ツツジと白雲

マツイ ニコ

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 溶け残っていた雪が消え、峠が越えられるようになると、勝太の父はその先にある村へ向かった。
 冬の間に産まれた弟の子守りを探しに行ったのだ。
 庄屋を勤める父は、二つの村の采配を任されている。藩の信頼を得つつ、献納する作物を少なくするのが、一番の仕事だ。
 そのためには、村人たちとの関係づくりが欠かせない。
 だから、子守りにアテがあると言って出かけたのは、生活に厳しい家に思い当たるということだろうと母は言い、

「ちゃんとした子守りを連れてくればいいけどねぇ。うちもそう楽なわけじゃないんだし」

 と、お人好しな夫を想うように峠を眺めてぼやいていた。

 この冬、十一を数えた勝太の下には、今までにも二人、弟妹が産まれたが、いずれも母の床上げを待たずに死んだ。三月みつきになったばかりの弟は、兄の姿を見ると喜ぶ。一方の勝太は近づくのもおっかなびっくりで、世話などとてもできはしない。
 弟妹ができると聞いては喜び、白い布に包まれた遺体に落ち込んだ勝太は、この弟もいずれ同じように冷たくなるのでは、と頭の片隅で思っている。
 そんな自分の想念が、呪いになりそうな気がして、弟に近づくのが怖かった。

 勝太の村には、峠よりも早く春が来て、夏が来る。
 皐月を待たずにツツジが開き始めていた。
 勝太は母のお小言から逃げ出して、赤いツツジの花を摘み取る。
 蜜を吸っては捨てるうち、進んできた足元には、ぽつぽつと赤い道標が並んだ。
 ときどき下手をして、花粉や虫が口に入る。悪態と共に唾を吐き出したとき、また母の声がした。

「勝太。どこ行ったんだい、勝太!」

 勝太は身体を小さくしてツツジの垣根の陰に隠れ、母の声から逃れるように、先にある林で時間を過ごしていた。
 父が峠へ向かって四日経った夕暮れ。
 六つの鐘が鳴り始めたのを合図に、勝太は家へ走っていた。
 あまり帰宅が遅くなると、母に怒られる。
 今日の機嫌はどうだろう。裏口から庭に入り、家の中の気配を探った。
 縁側から中を覗き込むと、六畳間の奥の土間に母の背が見える。
 その背中から、不穏な空気が漂っていた。

「……名前は」

 不機嫌そうな母の声が訊ねる。

「……はつ、と申します」

 間を開けて、蚊の鳴くような声が答えた。
 例の子守か。
 声の主を見ようと、勝太は身を乗り出す。

「歳は」
「この冬……十一に」
「十一ぃ!?」

 母は裏返った声で繰り返すと、深々とため息をついて顔を上げた。
 視線の先にはたぶん、父が立っているのだろう。

「うちの勝太と一緒じゃないか。それで本当に子守りが勤まるのかい?」

 同じ歳、と聞いて、勝太はますます子守のことが気になった。
 どんな女が、どんな顔で立っているのだろう。
 母と向き合って立っているのは、父と、はつという少女のようだが、小柄なはつは母の陰になっていてよく見えない。

「そう心配せずとも大丈夫だろう。里では弟と妹の面倒も見ていたという話だし……」

 父ははつをかばっておっとりと答えたが、「なぁ」と声をかけられたはつの返事はない。
 母の気迫に圧されて泣いているのかもしれない。
 それなら泣き顔を拝んでやろうと、勝太はますます身を乗り出した。
 そのとき、手がずるりと滑って前につんのめる。ごとんと部屋に倒れ込んだ音に、はっとした母が振り向いた。
 しまった――顔を上げた瞬間、母と目が合う。

「あっ、こら!」

 慌てて身を翻したが、すぐに母の声が追ってきた。

「勝太! お前今までどこに行ってたんだい! また庭のツツジの花を摘んだろう、蜜を吸っちゃあっちこっち捨てるんじゃないとあれほど……!」

 がなる母の声から走り逃げ、勝太は庭の木を駆け上がる。昼なら外に逃げるところだが、夕餉の近い今ごろにそんなことをしたら、飯を食いっぱくれるかもしれない。
 育ち盛りの勝太に、飯はいくらあっても足りないのだ。これで夕餉抜きなどということになれば空腹で眠れやしない。
 勝太は木の上で息を潜め、夕餉の準備が整うのを待つことにした。
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