君の閉ざされたその心に甘いカヌレを届けたい Black sweet ・Canelé

さかき原枝都は

文字の大きさ
上 下
36 / 58
かたちだけの恋人

第36話1.冬空に響く音色

しおりを挟む
 僕が久しぶりに恵美の奏でるアルトサックスの音を訊いたのは、12月の中を過ぎた頃だった。

 その日は12月にしては天気のいい日だった。

 あの響音さんのアルトサックス。その奏でる音色はやっぱり僕の心を揺さぶる。
 何故だろう? 恵美が別のアルトサックスで吹く音と僕が感じるその音はまったく違う音に聞こえる。

 それだけ。恵美の心は響音さんの心に寄り添っていると言う事を、意味しているのだろうか?
 僕の入る隙間さえも無い位に、恵美の想いは響音さんで埋め尽くされているんだろうか? だとするならば……。僕は恵美のあのアルトサックスの音色だけを追うただの道化師なのかもしれない。



 Café des Prairies 草原のコーヒー屋 雨宮《あまみや》さおり。

 彼女からもらった名刺は今も大切に保管してある。それよりも僕はあの店によく通う様になった。戸鞠と一緒にあの店で待ち合わせをする。それが日常化しつつある。今ではすっかり店主の雨宮さんに顔を覚えられてしまい、しまいには僕にコーヒーを淹れさせて見させるほど仲が良くなっていた。

 彼女は僕のコーヒーの淹れ方を見て、どこかで習った? と、言ってくれるほど僕の淹れるコーヒーをほめてくれた。実際僕のやり方は間違いではなかったらしい。彼女はちゃんとしたバリスタの認定資格者でもある。その彼女から僕の癖やちょっとしたタイミングなどを教えてもらう事が出来た。

「笹崎君、君、うちでバイトしない?」とも言ってくれたが、僕には『カフェ・カヌレ』での朝の手伝いもある。でも、彼女の店のコーヒーを自分が扱う事が出るようになると思えば断るにも惜しい気がした。

「週に2回位しか出来ないかもしれませんけどそれでもいいですか?」
「もちろん。本気で働いてもらおうなんて思っていないわよ。私あなたに興味があるの、それに笹崎君、あなたバリスタの才能? ううん、筋がいいわ。あなたも興味がありそうだからさそったのよ」

 それならばと、その誘いに便乗した。
 戸鞠は自分の家の近くに僕が来る回数が増えるからと大喜びしていた。僕と過ごせる……いや、彼女からすれば彼女の傍に僕がいてくれればそれでいいと。

 政樹さんにもちゃんと話をして了解をもらった。実は初めてあの店で買ったコーヒー豆を使って朝食に政樹さんに飲んでもらった。
 驚いていた。あのコーヒーにうるさい政樹さんがこれほどまでに計算されたブレンドは今まで飲んだことが無いと、その日の朝は少し興奮気味だった。

 僕はあの名刺を見せて、ここから購入したことを教えた。すると、政樹さんは
「あの、雨宮の店か。道理で……彼女もようやく自分の店を出せていたんだ」と懐かしく話をしてくれた。

 雨宮さんはあの店を出す前、某一流ホテルのVIP専属のバリスタとして働いていた。その名はこの業界ではかなり有名な存在だったらしい。政樹さんも雨宮さんもお互いよく仕事上でも付き合いがあり、出会う機会もあったと話してくれた。

 でもあの雨宮さんの店でバイトをするには、一つ問題がそこで生まれた。
 僕が『カフェ・カヌレ』の店主である三浦正樹の家で暮らしている事だった。もし、その事が戸鞠の耳に入れば、僕と恵美が一緒に一つ屋根の下で暮らしている事がバレてしまう。

 雨宮さんは「履歴書なんかいらないわよ」と言っていたが、自宅の住所と連絡先は教えてほしいと言われた。
 どうすればいい? この話は断るべきだろうか……。
 そんな時、富喜摩葵が僕に声をかけて来た。

「おい、そこの悩める少年」

 少年? まぁ彼女から見れば僕なんかまだ少年何だろうな。でも葵さんは最近、僕によく話しかけてくれる。ちょっとしたことでもお互い思った事を何でも話せる様な仲になっていた。なんだか、もう一人、律ねぇのほかに姉貴が出来たようなそんな感じがしていた。

「訊いたよ、バリスタの修行するんだって?」
「え、バリスタの修行じゃないですよ。そんな大げさな事じゃないんですよ」
「でも政樹さんは結城はバリスタの修行をするんだって言っていたぞ」
「まったく! 雨宮さんという人のお店でちょっと手伝いと。コーヒーの事教わるだけですよ」
「教わるんだったら立派な修行じゃん。で、その事で何を悩んでいるんだよ結城」

 ん――。僕はこのことを正直に葵さんに話すべきだろうか? 彼女の問いに答えを迷っていると
「なぁ結城、お前恵美ちゃんの事気になっているんだろ? でもその肝心の恵美ちゃんは結城の事は眼中にもない。悲しいねぇ……結城」
「え、ど、どうして……それを」
「まぁ、待て。まだ続きがある……でもこの先はここじゃ話すのまずいか。まずは私はシャワーを浴びてくるとするか。後で結城の部屋に行くよ。いいだろ。そうそう、エッチな本は今のうち見えない所に隠しておけよ。ハハハ」

