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66 曖昧な過去
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恭祐がかおるの中に何度も放った精液はどれほど掻き混ぜられたのだろうか。
シーツには飛び散る小さな赤い印とは別に、部屋の照明のせいで赤に近い濃い桃色に見える染みが広がっている。こんな赤に近い桃色ではない、そう恭祐は頭の中で思った。恭祐が好きな桃色は淡いもの。初めて秀一からかおるを紹介された時に、視界に入ってきたあの淡い桃色と同じ色だ。
未だに覚えている。あの日、かおるが濃紺のジャケットの下に着用していたのは恭祐の好きな桃色だった。吸いつきたくなるような白い喉元を晒すイタリアンカラータイプのシャツで、ジャケットの色とのコントラストがとても美しかったのを覚えている。
そしてあの瞬間、思い出したくなかった過去が頭の中に甦った。恭祐が咲良の顔を写真なしでは思い出せないのは、亡くなる数日前から目を閉じたままだったからなのかもしれない。心臓が止まる数日前から咲良は眠ったような状態だった。表情も色も抜け落ちた顔。どこもかしこも痩せていた。それなのに、腕には針が刺さり続け…。恭祐が何度咲良がかわいそうだから針を外してくれと頼んだことか。けれど誰もそれを聞き届けてはくれなかった。今となっては、あれが咲良の命を支える為に打たれていた点滴針だと分かるが。
かおるを恭祐に紹介した秀一の表情はとても穏やかだった。そんな表情を最後に見たのはいつだっただろう。
咲良が目を閉じたままだった時の秀一はどんな表情を浮かべていたのか。全くと言っていい程、思い出せない。それどころか、秀一が車椅子を押して桜の木の前に三人で立った日の表情すら。
思い出せるのは、秀一と奏絵を罵倒したあの日の表情。怒るでもなく、悲しむでもなく淡々と恭祐の言葉を聞いていた表情だ。
恭祐はあの時、どちらかが言い返してくれることを期待していた。そうすれば、恭祐の言葉が否定され、過去の出来事も否定されたであろうから。しかし、二人は何も言わなかった。言えなかったのかもしれないが。
秀一が『三上君は非常に努力家で優秀だ。』と言いかおるの紹介を締めくくろうとした時、恭祐はそれまでの話を何も聞かず、深い思考の闇に陥っていたことに気付いた。
そして、好きな色のシャツを纏うかおるの顔をしっかりと見据えた時に、結婚前の咲良を感じた。
写真で見た若い頃の咲良の顔にかおるはなんとなく似ている気がした。雰囲気も。
そう認識した瞬間、まるでかつての出来事が再現されるのではないかという恐怖に似た何かを感じた。
咲良が行った奏絵の紹介とは別に、秀一も当時何かを言っていたに違いない。ただ、その言葉は当時の恭祐には理解が難しいもの。察するに今同様、勤め人らしく『努力』とか『優秀』というような言葉だろう。お絵描きのお姉さんのような、小さな子供に覚え易い言葉ではなく。
そして、あの後奏絵は咲良から秀一を奪った。今度は咲良に似たかおるが奏絵から秀一を奪うというのか。
『若すぎるだろう、いい歳をして、考えろよ。』会社という空間でなければ、恭祐は躊躇することなく言っただろう。否、秀一の胸ぐらを掴んで喚くくらいのことをしたかもしれない。
同時に、
『かつては大好きだった奏絵が悲しむ。』
『ある時から穢らしい存在になった奏絵が悲しんでくれる。』
全く異なる想いが交差した。
再び、今、最も向き合わなくてはいけない存在に恭祐は目を向けた。そして嫌でも入ってくるシーツの染み。
「こんな下品な色は嫌いだ…」
気をやってしまっているかおるには届くことのない言葉。
秀一があの日言っていた言葉は最後しか覚えていない。かおるを他に何と言って紹介していただろうか。敢えてあまり目を通さなかった『三上かおる』の人事評価を今更読む必要があると恭祐は思った。スタート地点を見失うわけにはいかない。
残念ながら、今は土曜の昼前。日本は深夜だとしても、月曜まではまだ遠い。それでも恭祐は人事部長宛てに、個人評価ファイルへのアクセス許可を求めるメールを手短に書いて送った。理由などどうとでもなる。むしろ今まで適当に読み流し、人事部長へ返すだけだった方が咎められて然りだ。
ベルベット生地の緞帳カーテンを開ければ、部屋はもっと明るくなる。陽が高くなったことを知らせ、人を覚醒させるだろう。でも、恭祐はカーテンへ手を伸ばせなかった。かおるを目覚めさせることを躊躇ったのだった。
