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第一章~人生のズレに気づきました~
歪んだ心と勉強2
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玄関先で明は送ってくれた。望さんは顔を逸らし、部屋の奥へと行ってしまったが、仕方がない。望さんとの溝は、少々埋まりそうにない。
そこからは、冬馬と呼ばれた女性が、車に乗せて、俺を病院まで送ってくれることになった。
「と……冬馬さん、本当にありがとうございます」
「えぇ、これも明様に頼まれた仕事ですので」
車の中、たった一言交わしただけで、しんと静まってしまった。なかなかの速さで進む車。行きは気づかなかったものの、この人の運転はうまい。素早くも丁寧だ。
「あ、あの、冬馬さんって、明……さんの、どういったご関係に?」
無言は耐えられないので、思っていたことを聞く。これも質問が帰ってきたら、すぐにでも終わってしまいそうな会話だが、無言よりましだった。
「そうでした、自己紹介がまだでしたね。私の名前は、冬馬陽菜と申します。約16年前から、明様の執事をしております」
「ず……ずいぶん昔からですね」
「えぇ、私も進様のことは存じ上げておりますので、ご安心ください」
最後のは、明から聞いた、ってことでいいのかな。それにしても女性の執事なんて、なんだか珍しくも感じる。ドラマとかで見る執事は男性で、しかも老人なんてことも多い。
それが、こんなにも若くて美しい女性ってことがあるのか? 女性に年齢を聞くのは……失礼だな。
「お若く見えますね……」
「はい、年齢は明かせませんが、まだ30代ということはお伝えしておきます」
「えぇ!? 30代で、16年執事ですか!?」
あ、今の絶対失礼だ。だが、驚くのも無理ない。どう頑張っても、マイナス16してしまえば、20代から執事をしていたということになる。こんなもんなんだろうか、執事業界って。
「驚かれなくても結構です。執事は勉強さえ積めば、年齢は関係ないので」
「は……はぁ、すみません、無知で」
「いえ、さほど気にすることではありません。私もよく言われるので」
よく言われる……のか。ほかの執事さんとか、明に出会った人とかかな。だが、会話は結構長く続いたようで、ほどなくして、俺は病院についた。
「では、明日はご自宅にお迎えに上がります」
「俺の自宅、知ってるんですか?」
「えぇ、明様から聞いております」
では、と言って、冬馬さんは深くお辞儀をすると、車に乗って、その場を去っていった。俺はそのあと、フロントの看護師さんが預かってくれていた母さんの洗濯物を預かって、洗濯機で回した。
そして、数時間ぶりに母さんのもとへ向かった。こんなにもすぐに母さんのそばに行けたのは、ずいぶん久しぶりのように思える。
「あら、早かったのね。代行の仕事はどうだった?」
「あぁ、今日の日給は7万円だよ」
「すごいじゃない。自分のためにつかってね。私の治療代なんて、あとでいいんだから」
治療代なんて後でいい、よく言われる言葉だ。そしてお金を自分のために使う、これはしばらく、俺の課題になりそうだ。
「上司の人はどんな感じなの?」
「気に入ってもらってる……ってところかな」
大好きだもん、と言われたあの光景がよぎる。すんなり告白されて、その後特に何もなかった、あの言葉。
それを聞いて、母さんは笑った。
「気に入ってもらったのね、よかったわ」
「なんでだよ、笑うなよ!」
「だって、進。顔真っ赤にしながらニコニコするなんて、相当いいことあったのね」
気づかないうちに、そんな顔になっていたとは。不覚、明は確かにかわいいが、そんなのバレたらやってる仕事を怪しまれる。いや、充分怪しい仕事だが。
「そうだわ、進。当たった、って言ってた5億、どう使うつもりなの?」
「あぁ、母さんの治療費、真希の学費、生活費、って割いて行っても、一生分ありそうだ。だから、ちょっと迷ってる」
「……何を?」
「お金、返そうかなって思ってるんだ。俺にはとても扱える金じゃないし、俺には余るものだよ」
