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第二章~5億の男は大変です~
困りものと困らせもの
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「……気に食わんな」
誰もいなくなった社長室で、青年は一人、拳を握り締める。街の明かりが射しこみ、ぼんやり光る、社長の椅子。その椅子に、青年は座ることができなかった。いいや、そもそも、青年が座ることなどできないのだ。
「なぜだ、どうして、あの軟弱な平民は……」
どうして、社長なんてやったこともない人間が、あんなにもうまく社長をやっているのか。どうして、人の上に立ったことのないはずの人間が、人に好かれ、人がついてくるのか。
それを、青年は理解できない。理解していても呑み込めないのだ。人はそれを……
「嫉妬ですかい? 坊ちゃん」
嫉妬と呼ぶ感情。それを、青年は生まれて初めて感じ取った。いいや、確かにあの姉にも嫉妬はしていたのだが、あれはあれで「越えられない壁」として認識していた。
どうして、単なる平民が、姉のそばにいるのか、姉から信頼されるのか。それが青年にはわからなかった。
「副社長としての名が泣きまっせ、坊ちゃん。後ろから見る背中が、なんか小さいですよ。坊ちゃんはもっと、どんな手を使ってでも堂々とするもんですがねぇ」
その背中を、後ろから見る男性がいる。暗闇の中、大柄なその男性は、歯だけを白く見せて、笑っていた。不気味とも思えるが、それを青年は普通として受け入れる。
「坊ちゃん、今回も給料くれるんでしたら、やつを……影山明、いや、矢崎進を潰してきますよ。どうですかい、今回は格安に20万で」
「20万で彼が潰れるなら安いものだ。姉さんの、そして僕の邪魔だからな。今回も頼むぞ、佐倉」
「あいよー、お代は成果次第では変動しますのでー」
そうして、佐倉、と呼ばれた男は、暗闇へと消える。先にお代が変わることを言わないなんて、ずいぶん詐欺師な男だ。
「……詐欺であれ何であれ、今は、やつを潰すことを考えなければ……さもないと僕は……!」
どうしてこうも焦っている。僕は冷静であるべきだ。なのに、顔は苦しく、険しく、シワは深くなる。歯ぎしりする歯が、痛む。噛む唇が、痛む。暗闇の中で、ただ一人、社長という座の前にしゃがみ込む。
────焦る理由なんて簡単だ。今日も僕は、姉さんと一言も喋っていないんだ。姉さんが、遠くに行ってしまう。ただでさえ、出会った時から遠いのに────
────僕が欲しいものは、何なんだ。
……社長代行を始め、逃れ逃れ、1か月が経った。毎度、その場をやりきるような感覚。しかし、その足取りは着実で、確かに俺は、社長としての道を歩んでいた。
俺のだましている罪悪感はさておき、売り上げは上々だ。策はうまく働いた。
「社長! やはり売り上げが伸びています! これもすべて、社長の指導のおかげです!」
今日もこの影山モータースの視察にやってきた俺は、社員から感謝感激される。秋沢さんは特に、泣きながら喜んでいて、中年男性の涙は、俺の心にかなり刺さる。
────おっ……俺って、いわゆるおじさんから感謝されてる!?
