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【三】暗雲
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その夕、いつも帰宅する時間になっても、吉夜は帰って来なかった。
主膳は香代の沈んだ顔に気づいたのか、香代を呼び止めて「床の間の花だが」と切り出した。
「前に生けてもらった菊が枯れてしまってな……また、頼めるか」
そう言葉の多くない義父だが、香代を思ってくれているのは感じている。
義父の頼みならばと、香代は迷わずうなずいた。
「はい、喜んで」
そう言っても、花の準備がない。また明日にでもと思ったが、主膳はうむとうなずいて、
「帰り際に、野菊を見つけてな……少し、摘んで帰った」
気恥ずかしいのか、目を伏せ気味に言う姿に、香代はまばたきをして微笑んだ。
それだけ、義父が床の間の花を喜んでくれたということだろう。
そう知っただけでも、揺らいでいた心は少し柔らいだ。
香代は「それでしたら、今からでも」とうなずき、主膳に続いて離れへ向かった。
花を生けたい――と香代が申し出たとき、最初に案内されたのは納屋だった。
そこには、二年前に他界した主膳の妻が使った花器の類いがしまわれていた。
下女の話によると、主膳の妻は倹約家で、使いそうにない贅沢品の類いはあらかた売り払うか譲るかしてしまったらしい。
それを冷たいと見る人もいたようだが、香代はそうは思わなかった。見たところ、納屋にしまわれた物はどれも、丁寧に磨かれていたからだ。
大切にしたいものと、大切につき合いたい――主膳の妻はそういう女性だったのではという気がした。
中でも目を引いたのが、漆塗りの花器だった。抱えてみると、ころんと腕の中に収まる。手にしたとき、子のようだ、と、なぜか思った。柔らかいはずもないのに、柔らかさを感じるそれを、香代は迷わず選んだ。
菊の花が枯れた後も、花器は床の間に置かれていた。空のまま、新しい花を待つように。
その花器を前にして、香代は切狭を手に取る。
戸を開けた縁側から、夕陽が差し込んでいた。
主膳が摘み帰った菊を、一本一本、形を見ながら生けていく。
主膳は西日のまぶしさに目を細めながら、部屋の隅から香代を見ていた。
静かで、穏やかな時間だった。
いつもなら緊張するはずの主膳の視線も、今日は不思議と気にならない。
それはその目が、藩の重臣としての厳しいものではなく、誰かを想う優しさを帯びているからかもしれない。
花を生ける香代を通して、誰かを見ている――そんな気がした。
静かな部屋の中に、ぱちん、と香代の持つはさみの音が響く。
主膳は香代の手と、自分が摘んだ花を見ていたが、しばらくして、懐かしむように呟いた。
「……その花器は、妻が大切にしていたものでな」
香代はちらと義父を見たが、主膳は静かに花器を見つめている。
「わしが殿のお供で江戸に行っている間も……いつ帰ってきてもいいようにと、花を絶やさずにいてくれた」
ぽつり、ぽつりと紡がれる主膳の言葉が、波紋のように香代の心に響いてくる。
返事はしなかった。今ばかりは、言葉は必要ないような気がしたのだ。
義父と、心が直接繋がっていく。花が、花器が、繋げてくれる――そんな感覚に、香代は静かに浸る。
ぱちん、とまた、はさみの音が響く。
一本、また一本、白菊が花器の中で寄り添う。
「お主が菊を生けてくれたとき……あれの生前のことを思い出してな」
最後の一本を、ゆっくりと花器に供えた。
帰路、花に菊を選んだのは、主膳の気まぐれではないのかもしれない。
仏花としてもよく選ばれるその花を、亡き妻は好んでいたのだろうか。
「あれも……文句ひとつ言わず、よく勤めてくれた」
義父の呟きを聞きながら、香代は花を生け終えた花器を掲げるように持ち上げた。