すると、母さんは「そう……」とつぶやくと、ゆっくり起き上がった。
「っ! 寝ててよ母さん。大丈夫だから」
「……あなたが大丈夫じゃないのよ。5億の使い道は人それぞれだけど、進、あなたは無欲すぎるわ」
「欲はあるよ。母さんの治療費とか、そういったのを働かずに出せるならって思ってるさ」
「そうじゃないの。私が言っているのはね、あなた自身の望みは何なのって聞いてるの。働かないことが望みなら働かなくていい。海外に行きたければ行けばいい」
母さんは俺の手をそっと握る。ひんやり冷たい手、細く、そして白い手。心がキュッと締め付けられる。
「あなたは職業を変えただけで、満たされてしまっている。ほんの少しの自由だけで、ほんの少しの余裕だけで、あなたは他に何もいらないっていうのね。それはすごく良い心よ」
その手には、僅かだが力がこもっていた。そして弱く小さく震えている。
「あなたは変わってしまったのね。いいえ、私が歪めたのね。ごめんなさい、私は私の欲で、あなたの心を奪ったの……」
「母さん……」
母さんは何も悪くない。なぜ母さんが謝る必要があるんだ。母さんは俺たちのために、元気が続く限り、働いてくれていた。だから俺は高校が卒業できたんだ。母さんは何も……
その時、心に引っかかることがあった。唯一、母さんに与えられなかったもの。愛情でもない、お金でもない、それは……
「私が過去を隠さなければ、あなたの心はきっと歪まなかった」
そうだ、俺は、失った記憶を知らない。だから、本当の父親のことも、母さんのことも深くは知らないんだ。
────俺は、家族を理解しないまま、大人になってしまったんだ。
「ごめんね、進。お金は好きに使いなさい。今日はもう、帰りなさい」
「……でも」
「このことを話すのは、まだ待っててほしいの。もう少しで話せる日が、きっと来るから」
俺は言葉の代わりに、小さくうなづいた。そして俺は、母さんに新しい服を置いた後、いつも通りに挨拶をして帰ろうとした。
「じゃあ、母さん。また明日来るからさ」
そして、励まそうとして、ついつい付け足してしまったんだ。
「俺のことなんて、気にしなくていいからさ」
すると、母さんは口元を震わせながら、何とか笑顔を作った。
……その時俺は気づく、子供を気にしない親なんていない。だからこそ、俺は一番気付きたくないところに気付いてしまった。
────母さんをストレスで苦しめているのは、ほかでもない俺なんだと。
……それは、進の帰った後のこと。部屋には、明と望が残っていた。冬馬は部屋の掃除をしていて、二人の世界には一切入ってこない。
「認めるんだね。進くんの異常さは」
明は、ソファーにもたれかかり、ゆったりと話す。対する望は、険しい顔で、目を合わせようとしなかった。明もまた、上を見上げ、望の目を見ていない。
「あぁ、あんな平民はおかしい。普通の平民なら、金を私利私欲に使うだろう。だから不思議なんだ、あの矢崎進って男が」
「そうだね。まぁ、進くんは変だけど、僕らだって十分変だ。一般市民から見れば、社長の座は変な人に見えると思うよ。それと同時にあこがれさ」
「……何が言いたいんだ。姉さん」
明は大きく息を吐く。やわらかいソファーに、さらに体を埋めていく。
「やわらかい頭が足りないよ、望は。だってどう考えたって、僕の隣を奪おうとする進くんに「嫉妬」してるでしょ」
その言葉に、望は目を見開き、顔を赤くし、勢いよく立ち上がって、片手で顔をふさぐ。その間────ほんの一瞬。それを見て、力なく明は笑うのだ。
「へへへーっ。まさに図星です! って反応だよねー。望がこんなに元気なところ、久しぶりに見たよ」
「ばっ……バカな! あんなやつに嫉妬なんか……!」
「やきもちー!」
まるで小学生のように言うと、明ははしゃいだ勢いで、ソファーのクッションを望に投げた。とっさのことに追い付かず、クッションは望の顔にクリーンヒットする。そして、まるで断末魔のような叫びをあげるのだ。
「うごああぁぁっ! なんだ!」
「やっぱりねー。望はやわらかくないなぁ。固くなった鏡餅だよ。とっさのことを、今現在を、楽しめないなんてね」
望は、静かにクッションを拾い上げる。視線は、明のほうを見ようとはしない。だが明は、必死に目を合わせてくる。