「葵さぁん……」

「じゃぁ後でな」そう言い残し葵さんは自分の部屋に着替えを取りに行った。
 まぁ確かに、もし本当の事に触れるんだったらリビングではまずいだろう。正樹さんやミリッツアもまだここに来る事は確実なんだから。それに恵美だってまだ起きているはずだ。
 僕と葵さんが話し込んでいれば必ず中に入ってくるのは確定済みの様なものだ。
 そんな事を考えていると政樹さんがリビングにやって来た。

「ん、どうした結城? なんか神妙な顔つきでいるようだけど、悩み事か?」
 政樹さんまでそんな事言う。よっぽど切羽詰まった顔をしてるんだろうか?

「な、何度もないですよ」
「そうか、ま、それならいいけどな。さてシャワーでも浴びてくるか」
「あ、シャワーなら今葵さんが使っていますよ」

「そうか先越されたか! 葵は何でも早くて要領がいいからな。それに彼奴は自分に壁をつくらない。もうすっかりうちとも溶け込んでいる。中には自分の殻に閉じこもろうとするタイプもいる。お前たちとも仲がいいし、本当に家族の様に感じて来たな。後は彼奴がどこまで自分を磨けるかだけどな」

 もうすっかり正樹さんの気持ちの中にも葵さんは溶け込んでいた。
 凄いと思う。僕は始めこの家で暮らし始めた頃、政樹さんに自分では分からない壁を作っていた。今ではそんなもの何も感じていない。それより何だろう、もっと政樹さんとは何だろううまく言葉が出ないけど、もっと彼に近づきたい。そんな気持ちが芽生えているのは感じている。

「あ、政樹さんシャワー御先です」葵さんが戻って来た。「さてとビール、ビール」そう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し「さ、結城行くよ」と僕に声をかける。
「なんだこれからどこかに出かけるのか?」
「違いますよ、政樹さん。これから結城とミーティング!」

「ミーティング?」

「そ、このころの年頃はいろんなことで悩める年頃なんです。だからミーティング」
「そ、そうか。ま、それじゃ俺はシャワーに行くとするか」
「はい、お疲れ様です」

 僕の部屋のドアがノックされた。
「はい」と返事をするとドアを開け葵さんが部屋に入って来た。
 そして僕のベッドに座り「ふぅ―」とため息をついて、手に持つビール缶のプルタブを開けゴクゴクとビールを流し込んだ。

「あー美味しい。ようやく一息付けたわ」
「本当に美味しそうに飲みますね」

「だって美味しんだもん、仕方ないでしょ。それより本題に入るとしますか」
「本題?」
「そう、さっきの続き。結城あなた今付き合っている子いるでしょ」

 その葵さんの言葉にドキッとした。

「恵美ちゃんへの想いは届かない。でもそれを諦めたわけじゃない。どういう事でその子と付き合う様になったかは分からないけど、でも今その子のことでも悩んでいる。そんなとこかな」
「どうして……」言葉を返そうにもあまりもストレートに核心を突かれた僕は返す言葉がなかった。
「あははは、だてに私も時間潰していなかったって事よ。私だってあんたの年頃に恋愛の一つや二つの経験位あるわよ」

 そう言いながらベットのマットの下に手を突っ込み「あった、あった」と言って仕舞い込んでいたエロ本を取り出し「ふーんこんなの好みなんだ」と言っておもむろにページをめくった。

「あっ、」と声をだす間さえなかった。
「大体さぁこんなもん隠す場所ってみんな決まってんのよね。結城もごタブに漏れずに同じところ。やっぱりあんたは素直な子だわ」

「素直で済みませんね」少しむっとしながら言い返す。

「可愛いねぇ。まぁ、それはいいとして、あなたは恵美ちゃんの事その子に知られたくないんでしょ。でも今雨宮さんだっけ、その人の所で働くことでここの住所がバレてしまう。そうしたら、今付き合っているその子にもその事がバレてしまうって思っている。そんな所じゃないかな」

「……葵さんてもしかしてエスパーかなんかですか?」
「そんなんじゃないわよ。ぜん――ぶあなたの顔に書いてあるんだもん。大体察しがつくわよ。それに私もそんな経験あるしね」

 葵さんは少し下をうつむき小さな声で

「私さぁ、高校出てすぐに結婚したんだぁ。でも1年しか持たなかった」

 結婚? 一年しか持たなかった……葵さんが……。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・

希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!? 『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』 小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。 ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。 しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。 彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!? 過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。 *導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。 <表紙イラスト> 男女:わかめサロンパス様 背景:アート宇都宮様

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】

まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と… 「Ninagawa Queen's Hotel」 若きホテル王 蜷川朱鷺  妹     蜷川美鳥 人気美容家 佐井友理奈 「オークワイナリー」 国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介 血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…? 華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。

処理中です...