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第三章 宿縁、繋がる
第18話 欲を、喰らう
しおりを挟む「あおおおおおおおおおんんんんん……あおおおおおおおおおんんんんん」
静かな日の出前の朝、後宮に響き渡る狼の遠吠えが、空気を切り裂いていく。
「……うるっさいなあ~! さては、お前も力がないなぁ? ただの門番だもんなあ! キャッキャ」
「玖狼!?」
「悔しいが彼奴の言う通り。今のわしにもののけを倒す力はない。せいぜいひとり守るぐらいだな」
ガタガタと真っ青な顔で震える桜宮を目だけでちらりと振り返る玖狼は、大きく息を吐いた。
「分かっていたが、無力。愚闇にああも無理をさせるなど」
「一体、どうしたら」
沙夜はもはや呆然と見守るしかできない。
到底、手も口も出せない。先読みもできない。未知の力に圧倒される。無我夢中で対処してきた今までとは違う。
知性のあるもののけに対峙する方法も、技術も、知恵もないのだ。
「あーはあ! どーした、からす~? 烏天狗と言えば剣技の達人だろぉ~?」
「ぐ」
「ひよっこにもなれてないなあぁ~キャッキャ」
ぬえは、黒く大きな爪でギギギと忍刀を弄んでいる。
「ただの力比べなど、おもしろくないぞぉ~」
「……ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カン・マン」
愚闇の唱える何かの呪文が、沙夜の耳を打ち、心の芯を研ぎ澄ませる。
「ひゃっはー! まじめに修行してたんだねぇ~~~~~でもぉ」
ところが、ぬえには何の効果ももたらさない。
「飽きたから、滅してあげよう」
ぶわりと二回り大きくなった、猿の顔に虎の体、蛇の尾のぬえは――あっという間に愚闇の頭を踏みつけ、簀子縁にもう片方の足を置いて、部屋の中を覗きこんできた。
「うまそうな~きれいな女だぁ~おまえも、柘榴のようにしゃぶりついて喰らうてやろうなぁ~ウキャキャ」
「ひ!」
恐怖のあまりどさりと気絶する桜宮の一方、沙夜は怒りに肩を震わせる。
「っ! おまえが!」
このもののけが女官たちを喰ったことが、明白になった。
だが愚闇ですら足蹴にする力を前に、なす術を持たない。
「キャッキャ。おいしそう! 高貴な女を喰うたら、もっともっと強くなるなあ」
「ぐるるるるる、寄るな!」
ヒョウ、ヒョウ。
ヒョウ、ヒョウ。
耳障りな鳴き声の前に、沙夜の理性は失われそうになる。
「ああ……ばあば……」
「キャキャキャ! そうだ泣け! 恐れろ! 絶望せよ。それこそが小生の……」
「……あさましき。下品なことこの上なし」
音もなくふうわりと現れるは、紫色の狩衣に銀糸のような髪の――
「あっ!」
「またせたね、沙夜。怖かっただろう……玖狼、よく呼んでくれた」
「は」
紫電二位であるギーが、赤い目をギラリと光らせ地面に這いつくばる忍びに声を掛ける。
「これ、烏。時間稼ぎはもう十分ぞ」
「へへ。遅いすよ」
ばさり、とまた黒い羽根が沙夜の眼前に舞う。
「あー、しんど。さて、主はオイラが守るので、やっちゃってください~」
けろりと人の姿に戻り、庇うように片膝を突く愚闇の背中に、沙夜は抱き着きそうになった。
◇
「おまえのようなもののけが、姿を現すなど。誰ぞ呼んだんかえ?」
静かな声で問うギーを前に、さすがにぬえは動きを止める。
雅な紫の狩衣を通して溢れる殺気と覇気は、薄闇を赤く歪ませ、触れれば斬られそうなほど鋭い。
「あああ~この世は何年経っても、欲まみれだねぇ。よきかな、よきかな」
ところがぬえは、意に介さない様子でヒョウヒョウと鳴きながら、おどける。
