君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【五】君が香

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 まどろみから目を覚ますと、こちらを見つめる吉夜と目が合った。
 互いの熱を確かめ合ったあと、そのまま寝入ってしまったらしい。
 目を細めた吉夜の向こうから、障子越しに朝陽が差し込んでいる。胸元まで剥き出しになった夫の身体を前に、香代は目のやり場に困り、首筋から肩まで、視線で辿ってうろたえた。

「……も、申し訳、ございません……!」

 香代は口を手で押さえた。吉夜は自分の肩を横目で見て、「ああ」と笑って手で撫でる。

「男の誉れだな」
「そ、そんな誉れは要りません!」
「ははははは」

 香代が言い返すと、吉夜は楽しげに笑った。

「それじゃァ、お前さんにも女の誉れを刻んでやろう」
「えっ――」

 戸惑う間に、吉夜は香代を布団に押しつける。
 そのまま犬のように首筋を舐めたかと思いきや、うなじ近くを吸い上げた。

「吉夜さまっ?」

 香代は小さく悲鳴をあげる。顔を離した吉夜は満足げに喉を鳴らした。

「何をなさったんです」
「さァな。後ほど鏡で見てみるといい」

 吉夜は香代の首筋を撫でた。それだけで、情事の名残が残る身体は震える。

「っ……」
「ふふ……身体がうずくか?」

 吉夜は妖艶な笑みを浮かべて見つめてくる。
 香代はその目に飲まれてしまいそうになり、慌てて目を逸らした。
 目を向けた先に、吉夜が置いてくれていた香炉があった。

「……吉夜さま」

 ああ、と吉夜は答えた。

「あの香……本当は、閨のためのものではないですよね?」

 香代の言葉に、吉夜は軽く目を見開き、笑った。

「……なんだ。気づいていたのか」

 力が抜けたようなその表情に励まされ、香代はうなずく。

「わたしを落ち着かせようとするときは、いつもあれを焚いてくださいました」

 緊張しきっていた初夜だけでなく、立ちくらみで倒れたときもそうだった。
 吉夜は笑うと、

「……やっぱり、俺の妻は鼻が利く。今度、夫婦で聞香会でも開くかな」

 香代は慌てた。

「そういう場は、ちょっと」
「そうか?」

 吉夜は首を傾げたが、香代の赤らんだ目元を見つめて「なるほど?」と口の端を引き上げる。

「お前さんにとっては、香の思い出は俺との思い出か……香会であの香が出たら、俺のことを思い出しちまうか?」

 香代はうつむいた。頬だけでなく耳まで熱を持っている。恥ずかしさに、手で顔を覆った。
 吉夜はまた呵々と笑った。

「それなら、聞香会はやめておこう。お前さんが香を楽しむのは、俺と二人のときだけ。……どうだ?」

 頬を撫でられ、香代はますます顔が火照ってうつむいた。
 惚れたが負けとはこのことだ。夫には敵わない。

「はい……そうしてください」
「ははははは」

 蚊の鳴くような声で応じると、吉夜は笑い声をあげた。
 その笑い声が、香代の胸を満たす。

(もう、香りなんて関係ない……)

 今となればきっと、この香りがあってもなくても、吉夜を前にしたらそれだけで、香代はすぐに蕩けてしまうに違いない。
 そう思うと身体がうずいて、気恥ずかしくも幸せだった。
 香代は顔を見られないよう、吉夜の胸に顔をうずめた。
 吉夜は優しくそれを受け止め、香代の乱れた髪を撫でる。

「少し……俺の母親の話をしてもいいか」

 吉夜の言葉に、香代はうなずいた。
 吉夜はぽつりぽつりと、昔の話を始める。
 吉夜の母であろう人は、出産後すぐ、藩邸からいなくなったそうだ。
 その行き先を手配したのが、養父である主膳だった。そう知った吉夜は、参勤交代で江戸に来た主膳を訪問した。
 主膳はその話を事実と認め、自分の養嗣になるなら藩に連れて行ってもいいと言った――
 香代が今まで感じていた疑問が、少しずつ解決されていく。

「別に、会いたいと思って追いかけてきたわけじゃない。ただ、ずっと、気になっていたことがあってな」

 吉夜は香代の胸元に手を伸ばした。
 お守りを撫でながら、静かに続ける。

「この手鏡をくれと言ったとき、殿が笑ってこう言われた。『母と同じものを所望するか』――」

 香代は目を上げ、伏せられた吉夜の目を見つめる。昔に思いを馳せる吉夜の表情はあどけなく、幼い頃の面影を見るようだった。

「……母上も、俺と同じ香木の手鏡を持っていた。だとしたら……たとえ自らが死に絶えようとも、誰かに託しているのではないかと……そう思った」

 焚けばすぐ燃えてしまうほどの小さな木片。
 けれどそれは、香をたしなむものにとって、喉から手が出るほど貴重なものだ。
 そして吉夜の母にとっては、子を成した相手とのよすがでもある。

「やっぱり、お前さんを見つけたあばら屋が、母上の住んでいた場所なんだろうと思う。納戸かどこかに残っていた香木が、あの火事で燃えた……。あのときの香りは混ざり合って聞こえたからな。けど、俺にはやっぱり、手鏡がそこに一緒になってたとは思えねェ」

 吉夜は苦笑して、香代を見つめた。

「手がかりはもうなくなった……だが、たぶん母上が気に入っていただろう場所は見つけた」

 香代は吉夜の目を見つめて、ああ、とうなずいた。

「……沈香寺、ですね」
「そうだ」

 吉夜は微笑んだ後、ため息をついた。

「けど、あのなまぐさ坊主、何度訪ねてものらりくらりとかわしやがって、何も教えてくれやしねェ。どう見ても何か知ってやがるってのに……無駄に墓に花を供え続ける男になっちまった」

 悪態をつく吉夜に、ふと香代は思い出した。
 和尚が香代に言っていたこと――

「……吉夜さま、行きましょう」
「は?」

 突然表情を引き締めた香代に、吉夜はまばたきする。
 香代は笑って、身体を起こした。

「きっと今なら……教えてくださるはずです」

 手を引くと、吉夜は困惑顔でまばたきをした。
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