遠が瑞葉の煌気で強化された蔦の碧縄を両手にぴんと張って見せると、呆気に取られていた男の目の色が再び烈火の如く燃え盛った。
「このガキ…貴様…!!調子に乗るな…!!」
声の質が明らかに変わる。縮こまっていた背がまるで裏返しになるかのように反り返り、顔が、顎までもが天井を向いた。その後久遠は信じ難い光景を目撃したーー
「…ほんとにわかるんですか?土や砂の具合で」
静夜は分岐点に屈み込み、燈で照らし出した地面の様子を慎重に観察しながら背後で待つフィンに答えた。
「うん。直近のもので二人以外に踏んだ者がいなければ、かすかな足跡が土や砂の表面に残るんだ。男の方は道を熟知してるから迷いはないはず…」
始めのいくつかの分岐はフィン曰く細い袋小路なので難なく通過したが、ここに来て両方に通路と空間があるという分岐に来たので、静夜が目視による判別に乗り出したのだった。
「左だな」
「確かそっちの方が奥は深くて空間が多かったはずです…ってよくわかりますね」
「なんとなく」
まったくぴんと来ず首を傾げながらフィンは歩き出す静夜についていった。
しかし次の分岐は静夜もお手上げの難関だった。地面が土砂にほとんど覆われていない岩盤なので足跡がついていないのだ。しかもどちらの道もまだまだ続いているように見える。
「フィン、どう思う?」
「…左の道は昔の人の生活空間か小部屋のような穴がいくつかありますが、そこで行き止まりです。右の道はだんだん下って…えーと…広めの空間があって、その先はまだ続いてます」
「ずいぶん深い洞窟なんだな。…ここはまず行き止まりの方を確かめておこう」
そう言って左手に進んでいった静夜は急に足を止め、じっと耳をそばだてた。
「どうしました?…ま、まさか魔獣…!?」
「いや、獣の臭いはしない。そうじゃなくて、これは…人の話し声だ」
「久遠さんでしょうか?」
「…わからない」
久遠がいるならあの不気味な男も当然一緒だろう。さらに警戒と緊張を強めながら左側へ進むと、話し声が次第にはっきりと反響して聞こえ始めた。複数の女性の声で、嘆きや落胆に満ち満ちている。久遠でないと知れると静夜は焦りと迷いに襲われたが、人がいるならば確かめずに引き返すわけにはいかないので、篝火の揺れる方に注意深くそっと近づいていった。すると人影に気づいたのだろう、一斉に彼女たちが反応した。
「誰!?」
静寂を引き裂く甲高い叫びにフィンがビクッと震える。突然現れた二人の人間の姿を見ると、三つの牢にそれぞれ閉じ込められていた三人の少女が鉄格子にしがみついて悲痛極まる表情で二人に訴えかけた。
「やっと来てくれたのね!ずっと待ってたのよ、誰かが助けに来てくれるのを!」
「お願い、早くここから出して!もうこんなとこにいたくない!」
「早く家に帰りたい…父さんと母さんに会いたい…!」
先にさらわれた三人の花嫁だろう。静夜とフィンは顔を見合わせてうなずいた。静夜はすぐさま鉄格子につけられた錠前をナイフで順に破壊して扉を開けた。レーヴンホルトと同様、珠鉄の優れた技と腕前で鍛えられた鋭いナイフには造作もない仕事だった。
「大丈夫ですか?怪我などは?」
「大丈夫。ね?」
ひとりがあとの二人を見ると二人とも元気な様子で大きくうなずいたが、とにかく聞いて欲しくてたまらないというふうに静夜に詰め寄って猛烈な勢いでしゃべり始めた。
「まったくひどいったらありゃしないわ、こんな真っ暗で湿っぽくて何もなくてつまんない洞穴の奥に閉じ込めるなんて。一番最初に来た私なんて、もう三週間よ!」
「でも別に痛いことや気持ちの悪いことをされたわけじゃないの。だってあの男、さんざん怖がらせたくせに、牢に押し込めただけでそれっきり一度も来ないんだから。怪物も魔獣もいないし、来るのは次の女の子を牢に入れるときだけ」
「むしろ謎のおばさんの方が長く一緒にいたわ。その人いつも顔を隠してひと言も話さなくてなんか変な感じだったけど、食べ物や着替えを用意してくれたり、身体を拭く世話まで焼いてくれたの。でも今日はまだ来てくれなくて…みんなお腹がぺこぺこなの…」
途切れなく休みなく一気に捲し立てられた静夜は三人の気が済むまで辛抱強く聞きながら次第に表情に強い危惧をにじませた。
(理由はわからないが、花嫁をいきなり殺す意思はないことを久遠は知らない…だがもし女装を解いて捕縛する構えを見せたら…久遠が危ない…!)
