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かたちだけの恋人
第37話2.冬空に響く音色
しおりを挟む人にはいろんな音色があるんだよ。その音色を別な呼び方で人生って言っている。
「彼さぁ、私のいっこ上の先輩で特別カッコイイとか何かスポーツやっててすごかったなんていうのもなくて、ただ普通の人だったんだよ。それを私が変えてしまった」
高校1年の時、学校帰りに変な奴らに絡まれてさ、その時たまたま通りかかったのがあの人で、多分助けてくれたたんだと思うよ。喧嘩なんてしたことなくてさ、ぼこぼこにされて血だらけになって、そいつら呆れていなくなってしまったんだけど、もう立つことも出来ないくらい殴られてたから救急車呼んでやったのは良かったんだけど、その後が大変でさ警察は来るは、学校の先生には呼び出されるはで、結局私に絡んできた奴らは捕まったんでけど、彼さぁ、頭ちょっと強く打っちゃって記憶失くしちゃったんだ。
それまでのことぜ――んぶ。病院の先生からは一過性のものだろうからいずれ記憶は戻るだろうって言われてたけど、流石に私も申し訳なくてさ、何度も見舞いに行ってたよ。そして退院してからも彼の家に行ったり。そんな事繰り返している内に自然と言うか、なんて言うか、一緒にいるのが当たり前の様な関係になっていたんだよ。
それでも一年たっても二年たっても彼の記憶は戻らなかった。
その間私は、もう記憶が戻らないでほしいとさえ思う様になったんだ。だって……もし彼の記憶が戻ったら、私の事なんか、ううん、私の事を恨むんじゃないのかってさえ思うようになったの。だから、私は無理やり彼を私に向けさせようと必死になった。幸いなことは向こうの親も私の親も、お互いに私達を見守ってくれていた事だった。
高校3年のもうじき卒業と言うとき、私の躰にもう一つの命が宿った。私はどうしても産みたかった。それならばと、籍だけは入れておこうと言う事になって、まぁ、形だけの、あの婚姻届けと言う紙切れ一枚での結婚だったけど私は彼と結婚した。
でも、そこから私達は崩れだしたんだと思う。
彼の記憶が少しづつ戻り始めたんだ。それを知った私は恐怖さえ感じていた。彼に恨まれるという想いが先立っていた。それに記憶を取り戻す彼は、少しづつ変わっていった。私を恨むようなことは多分なかったと今も信じている。
でも記憶のなかった頃の彼と、その時の彼は私が求める彼とは違ってきていたんだ。そのストレスのせいかもしれないけど、お腹の中の子は生まれてくることなく命を落とした……。
まぁ後は、何だろう崩れ始めるともう歯止めが利かなくなって……。私達は別れた。でも彼は最後まで優しかった。
実際崩れていったのは私の方だった。自分勝手に崩れて、それをかき集めながら……でも無理だった。
何も可も失って、もうどうでもいいって思っていた時、ふらっと何となくこのお店に入ったの。単なる偶然かもしれないけど、私はこのお店に来てあの繊細な彩溢れるお菓子を見つめていた。
本当に綺麗だなって。
「なににいたします」って声をかけられた時、あの時注文したのが綺麗に目に映るお菓子達じゃなくて、何だろうその時の私の気持ちを見ているようなそんな感じのお菓子。名前も知らなくて指さして「これ一つください」って言ったの今でもはっきり覚えている。
その時そのお菓子を食べた時、私は人生を変えたんだと思う。本当に美味しかった。そしてこのお菓子を自分で作ってみたい……そう思ったんだ。
それからだよ、洋菓子のパティシエになろうって決めたのは……。それから色々と調べたよ。あの時食べたお菓子がこの店の名前『カフェ・カヌレ』の由来となったお菓子である事にたどりついたんだ『カヌレ』と言うフランス菓子に。
それからはなりふり構わず専門学校で基礎を学んだ。そして、どうしてもこの店で私は修行をしたいと思ったんだ。
