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はじまり
第1話 お約束の、異世界転移
しおりを挟むなんでもない日の、いつもの夕方。
杏葉は、大学から自宅アパートまでの帰り道を、文字通りトボトボと歩いていた。大学二年生。去年、夫婦で楽しんで来てね! と送り出した両親を、旅行先の不幸な交通事故で亡くし、天涯孤独となった。奨学金と両親の生命保険と、バイトでなんとかやり繰りして生活している。
そんな杏葉の夢は、通訳になること。
ハリウッドスターに同伴して、瞬時に英語と日本語を操る人達に憧れ、英文学部に進学。大学の交換留学生制度の試験結果を今日、事務局に聞きに行って――撃沈した。
杏葉は、教授推薦をもらえなかった。
教授の講義での誤訳を指摘したこともそうだが、大学のミスコン準優勝者の女子学生が、後から名乗りを上げて、教授の腕にしなだれかかり推薦ゲット。アナウンサーを目指していると噂で聞いた。
――はぁ……アナウンサー、ねえ。
美人で胸が大きいだけでなく、職業まで華やかなモノがいいんだな、と杏葉はどこか冷めた目で、夕空を見上げた。
黒髪ストレートのボブで、黒目。
メイクも滅多にしないし、Tシャツの上にはくたびれたパーカー、デニム、リュックサックの地味子。バイト先のペットショップで、日々力仕事と引っかき傷を楽しんで生きてはいるが、彼氏は高校生の時にできたっきり。
お前、ほんと色気ゼロだな。
とあっという間に振られて、おしまい。
好きだったかどうかと聞かれると、友達としては確かに好きだったが、キスしようとすると……吹き出してしまってダメだった。悪いことしたなあ、と思っている。
――はあ、どうしよ。
お金なら保険金があるが、数百万を今留学資金として使う決断は、出来なかった。踏み出せない。怖い。自分には、いざという時に頼れる人がいない。この判断が、正しいか間違っているのかを聞く人も。
――はああああ……
交換留学制度なら、学費はかからず、大学と提携しているホームステイ先も紹介してもらえた。
――夢が、消えちゃった……
儚い。
なにもかもが、杏葉の手の中から、消えていってしまう。
両親の命も。自分の身体さえも……
「えっ!?」
気づくと、手が透けていく。
「え、え、な、な、な!」
思わず声が出るが、たまたまか、誰も通らない。人も車も自転車も。
「あー、もしかして、迎えに来てくれたのかな?」
両親が、天国から。
「私、このまま消えちゃう? ま、いっかあ」
杏葉は、意識を手放した。
◇ ◇ ◇
【食っちまう?】
【ナマでか?】
【げはは、まずそ】
何人かの声がする。
「……?」
杏葉は、やがて意識を取り戻し……
【起きたぜ】
【へえ、こんな顔してんのかー】
【バカ、寄るなよ。狩られるぞ】
【こんな細っこくてちっちゃいのにか?】
背中がチクチクする。
何度か瞬きをすると、ぼやけた視界が少しずつ鮮明になり、青い空が目に入った。
「?」
生きてる?
最初に思ったのは、それだった。
杏葉は、両手を目の前に持ってきてみる。
いつも見ている、自分の手。
指輪どころか、マニキュアすらしていない、ただの肌色。
「んー?」
透けてないな、が二番目に思ったこと。
表、裏、と何度かひっくり返してみるが、普通の手だ。
……と、いうことは。
杏葉は、自分の身体の所在を確かめた。
背中のチクチクはなんだろう? と思いながら、上体を起こす――いつのまにか寝ていたようだ。手にも、ちくりと感じたのは、青い芝生だった。
「草原? あ、土手……かな?」
ぽかん、である。
もちろん、大学とアパートとの間に、そのような場所はない。
知らない間に、こんなところに? と働かない頭に次々と疑問が浮かんで、はた、とさっきまで声がしていたな、と振り返るとそこには……
「えっ、え! え、ええ!?」
三人の、タヌキ。
三人だ。三匹ではなく。
【おー起きたな、ニンゲン】
【見つかったのが、俺らで良かったなー】
【おう、クマかトラならとっくに食われてるぞ】
【ま、俺らが何言ってるか、分からねえだろーけどな】
【だなあ。お、魚焼けた】
【うまそ。くおくお】
【おじょーちゃんも、食う?】
【やめとけ、ニンゲン襲ったとか言われたくねーよ、こんな国境で】
【んだなー】
タヌキ1が、焚き火にかざしてあった木の棒に刺さった魚を頬張り始め、タヌキ2が水筒をあおり、タヌキ3がこちらに向かって、手をしっ、しっ、とした。
【あっちへ行けよニンゲン。こっちは俺らの国だ】
杏葉が呆然としながら辺りを見回すと、目の前に大きな川が流れている。川、といっても対岸までだいぶある。泳いでは絶対に渡れないくらいの、流れの速さと幅。しかも、橋などないのだ。
その土手を上がりきったところで焚き火を囲んでいるのが、三タヌキ。
【でもどうやって川渡ったんだろな? ここにゃ橋も船もねーぜ】
【服濡れてねーしな
【知らね。関わりたくねー】
「あ、あの!」
【【【!】】】
三タヌキの耳が、ビクッと反応した。
「ここ、どこですか!?」
【おい……】
【聞こえたか?】
【え、うそだろ】
「あの、タヌキさん達!? えっと、言葉分かります! ここ、どこでしょうか?」
【いやいや】
【ニンゲン?】
【しゃ、しゃべ、え? え?】
三タヌキが、動揺している。
が、杏葉も必死だ。
「川を渡れって、どういう意味なのでしょうか! あの、私っ」
【なんだあ!?】
【おい、やべえ、魔物か!?】
【……】
三タヌキのうち、一人が意を決した顔で、近寄ってくる。
【おい、やめろって!】
【やべえよ!】
【……ここは、獣人の国。ニンゲンの国は、あの川の向こうだ。俺らは、たまたま通りかかって、魚を釣って食事をしていただけだ】
「そう、ですか……」
【言葉、分かるのか?】
「は、はい」
そのタヌキは、目を細めた。
【それは、すごいな……なあ、俺らと来るか?】
「え?」
【ここがどこか、知らねえんだろ?】
「あ、えっと」
どうしよう、と杏葉は迷う。
だがニンゲンの国があるというのなら、そちらに行った方が良いのでは、とあまり働かない頭で、思った。
「いえ、その」
【遠慮すんなよ、街まで連れてってやらあ】
ずい、とそのタヌキが近寄ってきて、手首を掴んだ。
【ほら、立て】
「いっ!」
タヌキの爪が、手首にくい込んで――血が垂れた。
【うわー、華奢だな】
タヌキが、舌なめずりした。
ぞわ!
「は、離して!」
【あ?】
「離してください! 痛い!」
【あーこんなの舐めときゃ治るだろ】
べろりと、舐められた。
「……っっ」
【あ?】
「っぎゃあああああああっ!!!!!!」
杏葉の渾身の悲鳴が、土手に響き渡り。
【あっ】
【やべ!】
【まずいまずいまずい、逃げろっ!】
どこからか、ばらばらと人影が躍り出たのを視界の端にとらえ、杏葉は再び気を失った。
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