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【四】暁闇
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家に帰ると、待っていたらしい義父の主膳が出迎えてくれた。
「終わったか」
「落着しました」
対面した養父に短く答えると、吉夜は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「毒をもって毒を制す――が功を奏しましたな」
――疫病神。
以前、吉夜が自分のことをそう言っていたのを思い出し、香代はぎゅっと胸が締め付けられる。
(そんなことはないのに……)
祈るように主膳を見れば、不思議そうにまたたく顔があった。
「――毒? なんのことだ」
主膳の言葉に、吉夜は拍子抜けしたような顔をした。その表情を見て、主膳は笑う。
珍しく浮かべた穏やかな微笑みに、香代は目を奪われた。
「わたしはただ――わが藩を支えるならこういう男がいいと、そう思ってお主を口説いただけだ」
吉夜は黙って頭を下げる。
主膳は「疲れたろう、少し休め」と腰を上げ、立ち上がったところで「お香代」と呼んだ。
「不在の間も、離れの花を絶やさずにいてくれたのだな。……礼を言う」
はい、と香代は頭を下げた。香代が勝手にしていたことだが、義父はその心を汲んでくれたらしい。
(お優しい方だ……義父上も、そして……)
隣を見やると、頭を下げたままの吉夜と目が合った。
吉夜は、気まずそうに目を逸らした。その顔に、隠しきれない喜びを見て、香代はたまらなく嬉しくなる。
主膳は衣擦れの音を残して立ち去った。
香代が笑いを堪えているのに気づいたのか、吉夜は頭を上げると香代の額を小突いた。
「何を笑っている」
「笑ってなどおりません」
「笑ってるじゃねェか」
香代は口に手をあて、くすくす笑った。吉夜が「ほら見たことか」とすねて見せる。
「……吉夜さまが嬉しそうだったので……わたしも嬉しくなりました」
「言うな」
照れているのだろう、吉夜は口を押さえた。
次いで、ふと思い出したように懐から何かを取り出す。
それは先ほど十和田家で返された小袋だった。
「お前さんに渡したもんだ。お前さんが持っとけ」
「ありがとうございます」
香代はほっとして、その小さな袋を受け取る。
胸に押し宛てるようにして、ほっと相好を崩した。
「見つかって……嬉しゅうございます」
吉夜はそんな香代を見つめ、微笑んだ。
「……ずいぶん、大事にしてくれるもんだ」
「もちろんです」
香代ははっきりうなずいた。
「旦那さまがくださった、大切なお守りですもの……」
両手をほどき、手の中にある小袋を見つめる。
香代を見ていた吉夜が、深々と息をついた。
「……あの?」
「いや、気にするな。……なんでもない」
吉夜は目を逸らしたまま答える。香代が「でも」とにじり寄ると、吉夜は気まずそうに横目を向けた。
「……あまり近づくな」
「え……?」
香代が不安に眉尻を下げると、吉夜はため息をついて優しく香代を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「……お前さんに……あちこち、触りたくなる。身体中、火傷もしてるし打ち身もあるんだ……治るまでは我慢しねェとな」
ここ数日、香を焚く間もなかったらしい吉夜からは、吉夜自身の香りがした。
香代はその腕の中に身を任せて、はい、と小さくうなずいた。
ゆっくりと背中を撫でる吉夜の手に、香代の心もほぐれていく。
顔を上げて、気になっていたことを口にした。
「……この中には、香木が入っているのですか?」
吉夜はまばたきして、「ああ……さっき弥太郎殿が言ってたか」と苦笑した。
「そうだ。手鏡が入っている」
「……手鏡?」
吉夜はうなずいて、「一度焚けばなくなるほどしかない、大切な香をそう呼ぶ」と口にした。
(大切な香……)
香代は心の中で繰り返しながら、お守りを見下ろした。
吉夜は静かな声で続ける。
「ほとんどの香木は、名を一つしか持たない。けれど、一木三銘香……三つの銘を持つ香がある」
「三銘香……」
香代が繰り返すと、吉夜はうなずいた。
「持ち主がそれぞれ、名をつけたそうだ。――宮中においては藤袴、肥後細川家においては初音、仙台伊達家においては紫舟」
肥後藩も仙台藩も、この小藩などまったく及ばない大藩だ。
香代は表情が強ばるのを感じたが、吉夜は気にした風もない。
「有名な香木は金と同等の価値があるというが……そんな話すら、その欠片の前では無意味だな」
呟くようにそう言うと、吉夜は香代の手にしたお守りを撫でた。
「一度その香りを聞けるのなら、どれだけ金を積んだとしても構わない――少しでも香道をたしなんだ者なら、みながそう思うほど、価値のあるものだ……」
