38 / 39
【五】君が香
・
しおりを挟む
まどろみから目を覚ますと、こちらを見つめる吉夜と目が合った。
互いの熱を確かめ合ったあと、そのまま寝入ってしまったらしい。
目を細めた吉夜の向こうから、障子越しに朝陽が差し込んでいる。胸元まで剥き出しになった夫の身体を前に、香代は目のやり場に困り、首筋から肩まで、視線で辿ってうろたえた。
「……も、申し訳、ございません……!」
香代は口を手で押さえた。吉夜は自分の肩を横目で見て、「ああ」と笑って手で撫でる。
「男の誉れだな」
「そ、そんな誉れは要りません!」
「ははははは」
香代が言い返すと、吉夜は楽しげに笑った。
「それじゃァ、お前さんにも女の誉れを刻んでやろう」
「えっ――」
戸惑う間に、吉夜は香代を布団に押しつける。
そのまま犬のように首筋を舐めたかと思いきや、うなじ近くを吸い上げた。
「吉夜さまっ?」
香代は小さく悲鳴をあげる。顔を離した吉夜は満足げに喉を鳴らした。
「何をなさったんです」
「さァな。後ほど鏡で見てみるといい」
吉夜は香代の首筋を撫でた。それだけで、情事の名残が残る身体は震える。
「っ……」
「ふふ……身体がうずくか?」
吉夜は妖艶な笑みを浮かべて見つめてくる。
香代はその目に飲まれてしまいそうになり、慌てて目を逸らした。
目を向けた先に、吉夜が置いてくれていた香炉があった。
「……吉夜さま」
ああ、と吉夜は答えた。
「あの香……本当は、閨のためのものではないですよね?」
香代の言葉に、吉夜は軽く目を見開き、笑った。
「……なんだ。気づいていたのか」
力が抜けたようなその表情に励まされ、香代はうなずく。
「わたしを落ち着かせようとするときは、いつもあれを焚いてくださいました」
緊張しきっていた初夜だけでなく、立ちくらみで倒れたときもそうだった。
吉夜は笑うと、
「……やっぱり、俺の妻は鼻が利く。今度、夫婦で聞香会でも開くかな」
香代は慌てた。
「そういう場は、ちょっと」
「そうか?」
吉夜は首を傾げたが、香代の赤らんだ目元を見つめて「なるほど?」と口の端を引き上げる。
「お前さんにとっては、香の思い出は俺との思い出か……香会であの香が出たら、俺のことを思い出しちまうか?」
香代はうつむいた。頬だけでなく耳まで熱を持っている。恥ずかしさに、手で顔を覆った。
吉夜はまた呵々と笑った。
「それなら、聞香会はやめておこう。お前さんが香を楽しむのは、俺と二人のときだけ。……どうだ?」
頬を撫でられ、香代はますます顔が火照ってうつむいた。
惚れたが負けとはこのことだ。夫には敵わない。
「はい……そうしてください」
「ははははは」
蚊の鳴くような声で応じると、吉夜は笑い声をあげた。
その笑い声が、香代の胸を満たす。
(もう、香りなんて関係ない……)
今となればきっと、この香りがあってもなくても、吉夜を前にしたらそれだけで、香代はすぐに蕩けてしまうに違いない。
そう思うと身体がうずいて、気恥ずかしくも幸せだった。
香代は顔を見られないよう、吉夜の胸に顔をうずめた。
吉夜は優しくそれを受け止め、香代の乱れた髪を撫でる。
「少し……俺の母親の話をしてもいいか」
吉夜の言葉に、香代はうなずいた。
吉夜はぽつりぽつりと、昔の話を始める。
吉夜の母であろう人は、出産後すぐ、藩邸からいなくなったそうだ。
その行き先を手配したのが、養父である主膳だった。そう知った吉夜は、参勤交代で江戸に来た主膳を訪問した。
主膳はその話を事実と認め、自分の養嗣になるなら藩に連れて行ってもいいと言った――
香代が今まで感じていた疑問が、少しずつ解決されていく。
「別に、会いたいと思って追いかけてきたわけじゃない。ただ、ずっと、気になっていたことがあってな」
吉夜は香代の胸元に手を伸ばした。
お守りを撫でながら、静かに続ける。
