君の香に満ちて

マツイ ニコ

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【三】暗雲

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 香代はそれから三日ほどを、ひとり部屋の中で過ごした。
 誰もが香代の容態を気にして、毎朝、香代の様子を確認してから勤めに励むものだから、吉夜も呆れ半分笑ったくらいだ。
 倒れた翌朝から、朝餉に卵が出てきた。香代は不思議に思ったが、義父の主膳が手配したのだという。
 顔を見に来ることはないが、香代を思いやってくれるようだ。
 そんな義父のことを、ありがたくも、申し訳なくも思った。
 月のものが落ち着いた四日目、部屋の外に出ることにした。
 身だしなみを整えていると、ここ三日、香代の世話をしてくれていた下女が気づいた。

「奥様。もうお加減はよろしいので?」
「ええ。心配をかけました」

 香代は微笑んで、きれいに整った庭を見回した。
 香代が部屋にこもっている間に、草刈りは終わってしまったようだ。
 少し残念に思ったが、喜ぶべきことだろう。
 自分が携われなかった代わりに労いの言葉をかけようと決めて、下女を見やった。

「みんな、よく励んでくれたようですね」
「はい。また奥さまに倒れられては、若旦那さまに申し訳が立ちませんので」

 きりりと表情を引き締めた下女の言葉に、香代は思わず不安になった。

「……吉夜さまは、わたしが倒れたことでみなに何か?」
「いいえ。よく見ておけと言われただけです。自分から若旦那さまに謝る者もおりましたが」

 倒れたのは誰かのせいではないのに、なんだか申し訳ない。
 香代は恐縮しながら部屋を出た。
 見かけたものに声をかける香代だが、むしろ家の者の方が先に香代に気づいて駆け寄ってきた。
 労いの言葉をかけると、向こうからも気遣いの言葉が返ってくる。一通り声をかけ終わったとき、庭にある風呂の周りを、数人が行き来しているのが見えた。
 どうしたのかと訊ねれば、張り切った声が返ってくる。

「奥様が部屋から出られたら、風呂を炊くようにと、若旦那さまから言われております」

 香代は思わず言葉を失った。
 今、風呂を炊いたとしても、お役目に出ている義父や吉夜は入れない。
 となると、香代だけのために炊くことになってしまうだろう。
 風呂を炊く――と一口に言っても、そう簡単な話ではない。川から何往復もして水を運んでくる必要があるし、薪も大量に必要になる。
 蓮本家は家の近くまで川の水を引いてきているが、それでも重労働なはずだ。

「そ――それはせめて、暮れ六つ刻の頃に……」
「ああ、覗きが出てはいけませんからね。でも大丈夫ですよ、男たちは私どもが見張っておきますから」

 下女の納得はどこかズレている。が、香代を想ってくれているのは分かったので、「とにかく、夕どきに頼みます」と重ねて頼んだ。

 ***

 風呂が炊けた頃、ちょうど主膳と吉夜が帰って来た。
 動き回っている香代に気づいて、吉夜が心配そうに声をかける。

「香代。もういいのか?」
「はい……ご迷惑をおかけしました」
「いや、なにごともなければそれでいい」

 吉夜はほっとしたように微笑んだ。香代は次いで、主膳へ向かって頭を下げる。

「義父上も……ありがとうございました。わざわざ卵まで用意くださいまして」
「……卵?」

 吉夜が主膳を見ると、うむ、とうなずきが返ってくる。

「こういうときは卵に限るでな」
「ち……養父上……」

 満足げにうなずく主膳を、吉夜が唖然として見つめた。

「人には、黙って寝かせておくのが一番だとおっしゃったのに……」

 呟く吉夜はどこか悔しげだ。
 香代が困惑していると、主膳はふんと鼻を鳴らした。

「その程度も気づかぬようでは、まだまだだな」

 吉夜が唇をへの字にする。いったい、何を張り合っているのだろう。香代は二人の間で困って、おずおずと口を開いた。

「あの……お湯の準備ができております。お義父さまから順に、お入りになっては」
「……風呂?」

 主膳はまばたきして、吉夜に目を向けた。

「……お主が頼んだのか」
「……ええ、まあ」

 ふてくされた吉夜がうなずき、ふぅむ、と主膳があいづちを打つ。

「それなら、お香代が先に入ればよかろう」

 香代は慌てた。「いえ、お二人が先に」と重ねて勧める。
 まだ、月のものが完全に落ち着いたわけではないのだ。湯を汚すことを気にして入るよりは、先に二人に入ってほしかった。
 主膳と吉夜は顔を見合わせたが、吉夜が「養父上、お先に」と声をかけると、主膳はうなずいた。
 支度をしに部屋へ向かう義父の背を見つつ、香代は安堵の吐息をつく。

