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【五】君が香
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それから数日後、兵吾が姿を消した――という話を、蓮本家に伝えに来たのは、香代の兄の辰之介だった。
足の腫れが引いて、外を歩けるようになったらしい。腕の添木は外れていないものの、幸い左手だったことで、お役目に支障はないという。
それでも気が気でない香代は気遣う目を兄に向けたが、辰之介は気づかぬふりをしているらしかった。
「わたしも今日知ったのですが」
と始めた辰之介の話を聞き終わるや、吉夜は呆れてため息をついた。
「あの家は……見張りも立ててなかったのか」
いえ、と辰之介は首を横に振る。
「斬り捨てられていたようです。……それも、ふたり」
「……十和田の武勇が仇になったか」
吉夜が苦い顔で呟く。
沈痛な表情を浮かべた辰之介は、不便そうに片手をついて頭を下げた。
「申し訳ございません……蓮本さまに言われたお役目もろくに果たせないまま、十和田兵吾も取り逃がし……」
「そう改まらないでくれ」
「お役目……?」
吉夜は手を振ったが、香代は何のことやらわからない。兄と夫を見比べていると、吉夜が苦笑した。
「実は……兄上には、隠密まがいのことをさせていてな」
「隠密……?」
まばたきする香代に、辰之介は慌てて手を振った。
「隠密というほど、たいそうなものでは……ただ、兵吾殿に目をつけられたのが運のつきというか」
「まあ、それは確かにそうだ」
吉夜は軽くあごを引いた。
ふたりの語るところを聞けば、辰之介は兵吾に言われて、吉夜のことを調べていたらしい。
兵吾の話にも一部真実が混ざっていたらしいと、香代はうなずいた。
「でも、吉夜様に後ろ暗いところは何もない。調べても無駄だから諦めさせようとしたとき、十和田兵右衛門さまからお呼び出しを受けた」
「十和田さまから?」
「ああ」
兵吾の素行にほとほと困っていた兵右衛門は、辰之介を通じて、兵吾を咎める決定的な証拠を得ようとしていた。
兵右衛門は辰之介だけでなく、最も被害を被っているであろう蓮本家にも協力を求めた。
吉夜が辰之介の話にうなずく。
「今までの経緯を考えると、あいつが手を出そうとするのは俺だろうからな」
「裏で手を組むことにしたというわけだ」
辰之介は兵吾の言うことを聞くふりをしながら、兵右衛門や吉夜と密かに文をやりとりするようになったという。
いつだか、吉夜が焼いていた文は、その一つだったのだろう。
「……まさか辰之介殿に妹がいるとは、和尚から聞くまで知らなかったが」
苦笑する吉夜に、生真面目な顔で辰之介がうなずく。
「わたしも、まさか妹を取られるとは思いませんでした」
「その節は悪いことをしたよ」
吉夜がますます苦笑を強める。辰之介はしたり顔で、
「正直を申せば、あの折りは恨みもしましたが、今は相惚れのようですからな。口出しはいたしません」
兄の言葉に、香代の顔にぱっと朱が載った。
「あ、兄上……」
うろたえる香代に、辰之介は笑った。
「お前の顔を見ればそれくらい分かる。吉夜さまの前では、すっかり女の顔をするようになったな」
香代はますますいたたまれない。火照る顔を持て余してうつむくと、吉夜はくつくつ笑った。
その満足げな笑いがまた、いっそう香代を火照らせる。
香代のことはそのままに、男ふたりは表情を引き締めた。
「それで――兵吾をどうする。どうせあいつのことだ、俺に一泡吹かせないでは出奔もしまい。どこかに隠れて、俺を誅す機会をうかがっているんだろう」
「はい。わたしもそう思います。――ですから」
うなずく辰之介に、吉夜は口の端を引き上げた。
「おびき寄せるか」
「ご明察」
兄が答えるのを聞いて、香代は血が引くのを感じた。
「そんな」と小さな悲鳴をあげる。
つまり――吉夜をおとりにして、兵吾を捕まえるということだ。
(吉夜さまが危ない思いをすることになるのでは……?)
