ある日、5億を渡された。

ザクロ

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第一章~人生のズレに気づきました~

電話相手と距離感

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 次の日の朝、新聞配達を終えた後、今日限りでやめるとはっきり伝えた。俺一人がいなくても、会社は回っていくようで、上司の態度は「あぁ、そうか」といった態度だった。

「俺なんか、いなくなってもいい存在なのかなぁ」

 ぼやきながらも、ボロボロのスクーターを走らせ、母さんのいる病院へ向かう。真希はあれから、どうなったかわからない。俺のスマホに電話はないし、俺は家には一歩も帰ってないし。
 自分で自分がわからない。真希のことは、どうしても嫌いにはなれない。けど、どうしても恨まれ続ける。今俺は、彼女に何をしてあげるべきなのだろう。

「矢崎さんですね」
「いつもお世話になってます。母は今日、どこにいますか?」
「菊花さんは病室ですよ」
「あ、ありがとうございます」

 病棟6階フロント。見慣れた看護師さんに、母さんがどこにいるのか教えてもらい、早速向かう。母さんは、屋上に上がっていたり、売店うろついてたり、たまに外に脱走していることがあって、病室にはあまりいない。いつも教えてもらわないと、どこにいるかはわからない。
 扉をたたき、ドアを開ける。母さんは、今日は静かにベッドに横になっていた。

「来たよ、母さん。今日は調子悪いの」
「まぁね、真希からあんなこと聞いちゃったし」

 白い病室で、青白い母の肌に目が行く。そうか、昨日のことか。昨日、あの後真希は、母さんに電話して、あったことを伝えたんだ。母さんはストレス性の病気だから、確かに、あんな内容聞いたら、悪化する。これは、母さんに申し訳ないことをしてしまった。

「でもね、あなたが負い目を感じることはないわ。確かに昨日の話、聞くとストレスだけど、あなたの気持ちを考えたら、きっともっとつらいはずだもの」
「そんなことない。俺は、母さんや真希を支えるために、働かなくちゃいけないから」

 母さんは弱弱しく、首を小さく振った。

「進、あなたは才能ある子供よ。その才能を、私たちが足を引っ張ることで、潰してはいけないわ」

 よく母さんの言う言葉だ。記憶を亡くした後、何もわからなかった俺に、励ますように「あなたは才能ある子供よ」と言ってくれたことを覚えている。その言葉を胸に、今まで働いてきた。
 俺には才能があるんだろう。そう思い込んだからのか、できなかった仕事は一つもなく、努力すれば何でもできるようになった。
 資格を取るお金はなくとも、資格相応のことはできる。23歳にしてスキルを多く持つ……と自称しているのはこのためだ。

「そうやって、いつも励ましてくれるよな、母さんは。おかげで、次の仕事も頑張れそうだよ」
「励ます……ね……進は、5億手に入れたんでしょう? どうして働くの?」

 5億のことまで知っていたのか。真希はどこまで話したんだろう。だが、母さんに聞かれても、俺はやるって決めた。昨日の間に、俺の進むべき道はこうだ、と決めておいた。

「5億手に入れたら、遊んで暮らせるし、働かなくていいだろうし、生活は一変する。でも、俺は大きな変化は望まないよ」
「そんなこと言っちゃダメよ。自由になれるのよ。あなたには、幸せになってほしいの。欲を持ちなさい。じゃないとあなたは……」

 その言葉に、気持ちが揺らぐ。唇の端を、強くかみしめた。その言葉の先はわかっている。「俺は空っぽだ」って母さんだってわかっている。だが、俺の思いを、素直に口にした。

「でもさ……自由になっても、幸せを共有できる人がいないと、俺は幸せじゃないんだ。自由と幸せは、俺にとってイコールじゃないんだよ」

 物事は楽しくプラスに考えるべきだ。俺は今から、少しずつ人生を変えていく。階段を上る、人生を上る。きっとできるはず。俺の人生は、きっともっと良くなるはず。

「俺、今からやる仕事は、結構特殊でさ。人の代わりをやるんだ、代行ってやつ」
「……代行?」
「そう、今まで俺の人生で積み上げてきたスキルが光るときだと思ってるんだ。時給もいいし、ここにももっと来れるようになるよ」

 俺は、できる限りの笑顔で母さんに語る。その間にも、服を畳み、洗う服は籠に入れ、机の上に、小さなチョコレートを置きながら。

「だから母さんは何も心配しなくていい。俺はこれから、やってみたいことでお金を稼ぐ。5億なんて程遠いけど、母さんと真希に不自由はさせないし、俺だって幸せになる」

 ふと、頭に、昨日の朝出会った、明さんの顔がよぎった。

「新しい上司……も、いい人だからね」
「……そう、あなたが少しでも幸せそうなら、よかったわ」
「え?」
「上司、ひょっとしてきれいな女の人? 顔がにやけてたわよ」
「え……あ、あはは、にやけてた……かぁ……」

 まぁ、明さんはかわいい。ぶっちゃけ中学生って言ってもわからないくらい幼い見た目だ。それで俺と同い年、ましてや社長なんてパワーワード過ぎて言えない。
 母さんが笑っている。口元に手を当て、こらえるようにクスクスと。あんなかわいらしく笑う母さんは、なんだか久しぶりに見た気がする。最後に見たのは……
────テレビのような砂嵐の向こう、それはなんだかわからなかった。
 その時だ、まるでその向こうを見るのを遮るように、電話が鳴る。明さんのスマホ、明さんからの電話。

「上司からだ。俺、そろそろ行かなきゃ。古い服は洗っておくからさ、夕方には新しい服を持ってくるよ」
「えぇ、わかったわ。がんばってね」

 母は笑顔で小さく手を振る。俺は笑顔でそれに答え、病室を出た。

────しばらくして、音のない病室に、ブザー音が響く。ベッドの上のスマホが、小さく振動していた。
病室で電話に出てはいけない。だが、女性はこっそり、それも楽しそうに、その電話に出るのだった。

「あら、そっちから電話なんて、ずいぶん久しぶりじゃない。元気にしてる?」

 女性はとても笑顔で、愛おしそうにスマホをなでながら、話し続ける。まるで、目の前にその人がいるかのように、笑顔で、目の前を見つめながら。
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