一番のたからもの

桐生さん

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どうして俺に

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 外は生憎の雨。玄関先には、小さな女の子。
 本日俺は、子供を引き取った。
 いや、正確には押し付けられた、と言った方が適切だろう。若くして生涯を終えた豪快な姉は、最後にこんな言葉を残した。

「ヒロ……、あたしの宝、大切にしてくれ」

 あの時は何を言ってるのか理解に苦しんだが、今ならわかる。

「俺が苦手だってこと、知ってるくせに……」

 俺は溜め息をつき、ソファに背をつけた。壁の隅っこで踞る少女が視界に映るが、あえて気づかないフリをし、テレビに目を向ける。前は楽しく見ていたお笑い番組も、今は空虚なノイズのように感じる。俺はリモコンに手を伸ばし、電源を消した。

 姉の出産時を思い出していた。病室にはベッドに体を預けて赤子を抱く姉、それを見守る看護師、そして俺。義兄は姉との婚姻前に事故で他界しており、代わりに俺が呼ばれた訳だ。

「ほら、アンタも持ってみな」

 姉が大事そうに抱えた赤子をゆっくり、差し出してくる。その肌はまるでつきたての餅のように柔らかく、生クリームのように繊細な物だった。赤子は俺の手が触れるなり、大泣きした。それまでも泣いてはいたが、今度は耳をつんざくような悲鳴を上げて、泣いた。

「おいおい、泣かすなよ~」

 がはは、と豪快に笑う姉。これがきっかけで俺は赤子が、というかこの子が苦手になった。

 バイトで生計を得て、アパートで独り暮らしをする俺を姉は何度も家に招いた。学はそれなりだったため、大学をサボってよく通わされた。
 だが、初めて行った時のことは今でも鮮明に覚えている。

「悪いが美姫の相手をしてやってくれ。あたしは買い物に行ってくる」

「いや、それなら俺が」

「娘の子守りは大変なんだよ。これからもお願いすっから、仲良くしてやってくれよ。叔父さん」

「叔父さんって……」

 言い返す暇も無く、姉は外へと消えていった。俺は踵を返し、義妹の美姫が眠る部屋へと向かった。

「頼むから寝ていてくれよ……」

 淡い期待だった。音を立てないよう部屋の戸を開き、頭を覗かせる。部屋は電気が点いておらず、カーテンから射す木漏れ日だけが明るい。美姫が寝ているはずの小さなベッドに目を向けると、案の定向こうもこちらを見ており、目があってしまった。当然今度も、大泣きされてしまった。

 その後いくら通おうと結果は変わらず、この子に対する苦手意識だけが募っていった。
 姉が余命を宣告された頃、美姫が6才になった頃――――就職した俺は、ついに姉の元へ顔を出さなくなっていた。余命の事は後に知ったため、今となってはそれも後悔している。

◇◇◇

 何かが落ちる音で俺は目を覚ました。電気も点けず暗い部屋を見渡すと、時計の針は19時を指し、美姫の姿が無かった。
 直感が、異変を伝えていた。冷や汗が流れ、不安が心を蝕む。
 俺は急いで電気を点け、音のした方――――台所へと向かった。
 床に散らばった食器。焦燥し、立ち尽くす美姫。自然と声が出ていた。

「何してんだ!」

 その言葉に我に帰ったのか、俺を見るなり美姫は大声をあげて泣いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

 必死に謝罪する美姫に、何故だか腹が立った。
 一体なんでこんなことを? 俺の娘でもないのに。ああ、片付けが面倒だ――――手が出そうになる自分を全力で押さえた。警察云々ではなく、姉に対する後ろめたさがそうさせたんだと、後に思った。

 世間的には今、春休みの真っ最中だ。数週間もすれば美姫も小学生になる。この位の歳ならこれで十分だろう、と部屋の間取りを書いたメモを残し、俺は傘を射すのも忘れ、コンビニへ向かった。

「ちょっと、ずぶ濡れじゃない!」

 店に入るなり声を掛けられた。声の主は女性バイトの桜井さんで、豪快な姉の唯一の親友だった。きっと姉とは真逆の、温厚で優しい性格がうまくはまったのだろう。稀に姉の家で顔を会わしたり、こうして話したりしていたので俺ともそこそこ仲がいい。
 店内には俺の他に客がおらず、俺は桜井さんに手渡されたタオルで顔を拭った。