「なんだか私の過去全部結城に話しちゃった。隠すつもりはないんだけど自慢できることでもないから、私の中にしまっておいたんだけどね」
僕は黙って聞いていた。葵さんの話を……。
人にはどんなに辛い過去があるのか、それはその人にしか分からない。表に出さなければ……。
恵美もそうだ。恵美も響音さんの事を今もずっと心の中で一緒にいるんだ。それがもう、この世にいない事を分かっていても、彼女の中ではずっと生き続けている人なんだ。
「あのさぁ、結城。恵美ちゃんの事を想う気持ちと、今付き合っている子の気持ち。どちらも私は結城にとって大切なものだと思うよ。恵美ちゃんの事、私は分かるからこそ言えるんだろうけど……辛いのは結城だと言う事も。でも、恐れから逃げてばかりだと、私の様な結末しか来ないんだと思うんだ。もしかしたらお互いを傷つける結果になるかもしれない。例えそうなったにせよ、それをそこで終わらさせては行けなかったんだと思う。相手を本当に信じてあげる心。その気持が一番大切なんじゃないかな」
持っていたビールを飲み干すと
「さぁて、そろそろ私も休もうかな。今度こっそり私に合わせてよその子。多分気が合いそうな感じがするから」
「どうして?」
「何となくね。それじゃおやすみ」そう言い残し葵さんは自分の部屋に行った。
ベッドの上に無造作に置かれているエロ雑誌、それを手に取りページをぺらぺらとめくり、その後ごみ箱に捨てた。
雨宮さんには正直に話そう。
僕が今ここ『カフェ・カヌレ』にいる事を……それが彼女への礼儀でもあるかの様にも思えて来た。何もすべてを話さなくてもいい。今僕がここにいる事を招致の上で、そして学校の生徒には知られたくないという事を素直に言えばいい。
それでいいんだ。
雨宮さんを信じる。彼女も僕を信じてくれたからこそ、声をかけてくれたに違いないと思う。信じよう、そして葵さんが言ったように、恐れから逃げてばかりだと何も出来ないんだ。ただ、自分自身に自信がなかったのか、それとも……まだ器が小さいのか? どうなのかは自分ではよく分からないけど。
次の日、僕は雨宮さんのお店に出向いた。戸鞠は部活があるから僕だけ先に向かった。いつもは戸鞠の部活が終わってから一緒に行く事がいつしか暗黙の了解になっていたが、今日はそれは無しだ。
案ずるより産むがやすし。
そのことわざがぴったりとはまった。
それより意外な事実を彼女は話してくれた。
笹崎と言う苗字に彼女はずっと気になる事を思っていた事を。
「それじゃ、やっぱり笹崎社長の息子さんだったんだ」
「父さんの事を知っていたんですか?」
「知るも何も、私にこのコーヒー豆を紹介してくれたり、いろんな事を教えてくれたのは笹崎社長なんだもの。今の私があるのは社長のおかげかもしれないわ。でも……残念だったわね。こんなにいい子を一人残して亡くなってしまうなんて。本当に無念だったでしょうね」
雨宮さんは遠い昔を懐かしむようにうっすらと涙を浮かべていた。
「分かったわ。あなたが政樹さんのところで暮らしている事は秘密にしてあげる。彼女にもね。でも不思議よね。真純ちゃんあなたの家の事何も聞かないの?」
「……小うるさい叔父の家に引き取られたって言っていますので」
「前言撤回! あんな良い方たちの所にいるのにそんなこと言っているの。まったく悪い子ね」と言いながら二人で笑い合った。
本当に悩んでいたのが、嘘のようだった。
しかし、意外なところで戸鞠に僕が恵美と一緒に暮らしている事がバレてしまう。それは雨宮さんからでもなく、僕ら恵美との間からでもなかった。
それは本当に意外なところからだった。
その事に僕はもっと早く気が付くべきだった。
今までずっと一緒にいたのに、幼いころから……。その気持ちの変化に僕は気付いて……いたはずだ。
確かに。
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