「今四人目の花嫁がこの遺構のどこかに連れてこられてるんです。一刻も早く助けに向かわなければなりません。その男が行きそうな場所に心当たりはありませんか?」
静夜が早口に尋ねると、最初に来たという少女が言った。
「今あなたたちが来た道の手前の方の右側に分かれ道があったでしょ?そこを下りていった先の広間みたいなとこよ、きっと」
「さっき僕らが迷った分岐です。…間違いないですか?」
「暗闇の中にずっといると感覚が異常に鋭くなるの。この子たちもそっちから来たし、ついさっきも同じ気配がしたわ」
静夜は心を決めてうなずくとフィンに燭台を渡し、代わりに篝火の松明を一本取った。
「この先は俺ひとりで行く。君はこのまましばらくここで三人についていてあげてくれ。後で必ず迎えに来る」
「はっ、はい!ど、どうか気をつけて…!」
「うん」
三人の少女が悲鳴にも似た名残惜しそうな声を上げるのも無視し、静夜はひとり暗闇の道を駆け戻った。フィンは三人の方を振り返って必死に笑顔を作った。
「皆さん、もうすぐ家に帰れますからね!安心してくださいね!」
『…』
男らしく頼り甲斐がありそうな方が去り、どう見ても頼りなく冴えない方が残されたので、三人の少女は露骨に不機嫌な膨れっ面になったのだった。
久遠と静夜の背筋を戦慄が走る。黒いフードを顎先まですっぽり下ろし、全身漆黒のマントで覆ったその人間は、久遠に振り向く暇も与えず彼の喉許に冷たいものを押し当てた。
「振り向かないで、そのまま歩いて」
意外にも若く平凡な男の声に驚きながら、久遠は言われたとおり足を前に運び続ける。レーヴンホルトを抜きかけていた静夜は手を出せずに見守るしかない。
「どういうことなんですか?相手は半獣半人の怪物なんじゃあ…」
「確かに…だが実際に見た人は数人しかいない」
静夜は顔をしかめたが、不意に頭に浮かんだその考えはひとまず脇に置いて久遠と謎の男の動きを注視する。
久遠は刃物の硬さを感じながら喉をこくんと上下させた。出発のときに手頃な草葉を拾ってドレスの内側に仕込んできていたが、いきなりここまで接近されるとは予想していなかったので身動きが取れない。
(これじゃ何もできない…怪物はどこに行ったんだ?静夜は…まさか先にやられたりしてないよな…?)
首を動かして静夜の姿を確かめたい衝動に駆られたが、懸命に抑えつけて歩き続ける。そうして二人はとうとう遺構の入り口に行き着いた。
「先に入って」
山中にぽっかりと口を開けた洞窟に久遠はランプの燈を差し出した。奥は真っ黒な闇がどこまでも果てしなく落ち込んでいくようだ。久遠は足許に注意し、背後の男の方向指示に従いながら進んでいった。
「僕の言ったとおりになりましたね」
「…ああ」
久遠が消えた遺構の入り口の闇を静夜は苦々しげに見つめる。彼から目を離すのは初めてのことなので本当は気が気でなかったが、フィンの前なので平静を装っていた。
「僕、お役に立てますよね?ね、連れてきてよかったでしょう?」
「不本意で予定外ではあったがな。ここからは君の案内だけが頼りだ。怖いとは言わせないぞ」
「怖くなんかありませんよ、昔よく侵入してましたから。でももし怪物や魔獣が襲ってきたらちゃんと守ってくださいね!」
「もちろんだ。こちらこそ頼む」
フィンは支度も万全らしく、鞄から小さな燭台を出して蝋燭に器用に火を灯し、ランプの代わりにした。鞄の中には他にも何かはわからないがいろいろ詰め込まれているようだ。
(まさかフィンに助けられるとは…てっきり消極的で臆病な少年かと思っていたが、案外好奇心が強くて行動力があるようだな)
「足許に気をつけてゆっくり進んでください。岩盤は頑丈ですがところどころ窪んでたり滑りやすくなってたりするので」
「わかった」
そして二人は夜の闇よりも暗い地の底へと踏み込んでいった。
