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【三】暗雲
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夫のことが気がかりで、夜もあまり眠れなかった香代は、翌日、心を静めに沈香寺へ向かうことにした。
できるなら、和尚と少し話もしたい。
和尚への手土産を求めがてら、寺近くの団子屋に供を待たせて、境内に足を運んだ。
先に本堂で手を合わせ、境内に和尚を探す。
が、どこを探しても見つからない。
墓地を掃き清めていた寺男を見つけて声をかけた。
「もし……和尚さまはどちらに?」
「しばらく留守にしています」
寺男は目も合わせないままそう答えた。和尚と真逆に無口なようだ。
「そうですか……」
香代は気後れしつつ、「もしお帰りになったら、差し上げてください」と団子の包みをひとつ渡し、境内を後にした。
(和尚はどこにいるのだろう……)
頼りにしていた男たちは、誰も彼も、香代から離れてしまったようだ。
この歳でなお、誰かに頼って生きているのだ。そう思うとつくづく情けない。
もの思いにふけりながら歩くうち、慣れた道を進んでしまっていたらしい。
見慣れた四つ辻が目に入って我に返る。
(しまった……)
供の待っている団子屋はもっと寺に近い。戻ろうときびすを返したとき、後ろで何かが着地する音がした。
はっ――と振り向くと、そこには、塀から飛び降りたらしい男の姿がある。
「――香代。また会ったな」
顔を上げた男を見て、香代は身震いした。
十和田兵吾――昨日、会うのを避けた男がそこにいた。
道を隔てるその塀は、十和田家の屋敷を囲むそれだ。今さら思い出してうろたえる。
「そろそろじっとしているのに飽きてきたからな……面白いことでもないかと思っていたら、お前が見えた」
兵吾は言いながら、無造作に近づいてきた。
逃げなければと思うのに、驚きのあまりどうすべきか分からない。
「こんなところに一人で来るなんて珍しいな。何か十和田家に用か?」
兵吾は本気なのか冗談なのか分からない。
香代が後ずさるのを見て「ふん」と鼻を鳴らした。
「ようやく、俺に会いに来る気になったと思ったが――違うらしいな」
香代が睨むように立っていると、兵吾は香代から一歩分の間を開けて立ち止まり、懐手した。
ふっ、と、そのたもとから何かの匂いが香る。
(……お焼香?)
香代が眉を寄せたとき、兵吾は頭一つ上から笑った。
「お前の夫は、すいぶんおもしろいことになっているみたいだな」
また侮辱する気かと、香代は今一度、兵吾を睨みつけた。
にやついた兵吾の顔を見るに、昨日兄の家に押し入った女のことを知っているのだろう。
「あいつは、どこでも誰にもいい顔をする男だからなぁ。勘違いして思い余る女もいるんだろう――まあ、腹に子まで成しているとあっては無視もできんだろうが」
話しながら、兵吾は香代がどう出るかを楽しんでいるらしい。
うろたえる姿は見せまいと、香代は唇を引き結んだ。
「蓮本吉夜もかわいそうなことだ。冬になる前に、奥でまた香の会を開く手はずになっていたようだが……この件で、役目を外されたらしいな」
「えっ――?」
思わずうわずった声が出た。慌てて口を閉じたがもう遅い。
得たりとばかりに、兵吾が口の端を上げる。
「知らなかったか。梅雨の終わりに、あの男が一度香の会を開いたのを、奥がたいそうお気に召したようでな。もう一度、と奥たっての希望で準備を進めていたらしいが――まあ、あの男がいないとなれば、香の会は流れるかも知れんな」
(梅雨の終わり……)
香代に縁談を持ちかけられた頃だ。兵吾はふんと鼻で笑う。
「梅雨の会の褒美がお主との婚姻となれば、次は何を望むのだろう、と奥の女どもは騒いでいたようだが……他の女が出て来ては、奥の女どもも興ざめだろうな。今源氏も困りものだ」
香代は思わず口を手で押さえた。
ひと月足らずで整えられた婚礼には、そんな裏の事情があったのか。
(なにも知らなかった……)
早々に藩の許可が下りたのは、蓮本家の力によるものと思っていた。
けれど、実際には吉夜自身の力だったのだ。
(それだけ……わたしを求めてくださっていた)
胸の奥がうずく。吉夜の微笑みが頭に浮かんで、息苦しくなった。
(その気持ちに、わたしは応えられているんだろうか……)
今朝、香代と目を合わせないまま勤めに出かけた吉夜の背中を思い出す。
羽織を着る手伝いをしても、ずっと何かを考えているようで、香代のことなど見えていないようだった。
(このまま……ただの空気のように扱われるのだとしたら……)
悲しみが胸をついて、知らない間にうつむいていた。
鼻先で笑った兵吾が、今一歩近づく。
「なんだ。もしかしたら、それも全て初耳か。――夫婦だというのに、何の話もしていないのだな」
低い声は、不気味なほど静かだ。
「信頼されていないのか、お前に言っても無駄だと思っているのか」
「そんなことは――」
ない、と言いたくて顔を上げると、思ったよりも近くに兵吾の顔があった。
はっと身を引こうとした香代の腰を、兵吾が掬うように引き寄せる。
間近にせまった鋭い目に、香代は身体を強ばらせた。
「夫はお前に隠しごとをしているんだぞ?」
兵吾の目は、香代の動揺を全て見逃すまいとしている。
香代はともすれば震えそうな自分を叱咤してその目を見返した。
「他藩の出だということも知らなかったんなら……どうせ、あいつが町外れに住む女を探していたことも、お前は知らないんだろう」
(町外れに住む……女?)
香代はその言葉に怯んだ。吉夜がときどき、町や町外れをうろついていることは察していた。けれど、それが女を探していたとは初めて聞く。
香代を見ようとしなかった昨夜の吉夜の姿を思い出した。
自分が知らなかったことを立て続けに耳にして、香代の心は揺らぎ始めている。
(吉夜さまが……わたしに何かを、隠している?)
心の中がざわつく。
「つい手を出したその女を、口止めしようと思っていたかもしれんな……お前は、嫁入りする前のあいつのことを何も知らないのだから」
聞き入れてはいけない、と思うのに、兵吾の言葉はときどき、香代の痛いところを突いてくる。
思わず目を逸らした香代に、兵吾は喉を鳴らして笑った。
知りたいか、と、突然優しい声で囁く。
「夫のことを知りたければ、こっそり文でも覗いたらどうだ。……なにか分かるかも知れんぞ」
耳元での低い囁きに、香代は我に返って兵吾の腕を振り払った。
そのまま、ほとんど逃げるように、その場を立ち去る。
孕まされたと名乗り出た女。吉夜が町外れに探していた女。香代と目を合わせようとしない吉夜の横顔――
足を前に進めながらも、あちこちで耳に目にしたことが、頭の中でぐるぐると渦巻いている。
(違う……吉夜さまに限って、そんなはずはない……)
早足のせいで息が上がるのを感じながら、香代は思った。
けれど今は、吉夜の口から聞きたかった。
香代に隠していることなどないと、女に手を出したことなどないと――あの優しい目で、そう言ってほしい。
できるなら、和尚と少し話もしたい。
和尚への手土産を求めがてら、寺近くの団子屋に供を待たせて、境内に足を運んだ。
先に本堂で手を合わせ、境内に和尚を探す。
が、どこを探しても見つからない。
墓地を掃き清めていた寺男を見つけて声をかけた。
「もし……和尚さまはどちらに?」
「しばらく留守にしています」
寺男は目も合わせないままそう答えた。和尚と真逆に無口なようだ。
「そうですか……」
香代は気後れしつつ、「もしお帰りになったら、差し上げてください」と団子の包みをひとつ渡し、境内を後にした。
(和尚はどこにいるのだろう……)
頼りにしていた男たちは、誰も彼も、香代から離れてしまったようだ。
この歳でなお、誰かに頼って生きているのだ。そう思うとつくづく情けない。
もの思いにふけりながら歩くうち、慣れた道を進んでしまっていたらしい。
見慣れた四つ辻が目に入って我に返る。
(しまった……)
供の待っている団子屋はもっと寺に近い。戻ろうときびすを返したとき、後ろで何かが着地する音がした。
はっ――と振り向くと、そこには、塀から飛び降りたらしい男の姿がある。
「――香代。また会ったな」
顔を上げた男を見て、香代は身震いした。
十和田兵吾――昨日、会うのを避けた男がそこにいた。
道を隔てるその塀は、十和田家の屋敷を囲むそれだ。今さら思い出してうろたえる。
「そろそろじっとしているのに飽きてきたからな……面白いことでもないかと思っていたら、お前が見えた」
兵吾は言いながら、無造作に近づいてきた。
逃げなければと思うのに、驚きのあまりどうすべきか分からない。
「こんなところに一人で来るなんて珍しいな。何か十和田家に用か?」
兵吾は本気なのか冗談なのか分からない。
香代が後ずさるのを見て「ふん」と鼻を鳴らした。
「ようやく、俺に会いに来る気になったと思ったが――違うらしいな」
香代が睨むように立っていると、兵吾は香代から一歩分の間を開けて立ち止まり、懐手した。
ふっ、と、そのたもとから何かの匂いが香る。
(……お焼香?)
