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65 優しい思い出が朽ちた瞬間
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若林咲良の写真は少ない。
秀一と結婚してから若林咲良となり、恭祐を産んで二年後までの写真はそれなりにあった。けれど、ある日を境に咲良は写真に姿を捉えられるのを嫌った、だから若林咲良としての写真が少ない。
若林家に今も残る咲良の写真は、旧姓である野々原咲良のものばかり。中には幼少期や成人式のものまである。
秀一が宝物として残している、在りし日の大切な咲良の姿がそこにあった。
写真は嫌でも、咲良は残したかった、家族としての時間を。母としての姿を。
だから、田中奏絵が若林家に招かれたのだった。
たまたま路上で絵を売る奏絵の作品に咲良が惹かれたという理由だけで。
恭祐が二歳を過ぎた頃だった、奏絵が母である咲良からお絵描きをするお姉さんと紹介されたのは。奏絵は美大の卒業を控えた頃に若林家にやって来て、知らないうちに通いから住み込みに変わっていた。
恭祐に当時の記憶はほとんどない。ただ、奏絵の存在はそれからも続いたので恭祐の中でお絵描きをするお姉さんとしての記憶は強い。
同様のことは多々ある。その時の記憶なのか、後に誰かの話が心に残ったのかは分からないが恭祐の幼なかったあの頃の記憶は全てが曖昧。もう随分昔のことだ、正確に時系列で覚えていることの方が難しいだろう。
それでも、何故か途切れ途切れで思い出される記憶がある。全てが同じようなシーン。何度も見たからなのか、印象的だったからなのかも分からない。咲良が絵を見て笑ったのに、次の瞬間泣いているシーンばかりが頭に浮かぶ。
不思議な記憶だ。写真なしでは朧げにも顔を思い出せなくなってしまったというのに、笑顔だったことと、泣いていたことだけが思い出される。
どういうことなのだろうか。
何を意味するのか。
何故泣いていたのか、恭祐はずっと分からないまま。
人はだいたい嬉しい時、もしくは悲しい時に泣く。大半は後者が理由だろう。だとしたら、咲良が絵を見て泣いた理由はなんだろうか。
残された未来が僅かだと知っていたから泣いたのか、それとも当時はまだ世に出ていなかった大地のせいなのか。
秀一よりも、ずっと咲良の傍にいた奏絵は多くを知るはず。恭祐の知りたいことのほとんどを知っているかもしれない。しかも同性だ。二人にしか分かり合えない何かがあったとしてもおかしくない。
だから奏絵に聞けば良かった。
実際、恭祐は咲良に関する様々なことを奏絵に聞いていた。でも、それは物心つくまで。
心が、知識が育ち、本当に知りたいことを聞ける年齢になった時には、恭祐と奏絵の関係は破綻していた。
奏絵の心の奥にある事実を恭祐が問うことは出来なくなっていた。
恭祐の誕生日は四月十五日。それは咲良の命日でもある。三歳の誕生日、咲良はこの世を去った。奇しくもその前日、花見の時に桜の木をバックにデッサンをしてもらった絵を奏絵が完成させたのだった。描かれている自分達の姿は思い出せないのに、全体的に淡い桃色でまとめられた優しい絵だったのを恭祐は今でも覚えている。お陰で恭祐の一番好きな色はその時から淡い桃色になった。
優しい絵なのに、完成したものを咲良が目を開けて見ることはなかった。
「恭ちゃん、良く聞いて。ママね、後少ししたら行かなきゃいけない所があるの。でもね、ママがいなくなっても大丈夫。全部奏絵ちゃんにお願いしているから。恭ちゃんはママのことは、ママでしょ。奏絵ちゃんはかーちゃん。ママもかーちゃんも、お母さんの呼び方なの。」
「どこへ行くの。」
「大丈夫。後は全部奏絵ちゃんがやってくれるから。」
「かーちゃんが?」
「そう。大丈夫、かーちゃんがいるから。」
「うん、大丈夫、かーちゃんがいるから。」
咲良が亡くなる前に呪文のように恭祐に刻まれた言葉。当時は意味も分からなく聞いていた。
でも、咲良の言葉通りかーちゃんはかーちゃんのままではなく、お母さんになった。
秋には恭祐だけのお母さんではなく、大地にとっても。そう、恭祐が三歳のその年、弟の大地が生まれたのだった。
小さい頃は弟が生まれたという事実はそれだけのこと。赤ちゃんは絵本の中でも、ページを捲ればいきなり現れる存在だ。子供が生まれる為に男女が何をしなければいけないのか、女性が子宮の中で新しい命を何ヶ月育てるのかなど知らないのだから。
しかし第二次性徴期の頃となると、男女関係における様々な情報が次から次へと入って来る。恭祐にとって大地の存在が無性に汚らわしく思えるようになったのはその頃だ。どう考えても、大地の誕生日はおかしい。桜が散ってからこの世を去った咲良に対して、秋に生まれた大地の存在は。
当時咲良は奏絵のことをお絵描きをするお姉さんと紹介してくれた。でも、秀一にとって奏絵はそれ以外の役割も担っていたことになる。
咲良が奏絵にお願いした『全部』とは何だったのか。
大地の存在に疑問が生じた頃から、恭祐は奏絵の描いた咲良のいた家族の肖像画を視界に入れなくなった。もう長い間、一枚も目にしていない。
