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第2章 辺境伯領平定戦

第95話 子の心、親知らず

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出任でまかせだ!』

 ブルームハルト子爵の絶叫が戦場に響き渡った。

 その後すぐ、敵勢の中から騎士が一騎躍り出た。

 遠目だが、ブルームハルト子爵に相違あるまい。

 何かを手に持ち目に当てている。

 ミナが「遠見の魔道具かもしれない」と申した。

 ブルームハルト子爵は魔道具を何度も目に当てた後、、ブルームハルト子爵は辺境伯へ向かって剣を突き付け、怒声を放つ。

『へ、辺境伯はネッカーの戦いの寸前に人事じんじ不省ふせいに陥り以来一度も意識を取り戻しておらぬはず! それが証拠に我々の前には一度も姿を現さなかった! あんなものは偽物っ……! 偽物だっ! ゲホッ! ゴホッゴホッ!』

 怒りのあまりか、それとも本物の辺境伯が現れた焦りのあまりか、ブルームハルト子爵は言葉に詰まり、激しく咳き込む。

 鼓膜が破れそうな激しい音にミナやクリストフが耳を塞ぐ。

 左馬助も苦笑いだ。

 だが辺境伯だけは、左様な激しい音もどこ吹く風と涼しい御顔。

 ブルームハルト子爵の言い分を悠然たる態度で聞き流している。

 咳き込む音が収まるや、静かに口を開いた。

『私の顔を見てもなお偽物だと言うのか?』

『くどいっ! 偽物は偽物だっ!』

 辺境伯が表に出て来た時点であ奴は大義を失った。

 辺境伯家をどこの馬の骨とも知れない奸賊から取り戻す、と申す大義をな。

 元より私欲にまみれた勝手な大義だ。

 失えば身を滅ぼすより他にない。

 残された道があるとすれば、偽物だと言い張り運を天に任せて戦いを挑む事だけか。

 長く臥せっておられた辺境伯の顔を知る者は少ない。

 寄騎貴族や重臣はともかくとして、大半の騎士や兵は辺境伯の御姿を見た事もなければ、御声を聞いた事も無い。

 もちろん斎藤の事も詳しく知らない。

 真偽を判断する手段を持ち得ないのだ。

 これを利用して押し切ろうとするブルームハルト子爵。

 しかし、辺境伯がブルームハルト子爵を追い詰める。

『子爵は考えを変えぬようだ。ならば本物だと証を立てねばなるまい』

『はっ! そんな事が出来るものか!』

『出来るとも』

『馬鹿な事を――――』

『デリアとはその後如何かな?』

『――――なっ……!?』

『他にもいたな。カルラとマヌエラとはきちんと別れたのだろうな? ミリヤムもだ』

『待てっ! 待て待て待てっ!』

『寄子の為に誰が骨を折ったのか? 誰が寄子の醜聞の尻拭いをしたか、忘れたとは言わさんぞ?』

 ブルームハルト子爵の女癖の悪さはクリストフから聞かされていた。

 クリストフの母が夫の不義の末に命を絶った事も。

 左様な不始末を仕出しでかす男だ。

 他にも色々とやらかしていてもおかしくない。

 そして斯様かような者が何故未だに子爵の地位にあるのか?

 誰かが助け船を出さねば出来ぬ事よな。

『寄子の家が弱くなれば当家にもその影響は及ぶ。当家が弱くなれば、アルテンブルク全体の危機にも結び付く。私は忸怩じくじたる思いを抱えつつもけいの尻拭いに奔走した。私と卿を除けば知る者はほとんどいない。本物の証となったかな?』

 ゲルトと争う中、泣き付いて来たブルームハルト子爵を見捨てる事など、辺境伯に出来る訳がなかった。

 見捨てれば子爵はゲルトの元に走っただろう。

 故に、辺境伯は子爵が手を出した女の家との仲裁に、詫料の支払いに、そして自ら命を絶った奥方の実家への弁解にと、泣く泣く手を貸した。

 もっとも、恩は仇で返された訳だがな。

 多少はこたえるかと思うたが、ブルームハルト子爵は厚顔こうがんであった。

『ふ、ふんっ! 他人の醜聞を捏造し、名誉を汚してまで本物だと言い張るのか!? 何たる卑怯者だ!』

 辺境伯が「処置なしだ」と言いたげに首を振った。

 クリストフはもはや親とも思えぬのか、嫌悪のこもった目で子爵を睨みつけている。

『辺境伯はこのような言動をなさる御方ではなかった。やはりこ奴は偽物! サイトーが立てた偽物だっ! 辺境伯は未だ死の床にあるに違いない! あるいは既にサイトーの手に掛かり――――』

『――――では子爵に問おう』

 絶叫する子爵に対し、辺境伯は静かに問うた。

 落ち着き払ったその御声には、後ろめたさなど微塵みじんもない。

 さすがの子爵もその様を前にして言葉に詰まった。

『貴公は如何にしてその事実を確認したのか?』

『何ぃ!?』

『成程、確かに私は人事不省に陥った。一時は危篤きとくだったとも聞く。その間、貴公が私を見舞ったと言う話はとんと聞かぬ。我が娘ヴィルヘルミナに尋ねてみよう。ヴィルヘルミナ、ネッカーの戦の後、子爵が訪ねて来たことはあるか?』

『ありません』

『私は人に会えない状態だったか?』

『いいえ。お倒れになった後、数日で意識を回復されました。その後は静養が必要だったものの、見舞った者に会えないなどと言う状態ではありませんでした。にも関わらず、ブルームハルト子爵からは見舞いの申し出すらありませんでした』

『そうか。不義理な話だな。散々世話を焼いた寄親が病に苦しみ、生死の境を彷徨っていると言うのに、寄子は見舞う気持ちすらなかったのか』

『嘘だっ! そんなものは嘘だっ!』

 ブルームハルト子爵はミナの言を最後まで聞かず、先程咳き込んだ以上に大きな声で叫んで遮る。

『私は心の底から辺境伯の身を案じていた! だがしかしっ! 辺境伯はサイトーの手によって東の荒れ地の奥まで連れ去られたのだ! 私にはどうする事も出来なかった! いや! 誰にも出来なかったのだ――――』

『そんな事はないっ!』

 辺境伯の横に、赤備えに身を包んだクリストフが進み出た。

 子爵は「何者だ!?」と叫んだが、何かを思い直したのか再び遠見の魔道具を目に当てた。

 直後、明らかに動揺した様子で肩を揺らした。

 辺境伯が御姿をお見せになった時とは、明らかに異なる挙動だ。

 それも当然か。

 まさか己の息子が赤備えに身を包んでいるなどとは夢にも思うまい。

『僕はクリストフ・フォン・ブルームハルト! ブルームハルト子爵家嫡男! ディートリヒの息子だ!』

『な、な、何をしている!? どうしてお前がそこにいる!』

『知れた事! 病の床にある寄親を見舞う事すらせぬ不実な親に成り代わり、この僕が辺境伯を見舞い、御無事を確かめた! 辺境伯は偽物などではない! 間違いなく御本人だ!』

 敵勢が揺れた。

 クリストフは総大将の息子。

 そしてブルームハルト家中は元より寄騎貴族や辺境伯家の家中にも顔が知られている。

 左様な者が敵の陣営から姿を現し、総大将が「偽物だ!」と散々断じて来た者を「本物だ!」と申し、親を「不実」と罵った。

 動ぜぬ訳にはいくまい。

 クリストフはさらに畳み掛ける。

『辺境伯も御令嬢も気が触れてなどいない! 正気であられる! それを偽物? 父上、寝言は寝てから言って下さい!』

『お、お前っ! 親に向かって――――』

『逆賊を親とは思わない!』

 クリストフの放った「逆賊」の一語に、敵勢はさらに揺れた。

『辺境伯は正気であり、奸賊がほしいままに振る舞う余地などない! あなたが言う奸賊など虚言妄言の産物だ! 辺境伯の御許みもとには忠臣しかいないのだ! にも拘わらず辺境伯に弓を引いた! 逆賊以外の何者でもない! この不忠者めっ――――!』

『――――聞いていないぞ!』

 戦場に壮年の男の声が響いた。

 ブルームハルト子爵の周りを十騎ばかりが取り囲んでいた。

『ブルームハルト子爵! これはどういうことだ!?』

けいは言ったな!? 辺境伯が間違いなく御危篤だと!』

『そうだ! だからこそ我らは卿と共に立ったのだぞ!?』

『卿の息子が敵方にいるのはどういう訳だ!?』

『ま、待てっ! 風の魔法がまだ発動して――――』

『親が成した不忠のけりは子が付けましょう! 父上! 御覚悟なされませ!』

『クリストフ! 御前――――!』

『ブルームハルト子爵家の家督は僕が責任を持って継承しましょう! 安心して――――』

 クリストフはそこで言葉を切り、こう言い直した。

『――――天上で母上に不義を詫びて下さい! いや、あなたが行く先は地の底でしょうか?』

『…………!』

 子爵の声は聞こえなかった。

 敵勢は東に向かって敗走を始めた。
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