「ねえギー。三百年もお勤めして、疲れただろう?」
「……年なぞ、数えるのをやめていた」
しゅさ、と袖の音を鳴らして、淡々と体の前で不思議な手の印を作る。その所作に、沙夜は恐怖も忘れ見惚れている。
「なあ。なあ。腹がすいただろう? 弱っているなあ。喰らおう。ともに喰らおうぞ」
「ぬえなどと迎合する気はないが」
「おまえのためなのになぁ」
「なんと?」
「キャキャ。鬼は欲を喰らって生きるもの。だから弱ったのだろ?」
ギーはその赤い目をぱちぱちと瞬かせる。
「ふくく。それこそ余計な世話というに……消えるなら受け入れるまでよ。それが理であろ」
柔らかく笑むギーとは対照的に、ぬえはたちまち厳しい顔をする。
「永久の契りを違えるか」
「われの契りは……ほほぅ、なるほど。きさま青剣の欲であるか」
「え! これが!?」
護国の国宝、青剣には眷属がいるという。
それを魅侶玖は探していたと言っていたが、ぬえがそうだと言うのか。
「違うぞ沙夜。このような下品なもののけは単なる欲。眷属であらせられるお方とは似ても似つかぬ」
「なんと失礼なぁ~キャキャッ。おまえのために出て来てやったというのに」
「頼んだ覚えはないが」
しゅさ、とまた静かに手の印を組み替えるギーの一方、ぬえはギリギリと歯ぎしりをする。
先ほどまでの余裕な態度とは裏腹に、苛立ちを吐き出すように告げた。
「おまえが消えたら、誓約も消える。青剣の力も失われるのだぞ」
――ギーが消えれば、国宝の力も消える。
そんなことを、魅侶玖は言っていなかった。つまりは誰も知らないことなのではないか、と沙夜は戦慄する。その証拠に、ギーがおかしそうにコロコロと喉を鳴らした。
「ほー。われも誓約の一部であったとは、三百年知らなかった。ふくくく」
たちまち猿顔の少年が不貞腐れた顔をする。
「おまえがいなくなったら、駄目なんだよ」
「ほぅ」
「そのまま消える気満々で、魅侶玖とかいうガキに色々教えていただろう」
「だから、出てきたとな?」
「そうさ。ほうら小生の体から、人の命の香りがいくつもするだろう? 腹が減るだろう? 喰らえ。喰らおうぞ」
ふ、とギーは短く息を吐き、眉尻を下げた。
「われの欲は、人を喰らうことに非ず」
「な!?」
ギーがゆるりと一歩動くと、それだけで空気がざわめいた。じわり、じわりとその足から香り立つのは――鬼の気だ。
その証拠に、にょきりと二本の鋭い角を生やしている。
「ギー様……」
「ふくく。わざと多少の命を削った甲斐はあったか……われが誓約の一部と知れた。浅はかなことよなぁ、青剣よ」
鬼の赤い目から迸るは、赤く禍々しい光。
「え」
「知らぬのか? 鬼は千年生きる」
「えっ」
「たかが剣の欲ごときが、見誤ったなあ。邪をも喰らうのが鬼よ。飛んで火にいるなんとやら」
素早く手の印をほどくや、ぬえの首を片手で掴み、ぎりぎりと持ち上げる。
沙夜の目には、信じがたい光景だ。
愚闇を軽く足蹴にした巨体が、華奢な男の片腕で宙に浮いているのだから。
「げ、ぐぎゃ」
「その鳴き声。耳障り」
「がは」
「ようやっと始末できる。我慢にも限界があるゆえ、餌につられてくれて良かった」
驚愕に目を見開く猿顔に向かって、ギーは残忍な笑顔を向けた。
「魂の髄まで、喰らうてやろかえ」
「ひっ……ぎゃ……あ……ぇ……」
だらりと虎の腕を脱力させ、目からは光を失う。
それからシュウシュウと音を立てて黒い塵となり、ぬえはその姿を消していった。
一方で、漲る気をまとい振り返るは――
「ああ、腹がいっぱいだなぁ」
美麗に微笑む鬼だった。
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