香代が眉を寄せたとき、兵吾は頭一つ上から笑った。
「お前の夫は、すいぶんおもしろいことになっているみたいだな」
また侮辱する気かと、香代は今一度、兵吾を睨みつけた。
にやついた兵吾の顔を見るに、昨日兄の家に押し入った女のことを知っているのだろう。
「あいつは、どこでも誰にもいい顔をする男だからなぁ。勘違いして思い余る女もいるんだろう――まあ、腹に子まで成しているとあっては無視もできんだろうが」
話しながら、兵吾は香代がどう出るかを楽しんでいるらしい。
うろたえる姿は見せまいと、香代は唇を引き結んだ。
「蓮本吉夜もかわいそうなことだ。冬になる前に、奥でまた香の会を開く手はずになっていたようだが……この件で、役目を外されたらしいな」
「えっ――?」
思わずうわずった声が出た。慌てて口を閉じたがもう遅い。
得たりとばかりに、兵吾が口の端を上げる。
「知らなかったか。梅雨の終わりに、あの男が一度香の会を開いたのを、奥がたいそうお気に召したようでな。もう一度、と奥たっての希望で準備を進めていたらしいが――まあ、あの男がいないとなれば、香の会は流れるかも知れんな」
(梅雨の終わり……)
香代に縁談を持ちかけられた頃だ。兵吾はふんと鼻で笑う。
「梅雨の会の褒美がお主との婚姻となれば、次は何を望むのだろう、と奥の女どもは騒いでいたようだが……他の女が出て来ては、奥の女どもも興ざめだろうな。今源氏も困りものだ」
香代は思わず口を手で押さえた。
ひと月足らずで整えられた婚礼には、そんな裏の事情があったのか。
(なにも知らなかった……)
早々に藩の許可が下りたのは、蓮本家の力によるものと思っていた。
けれど、実際には吉夜自身の力だったのだ。
(それだけ……わたしを求めてくださっていた)
胸の奥がうずく。吉夜の微笑みが頭に浮かんで、息苦しくなった。
(その気持ちに、わたしは応えられているんだろうか……)
今朝、香代と目を合わせないまま勤めに出かけた吉夜の背中を思い出す。
羽織を着る手伝いをしても、ずっと何かを考えているようで、香代のことなど見えていないようだった。
(このまま……ただの空気のように扱われるのだとしたら……)
悲しみが胸をついて、知らない間にうつむいていた。
鼻先で笑った兵吾が、今一歩近づく。
「なんだ。もしかしたら、それも全て初耳か。――夫婦だというのに、何の話もしていないのだな」
低い声は、不気味なほど静かだ。
「信頼されていないのか、お前に言っても無駄だと思っているのか」
「そんなことは――」
ない、と言いたくて顔を上げると、思ったよりも近くに兵吾の顔があった。
はっと身を引こうとした香代の腰を、兵吾が掬うように引き寄せる。
間近にせまった鋭い目に、香代は身体を強ばらせた。
「夫はお前に隠しごとをしているんだぞ?」
兵吾の目は、香代の動揺を全て見逃すまいとしている。
香代はともすれば震えそうな自分を叱咤してその目を見返した。
「他藩の出だということも知らなかったんなら……どうせ、あいつが町外れに住む女を探していたことも、お前は知らないんだろう」
(町外れに住む……女?)
香代はその言葉に怯んだ。吉夜がときどき、町や町外れをうろついていることは察していた。けれど、それが女を探していたとは初めて聞く。
香代を見ようとしなかった昨夜の吉夜の姿を思い出した。
自分が知らなかったことを立て続けに耳にして、香代の心は揺らぎ始めている。
(吉夜さまが……わたしに何かを、隠している?)
心の中がざわつく。
「つい手を出したその女を、口止めしようと思っていたかもしれんな……お前は、嫁入りする前のあいつのことを何も知らないのだから」
聞き入れてはいけない、と思うのに、兵吾の言葉はときどき、香代の痛いところを突いてくる。
思わず目を逸らした香代に、兵吾は喉を鳴らして笑った。
知りたいか、と、突然優しい声で囁く。
「夫のことを知りたければ、こっそり文でも覗いたらどうだ。……なにか分かるかも知れんぞ」
耳元での低い囁きに、香代は我に返って兵吾の腕を振り払った。
そのまま、ほとんど逃げるように、その場を立ち去る。
孕まされたと名乗り出た女。吉夜が町外れに探していた女。香代と目を合わせようとしない吉夜の横顔――
足を前に進めながらも、あちこちで耳に目にしたことが、頭の中でぐるぐると渦巻いている。
(違う……吉夜さまに限って、そんなはずはない……)
早足のせいで息が上がるのを感じながら、香代は思った。
けれど今は、吉夜の口から聞きたかった。
香代に隠していることなどないと、女に手を出したことなどないと――あの優しい目で、そう言ってほしい。
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