夫の横顔を見やるが、その目はむしろ戦意を宿して燃えている。
香代は胸の痛みを覚えてうつむいた。
「お前がいる前で話したのはそのためだ」
辰之介は静かに香代を見つめた。
「お香代。お前も武士の妻なら腹をくくれ。――あの男が生きている間は、蓮本家と十和田家の安泰はない」
重臣を司る二家が落ち着かないということは、藩の安泰にも差し障る。
兄は静かに続けた。
「火種がこれ以上大きくならぬうちに、摘まねばならん……分かるな」
香代はうつむいたまま、膝の上に置いた自分の手を見つめた。
***
吉夜はそのまま、辰之介と共に家を出た。
香代にはただ「行ってくる」と声をかけただけだ。
二人とときを違えて、主膳もまた家を出た。気落ちしている香代に「留守を頼んだ」と声をかけて。
(夫が危険にさらされても……なんの役にも立てない)
女の身のうらめしさを感じたが、落ち込んでばかりではいられなかった。
(吉夜さまは帰ってくる……必ず)
兄と吉夜が、どういう方法で兵吾をおびき寄せるのかは分からない。
聞いたところで、香代が納得できるはずもないだろう。
香代にできるのは、結局ただ信じて待っていることだけだ。
冬の訪れに備えて家を整え、離れに花を生ける。
いつ二人が帰ってきてもいいように、一つ一つ、自分の勤めを果たしていけば、神仏がよいように導いてくれるだろう。
そう信じて過ごすしかなかった。
足の腫れが引いて、外を歩けるようになったらしい。腕の添木は外れていないものの、幸い左手だったことで、お役目に支障はないという。
それでも気が気でない香代は気遣う目を兄に向けたが、辰之介は気づかぬふりをしているらしかった。
「わたしも今日知ったのですが」
と始めた辰之介の話を聞き終わるや、吉夜は呆れてため息をついた。
「あの家は……見張りも立ててなかったのか」
いえ、と辰之介は首を横に振る。
「斬り捨てられていたようです。……それも、ふたり」
「……十和田の武勇が仇になったか」
吉夜が苦い顔で呟く。
沈痛な表情を浮かべた辰之介は、不便そうに片手をついて頭を下げた。
「申し訳ございません……蓮本さまに言われたお役目もろくに果たせないまま、十和田兵吾も取り逃がし……」
「そう改まらないでくれ」
「お役目……?」
吉夜は手を振ったが、香代は何のことやらわからない。兄と夫を見比べていると、吉夜が苦笑した。
「実は……兄上には、隠密まがいのことをさせていてな」
「隠密……?」
まばたきする香代に、辰之介は慌てて手を振った。
「隠密というほど、たいそうなものでは……ただ、兵吾殿に目をつけられたのが運のつきというか」
「まあ、それは確かにそうだ」
吉夜は軽くあごを引いた。
ふたりの語るところを聞けば、辰之介は兵吾に言われて、吉夜のことを調べていたらしい。
兵吾の話にも一部真実が混ざっていたらしいと、香代はうなずいた。
「でも、吉夜様に後ろ暗いところは何もない。調べても無駄だから諦めさせようとしたとき、十和田兵右衛門さまからお呼び出しを受けた」
「十和田さまから?」
「ああ」
兵吾の素行にほとほと困っていた兵右衛門は、辰之介を通じて、兵吾を咎める決定的な証拠を得ようとしていた。
兵右衛門は辰之介だけでなく、最も被害を被っているであろう蓮本家にも協力を求めた。
吉夜が辰之介の話にうなずく。
「今までの経緯を考えると、あいつが手を出そうとするのは俺だろうからな」
「裏で手を組むことにしたというわけだ」
辰之介は兵吾の言うことを聞くふりをしながら、兵右衛門や吉夜と密かに文をやりとりするようになったという。
いつだか、吉夜が焼いていた文は、その一つだったのだろう。
「……まさか辰之介殿に妹がいるとは、和尚から聞くまで知らなかったが」
苦笑する吉夜に、生真面目な顔で辰之介がうなずく。
「わたしも、まさか妹を取られるとは思いませんでした」
「その節は悪いことをしたよ」
吉夜がますます苦笑を強める。辰之介はしたり顔で、
「正直を申せば、あの折りは恨みもしましたが、今は相惚れのようですからな。口出しはいたしません」
兄の言葉に、香代の顔にぱっと朱が載った。
「あ、兄上……」
うろたえる香代に、辰之介は笑った。
「お前の顔を見ればそれくらい分かる。吉夜さまの前では、すっかり女の顔をするようになったな」
香代はますますいたたまれない。火照る顔を持て余してうつむくと、吉夜はくつくつ笑った。
その満足げな笑いがまた、いっそう香代を火照らせる。
香代のことはそのままに、男ふたりは表情を引き締めた。
「それで――兵吾をどうする。どうせあいつのことだ、俺に一泡吹かせないでは出奔もしまい。どこかに隠れて、俺を誅す機会をうかがっているんだろう」
「はい。わたしもそう思います。――ですから」
うなずく辰之介に、吉夜は口の端を引き上げた。
「おびき寄せるか」
「ご明察」
兄が答えるのを聞いて、香代は血が引くのを感じた。
「そんな」と小さな悲鳴をあげる。
つまり――吉夜をおとりにして、兵吾を捕まえるということだ。
(吉夜さまが危ない思いをすることになるのでは……?)
夫の横顔を見やるが、その目はむしろ戦意を宿して燃えている。
香代は胸の痛みを覚えてうつむいた。
「お前がいる前で話したのはそのためだ」
辰之介は静かに香代を見つめた。
「お香代。お前も武士の妻なら腹をくくれ。――あの男が生きている間は、蓮本家と十和田家の安泰はない」
重臣を司る二家が落ち着かないということは、藩の安泰にも差し障る。
兄は静かに続けた。
「火種がこれ以上大きくならぬうちに、摘まねばならん……分かるな」
香代はうつむいたまま、膝の上に置いた自分の手を見つめた。
***
吉夜はそのまま、辰之介と共に家を出た。
香代にはただ「行ってくる」と声をかけただけだ。
二人とときを違えて、主膳もまた家を出た。気落ちしている香代に「留守を頼んだ」と声をかけて。
(夫が危険にさらされても……なんの役にも立てない)
女の身のうらめしさを感じたが、落ち込んでばかりではいられなかった。
(吉夜さまは帰ってくる……必ず)
兄と吉夜が、どういう方法で兵吾をおびき寄せるのかは分からない。
聞いたところで、香代が納得できるはずもないだろう。
香代にできるのは、結局ただ信じて待っていることだけだ。
冬の訪れに備えて家を整え、離れに花を生ける。
いつ二人が帰ってきてもいいように、一つ一つ、自分の勤めを果たしていけば、神仏がよいように導いてくれるだろう。
そう信じて過ごすしかなかった。
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