まぁ、それもそうだ。今までは、その中年男性に、こき使われて、叱られ続けていた気がする。バイトを詰めすぎて、シフト変更ができなくて「融通利かないやつだ」って言われたとき並みに刺さるな、この言葉。
「いえいえ、売り上げが上がって、本当に良かったです」
「やはり、社長の言う通りでした。外にあの旗を掲げただけで、見に来てくれる人が増えたんですよ!」
その旗とは「自転車修理受け付けます!」といった旗だ。実は、この店舗はバイク修理だけでなく、自転車修理もできる。その専門の人もいるので、目玉サービスではないが、提供可能のサービスだ。
もちろん、来てほしいのはバイク修理や、バイクを買ってくれる人なのだが、まずは自転車からでも客を集めることが、重要だと思ったんだ。
「そして、社長。ポケットマネーからありがとうございました。おかげで、見に来てくれる人が増えましたし、SNS割も広まっています」
「あぁ、やっぱり、見に来る人が増えましたか」
「えぇ、特に「子供」が」
俺の貰った5億から出したもの。それが、「自転車の自動空気入れ」だった。この辺は小学生、中学生が多く住んでいるだけでなく、高校生などが自転車で通っていく。そんなとき、自動空気入れがあれば、まさにSNSを使う世代が、足を止めてくれるんじゃないかと思った、そんな発想からだ。
……自転車店でバイトをしていた時、自動空気入れが、自動ドアの近くにあった。そのため、ただ空気を入れに来ただけなのに、自動ドアが勝手に開き、店員……つまりは俺が「いらっしゃいませ」という。
すると、お客様は、店の雰囲気をしっかりと覚えて帰っていくのだ。ここで修理しようかな、ここの自転車見てみようかな、と。
そこにSNS割の張り紙をしておけば、効果は抜群だ。これはあくまで、経験をもとにした、ただの案でしかない。それが形になると、こうなるものなのかと、なんだか嬉しくなってきた。
「この調子でいけば、地元の人を、この影山モータースに引き入れられる気がしてきました!」
「えぇ、秋沢さん、この調子で頑張っていきましょう!」
「あのー、すみません。バイクの修理ってできますか?」
お、そこでお客様だ。
「いらっしゃいませ!」
「しゃ、社長!?」
……おっと、ついつい反射神経であいさつをしてしまった。やっぱり昔のバイトの癖だな。秋沢さんがびっくりしている。
だが、それ以上に俺がびっくりしたのは、そこにいた人だ。5人ぐらいの男女の集団で、見慣れた顔だ。思わず、俺の笑顔は固まる。
「あ、矢崎じゃん!」
一人が気づいた。すると、ほかの男女も気づき始める。
「え! 矢崎くん?」
「スーツじゃん!」
「マジで久しぶり!」
「え、ひょっとしてお偉いさん?」
5人の男女の声が、俺に次々と、ナイフのように突き刺さる。中学生時代を思い出して、トラウマに心を抉られる。そこにいるのは間違いない、中学生時代の同級生だ。
もちろん直接いじめてきたわけじゃないが、俺を無視したり、仲間外れにしたのは確かだ。
「ひ……久しぶり、みんな」
「えっ、矢崎、社長やってんの? なんか知らないおっさんに、ここのお店勧められたんだけどさ、まさか、矢崎が社長やってたとは思わねぇよ」
なー、と言いながらみんなで俺を笑う。あまりいい思いはしない。こちらの思いを踏みにじりながら、会話を進めていくなんて、なんだか気持ちが悪い。
直接いじめてなくても、少しでもいじめに加担したなら、お前たちだって加害者だ。そうじゃないのか。
「影山社長!? 矢崎って名前は、どういうことです?」
まず先に、秋沢さんが気づく。そして、スマホで何か調べ物をしていた、女子の同級生が気づいた。
「影山モータースって、あの影山グループじゃん。社長の名前、影山……なんて読むんだろ、これ……になってるけど、ねぇどういうこと? 矢崎くんって、下の名前、進だったよね」
「そうだよ、おかしくね? あのビンボー矢崎がこんなスーツなんて。面接? なんかの間違いだよね」
