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かたちだけの恋人
第55話8.この想いをあなたに
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桜のつぼみはまだ硬い殻に覆われている。
恵美の口から響音さんの名を訊いた時、僕の心は動揺した。
どうして、その名を僕の前で言うんだ。
僕がずっと君の前では言う事が出来なかった人の名を。
僕の躰を強く抱きしめながら「響音にぃ」と恵美は言った。
僕を響音さんと重ねているのか?
うわごとの様に聞こえる恵美の声に、僕の鼓動は激しさを増していく。
僕が響音さんの事を知っている事を恵美は気が付いたのか?
今、恵美の身の上に何かあったことは確かな事だ。でなければ僕の前で彼の名を言うはずは絶対にない。
「な、なんのことかな?」
とぼけて見せるがそんな事はもう通用しないことくらい、疎い僕にだって感じていた。
恵美が響音さんの名を声にした時から、すでに心は動き出していたのかもしれない。
「響音さん。北城響音さん」呟く様に僕は恵美の前で初めてその名を声にした。
「ユーキは本当に知っていたんだ響音にぃの事」
「うん」抱きついた恵美の体温が伝わってくる。小さく頷いた時、今まで抱え込んでいた想いが溢れ出てくる。
「うん、 知っていた」恵美の腕の力が強くなる。
「知っていてずっと私の前では知らないふりをしていたんだ。どうして? ユーキは私の事ずっと気にかけていたんでしょ。私がふっても、ずっと私の事思っていたんでしょ。分かってる。そんなの分かってる。ずっとあなたが私を見ているのを私は分かっていた。その気持ちに気づいていた。でもあなたは私に触れようとはしなかった。響音にぃが私にいるから、私の中には響音にぃが今も生き続けているのを知っていたから。そうなんでしょ、ユーキ」
「……うん」
「馬鹿ぁ!」
「そんなのユーキが苦しいだけじゃない。自分の事こんなにまで苦しめて、それであなたは良かったの。いつまでも私が過去の思い出に浸っているのをただ見ているだけでよかったの」
その時、恵美の表情が変わった。
「馬鹿なのは、私の方じゃない」
抱き着く力が徐々に抜けていく。その力を取り戻すかの様に、僕の腕が恵美の躰を強く抱きしめた。
「恵美は馬鹿じゃないよ」
「嘘、ただ私だけの独りよがりなのに。もういない人の事をいつまでも引きずっていたのは私の方なのに」
「ううん、違うよ恵美。恵美が大切に思う人は、僕にとってもとても大切な人なんだ。ただ恵美の事を思って、僕は響音さんの事に触れなかったんじゃないんだ。響音さんは僕にとっても失うことのできない人。だから、だから僕は恵美の中にいる響音さんに触れる事は出来なかった。ただ、いつの日か僕の中にいる響音さんと恵美の中にいる響音さんが共に歩みだせる日が来るのを僕は待っていたのかもしれない」
共に歩みだせる……。
そうだ、僕は自分が歩みだせるのを、恵美が歩みだせるのを待っていたのかもしれない。それは物凄く遠回りの事なんだろう。もしかしたら共に歩む事なんか出来ないかもしれない。それでも、それが僕が選んだ道だった。
自分が選んだ道。
そして僕の頭の中でよぎるあの言葉
「向き合う事って言うのは……自分の想いを全て注ぎ込む事」
父さんが残してくれたあの言葉。
僕は本当に向き合うべき相手が、今この手の中にいる事を感じている。
共に、一緒に僕と恵美の中に生き続けている、響音さんの想いを分かち合い生きて生きたい。
「僕は恵美の事も響音さんの事も好きなんだ。大切にしたいと思っている。でも僕はその想いを踏みにじるよな事をしてしまった。戸鞠との事は恵美、君の想いをも傷付けてしまったのかもしれない。僕は君を想いながら戸鞠とも付き合っていた。僕は戸鞠の事を傷つけ、僕の中で生き続ける響音さんの想いをも踏みにじってしまった。そして恵美へ向けなければいけない気持ちを、踏みにじってしまった。僕は罪を背負わないといけないんだ。どんな事があっても前に進むと言う罪を」