「素直ってものがないね、望」
明はそっけなく言って、顔を逸らす。明が見ていない中、望はそのクッションを、ゆっくりと、静かに、だが強く、抱きしめていた。
そこからは、冬馬と呼ばれた女性が、車に乗せて、俺を病院まで送ってくれることになった。
「と……冬馬さん、本当にありがとうございます」
「えぇ、これも明様に頼まれた仕事ですので」
車の中、たった一言交わしただけで、しんと静まってしまった。なかなかの速さで進む車。行きは気づかなかったものの、この人の運転はうまい。素早くも丁寧だ。
「あ、あの、冬馬さんって、明……さんの、どういったご関係に?」
無言は耐えられないので、思っていたことを聞く。これも質問が帰ってきたら、すぐにでも終わってしまいそうな会話だが、無言よりましだった。
「そうでした、自己紹介がまだでしたね。私の名前は、冬馬陽菜と申します。約16年前から、明様の執事をしております」
「ず……ずいぶん昔からですね」
「えぇ、私も進様のことは存じ上げておりますので、ご安心ください」
最後のは、明から聞いた、ってことでいいのかな。それにしても女性の執事なんて、なんだか珍しくも感じる。ドラマとかで見る執事は男性で、しかも老人なんてことも多い。
それが、こんなにも若くて美しい女性ってことがあるのか? 女性に年齢を聞くのは……失礼だな。
「お若く見えますね……」
「はい、年齢は明かせませんが、まだ30代ということはお伝えしておきます」
「えぇ!? 30代で、16年執事ですか!?」
あ、今の絶対失礼だ。だが、驚くのも無理ない。どう頑張っても、マイナス16してしまえば、20代から執事をしていたということになる。こんなもんなんだろうか、執事業界って。
「驚かれなくても結構です。執事は勉強さえ積めば、年齢は関係ないので」
「は……はぁ、すみません、無知で」
「いえ、さほど気にすることではありません。私もよく言われるので」
よく言われる……のか。ほかの執事さんとか、明に出会った人とかかな。だが、会話は結構長く続いたようで、ほどなくして、俺は病院についた。
「では、明日はご自宅にお迎えに上がります」
「俺の自宅、知ってるんですか?」
「えぇ、明様から聞いております」
では、と言って、冬馬さんは深くお辞儀をすると、車に乗って、その場を去っていった。俺はそのあと、フロントの看護師さんが預かってくれていた母さんの洗濯物を預かって、洗濯機で回した。
そして、数時間ぶりに母さんのもとへ向かった。こんなにもすぐに母さんのそばに行けたのは、ずいぶん久しぶりのように思える。
「あら、早かったのね。代行の仕事はどうだった?」
「あぁ、今日の日給は7万円だよ」
「すごいじゃない。自分のためにつかってね。私の治療代なんて、あとでいいんだから」
治療代なんて後でいい、よく言われる言葉だ。そしてお金を自分のために使う、これはしばらく、俺の課題になりそうだ。
「上司の人はどんな感じなの?」
「気に入ってもらってる……ってところかな」
大好きだもん、と言われたあの光景がよぎる。すんなり告白されて、その後特に何もなかった、あの言葉。
それを聞いて、母さんは笑った。
「気に入ってもらったのね、よかったわ」
「なんでだよ、笑うなよ!」
「だって、進。顔真っ赤にしながらニコニコするなんて、相当いいことあったのね」
気づかないうちに、そんな顔になっていたとは。不覚、明は確かにかわいいが、そんなのバレたらやってる仕事を怪しまれる。いや、充分怪しい仕事だが。
「そうだわ、進。当たった、って言ってた5億、どう使うつもりなの?」
「あぁ、母さんの治療費、真希の学費、生活費、って割いて行っても、一生分ありそうだ。だから、ちょっと迷ってる」
「……何を?」
「お金、返そうかなって思ってるんだ。俺にはとても扱える金じゃないし、俺には余るものだよ」
すると、母さんは「そう……」とつぶやくと、ゆっくり起き上がった。
「っ! 寝ててよ母さん。大丈夫だから」
「……あなたが大丈夫じゃないのよ。5億の使い道は人それぞれだけど、進、あなたは無欲すぎるわ」