床の間に乗せて、静かに見つめる。
白い菊は、互いに顔を寄せるように――もしくは、互いに場所を譲り合うように並んでいる。
香代はそれを見ながら、吉夜の言葉を思い出していた。
――惚れた女を幸せにしたい。蓮本ならそれが叶うのではないかと思った。
(あの人が――女人に乱暴をするわけがない)
何を信じればいいか分からず、ざわついていた香代の胸の内は、今は静かに凪いでいた。
「お香代」
義父の声が、不思議なほど間近に聞こえた。
「吉夜の話は、聞いているか」
香代はうつむくようにあごを引いた。
主膳は続ける。
「わしはな、あれとのつき合いは浅いが、人を見る目はあるつもりだ」
うつむいた香代の目の先には、膝の上に置いた自分の手がある。
片手でもう一方の手を撫でると、握り返してくれた吉夜の力強さを思い出した。
「だから、どうか……信じて待ってやってくれ」
主膳の声は静かだった。それでも、くっきりと香代の耳に届く。
「お主が待っていてくれれば、あれはお主の元に帰って来られる」
優しく、力強い義父の声が、直接心に響いてくる。
義父の大きさを全身に感じて、香代は目を閉じた。
兵吾のうすら笑いが、まぶたの裏に浮かんだ。
きっと、兵吾だけではないだろう――吉夜を、香代を、蓮本家を嘲笑おうとするのは。
突然現れた蓮本家の養子を、下士の娘の玉の輿を、うらやんだ者は少なくないはずだ。
そういう者はみな、二人の転落を期待しているのだろう。
(……それでも、吉夜さまはそんな方じゃない)
妻でもない女を孕ませることも、妻をのけ者にすることも、するような人ではない。
大丈夫だ、信じられる――義父の言葉に励まされ、香代はそう心に唱えて顔を上げた。
吉夜が誰かの思惑に巻き込まれているのは間違いない。
妻として何をすべきか――何ができるか、考えるためには、今なにがどうなっているのかを知らなくてはいけない。
(もう一度……兄上に、話を聞きに行こう)
顔を上げた香代は、夕陽を浴びて金に輝く野菊を見つめていた。
主膳は香代の沈んだ顔に気づいたのか、香代を呼び止めて「床の間の花だが」と切り出した。
「前に生けてもらった菊が枯れてしまってな……また、頼めるか」
そう言葉の多くない義父だが、香代を思ってくれているのは感じている。
義父の頼みならばと、香代は迷わずうなずいた。
「はい、喜んで」
そう言っても、花の準備がない。また明日にでもと思ったが、主膳はうむとうなずいて、
「帰り際に、野菊を見つけてな……少し、摘んで帰った」
気恥ずかしいのか、目を伏せ気味に言う姿に、香代はまばたきをして微笑んだ。
それだけ、義父が床の間の花を喜んでくれたということだろう。
そう知っただけでも、揺らいでいた心は少し柔らいだ。
香代は「それでしたら、今からでも」とうなずき、主膳に続いて離れへ向かった。
花を生けたい――と香代が申し出たとき、最初に案内されたのは納屋だった。
そこには、二年前に他界した主膳の妻が使った花器の類いがしまわれていた。
下女の話によると、主膳の妻は倹約家で、使いそうにない贅沢品の類いはあらかた売り払うか譲るかしてしまったらしい。
それを冷たいと見る人もいたようだが、香代はそうは思わなかった。見たところ、納屋にしまわれた物はどれも、丁寧に磨かれていたからだ。
大切にしたいものと、大切につき合いたい――主膳の妻はそういう女性だったのではという気がした。
中でも目を引いたのが、漆塗りの花器だった。抱えてみると、ころんと腕の中に収まる。手にしたとき、子のようだ、と、なぜか思った。柔らかいはずもないのに、柔らかさを感じるそれを、香代は迷わず選んだ。
菊の花が枯れた後も、花器は床の間に置かれていた。空のまま、新しい花を待つように。
その花器を前にして、香代は切狭を手に取る。