「すみません、ありがとうございます」

「いいのよ別に。それより、今日は朝から雨だったはずだけど……傘はどうしたの?」

「ええと……少し考え事してて」

「少しで忘れるような物でもないでしょ。わたしで良ければ、話聞くよ」

 俺は少し考えてから、口を開いた。

「実は――――」

 姉が病を抱えていたこと、それで最近亡くなったこと、美姫を引き取ったこと。そして美姫に怒ったこと、メモだけを残して出てきたこと――――それらを詳細に伝えた。桜井さんは姉の病気については知っていたようで、初めは相槌を打ちながら聞いてくれていたが、親友の桜井さんにはひた隠しにしていたのか姉が亡くなったことについては知らなかったみたいで、美しい漆黒の双眸には雫が浮かんでいた。その後は終始、無言で俺の話を聞いていた。時折ハンカチで目元を拭っていたが、真剣な眼差しが俺を捉えていた。
 話を終え、沈黙が流れる。やがて重い唇を開くと、しゃがれた声で呟いた。

「大変、だったね……」

 桜井さんはズボンのポケットから取り出したハンカチで目元を拭い、暗い表情を浮かべた。それは哀しみよりも深い、何か別の感情のようにも思える。
 数秒の沈黙の後、彼女は不意に商品棚を目指して歩き始めた。やがて何かを手に取りレジへ通すと、それらを袋に詰めて俺の前へと差し出した。

「これ、わたしの奢りね。あと、もしよければ住所を教えてくれない? あなたたちのことが心配で」

 袋を片手で受けとると、中からは香ばしい香りが漂っていた。桜井さんは次いで胸ポケットから紙とペンを取り出し、カウンター隅の飲食スペースに置いた。

「言いたいこと聞きたいことは山ほどあるけど……それは全てあと。あなたは早く美姫ちゃんの元へ行ってあげて。きっと寂しい思いをしてるはずだから」

「でも、俺は美姫に避けられて」

「だからわたしも行くのよ。でも、美姫ちゃんは
あなたが思っているよりずっと、あなたのことを気に入ってると思うわ」

 俺に向けられた桜井さんの微笑みは、何処か他人行儀で、それでも強い信念が感じられるような、決意の現れのような物だった。

「そうですかね……」

 住所を書いた紙を手渡すと、今度は傘を渡された。

「ちょっと待ってください、これじゃ桜井さんが」

「わたしは適当に売り物の傘でも買っていくわよ。もし罪悪感とかを感じているなら、お代は後で貰うから」

「傘とタオルは、後で必ず返します」

 桜井さんの視線に急かされ、俺はコンビニを飛び出した。傘は右手に、袋は濡れないように胸に抱えて町を駆け抜ける。周りからはさながら夕立に襲われたリーマンに見えているだろう。
 どうして俺がアイツの為に、娘でもない美姫なんかの為に――――そんな言葉は溢れる汗と共に流れ落ちた。

「ただいま」

 自宅に着くと、リビングの灯りが出迎えた。テレビはついていないのか、無音。死んだような部屋の隅に美姫は踞っていた。

「……さっきは大声出して悪かった。とりあえず、今日はこれだけで我慢してくれ」

 泣き疲れていたのか、俺の顔を見ても美姫は泣かなかった。俺は袋から鮭の入ったおにぎりとサラダを取り出し、机に並べた。奥の方に入っていたカップ麺はきっと俺宛だろう、と一瞥し、袋ごと床に転がしておいた。
 適当な服を選び、浴室へ向かう。沸騰した頭を少し冷やしすぎたようで、適温に戻すには最適だ。
 鏡の前で椅子に座り、ふと向こうの自分と目を合わせる。瞼はいつもより重くのし掛かり、唇は紫色を示している。受験期によく見た、疲れ果てた顔だ。
 この生活が毎日続くと思うと、今すぐにでも逃げ出してしまいたくなる。けれどそれは、俺が見捨ててしまった姉さんの最後のお願いを無視することと同じだ。俺にはまだ人の心がある、そんなことできるはずがない。俺は勢い任せに頭を泡立たせた。