────終わった、ここまで言われたら、やっぱりどんな理由をつけてたって終わった。そもそも、矢崎進と影山明じゃ、一文字も合っていない。苗字の矛盾点は解消できても、同級生に調べ物をされて、下の名前まで判明済みだ。ここには店長の秋沢さんだっている。下手に動けば、どっちからも見捨てられる。
「なぁ、聞いてんの、矢崎。聞いてんのかー」
「やっぱりこんなやつ、無視してて正解だったよ。どう考えても、制服古臭くて、あのころから浮いてたんだしさー」
……やめろよ……店員さんの前で、過去をさらすのなんてやめろよ。
「立場が上になろうが何しようが、やっぱり矢崎は矢崎だな」
「そうね、やっぱいじめられてた理由わかるわ。だって、すぐ何も言えなくなるもんね。感情がないみたいでさー」
……やめてくれよ、今と過去なんて……関係ないだろ────
「えぇ、ちょ、ちょっと社長。どういうことなんです。説明してください」
「やっぱ矢崎社長なの? おかしいでしょ、俺たちと同じ中学で、なんせビンボーだったんだぜ?」
「ウケるー! 今まで社員だましてたわけ!?」
────やっぱり、俺なんか死んでおくべきだった。だますのなんで無理だ。ここまで逃げてきたのがむしろ、運がよかったんだ。生きていたって、感情を手にしようとしたって、どうしようもない。俺の現実は、どうしてこんなにも、重く、暗く、冷たいんだろう。
誰もいなくなった社長室で、青年は一人、拳を握り締める。街の明かりが射しこみ、ぼんやり光る、社長の椅子。その椅子に、青年は座ることができなかった。いいや、そもそも、青年が座ることなどできないのだ。
「なぜだ、どうして、あの軟弱な平民は……」
どうして、社長なんてやったこともない人間が、あんなにもうまく社長をやっているのか。どうして、人の上に立ったことのないはずの人間が、人に好かれ、人がついてくるのか。
それを、青年は理解できない。理解していても呑み込めないのだ。人はそれを……
「嫉妬ですかい? 坊ちゃん」
嫉妬と呼ぶ感情。それを、青年は生まれて初めて感じ取った。いいや、確かにあの姉にも嫉妬はしていたのだが、あれはあれで「越えられない壁」として認識していた。
どうして、単なる平民が、姉のそばにいるのか、姉から信頼されるのか。それが青年にはわからなかった。
「副社長としての名が泣きまっせ、坊ちゃん。後ろから見る背中が、なんか小さいですよ。坊ちゃんはもっと、どんな手を使ってでも堂々とするもんですがねぇ」
その背中を、後ろから見る男性がいる。暗闇の中、大柄なその男性は、歯だけを白く見せて、笑っていた。不気味とも思えるが、それを青年は普通として受け入れる。
「坊ちゃん、今回も給料くれるんでしたら、やつを……影山明、いや、矢崎進を潰してきますよ。どうですかい、今回は格安に20万で」
「20万で彼が潰れるなら安いものだ。姉さんの、そして僕の邪魔だからな。今回も頼むぞ、佐倉」
「あいよー、お代は成果次第では変動しますのでー」
そうして、佐倉、と呼ばれた男は、暗闇へと消える。先にお代が変わることを言わないなんて、ずいぶん詐欺師な男だ。
「……詐欺であれ何であれ、今は、やつを潰すことを考えなければ……さもないと僕は……!」
どうしてこうも焦っている。僕は冷静であるべきだ。なのに、顔は苦しく、険しく、シワは深くなる。歯ぎしりする歯が、痛む。噛む唇が、痛む。暗闇の中で、ただ一人、社長という座の前にしゃがみ込む。
────焦る理由なんて簡単だ。今日も僕は、姉さんと一言も喋っていないんだ。姉さんが、遠くに行ってしまう。ただでさえ、出会った時から遠いのに────
────僕が欲しいものは、何なんだ。
……社長代行を始め、逃れ逃れ、1か月が経った。毎度、その場をやりきるような感覚。しかし、その足取りは着実で、確かに俺は、社長としての道を歩んでいた。
俺のだましている罪悪感はさておき、売り上げは上々だ。策はうまく働いた。
「社長! やはり売り上げが伸びています! これもすべて、社長の指導のおかげです!」
今日もこの影山モータースの視察にやってきた俺は、社員から感謝感激される。秋沢さんは特に、泣きながら喜んでいて、中年男性の涙は、俺の心にかなり刺さる。
────おっ……俺って、いわゆるおじさんから感謝されてる!?
