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三
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はつが来てふた月を待たない間に、梅雨が来た。
連日雨が続くが、赤子のいる家で洗濯をしないわけにもいかない。
土間は物干し場になって、洗ったおむつがずらりと並んだ。
父も閉口して文句を言ったが、「それじゃあ他にいい案でもあるのかい」と言われれば黙るしかない。
実質上、家の中を切り回しているのは母だ。小さい赤子のいるうちはなおさらだった。
いつも外を走り回っている勝太も、雨が続くこの時期は憂鬱になる。
父は雨でも構わず仕事で外に出た。村の作物の様子を聞いたり、それぞれの家を確認するのだ。雨続きだと、地盤が弛んだり川が決壊したりする。よくよく気をつけておく必要があった。
けれど勝太は、母の言いつけどおり手習いの師匠のもとに通ったとしても、帰り道に魔が差して泥を踏み散らしただけで叱られる。
ただでさえ刺激に飢えているのだ。勝太としては、外に出れば、泥を跳ね散らかしたり蛙を追いかけたりしたくなるのは当然だった。
けれど、そんなことが数度重なると、母も手習いに通えと強くは言わなくなった。
手持ち無沙汰な勝太は、そんなわけで家の中をぶらぶらとうろついている。
「勝太。あんた、どうせ外に出られやしないんだから、手習いの練習でもしたらどうだい」
赤ん坊に乳をあげていた母が、勝太に気づいてそう声をかけた。
その横にははつがいて、黙々とおむつをたたんでいる。
勝太が目をやっても、てんで顔を上げる様子はなかった。
勝太ははつと母の顔を見比べると、こっくりとうなずいた。
「……分かった」
妙なことに、母は驚いたように目を丸くした。
自分で勉強しろ練習しろと言うくせに、勝太が素直に従えば驚くらしい。
勝太はずかずかと足を踏み入れ、はつの横に立った。
「おい」
顔を上げたはつは、じっと見下ろす勝太に気づくと、助けを求めるように母の顔を見た。
勝太は腕組みをして、はつに問う。
「お前、筆を持ったことがあるか」
はつは驚いたような顔でまた勝太を見、ふるふると首を横に振った。
自分の名前を書ければ知識人、とほめそやされるものだ。
生活に困っている家で子どもに手習いを教えるわけもない。
勝太は満足げにうなずいた。
「それなら、俺が教えてやる」
「勝太……!?」
母が呆れたような声をあげた。勝太は母に「いいだろ」と言い放つ。
「ひとりでやったっておもしろくねぇ。やっぱり負かす相手がいなくちゃ」
宣言するように言うと、勝太ははつの手首を掴んで立たせた。
「行くぞ」と腕を引かれて、はつはうろたえている。
従ってよいものかと、主人である母を見たが、引き留められることはないまま部屋を出た。
勝太ははつの手を引いたまま、ずかずかと進んでいく。
後ろでため息をつくのが聞こえた。
「まあ……やる気になるならそれでもいいか……」
出て来た部屋の中から、そんな呟きが聞こえた気がした。
***
勝太は文机の前にはつを座らせると、半紙を広げた。
最初にはつに書かせることにしたのは「永」の文字だ。
「この文字には、とめ、はね、はらい……筆遣いのすべてが入っている」
師匠の言葉を思い出しながら説明するのは、なかなかいい気分だった。
勝太は手本というには大雑把すぎる永の字を書いてはつに渡した。
「まずは、これを書けるようになれ。次に、自分の名前を教えてやる」
胸を張ってそう言えば、はつは神妙な顔で半紙を撫でた。
「白い紙なんて……初めて見た」
きれいだね、とはつが呟く。勝太は呆れて、「とにかくこれを持て!」と筆を押し付けた。
はつは見よう見真似で筆を手にしたが、どうにもぎこちない。