その時、この時期にはまだ感じる事の出来ない、温かい風が僕ら二人を包み込んだ。
ほのかに甘い香りがするその風は、二人の心を一つにさせてくれるような気がした。
「ユーキ」僕の名を恵美は耳元で呟く。
そっと恵美の手を取り僕らはゆっくりと歩き出す。
しっかりと握られた僕らの二つの手。僕と恵美は今、共に歩き出そうとしているんだ。
まだ春とは言えないこの季節。でも、僕ら二人の間には温かな風が舞い込んでいる。
どうして僕が響音さんの事を知っていたなんて、恵美がどうしてその事を知ったのかなんて、もうどうでもよかった。
ちょうどあの頃と同じ時だろうか。響音さんの命日の前の晩、恵美が熱を上げこの待合室で苦しんでいた時、恵美をおぶって家まで送って行ったあの日の事がよみがえる。
僕はあの翌日、北城響音と言う人に出会い、恵美の心の中の悲しみを知った。
両親が突然僕の前からその姿を消し去り、恵美と一つ屋根の下暮らす事となった。僕が恵美に告白して、恵美から帰って来た言葉
「私が今愛しているのはあのアルトサックス」だと。
僕は何も恵美の事を知らないまま告白していた事に気づかせてくれた。彼女が背負う重く悲しいあの想いを。
「あなたは私の何を知っているの?」告白した時彼女が言った言葉。
僕はあの時何も知らなかった。ただ河川敷で奏でる、あのアルトサックスの音色が僕の心を引き寄せていたのは事実だ。
あの音は彼女の音じゃなかったんだ。あの音は響音さんの音なんだ。
僕の心の心の中に響くアルトサックスの音。
その音だけが、あの時僕と恵美を繋いでいたんだ。
響音さんの想いが詰まった音色に。
僕は響音さんに引き寄せられたのかもしれない。
でも、僕は僕であることに変わりはない。響音さんの代わりにはなれないんだ。
それでも、僕の心は、想いは恵美へ惹かれていった。
彼の存在を知りながら、恵美の想いを知りながら、僕は思いを募らせた。
人を傷つけ、そして自分の心も傷ついた。
癒してもらいたいとは思わない。癒されることは今の僕にとって自分から逃げる事と同じだからだ。
もう迷わない。
迷いたくない。
家の近くの小さな公園。そこにある桜のつぼみはまだ固く閉ざされている。
もうじきその閉ざされたつぼみは柔らかく可憐な花を咲かせるだろう。
淡く光る街灯の下、彼女の握った手に力が入る。
「恵美」彼女の名を一言口にし、ゆっくりと歩んだその足を止めた。
「どうしたの」少し下を俯き小さな声で彼女が言う。
誰もいないこの小さな公園。桜の木には花も葉の影も今はない。あの時は落ちゆく葉が僕の心を哀しみへと導いていた。恵美もきっと同じだったんだろう。
でも、今は違う。今はまだ何もない。いや、まだ開かぬつぼみは、今の僕たちと同じなのかもしれない。
「恵美、僕は……、僕は君の」言いかけた言葉を、彼女の唇が僕の唇に重ねさせ止めた。
「言わなくても分かってる。ユーキの気持ち、そして想いも」
恵美の目から一筋の涙がこぼれた。その涙は頬を伝いぽつりと地面に落ちる。
「正直私、まだ本当にユーキだけを見つめていられる自信はないけど、まだ、響音にぃの事忘れる事は出来ないけど。あなたに傍にいてほしい」
涙が彼女の頬をずっと伝っている。
僕の想いが恵美に届いた。多分すべての想いはこれから始まるんだろう。
お互いがもっていたこの悲しい想いを、僕らは分ち合う事が出来る、糸口が見えただけかもしれない。
それでいい。
僕はそれでいいと思った。
北城響音、彼が繋いだ僕らのこの想いの糸口が、ようやく掴めたのだから。
全てをかけて僕は彼女に向き合う。
今はまだ咲かぬつぼみであっても、これから僕らは、満開の桜の花の中にその身を二人で共に
二人の心を通わせたい。
僕らのこの想いは今始まったばかりだから。
僕らの物語は……ここから始まる。
Notre histoire... commence ici.