「この手鏡をくれと言ったとき、殿が笑ってこう言われた。『母と同じものを所望するか』――」
香代は目を上げ、伏せられた吉夜の目を見つめる。昔に思いを馳せる吉夜の表情はあどけなく、幼い頃の面影を見るようだった。
「……母上も、俺と同じ香木の手鏡を持っていた。だとしたら……たとえ自らが死に絶えようとも、誰かに託しているのではないかと……そう思った」
焚けばすぐ燃えてしまうほどの小さな木片。
けれどそれは、香をたしなむものにとって、喉から手が出るほど貴重なものだ。
そして吉夜の母にとっては、子を成した相手とのよすがでもある。
「やっぱり、お前さんを見つけたあばら屋が、母上の住んでいた場所なんだろうと思う。納戸かどこかに残っていた香木が、あの火事で燃えた……。あのときの香りは混ざり合って聞こえたからな。けど、俺にはやっぱり、手鏡がそこに一緒になってたとは思えねェ」
吉夜は苦笑して、香代を見つめた。
「手がかりはもうなくなった……だが、たぶん母上が気に入っていただろう場所は見つけた」
香代は吉夜の目を見つめて、ああ、とうなずいた。
「……沈香寺、ですね」
「そうだ」
吉夜は微笑んだ後、ため息をついた。
「けど、あのなまぐさ坊主、何度訪ねてものらりくらりとかわしやがって、何も教えてくれやしねェ。どう見ても何か知ってやがるってのに……無駄に墓に花を供え続ける男になっちまった」
悪態をつく吉夜に、ふと香代は思い出した。
和尚が香代に言っていたこと――
「……吉夜さま、行きましょう」
「は?」
突然表情を引き締めた香代に、吉夜はまばたきする。
香代は笑って、身体を起こした。
「きっと今なら……教えてくださるはずです」
手を引くと、吉夜は困惑顔でまばたきをした。
互いの熱を確かめ合ったあと、そのまま寝入ってしまったらしい。
目を細めた吉夜の向こうから、障子越しに朝陽が差し込んでいる。胸元まで剥き出しになった夫の身体を前に、香代は目のやり場に困り、首筋から肩まで、視線で辿ってうろたえた。
「……も、申し訳、ございません……!」
香代は口を手で押さえた。吉夜は自分の肩を横目で見て、「ああ」と笑って手で撫でる。
「男の誉れだな」
「そ、そんな誉れは要りません!」
「ははははは」
香代が言い返すと、吉夜は楽しげに笑った。
「それじゃァ、お前さんにも女の誉れを刻んでやろう」
「えっ――」
戸惑う間に、吉夜は香代を布団に押しつける。
そのまま犬のように首筋を舐めたかと思いきや、うなじ近くを吸い上げた。
「吉夜さまっ?」
香代は小さく悲鳴をあげる。顔を離した吉夜は満足げに喉を鳴らした。
「何をなさったんです」
「さァな。後ほど鏡で見てみるといい」
吉夜は香代の首筋を撫でた。それだけで、情事の名残が残る身体は震える。
「っ……」
「ふふ……身体がうずくか?」
吉夜は妖艶な笑みを浮かべて見つめてくる。
香代はその目に飲まれてしまいそうになり、慌てて目を逸らした。
目を向けた先に、吉夜が置いてくれていた香炉があった。
「……吉夜さま」
ああ、と吉夜は答えた。
「あの香……本当は、閨のためのものではないですよね?」
香代の言葉に、吉夜は軽く目を見開き、笑った。
「……なんだ。気づいていたのか」
力が抜けたようなその表情に励まされ、香代はうなずく。
「わたしを落ち着かせようとするときは、いつもあれを焚いてくださいました」
緊張しきっていた初夜だけでなく、立ちくらみで倒れたときもそうだった。
吉夜は笑うと、
「……やっぱり、俺の妻は鼻が利く。今度、夫婦で聞香会でも開くかな」
香代は慌てた。
「そういう場は、ちょっと」
「そうか?」
吉夜は首を傾げたが、香代の赤らんだ目元を見つめて「なるほど?」と口の端を引き上げる。
「お前さんにとっては、香の思い出は俺との思い出か……香会であの香が出たら、俺のことを思い出しちまうか?」
