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八
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はつは母が言ったとおり、五日経つと外に出てきた。
勝太は前と同じようにはつを誘ったが、妙な夢を見てしまったから、はつに見つめられるとなんとなく気まずい。あまり目を合わせられなくなっていた。
はつも何かを察したのか、前ほど勝太に近づくようなことはなくなった。雪遊びも投げつけるような激しいものではなく、雪だるまを作ったり、鎌倉を作ったりする落ち着いた遊び方に変わる。
ごろごろと雪玉を転がすと、下からは地面が出てきた。もう、雪もそう頻繁には降らない。
雪が溶けると春が来る。春が来ればはつは里へ帰る。
勝太は雪玉についた黒い土をじっと見つめて、そんなことを考えていた。
梅が咲き、桃に続いて桜も咲いた。庭に出ては木に登り、峠に張り付いた雪を眺めるのが勝太の日課になった。
桜が舞い散る頃には、峠の雪は半分ほど消えていた。
勝太はいつもどおり木の上に登って、峠の先が見えないかと身体を伸ばしてみた。
峠の先。勝太が知らない村。はつのふるさと――そして、はつが帰る場所。
しかしそれではつの故郷が見えるわけもない。悔しくなって、枝の上に立ち上がった。さらに伸び上がるが、峠の先など見えるわけもない。
勝太はまだ子どもで、子どもに見える場所などたかが知れているのだ。
腹立たしさに枝の葉をむしって投げ捨てたとき、下から「わ」と声がした。
見下ろせば、はつが木の下に立っている。勝太がむしり落とした葉が顔にかかったらしく、眉を寄せて顔を払い、唾を吐き出していた。
「……なんだ?」
勝太が声をかけると、はつは顔を上げた。
うん、と明るくうなずいて微笑む。
「勝ちゃん、奥さまが心配してるよ」
最近のはつは、まるで勝太の姉のような顔をする。
赤飯の日の前までは、妹みたいな顔をしていたくせに。
勝太の胸にもやがかかった。
「別にこれくらい」
心配されるようなこともないと、勝太は枝の付け根に座った。
ふいと顔を背ければ、はつはうーんと首をかしげる。
「じゃあ、あたしも登る」
「えっ?」
勝太が驚いて下を見ると、はつはもう枝に手をかけていた。
真剣な顔で、枝を確認しながら足と手を進める。
勝太ははらはらした。
「お前、初めてだろ。気をつけろよ」
「うん……」
はつは返事するのもおぼつかないほど、木登りに集中しているらしい。
はつはあっちに手をかけて首をかしげ、こっちに足をかけようとしてはやめて、身体が揺らぐたび勝太をはらはらさせた。
「あっ、足、こっちにかけて。そうそう……手、ここの枝に掴まって……あー、違うよ! その枝じゃ折れちまう、こっちだって……」
勝太がついつい口を出すうち、はつはどうにか、勝太の隣の枝まで登ってきた。「よいしょ」と幹近くに座ると、「はあ」と晴れやかに笑う。
「どきどきした」
勝太の胸がぎゅっと締め付けられ、息苦しくなった。
はつがこんな風に笑うなんて、初めて会ったときには想像もしなかった。
あの頃は、こうやって一緒に遊ぶだなんて思ってもいなかった。
憎たらしさすら感じていたのに。
はつの顔を見ていられなくなって、勝太は目を逸らした。
その先にはさっきまで見ていた峠がある。
「……雪、だいぶ溶けたね」
はつは明るい声で言った。
その声が、勝太の胸に雨を降らせる。
当然だ。はつにとっては嬉しいことなのだから。
そう思うのに、勝太はああ、と答えながら、泣きそうになっている自分に気づいた。
男が、女の前で泣くわけにはいかない。腹の底に力を込める。
黙っている勝太の代わりに、はつが口を開いた。
「春になると、ふきのとうが出てくるでしょ。母さまと父さまはあれが好きなんだけど、あたしは嫌い。だって苦いもの」
