上 下
6 / 45
序章 悪役は、不可避らしい

5話 暗躍する運命

しおりを挟む


 そうして迎えた、とある夜。
 
 王都の誇る巨大で豪奢ごうしゃな劇場『オルガ』に、アリサとロイクは居た。
 ドレスアップして潜入したふたりの目の前には、仮面で身分や素性を隠し、好き勝手に振る舞う特権階級の人間たちが溢れている。ダンスに興じたり、密着したまま会話をしたり、グラスのワインをあおったり。

反吐へどが出そうだ」

 思わず呟いたアリサの声は小さく、喧騒に負けてロイクの耳までは届かない。
 
「何か言ったか?」
「いえ。うっぷ」

 思わずそう吐き出したアリサに対して、ロイクは優しい言葉をかけた。
 
は窮屈だろう。今夜だけだ。なんとか耐えてくれ」
「わかってます」
 
 
 ――虎穴こけつらずんば虎子こじを得ず。


 の有名な故事成語を思い浮かべ、アリサは肩に力を入れた。
 ふたりがさりげなく向かうのは、ステージ脇に設けられた特別観覧席の入り口付近だ。

 近づいていくと、バニラのような香りが鼻をかすめる。心の壁を溶かし、何もかも話してしまいたくなるような甘く官能的な香りは、アリサの脳内に警鐘けいしょうを打ち鳴らした。

「っこの香り……危険です」
「!」
「吸い込んではいけません」
「魔力を感じる」
「さすがですね。恐らくは、毒の一種」

 アリサは、添えていたロイクの腕の体温が上がったことに気づく。火魔法使いの彼は幼いころ、激高すると周囲に炎をまき散らす悪癖があったらしい。
 
「……どうか、冷静に」
「すまん」
 
 ロイクの怒りはごもっともだ、とアリサは思う。なぜなら、現在ラブレー王国を侵食しているのは、嫌なことを何もかも忘れられると評判のだからだ。
 
 出所は不明だが、オルガで開かれる『仮面舞踏会』でがたしなむことができる、ともっぱらの噂である。

 楽しむだけなら良いが、問題は、非常に高価で高い依存性があることだ。

 おかげで、トリベール侯爵家より先に破産する家が現れ――宰相補佐官であるロイクが調査に動かざるを得なくなった。

 
「毒……証拠があれば言うことはないが」
「厳戒態勢、ですね」

 屈強な護衛たちが、入り口を阻んでいる。ニコも、給仕きゅうじとしてさりげなく入ろうと試みたが、無駄に終わったと言っていた。ロイクが身分を明かすわけにはいかない。明かしたとしても、入れるかは微妙だなと頭上で苦笑が漏れる。
 
 特別観覧席で繰り広げられているナニカは、ここからでは窺い知ることはできないが、見上げたバルコニーから時折溢れる嬌声きょうせいとドレスの裾ではかるに――狂宴きょうえんに間違いない。

 
(せめてモノだけでも……) 
『アレ欲しいの? 取ってくる?』
(! 無理しちゃだめよ)
『……ダイジョブ』
 
 ずるり、とアリサの頭から何かが抜け出て軽くなる。そうしてにょろにょろと床をっていくのは黒蛇の影だ。

「あちらへ、ご興味が?」

 すると、観覧席を見上げるロイクにふらりと男が近寄り、声を掛けてきた。光沢のある黒の燕尾服でグレーのベスト、襟元に金色で鳥の形をしたラペルピンが刺さっている。金髪は前髪ごと後ろになでつけてあり、瞳の色は仮面越しに見る限り、薄茶色だ。仮面のせいで年齢は不明だが、恐らく二十代前半ぐらいだろう。

「ああ。なんだか楽しそうだなと思ってね」
「あそこへは、口添えがないと入れないんだよ」
「おや。それは残念だ。だが教えてくれてありがとう」
 
 ロイクは、さりげなくその男に金貨を一枚、握らせた。相手の口元がだらしなくニタァとゆるむのを見たアリサは、またしても吐きそうになるのをこらえた。仮面があるからこそ、口の動きが際立つ。そこへ欲望が漏れれば、嫌悪けんおしか感じない。

「どういたしまして。そうだなあ……次の、つきの日、今ぐらいの時間にさ。この裏のサロンに行くと……何か良いことがあるかもしれないなあ」
「ほう?」
「手土産に、赤いダリアを一本。ああ、ご婦人はご遠慮願いたいね」