「欲はあるよ。母さんの治療費とか、そういったのを働かずに出せるならって思ってるさ」
「そうじゃないの。私が言っているのはね、あなた自身の望みは何なのって聞いてるの。働かないことが望みなら働かなくていい。海外に行きたければ行けばいい」
母さんは俺の手をそっと握る。ひんやり冷たい手、細く、そして白い手。心がキュッと締め付けられる。
「あなたは職業を変えただけで、満たされてしまっている。ほんの少しの自由だけで、ほんの少しの余裕だけで、あなたは他に何もいらないっていうのね。それはすごく良い心よ」
その手には、僅かだが力がこもっていた。そして弱く小さく震えている。
「あなたは変わってしまったのね。いいえ、私が歪めたのね。ごめんなさい、私は私の欲で、あなたの心を奪ったの……」
「母さん……」
母さんは何も悪くない。なぜ母さんが謝る必要があるんだ。母さんは俺たちのために、元気が続く限り、働いてくれていた。だから俺は高校が卒業できたんだ。母さんは何も……
その時、心に引っかかることがあった。唯一、母さんに与えられなかったもの。愛情でもない、お金でもない、それは……
「私が過去を隠さなければ、あなたの心はきっと歪まなかった」
そうだ、俺は、失った記憶を知らない。だから、本当の父親のことも、母さんのことも深くは知らないんだ。
────俺は、家族を理解しないまま、大人になってしまったんだ。
「ごめんね、進。お金は好きに使いなさい。今日はもう、帰りなさい」
「……でも」
「このことを話すのは、まだ待っててほしいの。もう少しで話せる日が、きっと来るから」
俺は言葉の代わりに、小さくうなづいた。そして俺は、母さんに新しい服を置いた後、いつも通りに挨拶をして帰ろうとした。
「じゃあ、母さん。また明日来るからさ」
そして、励まそうとして、ついつい付け足してしまったんだ。
「俺のことなんて、気にしなくていいからさ」
すると、母さんは口元を震わせながら、何とか笑顔を作った。
……その時俺は気づく、子供を気にしない親なんていない。だからこそ、俺は一番気付きたくないところに気付いてしまった。
────母さんをストレスで苦しめているのは、ほかでもない俺なんだと。
……それは、進の帰った後のこと。部屋には、明と望が残っていた。冬馬は部屋の掃除をしていて、二人の世界には一切入ってこない。
「認めるんだね。進くんの異常さは」
明は、ソファーにもたれかかり、ゆったりと話す。対する望は、険しい顔で、目を合わせようとしなかった。明もまた、上を見上げ、望の目を見ていない。
「あぁ、あんな平民はおかしい。普通の平民なら、金を私利私欲に使うだろう。だから不思議なんだ、あの矢崎進って男が」
「そうだね。まぁ、進くんは変だけど、僕らだって十分変だ。一般市民から見れば、社長の座は変な人に見えると思うよ。それと同時にあこがれさ」
「……何が言いたいんだ。姉さん」
明は大きく息を吐く。やわらかいソファーに、さらに体を埋めていく。
「やわらかい頭が足りないよ、望は。だってどう考えたって、僕の隣を奪おうとする進くんに「嫉妬」してるでしょ」
その言葉に、望は目を見開き、顔を赤くし、勢いよく立ち上がって、片手で顔をふさぐ。その間────ほんの一瞬。それを見て、力なく明は笑うのだ。
「へへへーっ。まさに図星です! って反応だよねー。望がこんなに元気なところ、久しぶりに見たよ」
「ばっ……バカな! あんなやつに嫉妬なんか……!」
「やきもちー!」
まるで小学生のように言うと、明ははしゃいだ勢いで、ソファーのクッションを望に投げた。とっさのことに追い付かず、クッションは望の顔にクリーンヒットする。そして、まるで断末魔のような叫びをあげるのだ。
「うごああぁぁっ! なんだ!」
「やっぱりねー。望はやわらかくないなぁ。固くなった鏡餅だよ。とっさのことを、今現在を、楽しめないなんてね」
望は、静かにクッションを拾い上げる。視線は、明のほうを見ようとはしない。だが明は、必死に目を合わせてくる。
「素直ってものがないね、望」
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