峠を見ながら、はつはゆっくり話した。
勝太の知らない村のことを思い出しているのだろう。
「あたしは嫌いだけど、母さまと父さまが喜ぶから、見つけたらいっぱい採って帰るの。あたし、見つけるの上手なんだよ」
「そうか」
かろうじてあいづちを返す。
はつのとりとめのない話が、なぜかひどく息苦しい。
「春の山菜は、苦いのが多いね。あたしがこっちに来る前は、太郎もみつも苦いから食べようとしなかったけど……今は、どうかな。食べられるようになったかな」
はつは優しく目を細めた。ふるさとで弟と妹を世話していたというのは本当なのだろう。
勝太は弟の世話などろくにできないのに、はつは立派だ。
父か母がそう言うのを聞いたときには腹も立ったが、今は素直にその通りだと思う。
峠を見つめるはつの横顔を見やった。
はつは穏やかな微笑みを浮かべている。きっと、村のこと、そこにいる家族のことを想っているんだろう。
――そこに、勝太はいないと分かっているはずなのに。
目の前がゆがんだとき、はつが勝太を見た。勝太は慌てて横を向く。
「ねえ、勝ちゃん」とはつは呼んだ。
妹弟のことを話していたのと同じ、優しい声で。
「勝ちゃんも、大人になったら、旦那さまみたいに、うちの村に来るのかな」
「……さあな」
勝太はあいまいに答えたが、それじゃいけないような気がした。
口を引き結んで、うなずき直す。
「うん。なるよ。……きっと、なる」
なって、はつの村に行く。勝太がそう言うと、はつは笑った。
「そっか。楽しみだね」
うん、と答えながら、勝太はまた峠を見やった。
大人になったらきっと、あの峠を越えて、勝太ははつの村へ行く。
その頃には、勝太もはつも大人になっているのだろう。
それぞれが決められた相手と夫婦になって、今度ははつの娘を、勝太の子どもの子守りに借り受けるのかもしれない。
「勝ちゃん。ありがとう」
はつは呟くように言った。
勝太は震えそうな唇を引き結び、ただ一言、
「ああ」
とうなずいた。
ふたりで眺める峠の先の空は、青く晴れているようだった。
勝太は前と同じようにはつを誘ったが、妙な夢を見てしまったから、はつに見つめられるとなんとなく気まずい。あまり目を合わせられなくなっていた。
はつも何かを察したのか、前ほど勝太に近づくようなことはなくなった。雪遊びも投げつけるような激しいものではなく、雪だるまを作ったり、鎌倉を作ったりする落ち着いた遊び方に変わる。
ごろごろと雪玉を転がすと、下からは地面が出てきた。もう、雪もそう頻繁には降らない。
雪が溶けると春が来る。春が来ればはつは里へ帰る。
勝太は雪玉についた黒い土をじっと見つめて、そんなことを考えていた。
梅が咲き、桃に続いて桜も咲いた。庭に出ては木に登り、峠に張り付いた雪を眺めるのが勝太の日課になった。
桜が舞い散る頃には、峠の雪は半分ほど消えていた。
勝太はいつもどおり木の上に登って、峠の先が見えないかと身体を伸ばしてみた。
峠の先。勝太が知らない村。はつのふるさと――そして、はつが帰る場所。
しかしそれではつの故郷が見えるわけもない。悔しくなって、枝の上に立ち上がった。さらに伸び上がるが、峠の先など見えるわけもない。
勝太はまだ子どもで、子どもに見える場所などたかが知れているのだ。
腹立たしさに枝の葉をむしって投げ捨てたとき、下から「わ」と声がした。
見下ろせば、はつが木の下に立っている。勝太がむしり落とした葉が顔にかかったらしく、眉を寄せて顔を払い、唾を吐き出していた。
「……なんだ?」
勝太が声をかけると、はつは顔を上げた。
うん、と明るくうなずいて微笑む。
「勝ちゃん、奥さまが心配してるよ」
最近のはつは、まるで勝太の姉のような顔をする。
赤飯の日の前までは、妹みたいな顔をしていたくせに。
勝太の胸にもやがかかった。
「別にこれくらい」
心配されるようなこともないと、勝太は枝の付け根に座った。
