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かたちだけの恋人

第35話6.表と裏・・・想いと気持ちの狭間に

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 ケトルのお湯が沸いた。火を止め一旦お湯を落ち着かせる。
 鍋の中にカップを入れ、温める。

 さて、ここからだ。いつもやっている自分の手順を崩すことなくコーヒーをドリップする。すでにほのかなコーヒーの香りが僕らにその存在を教えてくれる。少量のお湯をケトルから惹いた豆に静かに注ぎ、蓋をして蒸らす。この少しの時間を僕はいつも大切にしている。

 この時間は僕は目覚めの時間だと思っている。今まで眠っていたコーヒーの豆たちがお湯で目覚める瞬間。

 そして蓋を開けケトルから中央に静かにお湯を注ぎ入れる。
 ここから初めてあの香ばしいそして甘く切ない香りが僕らを包み込む。

 このブレンドのすごさを今僕は実感する。つんとしたくせもなくただ甘く高貴な香ばしさが僕の洟に抜ける。この香りはさっきあの店でかおるものとは数倍も違う。ドリップしているからこそ、そのコーヒーの囁きが聞こえてくるようだ。

 その香りに隣でじっと僕のその作業を見つめている戸鞠の表情は、すでに至福の時を迎えたような感じだった。
「さっきのお店での香りと全然違う」彼女が一言漏らす。

 ゆっくりと静かに、お湯を足してそして沈んでいく、ドリッパーの中を注意深く見ながらまたゆっくりとお湯を足す。
 温めたコ―ヒーカップをセットして、完全にドリッパーの中で沈み切る寸前の所でドリッパーを外す。

 もうすでに部屋中この甘いコーヒーの香りでいっぱいになっている。
 ゆっくりと二つのカップにコーヒーを注ぎ入れ完成だ。

「出来たよ」
「……うん。出来たね」

 戸鞠がそっと注がれたコーヒーカップをトレーに乗せ居間のテーブルに置く。
 その間に僕は少し後かたずけをする。コーヒーが入っている小袋の開け口を三つ折りにしてしっかりと蓋を閉める。まずはそれを行わないとコーヒーは酸化しはじめる。それを少しでも防ぐためだ。

「笹崎君、来て……一緒に……」

「うん、今行くよ」お店からもらったフィナンシェを小皿において、もう待ちきれないよ! そんな表情で戸鞠は僕を呼ぶ。
 戸鞠の所に行って「お待たせ、どうぞお味見くださいませ」と言うと彼女はクスッと笑い「はい、いただきます」とゆっくりとコーヒーを口に含んだ。

「美味しい、それにさっきお店で試飲したのと違う。どうしたの?」
「うん、キリマンジャロって言う豆を足したんだ。酸味が出ていいと思うんだけど」
 うん、やっぱり酸味があって飲みやすくなっている。でもこれは好みだろうな。あの店はそれを知っていてわざとこの酸味を少し削っているんだと思う。誰もが素直に味わえる味に調えるために。

 だからだろうあの店の彼女、店主だろう雨宮さおりが「君、やっぱりコ―ヒーに詳しそう……。このブレンドとキリマンジャロ頼む人ってそうそういないわよ」と、言ったこともわかるような気がする。でも僕の淹れ方は本当に自己流だ。
 もしかしたら正当なコーヒーの淹れ方からすれば的外れなところがあるかもしれない。それでも僕は自分のこの淹れ方を信じている。

「ようやく、笹崎君の淹れてくれたコーヒーが飲めたね。本当に美味しいよ」
「ありがとう、戸鞠」彼女の瞳が少し潤んでいる。
「ねぇねぇ、このなんだっけ? お菓子の名前」
「フィナンシェ」
「そうそう、しっとりとしていてこのコーヒーと物凄くあうよ」
 僕も一口フィナンシェを口にする。

 焼き菓子なのにしっとりとした触感にほのかに香る柑橘系の香り、それ程甘くなくだけど、しっかりとした味わいがある。『カフェ・カヌレ』で出されているフィナンシェと違う趣のある美味しさだと思う。
 偶然入った小さな喫茶店? と言うよりはコーヒー専門店なんだろう。あそこのお店のすごさを痛感した。

「今日は偶然だったけどすごくいいお店に出会えたよ」
「そうでしょ、今日私と一緒に来て正解だったでしょ」
 ちょっと得意げに戸鞠は言う。
「そうだね……」
「はぁ―、何だろう。普通コーヒーってさぁ―、カフェインで眠気覚ましてくれるはずなんだけど、笹崎くんの淹れてくれたコーヒー飲んでるとなんだかとても眠くなっちゃう……なんでだろうね」