あまりに希少なものと知って、どきどきと心臓が高鳴る。
「そ……それを、どうして吉夜さまが」
香代がうわずった声で訊ねると、吉夜は香代から手を離して座り直した。
「俺が誰の子ともされないまま、江戸藩邸で育った話はしたな」
吉夜は遠い目をしながら話し始めた。
「前藩では香道が盛んでな。武士のたしなみとして小さい頃から聞かされていた」
あまりによく聞き分けるものだから、七つになるかどうかの頃、面白がられて殿の御前で十?香をすることになった。
そこですべてを聞き当てたのは、吉夜だけだった。
殿は感心し、褒美に何が欲しいかと吉夜に問うた。
吉夜は迷わず答えた――殿の持つ、一木三銘香の手鏡を、と。
「大人たちはどよめきたったが、殿は呵々と笑ってうなずかれた。長屋に帰ってしばらくすると、仰々しい漆の器に、こんな小さな欠片が入っていた。殿の書かれた一筆と共に」
いくらよく嗅ぎ分けるからといって、子どもを御前に出すだろうか。
香代はごくりと、喉に唾を飲み込んだ。
「……吉夜さま……吉夜さまのお父上は、もしかして――」
「さぁね」
吉夜は笑った。
「知らないし、知る必要もない。父親が誰だろうが俺は俺だよ」
それとも、と吉夜は身を乗り出す。
「――俺は殿様の御落胤だ、と言った方がいいか?」
香代は笑い、「いえ」と首を振った。
「吉夜さまは、吉夜さまです。……どなたがお父上でも、どなたがお母上でも、変わりません」
「……うん」
吉夜は力が抜けたような微笑みを浮かべた。
「お前さんのそういうところが……気に入った」
泣きそうな顔でそう言って、吉夜は香代の頬に手を伸ばす。
「……蓮本家の跡継ぎが、面倒事に巻き込まれるとは、養父上に聞いていたし覚悟もしていた。仕向けているのは十和田兵吾だろうと推測できたが、これという証拠が掴めなくてな……。それが解決するまでは、嫁なんざ持つつもりもなかったんだが……」
あの日、寺で香代と会って、いてもたってもいられなくなった、と吉夜は言う。
「家老が縁組みしろと言やァ、芦原は断れまいと分かっていた。それでも、みすみす他の男にさわられることを考えたら……我慢ができなかった……すまない」
吉夜の目が、不安そうに揺れた。
「……悔いて、いないか。俺の……嫁になって」
香代は笑う。
「まさか」
首を横に振り、頬に添えられた吉夜の手を自分の手で包んだ。
「幸せです、わたしは……吉夜さまの、お側にいられて」
吉夜は泣きそうな顔で笑って、香代をもう一度抱きしめた。
「終わったか」
「落着しました」
対面した養父に短く答えると、吉夜は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「毒をもって毒を制す――が功を奏しましたな」
――疫病神。
以前、吉夜が自分のことをそう言っていたのを思い出し、香代はぎゅっと胸が締め付けられる。
(そんなことはないのに……)
祈るように主膳を見れば、不思議そうにまたたく顔があった。
「――毒? なんのことだ」
主膳の言葉に、吉夜は拍子抜けしたような顔をした。その表情を見て、主膳は笑う。
珍しく浮かべた穏やかな微笑みに、香代は目を奪われた。
「わたしはただ――わが藩を支えるならこういう男がいいと、そう思ってお主を口説いただけだ」
吉夜は黙って頭を下げる。
主膳は「疲れたろう、少し休め」と腰を上げ、立ち上がったところで「お香代」と呼んだ。
「不在の間も、離れの花を絶やさずにいてくれたのだな。……礼を言う」
はい、と香代は頭を下げた。香代が勝手にしていたことだが、義父はその心を汲んでくれたらしい。
(お優しい方だ……義父上も、そして……)
隣を見やると、頭を下げたままの吉夜と目が合った。
吉夜は、気まずそうに目を逸らした。その顔に、隠しきれない喜びを見て、香代はたまらなく嬉しくなる。
主膳は衣擦れの音を残して立ち去った。
香代が笑いを堪えているのに気づいたのか、吉夜は頭を上げると香代の額を小突いた。
「何を笑っている」
「笑ってなどおりません」
「笑ってるじゃねェか」
香代は口に手をあて、くすくす笑った。吉夜が「ほら見たことか」とすねて見せる。
「……吉夜さまが嬉しそうだったので……わたしも嬉しくなりました」
「言うな」
照れているのだろう、吉夜は口を押さえた。
次いで、ふと思い出したように懐から何かを取り出す。
それは先ほど十和田家で返された小袋だった。
「お前さんに渡したもんだ。お前さんが持っとけ」
「ありがとうございます」
香代はほっとして、その小さな袋を受け取る。
胸に押し宛てるようにして、ほっと相好を崩した。
「見つかって……嬉しゅうございます」
吉夜はそんな香代を見つめ、微笑んだ。