恵美の口から響音さんの名を訊いた時、僕の心は動揺した。
どうして、その名を僕の前で言うんだ。
僕がずっと君の前では言う事が出来なかった人の名を。
僕の躰を強く抱きしめながら「響音にぃ」と恵美は言った。
僕を響音さんと重ねているのか?
うわごとの様に聞こえる恵美の声に、僕の鼓動は激しさを増していく。
僕が響音さんの事を知っている事を恵美は気が付いたのか?
今、恵美の身の上に何かあったことは確かな事だ。でなければ僕の前で彼の名を言うはずは絶対にない。
「な、なんのことかな?」
とぼけて見せるがそんな事はもう通用しないことくらい、疎い僕にだって感じていた。
恵美が響音さんの名を声にした時から、すでに心は動き出していたのかもしれない。
「響音さん。北城響音さん」呟く様に僕は恵美の前で初めてその名を声にした。
「ユーキは本当に知っていたんだ響音にぃの事」
「うん」抱きついた恵美の体温が伝わってくる。小さく頷いた時、今まで抱え込んでいた想いが溢れ出てくる。
「うん、 知っていた」恵美の腕の力が強くなる。
「知っていてずっと私の前では知らないふりをしていたんだ。どうして? ユーキは私の事ずっと気にかけていたんでしょ。私がふっても、ずっと私の事思っていたんでしょ。分かってる。そんなの分かってる。ずっとあなたが私を見ているのを私は分かっていた。その気持ちに気づいていた。でもあなたは私に触れようとはしなかった。響音にぃが私にいるから、私の中には響音にぃが今も生き続けているのを知っていたから。そうなんでしょ、ユーキ」
「……うん」
「馬鹿ぁ!」
「そんなのユーキが苦しいだけじゃない。自分の事こんなにまで苦しめて、それであなたは良かったの。いつまでも私が過去の思い出に浸っているのをただ見ているだけでよかったの」
その時、恵美の表情が変わった。
「馬鹿なのは、私の方じゃない」
抱き着く力が徐々に抜けていく。その力を取り戻すかの様に、僕の腕が恵美の躰を強く抱きしめた。
「恵美は馬鹿じゃないよ」
「嘘、ただ私だけの独りよがりなのに。もういない人の事をいつまでも引きずっていたのは私の方なのに」
「ううん、違うよ恵美。恵美が大切に思う人は、僕にとってもとても大切な人なんだ。ただ恵美の事を思って、僕は響音さんの事に触れなかったんじゃないんだ。響音さんは僕にとっても失うことのできない人。だから、だから僕は恵美の中にいる響音さんに触れる事は出来なかった。ただ、いつの日か僕の中にいる響音さんと恵美の中にいる響音さんが共に歩みだせる日が来るのを僕は待っていたのかもしれない」
共に歩みだせる……。
そうだ、僕は自分が歩みだせるのを、恵美が歩みだせるのを待っていたのかもしれない。それは物凄く遠回りの事なんだろう。もしかしたら共に歩む事なんか出来ないかもしれない。それでも、それが僕が選んだ道だった。
自分が選んだ道。
そして僕の頭の中でよぎるあの言葉
「向き合う事って言うのは……自分の想いを全て注ぎ込む事」
父さんが残してくれたあの言葉。
僕は本当に向き合うべき相手が、今この手の中にいる事を感じている。
共に、一緒に僕と恵美の中に生き続けている、響音さんの想いを分かち合い生きて生きたい。
「僕は恵美の事も響音さんの事も好きなんだ。大切にしたいと思っている。でも僕はその想いを踏みにじるよな事をしてしまった。戸鞠との事は恵美、君の想いをも傷付けてしまったのかもしれない。僕は君を想いながら戸鞠とも付き合っていた。僕は戸鞠の事を傷つけ、僕の中で生き続ける響音さんの想いをも踏みにじってしまった。そして恵美へ向けなければいけない気持ちを、踏みにじってしまった。僕は罪を背負わないといけないんだ。どんな事があっても前に進むと言う罪を」
その時、この時期にはまだ感じる事の出来ない、温かい風が僕ら二人を包み込んだ。