 アリサはあら残念とばかりに、優雅に扇で顔をあおいで見せる。男は、満足そうに頷いてから、仮面越しでもねっとりとした視線を、アリサの肩へと向ける。華奢な鎖骨が見えている、素肌の部分だ。

 ぞわ、と寒気が全身を駆け抜けた。

「その代わり、ダンスを一曲。どうかな?」

 ロイクの体温がまた上がり、アリサは覚悟を決める。

「よろしくてよ。でも彼がヤキモチをきますの」
「その通り。すぐにお返し願おう」
「ははは! 一曲だけだよ」

 大丈夫、の意思表示で扇をロイクに預ける。
 腰に添えられた熱い手から離れるのに、アリサは勇気を使い果たした気分だった。
 
「では、レディ」
 
 キザな仕草で差し出された手を取ると、手袋越しでも感じる相手の体温が、気持ち悪かった。ロイクのはそう感じないのに、不思議だなと思考をできるだけ逃避させる。ただただアップテンポな曲が流れているダンスホールへとエスコートされ、お互いの息を合わせる間もなく強引なステップが始まった。周囲では、必要以上にべったりとくっつく男女が、所狭しとクルクル踊っている。

「なんて華奢な腰なんだ」

 相手の身体的特徴に直接言及するなどという、とてつもなく下品な振る舞いまで、仮面舞踏会マスカレードならば許されるのか。
 
「手首も細いし、肌は白いし……このまま連れ去りたいぐらいだよ」

 むせかえるような香水、汗、吐息、アルコールの混じった匂い。
 甲高い媚びや、腹黒い嘲笑。
 全てに吐きそうになりつつ、アリサは懸命にステップを踏む。この男は、恐らく『入口』だ。悟らせない。逃がさない。
 
「んふふ。ねーぇ? ダリアの花言葉は、ご存じかしらぁ?」

 脳内では、聖女の甘ったるい話し方を再生している。
 
「? さあ、なんだろう」
「あらぁ。ご存知ないなんてぇ。残念だわぁ。んふふふふ」

 アリサはターンの後で、そっと彼の顎を人差し指で撫でてやる。男はうっとりとしながら、軽く首を横に振った。

「まいったな。次までに調べておくよ……黒扇こくせんのレディ」

 アリサはそれに、ゆっくりと一度だけ頷いた。男は余韻を楽しむようにして手の甲にキスのフリをしてから、大袈裟なボウ・アンド・スクレープを披露する。
 もったいぶったカーテシーをしてみせ、ゆったりときびすを返したところで、ロイクの冷たい目線とぶつかる。

 歩いて戻りながら、乱れた息を整える。大丈夫、バレてなどいない。大丈夫だ――自分に言い聞かせながら、歩いていく。まるで彼にはスポットライトが当たっているかのように、どれだけ人がひしめいていても、アリサの目にはその姿がはっきりと映っていた。

「……出よう」

 ディリティリオが素早く背中を這い上り、戻ってきたのを感じてから、アリサは頷く。
 
 めいいっぱい楽しんだという演技をしつつ、すれ違う人々の特徴を何となく目に入れながら劇場から外に出ると、夜風が首元を撫でた。

 ふたりは、ようやく肺の奥まで空気を吸い込む。

「店まで送ろう」

 ロイクが、アリサの腰に手を添え馬車へ誘導しながら、静かに言う。
 
「良いのですか」
「うむ。グルグル走るよう、言ってある。もうしばらく付き合え」

 深夜の月は驚くほど明るいと思ったら満月だ、とアリサは肌寒い夜の空を見上げる。前世なら、中秋の名月と言えるだろう。
 寮監には三日前から『家の用事で』と外泊届を出してある。店での寝泊まりに支障はない。
 

 ――仕掛けは、施してきた。そして手の中には、ディリティリオがもたらした物的証拠がある。それでも……覚悟しなければならない。
 

 愛と太陽の女神テラは、やはり過酷な運命を用意していた。

 
 この王国をむしばむ甘いバニラの香り。それは間違いなく、毒だ。毒は闇魔法でもって作られる、と太陽神教会の教義によって人々に信じられている。そしてこの国で、闇魔法の使い手と認識されているのは、アリサだけだ。聖女がひとりなら、黒魔女もひとりなのである。