「……ずいぶん、大事にしてくれるもんだ」
「もちろんです」
香代ははっきりうなずいた。
「旦那さまがくださった、大切なお守りですもの……」
両手をほどき、手の中にある小袋を見つめる。
香代を見ていた吉夜が、深々と息をついた。
「……あの?」
「いや、気にするな。……なんでもない」
吉夜は目を逸らしたまま答える。香代が「でも」とにじり寄ると、吉夜は気まずそうに横目を向けた。
「……あまり近づくな」
「え……?」
香代が不安に眉尻を下げると、吉夜はため息をついて優しく香代を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「……お前さんに……あちこち、触りたくなる。身体中、火傷もしてるし打ち身もあるんだ……治るまでは我慢しねェとな」
ここ数日、香を焚く間もなかったらしい吉夜からは、吉夜自身の香りがした。
香代はその腕の中に身を任せて、はい、と小さくうなずいた。
ゆっくりと背中を撫でる吉夜の手に、香代の心もほぐれていく。
顔を上げて、気になっていたことを口にした。
「……この中には、香木が入っているのですか?」
吉夜はまばたきして、「ああ……さっき弥太郎殿が言ってたか」と苦笑した。
「そうだ。手鏡が入っている」
「……手鏡?」
吉夜はうなずいて、「一度焚けばなくなるほどしかない、大切な香をそう呼ぶ」と口にした。
(大切な香……)
香代は心の中で繰り返しながら、お守りを見下ろした。
吉夜は静かな声で続ける。
「ほとんどの香木は、名を一つしか持たない。けれど、一木三銘香……三つの銘を持つ香がある」
「三銘香……」
香代が繰り返すと、吉夜はうなずいた。
「持ち主がそれぞれ、名をつけたそうだ。――宮中においては藤袴、肥後細川家においては初音、仙台伊達家においては紫舟」
肥後藩も仙台藩も、この小藩などまったく及ばない大藩だ。
香代は表情が強ばるのを感じたが、吉夜は気にした風もない。
「有名な香木は金と同等の価値があるというが……そんな話すら、その欠片の前では無意味だな」
呟くようにそう言うと、吉夜は香代の手にしたお守りを撫でた。
「一度その香りを聞けるのなら、どれだけ金を積んだとしても構わない――少しでも香道をたしなんだ者なら、みながそう思うほど、価値のあるものだ……」
あまりに希少なものと知って、どきどきと心臓が高鳴る。
「そ……それを、どうして吉夜さまが」
香代がうわずった声で訊ねると、吉夜は香代から手を離して座り直した。
「俺が誰の子ともされないまま、江戸藩邸で育った話はしたな」
吉夜は遠い目をしながら話し始めた。
「前藩では香道が盛んでな。武士のたしなみとして小さい頃から聞かされていた」
あまりによく聞き分けるものだから、七つになるかどうかの頃、面白がられて殿の御前で十?香をすることになった。
そこですべてを聞き当てたのは、吉夜だけだった。
殿は感心し、褒美に何が欲しいかと吉夜に問うた。
吉夜は迷わず答えた――殿の持つ、一木三銘香の手鏡を、と。
「大人たちはどよめきたったが、殿は呵々と笑ってうなずかれた。長屋に帰ってしばらくすると、仰々しい漆の器に、こんな小さな欠片が入っていた。殿の書かれた一筆と共に」
いくらよく嗅ぎ分けるからといって、子どもを御前に出すだろうか。
香代はごくりと、喉に唾を飲み込んだ。
「……吉夜さま……吉夜さまのお父上は、もしかして――」
「さぁね」
吉夜は笑った。
「知らないし、知る必要もない。父親が誰だろうが俺は俺だよ」
それとも、と吉夜は身を乗り出す。
「――俺は殿様の御落胤だ、と言った方がいいか?」
香代は笑い、「いえ」と首を振った。
「吉夜さまは、吉夜さまです。……どなたがお父上でも、どなたがお母上でも、変わりません」
「……うん」
吉夜は力が抜けたような微笑みを浮かべた。
「お前さんのそういうところが……気に入った」
泣きそうな顔でそう言って、吉夜は香代の頬に手を伸ばす。
「……蓮本家の跡継ぎが、面倒事に巻き込まれるとは、養父上に聞いていたし覚悟もしていた。仕向けているのは十和田兵吾だろうと推測できたが、これという証拠が掴めなくてな……。それが解決するまでは、嫁なんざ持つつもりもなかったんだが……」
あの日、寺で香代と会って、いてもたってもいられなくなった、と吉夜は言う。
「家老が縁組みしろと言やァ、芦原は断れまいと分かっていた。それでも、みすみす他の男にさわられることを考えたら……我慢ができなかった……すまない」
吉夜の目が、不安そうに揺れた。
「……悔いて、いないか。俺の……嫁になって」
香代は笑う。
「まさか」
首を横に振り、頬に添えられた吉夜の手を自分の手で包んだ。
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