シーツには飛び散る小さな赤い印とは別に、部屋の照明のせいで赤に近い濃い桃色に見える染みが広がっている。こんな赤に近い桃色ではない、そう恭祐は頭の中で思った。恭祐が好きな桃色は淡いもの。初めて秀一からかおるを紹介された時に、視界に入ってきたあの淡い桃色と同じ色だ。
未だに覚えている。あの日、かおるが濃紺のジャケットの下に着用していたのは恭祐の好きな桃色だった。吸いつきたくなるような白い喉元を晒すイタリアンカラータイプのシャツで、ジャケットの色とのコントラストがとても美しかったのを覚えている。
そしてあの瞬間、思い出したくなかった過去が頭の中に甦った。恭祐が咲良の顔を写真なしでは思い出せないのは、亡くなる数日前から目を閉じたままだったからなのかもしれない。心臓が止まる数日前から咲良は眠ったような状態だった。表情も色も抜け落ちた顔。どこもかしこも痩せていた。それなのに、腕には針が刺さり続け…。恭祐が何度咲良がかわいそうだから針を外してくれと頼んだことか。けれど誰もそれを聞き届けてはくれなかった。今となっては、あれが咲良の命を支える為に打たれていた点滴針だと分かるが。
かおるを恭祐に紹介した秀一の表情はとても穏やかだった。そんな表情を最後に見たのはいつだっただろう。
咲良が目を閉じたままだった時の秀一はどんな表情を浮かべていたのか。全くと言っていい程、思い出せない。それどころか、秀一が車椅子を押して桜の木の前に三人で立った日の表情すら。
思い出せるのは、秀一と奏絵を罵倒したあの日の表情。怒るでもなく、悲しむでもなく淡々と恭祐の言葉を聞いていた表情だ。
恭祐はあの時、どちらかが言い返してくれることを期待していた。そうすれば、恭祐の言葉が否定され、過去の出来事も否定されたであろうから。しかし、二人は何も言わなかった。言えなかったのかもしれないが。
秀一が『三上君は非常に努力家で優秀だ。』と言いかおるの紹介を締めくくろうとした時、恭祐はそれまでの話を何も聞かず、深い思考の闇に陥っていたことに気付いた。
そして、好きな色のシャツを纏うかおるの顔をしっかりと見据えた時に、結婚前の咲良を感じた。
写真で見た若い頃の咲良の顔にかおるはなんとなく似ている気がした。雰囲気も。
そう認識した瞬間、まるでかつての出来事が再現されるのではないかという恐怖に似た何かを感じた。
咲良が行った奏絵の紹介とは別に、秀一も当時何かを言っていたに違いない。ただ、その言葉は当時の恭祐には理解が難しいもの。察するに今同様、勤め人らしく『努力』とか『優秀』というような言葉だろう。お絵描きのお姉さんのような、小さな子供に覚え易い言葉ではなく。
そして、あの後奏絵は咲良から秀一を奪った。今度は咲良に似たかおるが奏絵から秀一を奪うというのか。
『若すぎるだろう、いい歳をして、考えろよ。』会社という空間でなければ、恭祐は躊躇することなく言っただろう。否、秀一の胸ぐらを掴んで喚くくらいのことをしたかもしれない。
同時に、
『かつては大好きだった奏絵が悲しむ。』
『ある時から穢らしい存在になった奏絵が悲しんでくれる。』
全く異なる想いが交差した。
再び、今、最も向き合わなくてはいけない存在に恭祐は目を向けた。そして嫌でも入ってくるシーツの染み。
「こんな下品な色は嫌いだ…」
気をやってしまっているかおるには届くことのない言葉。
秀一があの日言っていた言葉は最後しか覚えていない。かおるを他に何と言って紹介していただろうか。敢えてあまり目を通さなかった『三上かおる』の人事評価を今更読む必要があると恭祐は思った。スタート地点を見失うわけにはいかない。
残念ながら、今は土曜の昼前。日本は深夜だとしても、月曜まではまだ遠い。それでも恭祐は人事部長宛てに、個人評価ファイルへのアクセス許可を求めるメールを手短に書いて送った。理由などどうとでもなる。むしろ今まで適当に読み流し、人事部長へ返すだけだった方が咎められて然りだ。
ベルベット生地の緞帳カーテンを開ければ、部屋はもっと明るくなる。陽が高くなったことを知らせ、人を覚醒させるだろう。でも、恭祐はカーテンへ手を伸ばせなかった。かおるを目覚めさせることを躊躇ったのだった。
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