勝太は「違う違う」と大仰に手を振り、手を添えて筆の握り方を直した。
「箸を持つような感じで、あんまり力を入れすぎたらいけない。そう、こういう感じで……」
はつは素直にうなずいて、勝太に導かれるまま線を引いた。
一本、墨が筋を描くと、ほぅ、と息をつく。
「……すごい」
勝太が顔を覗き込めば、はつの目はキラキラ輝いていた。はつは喜びが抑えられないという顔で勝太を見、
「すごい、勝ちゃん。すごい」
きゃっきゃと、はつは興奮気味に声をあげた。
「勝ちゃん。その字を練習したら、もっといろんなことが書ける?」
「ああ……もちろん」
勝太は内心うろたえながら、もっともらしくうなずいた。
はつはうんうんと首を振り、初めて書いた一文字を両手に掲げる。
「あたし、練習する……それで、父ちゃんの名前と、母ちゃんの名前と、みつと太郎の名前も書けるようになって、も少し大きくなったら、あたしが教えてやるんだ! 自分の名前だけじゃなくて、みんなの名前も書けるようになったなんて知ったら、きっとみんなびっくり仰天しちゃうよ!」
今にも飛び跳ねそうに言ったはつが、勝ちゃん、と勝太の袖を引く。
おぅ、と応じると、はつは期待に満ちた目で笑った。
「勝ちゃん、教えてくれる?」
思いつきで引っ張り込んだ手習いに、はつがこんなにも食いつくとは思っていなかった。勝太ははつの勢いに圧されて、お、おぅ、とうなずいた。
***
それから、勝太はそれまでさぼりがちだった手習いや算盤に熱心に取り組むようになった。
それまで近所にいる師匠のもとへ渋々通っていたのだったが、はつに教えるようになってからは自分から通うようになった。
そこで何か新しいことを教わると、その日のうちにはつに教えてやった。
はつは新しいことを知ると目が輝き、大げさなほど感嘆する。
その上、話を聞き終えると、勝太のもの知りを褒めそやした。
それが嬉しくて、勝太はますます勉強に身が入る。
はつも喜んで勝太の話を聞く。
ぐっと距離が縮まった二人の子どもを、両親は微笑ましく見ていた。
連日雨が続くが、赤子のいる家で洗濯をしないわけにもいかない。
土間は物干し場になって、洗ったおむつがずらりと並んだ。
父も閉口して文句を言ったが、「それじゃあ他にいい案でもあるのかい」と言われれば黙るしかない。
実質上、家の中を切り回しているのは母だ。小さい赤子のいるうちはなおさらだった。
いつも外を走り回っている勝太も、雨が続くこの時期は憂鬱になる。
父は雨でも構わず仕事で外に出た。村の作物の様子を聞いたり、それぞれの家を確認するのだ。雨続きだと、地盤が弛んだり川が決壊したりする。よくよく気をつけておく必要があった。
けれど勝太は、母の言いつけどおり手習いの師匠のもとに通ったとしても、帰り道に魔が差して泥を踏み散らしただけで叱られる。
ただでさえ刺激に飢えているのだ。勝太としては、外に出れば、泥を跳ね散らかしたり蛙を追いかけたりしたくなるのは当然だった。
けれど、そんなことが数度重なると、母も手習いに通えと強くは言わなくなった。
手持ち無沙汰な勝太は、そんなわけで家の中をぶらぶらとうろついている。
「勝太。あんた、どうせ外に出られやしないんだから、手習いの練習でもしたらどうだい」
赤ん坊に乳をあげていた母が、勝太に気づいてそう声をかけた。
その横にははつがいて、黙々とおむつをたたんでいる。
勝太が目をやっても、てんで顔を上げる様子はなかった。
勝太ははつと母の顔を見比べると、こっくりとうなずいた。
「……分かった」
妙なことに、母は驚いたように目を丸くした。
自分で勉強しろ練習しろと言うくせに、勝太が素直に従えば驚くらしい。
勝太はずかずかと足を踏み入れ、はつの横に立った。
「おい」
顔を上げたはつは、じっと見下ろす勝太に気づくと、助けを求めるように母の顔を見た。
勝太は腕組みをして、はつに問う。