戸を開けた縁側から、夕陽が差し込んでいた。
主膳が摘み帰った菊を、一本一本、形を見ながら生けていく。
主膳は西日のまぶしさに目を細めながら、部屋の隅から香代を見ていた。
静かで、穏やかな時間だった。
いつもなら緊張するはずの主膳の視線も、今日は不思議と気にならない。
それはその目が、藩の重臣としての厳しいものではなく、誰かを想う優しさを帯びているからかもしれない。
花を生ける香代を通して、誰かを見ている――そんな気がした。
静かな部屋の中に、ぱちん、と香代の持つはさみの音が響く。
主膳は香代の手と、自分が摘んだ花を見ていたが、しばらくして、懐かしむように呟いた。
「……その花器は、妻が大切にしていたものでな」
香代はちらと義父を見たが、主膳は静かに花器を見つめている。
「わしが殿のお供で江戸に行っている間も……いつ帰ってきてもいいようにと、花を絶やさずにいてくれた」
ぽつり、ぽつりと紡がれる主膳の言葉が、波紋のように香代の心に響いてくる。
返事はしなかった。今ばかりは、言葉は必要ないような気がしたのだ。
義父と、心が直接繋がっていく。花が、花器が、繋げてくれる――そんな感覚に、香代は静かに浸る。
ぱちん、とまた、はさみの音が響く。
一本、また一本、白菊が花器の中で寄り添う。
「お主が菊を生けてくれたとき……あれの生前のことを思い出してな」
最後の一本を、ゆっくりと花器に供えた。
帰路、花に菊を選んだのは、主膳の気まぐれではないのかもしれない。
仏花としてもよく選ばれるその花を、亡き妻は好んでいたのだろうか。
「あれも……文句ひとつ言わず、よく勤めてくれた」
義父の呟きを聞きながら、香代は花を生け終えた花器を掲げるように持ち上げた。
床の間に乗せて、静かに見つめる。
白い菊は、互いに顔を寄せるように――もしくは、互いに場所を譲り合うように並んでいる。
香代はそれを見ながら、吉夜の言葉を思い出していた。
――惚れた女を幸せにしたい。蓮本ならそれが叶うのではないかと思った。
(あの人が――女人に乱暴をするわけがない)
何を信じればいいか分からず、ざわついていた香代の胸の内は、今は静かに凪いでいた。
「お香代」
義父の声が、不思議なほど間近に聞こえた。
「吉夜の話は、聞いているか」
香代はうつむくようにあごを引いた。
主膳は続ける。
「わしはな、あれとのつき合いは浅いが、人を見る目はあるつもりだ」
うつむいた香代の目の先には、膝の上に置いた自分の手がある。
片手でもう一方の手を撫でると、握り返してくれた吉夜の力強さを思い出した。
「だから、どうか……信じて待ってやってくれ」
主膳の声は静かだった。それでも、くっきりと香代の耳に届く。
「お主が待っていてくれれば、あれはお主の元に帰って来られる」
優しく、力強い義父の声が、直接心に響いてくる。
義父の大きさを全身に感じて、香代は目を閉じた。
兵吾のうすら笑いが、まぶたの裏に浮かんだ。
きっと、兵吾だけではないだろう――吉夜を、香代を、蓮本家を嘲笑おうとするのは。
突然現れた蓮本家の養子を、下士の娘の玉の輿を、うらやんだ者は少なくないはずだ。
そういう者はみな、二人の転落を期待しているのだろう。
(……それでも、吉夜さまはそんな方じゃない)
妻でもない女を孕ませることも、妻をのけ者にすることも、するような人ではない。
大丈夫だ、信じられる――義父の言葉に励まされ、香代はそう心に唱えて顔を上げた。
吉夜が誰かの思惑に巻き込まれているのは間違いない。
妻として何をすべきか――何ができるか、考えるためには、今なにがどうなっているのかを知らなくてはいけない。
(もう一度……兄上に、話を聞きに行こう)
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