 リビングに戻ると、美姫は両手で支えたおにぎりを小さな口で頬張っていた。美姫は俺に気づくと慌てて下を向いたが、おにぎりは大事そうに抱えて離さなかった。

「サラダも食べていいからな」

 俺はお湯を沸かしつつ、そう言った。それから桜井さんが来るまでの約1時間、同じ部屋に居れども会話は無かった。

「こんばんは~」

 バイトを終えた桜井さんの訪問に、美姫は少し嬉しそうだ。姉の家に通っていたんだ、二人はそれなりに仲が良いのだろう。どうして、俺は。

「美姫ちゃん、久しぶりね。って、髪がぼさぼさじゃない。高広くん、来てばかりで申し訳ないんだけど……お風呂、貸してもらえないかな?」

 俺は頭を掻いた。

「まあ、いいですけど……」

「けど?」

 桜井さんから目を背け、泳がせる俺を見て彼女は察したのか、

「わたしはもうすぐ三十路のおばさんだし、見てもいいことないわよ~。それともまさか、美姫ちゃんの……」

「覗きませんよ! と、というか、姉の娘に手を出すほど俺は落ちぶれちゃいませんから!」

 身ぶり手振りで慌てる俺を見て、彼女は短く笑った。

「ふふっ、それでいいのよ。今は先のことなんか考えないで、これまでのことを思い出してみて」

 俺が何も言い返せずにいると、桜井さんは下を向き、続けた。

「優子ちゃんが、あなたのお姉さんがどうして美姫ちゃんを任せたのか」

 桜井さんは美姫の腕をそっと引き、浴室へと消えていった。俺は暫くその場に立ち尽くしていたが、やがて二人の笑い声や跳ねる水の音が聞こえたところで踵を返し、リビングへ戻った。

 机には小さく纏められたサラダとおにぎりのゴミ、そしてカップ麺の残骸。それらを適当にゴミ袋へ突っ込むと、俺はソファへ腰かけた。頭に浮かぶのは、姉の最後の言葉――――の、続き。

「あたしの宝、大切にしてくれ。それと」

 苦しそうに息を飲み込み、姉は続けた。

「困ったら美姫に合言葉を言え。覚えてるだろ、あたしら姉弟だけの、秘密の合言葉」

 俺と姉の、秘密の合言葉。それは悩んでいるときや落ち込んでいるときはよく使い合ったもんだ。両親は俺たちがまだ高校生の頃から他界しており、姉も後を追ってしまった。こんなちっぽけな、それでいて重い言葉。もう使うのは俺だけかと思っていたが、そこは流石の姉。やっぱり娘にも刷り込んでいたんだな。不意に、笑みが零れた。
 俺はおもむろに立ち上がり、お風呂場を目指した。

「おい、美姫!」

 勢いよく風呂の扉を開けた俺の目に飛び込んできたのは、鏡の前でちょこんと座る小さな美姫の真っ白な肢体。そして、その背中を泡立てる桜井さんの歳とは不相応なスラッとしたくびれ。両方が、目を丸くしてこちらを見つめていた。

「あ」

 一瞬の沈黙の後、桜井さんは頬を赤く染め、両腕で美姫を抱き締めていった。

「……えっち」

「いやっあのっこれは! す、すみませんでしたぁぁ!」

 俺は高速で後ろに向き直り、まるで天から糸で吊るされているかのように真っ直ぐな姿勢で直立した。心臓の音だけが静寂に響き、体中に高熱を纏った。
 大事なところは長い黒髪で隠されていたことが、唯一の救いだ。

「どうしたの?」

 無垢な美姫はか細い声で桜井さんに訪ねている。これは自分で招いたことだが、本当に今日は厄日だ。

「パパが悪いことをしたのよ。美姫ちゃんは何も気にしなくていいからね」

 背後で扉の閉まる音がした。俺はとりあえず胸を上から下に撫で下ろすと、桜井さんの声がした。

「何か急いでたみたいだけど、どうしたの?」

「あ、え、ええと、美姫に……ちょっと用事が。そのままでいいので、少し美姫と話させてください」

「……だって、美姫ちゃん。パパがお話したいって」

 初めは聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。
 俺はどうしてだか、父親扱いされている。

「……うん。おはなしする」

「あー、でもその前に。少しゆっくりさせてね?」

 桜井さんの言葉にはっとした俺は、染めた頬はそのままにリビングのソファへと飛び込んだ。
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