ふいと顔を背ければ、はつはうーんと首をかしげる。
「じゃあ、あたしも登る」
「えっ?」
勝太が驚いて下を見ると、はつはもう枝に手をかけていた。
真剣な顔で、枝を確認しながら足と手を進める。
勝太ははらはらした。
「お前、初めてだろ。気をつけろよ」
「うん……」
はつは返事するのもおぼつかないほど、木登りに集中しているらしい。
はつはあっちに手をかけて首をかしげ、こっちに足をかけようとしてはやめて、身体が揺らぐたび勝太をはらはらさせた。
「あっ、足、こっちにかけて。そうそう……手、ここの枝に掴まって……あー、違うよ! その枝じゃ折れちまう、こっちだって……」
勝太がついつい口を出すうち、はつはどうにか、勝太の隣の枝まで登ってきた。「よいしょ」と幹近くに座ると、「はあ」と晴れやかに笑う。
「どきどきした」
勝太の胸がぎゅっと締め付けられ、息苦しくなった。
はつがこんな風に笑うなんて、初めて会ったときには想像もしなかった。
あの頃は、こうやって一緒に遊ぶだなんて思ってもいなかった。
憎たらしさすら感じていたのに。
はつの顔を見ていられなくなって、勝太は目を逸らした。
その先にはさっきまで見ていた峠がある。
「……雪、だいぶ溶けたね」
はつは明るい声で言った。
その声が、勝太の胸に雨を降らせる。
当然だ。はつにとっては嬉しいことなのだから。
そう思うのに、勝太はああ、と答えながら、泣きそうになっている自分に気づいた。
男が、女の前で泣くわけにはいかない。腹の底に力を込める。
黙っている勝太の代わりに、はつが口を開いた。
「春になると、ふきのとうが出てくるでしょ。母さまと父さまはあれが好きなんだけど、あたしは嫌い。だって苦いもの」
峠を見ながら、はつはゆっくり話した。
勝太の知らない村のことを思い出しているのだろう。
「あたしは嫌いだけど、母さまと父さまが喜ぶから、見つけたらいっぱい採って帰るの。あたし、見つけるの上手なんだよ」
「そうか」
かろうじてあいづちを返す。
はつのとりとめのない話が、なぜかひどく息苦しい。
「春の山菜は、苦いのが多いね。あたしがこっちに来る前は、太郎もみつも苦いから食べようとしなかったけど……今は、どうかな。食べられるようになったかな」
はつは優しく目を細めた。ふるさとで弟と妹を世話していたというのは本当なのだろう。
勝太は弟の世話などろくにできないのに、はつは立派だ。
父か母がそう言うのを聞いたときには腹も立ったが、今は素直にその通りだと思う。
峠を見つめるはつの横顔を見やった。
はつは穏やかな微笑みを浮かべている。きっと、村のこと、そこにいる家族のことを想っているんだろう。
――そこに、勝太はいないと分かっているはずなのに。
目の前がゆがんだとき、はつが勝太を見た。勝太は慌てて横を向く。
「ねえ、勝ちゃん」とはつは呼んだ。
妹弟のことを話していたのと同じ、優しい声で。
「勝ちゃんも、大人になったら、旦那さまみたいに、うちの村に来るのかな」
「……さあな」
勝太はあいまいに答えたが、それじゃいけないような気がした。
口を引き結んで、うなずき直す。
「うん。なるよ。……きっと、なる」
なって、はつの村に行く。勝太がそう言うと、はつは笑った。
「そっか。楽しみだね」
うん、と答えながら、勝太はまた峠を見やった。
大人になったらきっと、あの峠を越えて、勝太ははつの村へ行く。
その頃には、勝太もはつも大人になっているのだろう。
それぞれが決められた相手と夫婦になって、今度ははつの娘を、勝太の子どもの子守りに借り受けるのかもしれない。
「勝ちゃん。ありがとう」
はつは呟くように言った。
勝太は震えそうな唇を引き結び、ただ一言、
「ああ」
とうなずいた。
ふたりで眺める峠の先の空は、青く晴れているようだった。
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