まぁ、それもそうだ。今までは、その中年男性に、こき使われて、叱られ続けていた気がする。バイトを詰めすぎて、シフト変更ができなくて「融通利かないやつだ」って言われたとき並みに刺さるな、この言葉。
「いえいえ、売り上げが上がって、本当に良かったです」
「やはり、社長の言う通りでした。外にあの旗を掲げただけで、見に来てくれる人が増えたんですよ!」
その旗とは「自転車修理受け付けます!」といった旗だ。実は、この店舗はバイク修理だけでなく、自転車修理もできる。その専門の人もいるので、目玉サービスではないが、提供可能のサービスだ。
もちろん、来てほしいのはバイク修理や、バイクを買ってくれる人なのだが、まずは自転車からでも客を集めることが、重要だと思ったんだ。
「そして、社長。ポケットマネーからありがとうございました。おかげで、見に来てくれる人が増えましたし、SNS割も広まっています」
「あぁ、やっぱり、見に来る人が増えましたか」
「えぇ、特に「子供」が」
俺の貰った5億から出したもの。それが、「自転車の自動空気入れ」だった。この辺は小学生、中学生が多く住んでいるだけでなく、高校生などが自転車で通っていく。そんなとき、自動空気入れがあれば、まさにSNSを使う世代が、足を止めてくれるんじゃないかと思った、そんな発想からだ。
……自転車店でバイトをしていた時、自動空気入れが、自動ドアの近くにあった。そのため、ただ空気を入れに来ただけなのに、自動ドアが勝手に開き、店員……つまりは俺が「いらっしゃいませ」という。
すると、お客様は、店の雰囲気をしっかりと覚えて帰っていくのだ。ここで修理しようかな、ここの自転車見てみようかな、と。
そこにSNS割の張り紙をしておけば、効果は抜群だ。これはあくまで、経験をもとにした、ただの案でしかない。それが形になると、こうなるものなのかと、なんだか嬉しくなってきた。
「この調子でいけば、地元の人を、この影山モータースに引き入れられる気がしてきました!」
「えぇ、秋沢さん、この調子で頑張っていきましょう!」
「あのー、すみません。バイクの修理ってできますか?」
お、そこでお客様だ。
「いらっしゃいませ!」
「しゃ、社長!?」
……おっと、ついつい反射神経であいさつをしてしまった。やっぱり昔のバイトの癖だな。秋沢さんがびっくりしている。
だが、それ以上に俺がびっくりしたのは、そこにいた人だ。5人ぐらいの男女の集団で、見慣れた顔だ。思わず、俺の笑顔は固まる。
「あ、矢崎じゃん!」
一人が気づいた。すると、ほかの男女も気づき始める。
「え! 矢崎くん?」
「スーツじゃん!」
「マジで久しぶり!」
「え、ひょっとしてお偉いさん?」
5人の男女の声が、俺に次々と、ナイフのように突き刺さる。中学生時代を思い出して、トラウマに心を抉られる。そこにいるのは間違いない、中学生時代の同級生だ。
もちろん直接いじめてきたわけじゃないが、俺を無視したり、仲間外れにしたのは確かだ。
「ひ……久しぶり、みんな」
「えっ、矢崎、社長やってんの? なんか知らないおっさんに、ここのお店勧められたんだけどさ、まさか、矢崎が社長やってたとは思わねぇよ」
なー、と言いながらみんなで俺を笑う。あまりいい思いはしない。こちらの思いを踏みにじりながら、会話を進めていくなんて、なんだか気持ちが悪い。
直接いじめてなくても、少しでもいじめに加担したなら、お前たちだって加害者だ。そうじゃないのか。
「影山社長!? 矢崎って名前は、どういうことです?」
まず先に、秋沢さんが気づく。そして、スマホで何か調べ物をしていた、女子の同級生が気づいた。
「影山モータースって、あの影山グループじゃん。社長の名前、影山……なんて読むんだろ、これ……になってるけど、ねぇどういうこと? 矢崎くんって、下の名前、進だったよね」
「そうだよ、おかしくね? あのビンボー矢崎がこんなスーツなんて。面接? なんかの間違いだよね」
────終わった、ここまで言われたら、やっぱりどんな理由をつけてたって終わった。そもそも、矢崎進と影山明じゃ、一文字も合っていない。苗字の矛盾点は解消できても、同級生に調べ物をされて、下の名前まで判明済みだ。ここには店長の秋沢さんだっている。下手に動けば、どっちからも見捨てられる。
「なぁ、聞いてんの、矢崎。聞いてんのかー」
「やっぱりこんなやつ、無視してて正解だったよ。どう考えても、制服古臭くて、あのころから浮いてたんだしさー」
……やめろよ……店員さんの前で、過去をさらすのなんてやめろよ。
「立場が上になろうが何しようが、やっぱり矢崎は矢崎だな」
「そうね、やっぱいじめられてた理由わかるわ。だって、すぐ何も言えなくなるもんね。感情がないみたいでさー」
……やめてくれよ、今と過去なんて……関係ないだろ────
「えぇ、ちょ、ちょっと社長。どういうことなんです。説明してください」
「やっぱ矢崎社長なの? おかしいでしょ、俺たちと同じ中学で、なんせビンボーだったんだぜ?」
「ウケるー! 今まで社員だましてたわけ!?」
────やっぱり、俺なんか死んでおくべきだった。だますのなんで無理だ。ここまで逃げてきたのがむしろ、運がよかったんだ。生きていたって、感情を手にしようとしたって、どうしようもない。俺の現実は、どうしてこんなにも、重く、暗く、冷たいんだろう。
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