「無事のお戻りで」

 馬車の中では、ニコが待っていた。仮面から眼鏡へ掛け替えるのを手伝ってくれ(さりげなく体でロイクの視線を遮る徹底っぷり)、背後のコルセットを緩めてくれる。

「はあ。苦しかったあ」
「ですよね」
「さすがに疲れたか」
 
 気遣われると、弱音がぽろりと漏れた。

「ん……死にそう」
「アル?」
「アル様?」
「ああ、いやぁ。コルセットというやつは、命を削りますね。女性ってすごいなあ」
 
 慌てて誤魔化すアリサを、ふたりはよほど疲れたのだと思ってくれたらしい。店に着くまでそっとしておいてくれた。
 
  
 このふたりに嫌われたら、立ち直れないかもしれない――アリサはぎゅうっと拳を握りしめながら、不安を噛み殺した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

美しい姉と痩せこけた妹

サイコちゃん
ファンタジー
若き公爵は虐待を受けた姉妹を引き取ることにした。やがて訪れたのは美しい姉と痩せこけた妹だった。姉が夢中でケーキを食べる中、妹はそれがケーキだと分からない。姉がドレスのプレゼントに喜ぶ中、妹はそれがドレスだと分からない。公爵はあまりに差のある姉妹に疑念を抱いた――

いじめられ続けた挙げ句、三回も婚約破棄された悪役令嬢は微笑みながら言った「女神の顔も三度まで」と

鳳ナナ
恋愛
伯爵令嬢アムネジアはいじめられていた。 令嬢から。子息から。婚約者の王子から。 それでも彼女はただ微笑を浮かべて、一切の抵抗をしなかった。 そんなある日、三回目の婚約破棄を宣言されたアムネジアは、閉じていた目を見開いて言った。 「――女神の顔も三度まで、という言葉をご存知ですか?」 その言葉を皮切りに、ついにアムネジアは本性を現し、夜会は女達の修羅場と化した。 「ああ、気持ち悪い」 「お黙りなさい! この泥棒猫が!」 「言いましたよね? 助けてやる代わりに、友達料金を払えって」 飛び交う罵倒に乱れ飛ぶワイングラス。 謀略渦巻く宮廷の中で、咲き誇るは一輪の悪の華。 ――出てくる令嬢、全員悪人。 ※小説家になろう様でも掲載しております。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

芍薬甘草湯
ファンタジー
エドガーはマルディア王国王都の五爵家の三男坊。幼い頃から神童天才と評されていたが七歳で前世の知識に目覚め、図書館に引き篭もる事に。 そして時は流れて十二歳になったエドガー。祝福の儀にてスキルを得られなかったエドガーは流刑者の村へ追放となるのだった。 【カクヨムにも投稿してます】

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!

翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。 「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。 そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。 死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。 どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。 その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない! そして死なない!! そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、 何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?! 「殿下!私、死にたくありません!」 ✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼ ※他サイトより転載した作品です。

神のいとし子は追放された私でした〜異母妹を選んだ王太子様、今のお気持ちは如何ですか?〜

星井柚乃(旧名:星里有乃)
恋愛
「アメリアお姉様は、私達の幸せを考えて、自ら身を引いてくださいました」 「オレは……王太子としてではなく、一人の男としてアメリアの妹、聖女レティアへの真実の愛に目覚めたのだ!」 (レティアったら、何を血迷っているの……だって貴女本当は、霊感なんてこれっぽっちも無いじゃない!)  美貌の聖女レティアとは対照的に、とにかく目立たない姉のアメリア。しかし、地味に装っているアメリアこそが、この国の神のいとし子なのだが、悪魔と契約した妹レティアはついに姉を追放してしまう。  やがて、神のいとし子の祈りが届かなくなった国は災いが増え、聖女の力を隠さなくなったアメリアに救いの手を求めるが……。 * 2023年01月15日、連載完結しました。 * ヒロインアメリアの相手役が第1章は精霊ラルド、第2章からは隣国の王子アッシュに切り替わります。最終章に該当する黄昏の章で、それぞれの関係性を決着させています。お読みくださった読者様、ありがとうございました! * 初期投稿ではショートショート作品の予定で始まった本作ですが、途中から長編版に路線を変更して完結させました。 * この作品は小説家になろうさんとアルファポリスさんに投稿しております。 * ブクマ、感想、ありがとうございます。

処理中です...