(よかった……)

 そのとき、香代の耳に、思案するような吉夜の声が飛び込んできた。

「卵……。ニワトリでも飼うか……」

 ***

 さすがに冗談だろうと思った吉夜の呟きは、どうも半分本気のようだった。
 というのも、久々に床を並べてくべた後、吉夜は腕組みしつつ、しみじみとつぶやいたのだ。

「やはり、まだまだ養父上には敵わんな……」

 風呂を済ませてからも、ずっと何か考えているのは察していたが、まさか義父が香代に用意した卵のことだとは思わなかった。
 香代は呆れ半分、困惑半分、「わたしはもう大丈夫ですので」と控えめに言った。

「しかし……これからややもできるかもしれぬし……滋養のつくものを摂っておいた方がいいだろう」
「わたしのためにニワトリを飼うなど、いたたまれません。おやめください」

 香代がはっきりと断ると、吉夜は少しすねたように唇を尖らせ、息をついた。

「養父上にはまだまだ学ばねばならんことが多い……」

 その顔を見ながら、ふと思う。

(今なら……聞けるかもしれない)

 香代はためらいがちに口を開いた。

「吉夜さまは……どうして蓮本さまのところに?」

 気になっていたが、ずっと聞けなかったことだ。
 吉夜が江戸からこの藩に来た理由。
 頭の隅には、十和田家で聞いた、他藩の出という話が残っている。
 「そうさなぁ」と吉夜は遠い目をした。

「俺は……男ってのぁ、女を不幸にする業を持つもんだと思ってた」

 思わぬところから始まった話に、香代はあいづちを打つのもためらった。

「けど……そうじゃないと思わせてくれたのが養父上だ」

 主膳は、妻との間に子どもができなくとも、離縁することも妾を作ることもなかった。
 それでは重臣の役目を果たせない――そう言う者もいたようだが、子が欲しいなら養子を取ればいい、とあっさり答えたらしい。
 ――妻ほど自分のことを支えてくれる女はいない。
 そう話した主膳に、吉夜は感嘆したという。

「こんな男もいるのかと思ってな……驚いたし、嬉しかったよ」

 照れたように笑う吉夜は、いつもより幼く見えた。
 吉夜は香代の顔をまっすぐ見つめる。

「俺も、惚れた女を幸せにしたい。そんな男になりたいと思った……蓮本に来たら、それが叶えられるかと思った」

 それが、ここに来た理由だ、と吉夜は笑った。

「惚れた……女」

 香代は夫の言葉を繰り返した。
 吉夜は眉を寄せ、難しげな顔を作る。
 こほんと咳払いすると、小さな声で、

「……お前以外に誰がいる」

 照れているのは、赤くなった頬を見ればわかる。香代はうずく胸を押さえてうつむいた。

「……もう寝よう。お前さんも、まだ本調子じゃないんだろう」

 吉夜は照れをごまかすように灯を消した。
 久しぶりに、隣り合って床につく。
 目を閉じても開いても、隣にいる吉夜の気配が、今まで以上に色濃く、強く感じられた。

 ――惚れた女を幸せにしたい。
 ――お前以外に誰がいる。

 耳に、吉夜の言葉が残っている。嬉しくて、気分が高ぶっていた。深呼吸を繰り返したが、心のざわつきは落ち着かない。
 困り切った香代はおずおずと口を開いた。

「……吉夜さま」

 控えめな声で、夫の名を呼ぶ。

「どうした?」

 吉夜からは優しい声が返ってくる。
 手を、と香代は小さな声で、

「……握っていて、くださいませんか」

 おそるおそる手を差し出すと、ため息が聞こえた。
 不安になって引っ込めようとした手が、すぐに温もりに包まれる。
 嫌がられたわけではないらしい。
 ほっ、と安堵の息を漏らして、自分と違う堅く大きな手と指を、なぞるように指で撫でた。

(吉夜さまの手……)

 また触れて欲しい――また肌を重ねた夜のことを思い、もう一方の手も伸ばして、吉夜の手を包み込んだ。
 隣から、こほん、と咳払いが聞こえた。

「……香代」

 改まった声で呼ぶ吉夜に、「はい」と答える。
 すると吉夜は照れを隠すようにぶっきらぼうな声で、

「俺は……骨なし侍にはなりたくねェぞ」

 香代は首を傾げた。

(骨なし……侍?)

 はい、と口先で答えながらも、吉夜が何を言わんとしているのか、香代にはよく分からない。
 ただ、手の温もりと、吉夜の声に滲む優しさに浸るうち、ゆっくりと眠りに落ちていった。
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