「お前、筆を持ったことがあるか」
はつは驚いたような顔でまた勝太を見、ふるふると首を横に振った。
自分の名前を書ければ知識人、とほめそやされるものだ。
生活に困っている家で子どもに手習いを教えるわけもない。
勝太は満足げにうなずいた。
「それなら、俺が教えてやる」
「勝太……!?」
母が呆れたような声をあげた。勝太は母に「いいだろ」と言い放つ。
「ひとりでやったっておもしろくねぇ。やっぱり負かす相手がいなくちゃ」
宣言するように言うと、勝太ははつの手首を掴んで立たせた。
「行くぞ」と腕を引かれて、はつはうろたえている。
従ってよいものかと、主人である母を見たが、引き留められることはないまま部屋を出た。
勝太ははつの手を引いたまま、ずかずかと進んでいく。
後ろでため息をつくのが聞こえた。
「まあ……やる気になるならそれでもいいか……」
出て来た部屋の中から、そんな呟きが聞こえた気がした。
***
勝太は文机の前にはつを座らせると、半紙を広げた。
最初にはつに書かせることにしたのは「永」の文字だ。
「この文字には、とめ、はね、はらい……筆遣いのすべてが入っている」
師匠の言葉を思い出しながら説明するのは、なかなかいい気分だった。
勝太は手本というには大雑把すぎる永の字を書いてはつに渡した。
「まずは、これを書けるようになれ。次に、自分の名前を教えてやる」
胸を張ってそう言えば、はつは神妙な顔で半紙を撫でた。
「白い紙なんて……初めて見た」
きれいだね、とはつが呟く。勝太は呆れて、「とにかくこれを持て!」と筆を押し付けた。
はつは見よう見真似で筆を手にしたが、どうにもぎこちない。
勝太は「違う違う」と大仰に手を振り、手を添えて筆の握り方を直した。
「箸を持つような感じで、あんまり力を入れすぎたらいけない。そう、こういう感じで……」
はつは素直にうなずいて、勝太に導かれるまま線を引いた。
一本、墨が筋を描くと、ほぅ、と息をつく。
「……すごい」
勝太が顔を覗き込めば、はつの目はキラキラ輝いていた。はつは喜びが抑えられないという顔で勝太を見、
「すごい、勝ちゃん。すごい」
きゃっきゃと、はつは興奮気味に声をあげた。
「勝ちゃん。その字を練習したら、もっといろんなことが書ける?」
「ああ……もちろん」
勝太は内心うろたえながら、もっともらしくうなずいた。
はつはうんうんと首を振り、初めて書いた一文字を両手に掲げる。
「あたし、練習する……それで、父ちゃんの名前と、母ちゃんの名前と、みつと太郎の名前も書けるようになって、も少し大きくなったら、あたしが教えてやるんだ! 自分の名前だけじゃなくて、みんなの名前も書けるようになったなんて知ったら、きっとみんなびっくり仰天しちゃうよ!」
今にも飛び跳ねそうに言ったはつが、勝ちゃん、と勝太の袖を引く。
おぅ、と応じると、はつは期待に満ちた目で笑った。
「勝ちゃん、教えてくれる?」
思いつきで引っ張り込んだ手習いに、はつがこんなにも食いつくとは思っていなかった。勝太ははつの勢いに圧されて、お、おぅ、とうなずいた。
***
それから、勝太はそれまでさぼりがちだった手習いや算盤に熱心に取り組むようになった。
それまで近所にいる師匠のもとへ渋々通っていたのだったが、はつに教えるようになってからは自分から通うようになった。
そこで何か新しいことを教わると、その日のうちにはつに教えてやった。
はつは新しいことを知ると目が輝き、大げさなほど感嘆する。
その上、話を聞き終えると、勝太のもの知りを褒めそやした。
それが嬉しくて、勝太はますます勉強に身が入る。
はつも喜んで勝太の話を聞く。
ぐっと距離が縮まった二人の子どもを、両親は微笑ましく見ていた。
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