「さぁ、何だろうね。お酒はいれていないんだけど……」
「うそ、お酒じゃなくて何かあるんじゃないの?」

 戸鞠は残りのコーヒーを飲み干すと
「幸せになれる魔法がかけられているんだよ。きっと。ねぇ、そっち行っていい……」
 ゆっくりと立ち上がり僕の隣に座り、そして僕の肩に彼女の頭がよりかかってきた。

「今ねぇ、ふんわりとしてもの凄く幸せな気分なの。なんだろうね。笹崎くんの淹れてくれたコーヒーの魔法にかけられたみたいに……でもね、物凄く今ドキドキしているの」

 そっと僕の手を彼女の胸に触れさせた。戸鞠の胸の鼓動が僕の手に伝わる。それを僕はただ成すがままに感じていた。

 窓に映る空の色は灰色をした雲の色で一面覆われていた。
 そっと彼女の唇が僕に触れる。
 僕はそれを受け入れる。拒みはしなかった。いや拒もうともしなかった……。

 むしろ求めていた……自分の心の中の存在はどこかに消えていた。
 柔らかい彼女の胸の先が次第に固くなるのを、押し付けられるその僕の手が感じとる。
 彼女の柔らかくて熱い唇、今までとは違う感じのする彼女の唇に僕は自分の唇を押し当てる。

 体の中が熱くなる……。この熱さを止める気はなかった。

 戸鞠が僕の耳元で一言
「お部屋に行こう」そう囁いた。


 彼女の体は白くて柔らかい。そしてとても暖かった。触れる肌に触れられる肌。

 僕らはなんの迷いもなくお互いのその肌を触れ合わせた。
 静かな部屋の中に僕ら二人の息づかいだけがお互いの耳に入る。
 カーテンの隙間から見える外は相変わらず灰色の雲ばかりが埋め尽くしている。

 灰色……。
 
 僕の心の中も今その色に包まれているのかもしれない。だから? だから僕は求めたんだろうか……彼女を、戸鞠を……。
 少しこわばった彼女の体を優しく抱いて僕らは一つになった。
 薄っすらと彼女の目に涙が残る。

 そっとその涙を指で拭うと、ふっと彼女は微笑んだ。

 少し汗ばんだ体が急激に冷え込む。僕らはそのまま抱き合いお互いのぬくもりを分け合いながら毛布の中でお互いの肌の感触を確かめ合った。
「戸鞠、初めてだったの?」

 彼女はそれに小さく頷く。そして「これが例え夢だったとしても、私は今幸せな気分なの」そう呟く様に言う。

 夢……まるで夢を見ていたかの様な一時の時間の流れ。
 気持ちとは何だろう? 想いって何だろう。そんな事が僕の頭の中を駆け巡る。
 彼女が強く僕を抱きしめた。
 後ろめたさと罪悪感……僕を襲うそんな気持ちを、彼女はまた僕にキスをしてかき消そうとする。

 愛する人がいる。
 でもその人には僕の気持ちは届かない。
 愛されたい人がいる。
 その人の想いは僕の中に注がれる。

 その注がれた想いで僕のすべてを満たしてくれるのなら、僕はどんなに楽になれたんだろう。彼女の想いですべてを僕は満たされることは出来ない。それほど僕の中にいる妖精への想いは強いものだったのかもしれない。
 でも僕は彼女が注いでくれる想いを僕の中に注ぎ込ませている。そして今は注いでほしいとさえ思っている。

 あの時とは違う。律ねぇと触れ合った時とは違う想いが今僕を包み込む。それがまた僕の心の奥深くに傷をつけている事を知りながら……。

 戸鞠真純とまりますみ。僕は彼女を抱いた。

 僕の中にある想い人へ。もしこれが本当に僕の想いとなるのなら、僕はその時それでもいいと思った。
 そしてまた彼女を抱きしめその柔らかい肌を僕の体に押し付ける。そうすることで僕はこの罪悪感から解放されるような気がしたから……。

 その夜遅くに戸鞠から一通のメールが来た。

「後悔していない……」

 それは僕に問うものだったんだろうか? 
 それとも彼女自身の事だったんだろうか?


 月曜日、学校で会う戸鞠真純の姿はいつもの彼女の姿だった。
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