あんなに大好きだった奏絵が描いた、恭祐にとって大事な時間を思い出させてくれる家族の絵なのに。
秀一と結婚してから若林咲良となり、恭祐を産んで二年後までの写真はそれなりにあった。けれど、ある日を境に咲良は写真に姿を捉えられるのを嫌った、だから若林咲良としての写真が少ない。
若林家に今も残る咲良の写真は、旧姓である野々原咲良のものばかり。中には幼少期や成人式のものまである。
秀一が宝物として残している、在りし日の大切な咲良の姿がそこにあった。
写真は嫌でも、咲良は残したかった、家族としての時間を。母としての姿を。
だから、田中奏絵が若林家に招かれたのだった。
たまたま路上で絵を売る奏絵の作品に咲良が惹かれたという理由だけで。
恭祐が二歳を過ぎた頃だった、奏絵が母である咲良からお絵描きをするお姉さんと紹介されたのは。奏絵は美大の卒業を控えた頃に若林家にやって来て、知らないうちに通いから住み込みに変わっていた。
恭祐に当時の記憶はほとんどない。ただ、奏絵の存在はそれからも続いたので恭祐の中でお絵描きをするお姉さんとしての記憶は強い。
同様のことは多々ある。その時の記憶なのか、後に誰かの話が心に残ったのかは分からないが恭祐の幼なかったあの頃の記憶は全てが曖昧。もう随分昔のことだ、正確に時系列で覚えていることの方が難しいだろう。
それでも、何故か途切れ途切れで思い出される記憶がある。全てが同じようなシーン。何度も見たからなのか、印象的だったからなのかも分からない。咲良が絵を見て笑ったのに、次の瞬間泣いているシーンばかりが頭に浮かぶ。
不思議な記憶だ。写真なしでは朧げにも顔を思い出せなくなってしまったというのに、笑顔だったことと、泣いていたことだけが思い出される。
どういうことなのだろうか。
何を意味するのか。
何故泣いていたのか、恭祐はずっと分からないまま。
人はだいたい嬉しい時、もしくは悲しい時に泣く。大半は後者が理由だろう。だとしたら、咲良が絵を見て泣いた理由はなんだろうか。
残された未来が僅かだと知っていたから泣いたのか、それとも当時はまだ世に出ていなかった大地のせいなのか。
秀一よりも、ずっと咲良の傍にいた奏絵は多くを知るはず。恭祐の知りたいことのほとんどを知っているかもしれない。しかも同性だ。二人にしか分かり合えない何かがあったとしてもおかしくない。
だから奏絵に聞けば良かった。
実際、恭祐は咲良に関する様々なことを奏絵に聞いていた。でも、それは物心つくまで。
心が、知識が育ち、本当に知りたいことを聞ける年齢になった時には、恭祐と奏絵の関係は破綻していた。
奏絵の心の奥にある事実を恭祐が問うことは出来なくなっていた。
恭祐の誕生日は四月十五日。それは咲良の命日でもある。三歳の誕生日、咲良はこの世を去った。奇しくもその前日、花見の時に桜の木をバックにデッサンをしてもらった絵を奏絵が完成させたのだった。描かれている自分達の姿は思い出せないのに、全体的に淡い桃色でまとめられた優しい絵だったのを恭祐は今でも覚えている。お陰で恭祐の一番好きな色はその時から淡い桃色になった。
優しい絵なのに、完成したものを咲良が目を開けて見ることはなかった。
「恭ちゃん、良く聞いて。ママね、後少ししたら行かなきゃいけない所があるの。でもね、ママがいなくなっても大丈夫。全部奏絵ちゃんにお願いしているから。恭ちゃんはママのことは、ママでしょ。奏絵ちゃんはかーちゃん。ママもかーちゃんも、お母さんの呼び方なの。」
「どこへ行くの。」
「大丈夫。後は全部奏絵ちゃんがやってくれるから。」
「かーちゃんが?」
「そう。大丈夫、かーちゃんがいるから。」
「うん、大丈夫、かーちゃんがいるから。」
咲良が亡くなる前に呪文のように恭祐に刻まれた言葉。当時は意味も分からなく聞いていた。
でも、咲良の言葉通りかーちゃんはかーちゃんのままではなく、お母さんになった。
秋には恭祐だけのお母さんではなく、大地にとっても。そう、恭祐が三歳のその年、弟の大地が生まれたのだった。
小さい頃は弟が生まれたという事実はそれだけのこと。赤ちゃんは絵本の中でも、ページを捲ればいきなり現れる存在だ。子供が生まれる為に男女が何をしなければいけないのか、女性が子宮の中で新しい命を何ヶ月育てるのかなど知らないのだから。
しかし第二次性徴期の頃となると、男女関係における様々な情報が次から次へと入って来る。恭祐にとって大地の存在が無性に汚らわしく思えるようになったのはその頃だ。どう考えても、大地の誕生日はおかしい。桜が散ってからこの世を去った咲良に対して、秋に生まれた大地の存在は。
当時咲良は奏絵のことをお絵描きをするお姉さんと紹介してくれた。でも、秀一にとって奏絵はそれ以外の役割も担っていたことになる。
咲良が奏絵にお願いした『全部』とは何だったのか。
大地の存在に疑問が生じた頃から、恭祐は奏絵の描いた咲良のいた家族の肖像画を視界に入れなくなった。もう長い間、一枚も目にしていない。
あんなに大好きだった奏絵が描いた、恭祐にとって大事な時間を思い出させてくれる家族の絵なのに。
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