久遠はひどく焦っていた。せっかくここまで通ってきた分かれ道の方向を記憶してきたのに、疑問と緊張で頭の中がこんがらがってわからなくなってしまったのだ。真っ暗闇の中、目印も記憶もなく、あるのは喉許の刃物だけで、自力で地上に出られる可能性はほとんどない。頼みの綱の静夜が助けに来てくれる保証もない。こんなことなら昼間に町中を駆けずり回って何としてでも遺構の内部の情報を入手しておくべきだった、と後悔の念が込み上げた。
(やっぱり下見とか事前の下調べって大事なんだなぁ…もしまた静夜に会えたら言ってやろう、備えあれば憂いなしだぞって…もし…また会えたら…)
静夜のじっと考え込む表情や微笑む顔が浮かんでなぜか胸が締めつけられる。甘いような、少し苦しいようなその痛みをふとまた思い出せるときが来て欲しいーーそう思ったとき不意に前方におぼろな光が見えた。道が終わり、彼は松明の炎の灯る壁に囲まれた広い空間に出た。
中央まで進むよう促され、そこで初めて振り返ることを許された。
ひょろっと背の高い、膝まで隠れる丈の長い黒いマントを着込んだ男が立っている。
(やっぱり人間か…でも何だろう、何か妙だぞ…それに、怪物はどうした?町長は半獣半人の怪物だって言ってたよな…もしかして使いか下っ端かな?)
久遠がベール越しに男の姿を凝視していると彼はいきなり近づき、久遠のランプを奪い取って脇に投げ捨てた。
「顔を見せて」
「…」
自然光ではないこの明かりの中で顔をさらすだけなら、身体に触れられない限りは男だとは気づかれにくいだろう。だが時間は稼いでおくに越したことはない。静夜が駆けつけてくれる万にひとつの可能性に賭け、久遠は思い切ってひと芝居打つことにした。
「ベールを上げて。早く」
「…」
「どうした?」
声を出せば男だとばれる危険がある。久遠は躊躇うしぐさも交えてたっぷりと沈黙を引き延ばすと、あらかじめ練習したとおり、喉を意識して鼻にかかった小さな声を絞り出した。
「…恥ずかしくて…」
相手が息を呑む気配が伝わり、思わずひやりとした。
(我ながらなんて声だ!…逆効果にならなきゃいいけど)
すると男は気が急く様子で引きむしるように先に自分のフードを剥いだ。どんよりと濁った両目に重たげなまぶた、土中の爬虫類のように冷たく生っ白い肌。声からして若者のはずなのに生気がまるで感じられず、異様に年を取って見える。俄に眼前に現れたその素顔に生理的な嫌悪感を禁じ得ず、久遠はベールの陰の眉を強くひそめた。男は苛立ちのにじむ声色で久遠に迫った。
「無駄な時間を取らせるな…!顔を見せろ!」
あっ、と思った瞬間には手が伸びてきてベールが剥ぎ取られ、長い金髪がふわっと広がった。久遠は思わず目を閉じた。
(頼む、バレないでくれ…!!)
もし女装がばれて危害を加えられそうになったらそのときは実力行使に出る、と久遠は決めていた。ひそかに背後に回した手はすでに隠し武器を握っている。だがようやく久遠の顔を見た男は表情をこわばらせ、一歩、二歩とにじり下がると、突然ぶるぶると激しく頭を振り始めた。
「…違う…違う、違う、違う…!!」
(え?)
女でないからか、それとも町の娘でも、そもそも人間でもないからかーー瞬時にいくつもの疑問が脳裏を駆け抜けたが、相手の反応はそのどれにも当てはまらないように思えた。あまりの奇妙さに久遠は束の間呆然とした。
「どうして、どうして気づいてくれないんだ…こんなにもこんなにも強く呼びかけて、ずっとずっと待ってるのに…君まで僕を見放すのか…!!」
どうやら誰かを待っているらしい。この雰囲気なら感情に任せて何もかもぶちまけてくれるかもしれない、と久遠は意を決して尋ねた。
「誰を待ってるん…の?」
とっさに語尾を取り繕ったのにも気づかず、髪を振り乱して身悶えしていた男は怒りか悲しみかわからないギラギラと尖る目つきで久遠を睨みつけた。
「おまえなんかに僕の気持ちがわかるものか…!おまえもいらない…あの三人と同じ運命にしてやる!!」
(三人とも殺されてしまってるのか?僕はやすやすと殺される気なんてないけど、静夜は来ないし、一戦交えるにはまだ早いぞ…!)
「待って!花嫁の他に原礎の女の子が二人来たでしょ?彼女たちはどこ?」
「原礎?知らない…きっとあの人が連れてったんだろ…けどそんなことはどうでもいい!!」
「あの人?あの人って…!」
久遠の言葉はそこで途切れた。突然ぬっと伸びてきた手が顔面を摑んで絞め上げてきたからだ。窒息させて気絶させる気だ、と直感的に見抜いた久遠は後ろ手を素速く回しその腕目がけて振り出した。
ビシュッ!
「…!!」
わずかに赤黒いものが飛んだ。離れた腕を払いのけ、がら空きになった胴に回し蹴りを叩き込むと純白のドレスの裾がふわりと広がった。もんどり打って地面に転がった男は反撃されるとは思っていなかったのだろう。脇腹を押さえよろめきながら立ち上がると愕然とした顔で久遠を見た。
「お、おまえ、何者だ!?女の子…じゃないのか!?」
「それはこっちの台詞だよ!あーあ、せっかく念入りに変装してここまで我慢したけどもう限界だ!」
久遠はドレスの裾をがしっと摑み上げると、手にした翠刃でひと思いに大胆にぐるりと生地を切り裂いた。ビリビリビリッ!ギョロリとした目をいっそう剥き出して釘づけになる男の前にしなやかな脚が露わになった。軽いキュロットを下に穿いているのでもう何も気にする必要はない。
「騙してごめんね。僕、男なんだ。…さあ、芝居は終わりだ。先に手を出したのはおまえの方だからな。おとなしくお縄について洗いざらい吐いてもらうぞ!」
久遠が瑞葉の煌気で強化された蔦の碧縄を両手にぴんと張って見せると、呆気に取られていた男の目の色が再び烈火の如く燃え盛った。
「このガキ…貴様…!!調子に乗るな…!!」
声の質が明らかに変わる。縮こまっていた背がまるで裏返しになるかのように反り返り、顔が、顎までもが天井を向いた。その後久遠は信じ難い光景を目撃したーー
「…ほんとにわかるんですか?土や砂の具合で」
静夜は分岐点に屈み込み、燈で照らし出した地面の様子を慎重に観察しながら背後で待つフィンに答えた。
「うん。直近のもので二人以外に踏んだ者がいなければ、かすかな足跡が土や砂の表面に残るんだ。男の方は道を熟知してるから迷いはないはず…」
始めのいくつかの分岐はフィン曰く細い袋小路なので難なく通過したが、ここに来て両方に通路と空間があるという分岐に来たので、静夜が目視による判別に乗り出したのだった。
「左だな」
「確かそっちの方が奥は深くて空間が多かったはずです…ってよくわかりますね」
「なんとなく」
まったくぴんと来ず首を傾げながらフィンは歩き出す静夜についていった。
しかし次の分岐は静夜もお手上げの難関だった。地面が土砂にほとんど覆われていない岩盤なので足跡がついていないのだ。しかもどちらの道もまだまだ続いているように見える。
「フィン、どう思う?」
「…左の道は昔の人の生活空間か小部屋のような穴がいくつかありますが、そこで行き止まりです。右の道はだんだん下って…えーと…広めの空間があって、その先はまだ続いてます」
「ずいぶん深い洞窟なんだな。…ここはまず行き止まりの方を確かめておこう」
そう言って左手に進んでいった静夜は急に足を止め、じっと耳をそばだてた。
「どうしました?…ま、まさか魔獣…!?」
「いや、獣の臭いはしない。そうじゃなくて、これは…人の話し声だ」
「久遠さんでしょうか?」
「…わからない」
久遠がいるならあの不気味な男も当然一緒だろう。さらに警戒と緊張を強めながら左側へ進むと、話し声が次第にはっきりと反響して聞こえ始めた。複数の女性の声で、嘆きや落胆に満ち満ちている。久遠でないと知れると静夜は焦りと迷いに襲われたが、人がいるならば確かめずに引き返すわけにはいかないので、篝火の揺れる方に注意深くそっと近づいていった。すると人影に気づいたのだろう、一斉に彼女たちが反応した。
「誰!?」
静寂を引き裂く甲高い叫びにフィンがビクッと震える。突然現れた二人の人間の姿を見ると、三つの牢にそれぞれ閉じ込められていた三人の少女が鉄格子にしがみついて悲痛極まる表情で二人に訴えかけた。
「やっと来てくれたのね!ずっと待ってたのよ、誰かが助けに来てくれるのを!」
「お願い、早くここから出して!もうこんなとこにいたくない!」
「早く家に帰りたい…父さんと母さんに会いたい…!」
先にさらわれた三人の花嫁だろう。静夜とフィンは顔を見合わせてうなずいた。静夜はすぐさま鉄格子につけられた錠前をナイフで順に破壊して扉を開けた。レーヴンホルトと同様、珠鉄の優れた技と腕前で鍛えられた鋭いナイフには造作もない仕事だった。
「大丈夫ですか?怪我などは?」
「大丈夫。ね?」
ひとりがあとの二人を見ると二人とも元気な様子で大きくうなずいたが、とにかく聞いて欲しくてたまらないというふうに静夜に詰め寄って猛烈な勢いでしゃべり始めた。
「まったくひどいったらありゃしないわ、こんな真っ暗で湿っぽくて何もなくてつまんない洞穴の奥に閉じ込めるなんて。一番最初に来た私なんて、もう三週間よ!」
「でも別に痛いことや気持ちの悪いことをされたわけじゃないの。だってあの男、さんざん怖がらせたくせに、牢に押し込めただけでそれっきり一度も来ないんだから。怪物も魔獣もいないし、来るのは次の女の子を牢に入れるときだけ」
「むしろ謎のおばさんの方が長く一緒にいたわ。その人いつも顔を隠してひと言も話さなくてなんか変な感じだったけど、食べ物や着替えを用意してくれたり、身体を拭く世話まで焼いてくれたの。でも今日はまだ来てくれなくて…みんなお腹がぺこぺこなの…」
途切れなく休みなく一気に捲し立てられた静夜は三人の気が済むまで辛抱強く聞きながら次第に表情に強い危惧をにじませた。
(理由はわからないが、花嫁をいきなり殺す意思はないことを久遠は知らない…だがもし女装を解いて捕縛する構えを見せたら…久遠が危ない…!)
「今四人目の花嫁がこの遺構のどこかに連れてこられてるんです。一刻も早く助けに向かわなければなりません。その男が行きそうな場所に心当たりはありませんか?」
静夜が早口に尋ねると、最初に来たという少女が言った。
「今あなたたちが来た道の手前の方の右側に分かれ道があったでしょ?そこを下りていった先の広間みたいなとこよ、きっと」
「さっき僕らが迷った分岐です。…間違いないですか?」
「暗闇の中にずっといると感覚が異常に鋭くなるの。この子たちもそっちから来たし、ついさっきも同じ気配がしたわ」
静夜は心を決めてうなずくとフィンに燭台を渡し、代わりに篝火の松明を一本取った。
「この先は俺ひとりで行く。君はこのまましばらくここで三人についていてあげてくれ。後で必ず迎えに来る」
「はっ、はい!ど、どうか気をつけて…!」
「うん」
三人の少女が悲鳴にも似た名残惜しそうな声を上げるのも無視し、静夜はひとり暗闇の道を駆け戻った。フィンは三人の方を振り返って必死に笑顔を作った。
「皆さん、もうすぐ家に帰れますからね!安心してくださいね!」
『…』
男らしく頼り甲斐がありそうな方が去り、どう見ても頼りなく冴えない方が残されたので、三人の少女は露骨に不機嫌な膨れっ面になったのだった。
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⇒「美少年受け」「エロエロ」「総受け」「複数」「調教」「監禁」「触手」「衆人環視」「羞恥」「視姦」「モブ攻め」「オークション」「快楽地獄」「男体盛り」etc
※痛い系の描写はありません(可哀想なので)
※ピーナッツバター、永遠の夏に出てくる空のパラレル話です。この話だけ別物と考えて下さい。
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