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第8話 見事にフラられました ACT 8

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恵梨香さんはいつものようにひょいとカヌレをつまみ、そっと口にはこぶ。
ゆっくりと目を閉じて口の中で溶け行くであろうカヌレの味を堪能しているように見えた。

「バニラ……変えた?」

「あ、ああ。2種類の産地のバニラを合わせてみたんだ。わかるかい?」
「うん、いいと思う。崩れていない、全部が調和してきている」
「うん、僕も美味しいと思う」

「そうか、ふぅ―、よかった今回も合格ていうことでいいんだな。恵梨香さん」
「もちろん、合格よ。でも、正樹さん」
「なんだい恵梨香さん」

「もういいんじゃない。あなたは私を超えちゃっている。なんか今は私が試されているみたいな感じがするんだけど。だから今日で、最後かしら」
「あ、いや、それは困る。俺は、恵梨香さんにこうして認めてもらうことで、生きながらえていられるんだ。これからも頼むよ」

「ま、大袈裟ね」
「そんなことないよ。正樹はね、これを口実に恵梨香に会いたがっているんだよ」

「うるせぇわ、ミリッツア。いいかげん、お前太芽の体から離れろや!」
「嫌、だって、こうして太芽と抱き合えるのは、ほんとに年に数回しかないんだもの」

まったく、目の前に夫がいるっていうのに、ミリッツアの奴は。でも、そんなミリッツアを目の前にしても恵梨香さんは顔色一つ変えないよな。
でもなぁ……こうしてこのふたりを見ていると、もうはるか遠い昔のように思える。フランスにいたあの頃を。
あの頃は本当に楽しかった。俺たちの青春ていうにはちと年食っていたけど。あの思いは今でも忘れることは出来ねぇ思い出だ。
太芽とミリッツア。俺と恵梨香さん。フランスに居た時はこの組み合わせが、なぜか入れ替わている。人生っていうのはわかんねぇもんだ。

ミリッツアは今でも太芽のことが好きでたまらないんだろう。その思いを体からにじませているのがよくわかる。まぁ、そういう思いを隠さねぇでいるところが、ミリッツアのいいところでもあるんだけどな。
そう言う俺も。いまだに恵梨香さんに好意を寄せているのは否定できないことだ。正直。まだ恵梨香さんには心残りがある。

人生、運命というのはわかんねぇもんだな。

「どうした正樹、やきもちか?」
「馬鹿! そんなんじゃねぇよ」

「あははは、ならいいんだけどな。あ、そうだ。命日にはちょっと早かったんだけど、イレールのところに行ってきたよ」
「そうか。すまんなぁ太芽。全部お前に押し付けちまって」
「いいんだよ。イレールは僕にとっても父親代わりのような人だからね。正樹お前と同じだ。当たり前のことだよ。それとユーコにも会えたよ。元気そうだった。正樹お前のこと心配していたぞ」

「…………そうか」
俺はひと言重い返事を返した。

俺の師匠でもあるイレールが亡くなった後、俺たちの修行の場であった『レーヌ・クロード』を閉めたのはこの俺だ。
イレールの妻ユーコが「お店はもう閉めましょう」といったとき、俺が後を継げばよかった。そうすれば、フランスの老舗で名高いパティスリー『レーヌ・クロード』は今も存続出来ていたかも知れないからだ。
まだその想いは俺の影を引っ張っている。

あの時、俺たちは生まれたばかりの恵美を連れ、日本に帰国した。
ユーコを独りフランスに残すことを心苦しく思っていたが、ユーコは俺たちに日本に帰るように告げた。
たとえ地球の反対側にいたとしても、私の息子と、娘、そして孫への思いはこの命が尽きるまで繋がっていると。
ユーコは自分のために俺たちに負担を虐げたくはなかったんだろう。

ミリッツアにとっては一度はあきらめた日本への扉。異国の地での生活と、……俺たちの娘。恵美を連れて帰った日本の地。
そこからがむしゃらだった。後ろなんか振り向いていることなんかできなかった。

それは今俺の目の前にいる太芽も同じだった。
俺たちは……日本というこの地で未来をつかむべく再スタートを切ったのだ。

そして……俺たちの今は。ここにある。

太芽と恵梨香さんの間には結城という名の男の子が生まれた。
俺とミリッツアには……恵美がいる。

そしてここ「カフェ・cannelé (カヌレ)」が存在する限り。俺たちのあの若き日の思いは今もとぎれることはないと。

俺は信じている。
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