ほのかに甘い香りがするその風は、二人の心を一つにさせてくれるような気がした。
「ユーキ」僕の名を恵美は耳元で呟く。
そっと恵美の手を取り僕らはゆっくりと歩き出す。
しっかりと握られた僕らの二つの手。僕と恵美は今、共に歩き出そうとしているんだ。
まだ春とは言えないこの季節。でも、僕ら二人の間には温かな風が舞い込んでいる。
どうして僕が響音さんの事を知っていたなんて、恵美がどうしてその事を知ったのかなんて、もうどうでもよかった。
ちょうどあの頃と同じ時だろうか。響音さんの命日の前の晩、恵美が熱を上げこの待合室で苦しんでいた時、恵美をおぶって家まで送って行ったあの日の事がよみがえる。
僕はあの翌日、北城響音と言う人に出会い、恵美の心の中の悲しみを知った。
両親が突然僕の前からその姿を消し去り、恵美と一つ屋根の下暮らす事となった。僕が恵美に告白して、恵美から帰って来た言葉
「私が今愛しているのはあのアルトサックス」だと。
僕は何も恵美の事を知らないまま告白していた事に気づかせてくれた。彼女が背負う重く悲しいあの想いを。
「あなたは私の何を知っているの?」告白した時彼女が言った言葉。
僕はあの時何も知らなかった。ただ河川敷で奏でる、あのアルトサックスの音色が僕の心を引き寄せていたのは事実だ。
あの音は彼女の音じゃなかったんだ。あの音は響音さんの音なんだ。
僕の心の心の中に響くアルトサックスの音。
その音だけが、あの時僕と恵美を繋いでいたんだ。
響音さんの想いが詰まった音色に。
僕は響音さんに引き寄せられたのかもしれない。
でも、僕は僕であることに変わりはない。響音さんの代わりにはなれないんだ。
それでも、僕の心は、想いは恵美へ惹かれていった。
彼の存在を知りながら、恵美の想いを知りながら、僕は思いを募らせた。
人を傷つけ、そして自分の心も傷ついた。
癒してもらいたいとは思わない。癒されることは今の僕にとって自分から逃げる事と同じだからだ。
もう迷わない。
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家の近くの小さな公園。そこにある桜のつぼみはまだ固く閉ざされている。
もうじきその閉ざされたつぼみは柔らかく可憐な花を咲かせるだろう。
淡く光る街灯の下、彼女の握った手に力が入る。
「恵美」彼女の名を一言口にし、ゆっくりと歩んだその足を止めた。
「どうしたの」少し下を俯き小さな声で彼女が言う。
誰もいないこの小さな公園。桜の木には花も葉の影も今はない。あの時は落ちゆく葉が僕の心を哀しみへと導いていた。恵美もきっと同じだったんだろう。
でも、今は違う。今はまだ何もない。いや、まだ開かぬつぼみは、今の僕たちと同じなのかもしれない。
「恵美、僕は……、僕は君の」言いかけた言葉を、彼女の唇が僕の唇に重ねさせ止めた。
「言わなくても分かってる。ユーキの気持ち、そして想いも」
恵美の目から一筋の涙がこぼれた。その涙は頬を伝いぽつりと地面に落ちる。
「正直私、まだ本当にユーキだけを見つめていられる自信はないけど、まだ、響音にぃの事忘れる事は出来ないけど。あなたに傍にいてほしい」
涙が彼女の頬をずっと伝っている。
僕の想いが恵美に届いた。多分すべての想いはこれから始まるんだろう。
お互いがもっていたこの悲しい想いを、僕らは分ち合う事が出来る、糸口が見えただけかもしれない。
それでいい。
僕はそれでいいと思った。
北城響音、彼が繋いだ僕らのこの想いの糸口が、ようやく掴めたのだから。
全てをかけて僕は彼女に向き合う。
今はまだ咲かぬつぼみであっても、これから僕らは、満開の桜の花の中にその身を二人で共に
二人の心を通わせたい。
僕らのこの想いは今始まったばかりだから。
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