香代はうつむいた。頬だけでなく耳まで熱を持っている。恥ずかしさに、手で顔を覆った。
吉夜はまた呵々と笑った。
「それなら、聞香会はやめておこう。お前さんが香を楽しむのは、俺と二人のときだけ。……どうだ?」
頬を撫でられ、香代はますます顔が火照ってうつむいた。
惚れたが負けとはこのことだ。夫には敵わない。
「はい……そうしてください」
「ははははは」
蚊の鳴くような声で応じると、吉夜は笑い声をあげた。
その笑い声が、香代の胸を満たす。
(もう、香りなんて関係ない……)
今となればきっと、この香りがあってもなくても、吉夜を前にしたらそれだけで、香代はすぐに蕩けてしまうに違いない。
そう思うと身体がうずいて、気恥ずかしくも幸せだった。
香代は顔を見られないよう、吉夜の胸に顔をうずめた。
吉夜は優しくそれを受け止め、香代の乱れた髪を撫でる。
「少し……俺の母親の話をしてもいいか」
吉夜の言葉に、香代はうなずいた。
吉夜はぽつりぽつりと、昔の話を始める。
吉夜の母であろう人は、出産後すぐ、藩邸からいなくなったそうだ。
その行き先を手配したのが、養父である主膳だった。そう知った吉夜は、参勤交代で江戸に来た主膳を訪問した。
主膳はその話を事実と認め、自分の養嗣になるなら藩に連れて行ってもいいと言った――
香代が今まで感じていた疑問が、少しずつ解決されていく。
「別に、会いたいと思って追いかけてきたわけじゃない。ただ、ずっと、気になっていたことがあってな」
吉夜は香代の胸元に手を伸ばした。
お守りを撫でながら、静かに続ける。
「この手鏡をくれと言ったとき、殿が笑ってこう言われた。『母と同じものを所望するか』――」
香代は目を上げ、伏せられた吉夜の目を見つめる。昔に思いを馳せる吉夜の表情はあどけなく、幼い頃の面影を見るようだった。
「……母上も、俺と同じ香木の手鏡を持っていた。だとしたら……たとえ自らが死に絶えようとも、誰かに託しているのではないかと……そう思った」
焚けばすぐ燃えてしまうほどの小さな木片。
けれどそれは、香をたしなむものにとって、喉から手が出るほど貴重なものだ。
そして吉夜の母にとっては、子を成した相手とのよすがでもある。
「やっぱり、お前さんを見つけたあばら屋が、母上の住んでいた場所なんだろうと思う。納戸かどこかに残っていた香木が、あの火事で燃えた……。あのときの香りは混ざり合って聞こえたからな。けど、俺にはやっぱり、手鏡がそこに一緒になってたとは思えねェ」
吉夜は苦笑して、香代を見つめた。
「手がかりはもうなくなった……だが、たぶん母上が気に入っていただろう場所は見つけた」
香代は吉夜の目を見つめて、ああ、とうなずいた。
「……沈香寺、ですね」
「そうだ」
吉夜は微笑んだ後、ため息をついた。
「けど、あのなまぐさ坊主、何度訪ねてものらりくらりとかわしやがって、何も教えてくれやしねェ。どう見ても何か知ってやがるってのに……無駄に墓に花を供え続ける男になっちまった」
悪態をつく吉夜に、ふと香代は思い出した。
和尚が香代に言っていたこと――
「……吉夜さま、行きましょう」
「は?」
突然表情を引き締めた香代に、吉夜はまばたきする。
香代は笑って、身体を起こした。
「きっと今なら……教えてくださるはずです」
手を引くと、吉夜は困惑顔でまばたきをした。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…
ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。
しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。
気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる