ツツジと白雲

マツイ ニコ

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 初日に限らず、はつは大人しい娘だった。聞かれたことには答えるが、他に聞こえるのは謝罪の言葉くらいなものだ。
 同じ歳と聞いて、どうしてやろうと考えていた勝太には、張り合いがなくて面白くない。
 生意気に口答えするようなら、自分の優位を分からせてやろうと思っていたが、はつにはそんなことをする必要もなさそうだった。
 母の厳しい目が怖いのか、根が真面目なだけなのか、はつはいつも子守りにかかりきりだ。
 夜の間はおむつを取り替え、乳を欲しがるようなら母の元に連れて行く。赤ん坊が昼寝をする間に、洗い終えたおむつを畳んではすぐ使えるように組んでいく。
 勝太には目もくれない。
 それはそれで、正直面白くなかった。

 ***

 はつが来て半月が経つころ、手習いに通っていた勝太は、庭先から家に戻って来た。
 父の部屋の横を通りかけたとき、両親の姿が見えて足を止める。
 母がもの言いたげな様子が見えたのだ。
 柱の陰に身体を寄せると、こっそり聞き耳を立てた。

「どうだ、おはつは」
「……坊やの面倒は、よく見てくれます」

 父の問いに、母が答えた。どこか不服げなその声音に、父とて気づかないはずもないが、「そうか。それはよかったな」と満足げに茶をすする。
 母は「でも」と声を潜めた。

「なんだか、不気味でね」
「不気味?」

 父の言葉に、母がうなずく。あの子守になにかあるのかと、勝太はますます耳を澄ませた。

「だってあの子、うちに来てこの方、笑うことも泣くこともないんですよ。もう半月も経つのに、ずぅっと澄ました顔のまま……勝太と同じ歳なら、もうちょっと子どもらしいところがあってもよくはありませんか」

 母は心底気味悪そうだ。
 言われてみればそうだと、勝太は記憶を辿ってみた。
 いつ見ても、はつは能面のような顔をしていて、勝太になど目もくれない。
 だが、父は呆れたように笑った。

「ちゃんと子守するならそれでいいじゃないか。勝太の子守には、なにかと言えばすぐに家に帰りたがると呆れていたのに、文句を言わないなら言わないで不気味ときた……」

 父には取り合う気がないらしい。その先は笑い声に変わった。
 勝太はふんと鼻を鳴らして、そろりと柱から離れる。
 両親に気づかれないよう、しゃがみ込んで縁側の下を進んだ。
 はつがどんなやつなのか、勝太にはよく分からない。
 話もしなければ、表情も変えないのだから面白くないとは思っていたけれど、母がそれを気味悪く思っているとは知らなかった。
 もしかしたら、あいつはもののけの化身なのかもしれない。はつという女は、旅の途中でもののけに食べられて、すり替わってしまったのかもしれない――だとしたら、次に食べられるのは坊だ。
 それだけは、防がなければいけない。
 よし、と勝太は心に決めた。弟を守るのは兄の勤めだ。
 はつがもののけなのかどうか、確かめてやる。
 そのまま庭を先に進むと、聞き慣れない子守歌が聞こえた。
 細く、ふらついた声音。到底上手いとは言えない歌だ。はつが赤ん坊をあやしているのだろう。
 もののけが、こんなに弱々しい子守歌を歌うだろうか。
 勝太はしゃがみ込んだまま耳を澄ませた。
 そうするうち、その声が、段々と震えてきたことに気づく。
 もしや――と思ううち、鼻をすすり上げる音に変わった。
 勝太は縁側から顔をのぞかせた。
 部屋の中では、うつむいたはつが鼻をすすっている。
 勝太は勢いよくその場に立ち上がった。

「おい」

 呼びかけると、はつは顔を上げた。
 その目は案の定、赤く潤んでいる。
 ――なんだ。この女はもののけでも何でもない、ただの餓鬼だ。
 勝太は腕組みをして、ふんと鼻で笑った。

「おまえ……子守歌を歌うと、母ちゃんが恋しくなるのか」

 はつは涙に潤んだままの目で、勝太を睨みつけた。

「……恋しくなんてない」
「ふうん?」

 大人しいとばかり思っていたが、なかなか強がりなようだ。ただめそめそと泣く女よりはよっぽどいい。
 さらに意地悪を言ってやろうと口を開きかけたとき、はつは勝太から目を逸らした。

「一年ぽっきりの辛抱だもの……」

 自分に言い聞かせるように呟いたはつが見つめたのは、遠くにそびえる峠だ。
 その先にある自分の村を想っているのだろう――切れ長の目は、遠くを見つめている。

「一年経ったら……そしたらまた、母さまたちと暮らせるもの……」

 はつの言葉に、勝太はまたふんと鼻を鳴らした。
 やっぱり、この女はただの餓鬼だ。

「そんなの、分かるもんか」

 勝太の言葉に、はつはまた睨むような目を向けてきた。
 けれど勝太にとっては怖くも何ともない。

「大人なんて勝手なもんだ。一年て言って、二年三年と延びるかも分からねぇ」

 実際、一年と言っていた奉公人が、二年、三年と延びることなどままある。
 こんなに小さな子を奉公に出さなくてはいけないほど生活に困っている家なら、大いにあり得る話だ。
 勝太が甘えをせせら笑ったとたん、はつはさっと顔を赤くした。

「――そんなことない!」

 強い怒気に、勝太はぎょっとした。
 小柄な身体が、一瞬だけ大きく膨れ上がったようにすら見えたのだ。
 が、はつの姿はすぐにしゅんと小さくしぼんだ。

「……そんなこと、ないもの」

 うつむいたはつは小さな声で言った。

「太郎もみつも、まだ小さいから……あたしが辛抱しなけりゃ、みんな共倒れになっちまう。だから、あたしががんばるんだ……がんばらなきゃ……」

 家でそう説得されたのだろう。
 はつの頭には、両親や、幼い弟妹の姿が浮かんでいるに違いない。
 みるみるうちに、うつむいたその目に涙が浮かんだ。
 勝太は慌てる。

「な、泣くなよ。大丈夫だ、きっとお前の母ちゃんは、約束守ってくれるさ」

 勝太が言うと、はつは顔を上げた。
 今にも溢れそうなほどの涙に潤んだ目が、じっと勝太を見つめる。

「……そうかな」

 気弱になるのは、きっと勝太が言うことを、はつも心配しているからなのだろう。
 けれど、勝太はうなずいた。
 人差し指を一本立てて、力強くはつの前に突き出す。

「一年だ。一年ぽっきりだ、きっと」

 はつを力づけるつもりだったが、はつはなぜか、ますます泣きそうに顔を歪めた。

「お、おい……」

 勝太はうろたえる。
 能面の子守が自分のせいで泣いたとあっては、母に何を言われるか分からない。
 そわそわと辺りを見回し、あっ、と思いついた。

「ちょっと待ってろ」

 目を涙でいっぱいにしたはつをそのまま、勝太は庭の隅へ走る。
 咲いているツツジの花を摘み、中からめしべを引き抜いて、はつに渡した。

「ほら、これ!」

 はつは目を丸くして、勝太と、目の前につきつけられたツツジを見比べる。

「甘いもんを口にすれば、女は機嫌が直るもんだって母ちゃんが言ってた」

 勝太は手本を見せるように、一つを自分の口にくわえた。
 「ん!」と押し付けるようにもうひとつの花を渡すと、はつはおずおずと、それをくわえる。

「ただくわえててもだめだぞ。吸うんだ、こうやって……」
「でも……つつじは、毒があるって」
「これは毒がないから大丈夫」

 勝太が言うと、はつは花を咥えたままこくこくうなずいた。
 そして、

「……美味しい」

 小さく言って、かすかに口の端を引き上げる。
 初めて、はつが笑った。
 勝太は「だろ」とうなずいて、縁側に座る。
 胸がむずがゆかった。
 はつはまた、花の蜜を吸い、勝太を見た。

「ツツジの蜜って、こんなに甘いんだね」
「ああ。でも、どれにでもあるってわけじゃない。この、花に点々があるやつが、蜜のあるしるしだ」

 はつはあいづちを打って、おずおずと口を開く。

「勝太さんは……」

 勝太は眉根を寄せた。同じ歳に「さん」づけで呼ばれるなんて気味が悪い。

「さん、はやめろ」
「じゃあ……勝ちゃん」

 勝太はもう一度眉をよせたが、そっちの方がまだマシかと思い直す。
 それを了解と取ったのだろう、勝ちゃんは、とはつは言った。

「あたしが知らないことをたくさん知ってるんだね」

 はにかんで笑うはつの顔を間近に見て、勝太はなぜかうろたえた。
 まあな、とあいづちを返したものの、自分の心臓の音がうるさい。
 勝太は困って、目を逸らした。
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