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【二】雲影
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翌日の昼過ぎ、香代は十和田家を訪れた。
家格の近い両家の屋敷はそう遠くないが、元が軍役を司る十和田家は、上士の中でも坂を下る位置にある。
屋敷の裏通りを行けば、香代が以前、酔っ払いに絡まれたあの四つ辻に繋がっているはずだ。
香代の来訪は、事前に文で知らせてあった。迎えてくれたのは嫡子の妻で、家主の兵右衛門とその嫡子は出仕していて不在だという。
「このたびはわざわざご足労いただき……」
「こちらこそ、ご挨拶が遅くなりまして……」
型どおりの挨拶をしながらも、香代は緊張のあまり身体が汗ばむのを感じていた。
相手は香代より五つほど年上だろうか。容姿にこれという特徴のない女で、表情からも態度からも感情がうかがえない。
冷たい、とも見えるが、武士の妻としては立派な態度だ。昔からそう育てられてきたのだろう。
「――本来なら、義母がご挨拶申し上げるところですが、急なことで都合がつかず、わたくしが代わりに……」
詫び口上にあいづちを打ちながらも、香代は内心、早く帰りたくてたまらなかった。
結婚祝いの礼を述べると、今後もどうぞよろしくと言って、吉夜に任された包みを差し出した。
「つまらないものですが……」
「これはこれは、わざわざどうも」
結婚祝いの礼はすでに渡してあるので、今日渡すのはその小包一つだ。
中には、吉夜が選んだ香が入っているはずだった。小さい上に軽いが、価値を考えれば相当のものに違いない。
香代はそれが自分の手を離れたことで、身が軽くなったような気がした。
嫡子の妻は無駄口をきかずに礼を述べ、あたりさわりない言葉で退出を促した。
目的を果たした香代も、帰ることに異論ない。頭を下げると、部屋を出て、広い家を下女に案内されて進んだ。
供の待つ入り口へ向かう途中で、おい、と威圧的な声が香代を呼び止めた。
振り向くと、そこに立っているのはいつか四つ辻で絡んできた男だ。
香代の背に、ぞっ、と悪寒が走る。
(なぜこの人がここに……?)
自問して、察しがついた。この男が例の「与三郎」――今与一といわれる十和田家の三男なのだろう。
男は元から大きい小鼻を膨らませ、ふんと鼻を鳴らした。
つり上がった目が、値踏みするように香代を見下ろしている。
「芦原香代。……蓮本吉夜の妻になったそうだな」
威圧的な低い声。
香代は目だけであたりを見回したが、さっきまで前に立っていた下女は気づかぬうちに消えていた。
まるでこの男を見て隠れたようだ。
(なんてこと……)
家中の者が見て見ぬふり、というのはただの噂でもないらしい。
香代は恐怖に震えそうになるのを堪えてうつむいた。
「お前もたいそうな男を夫にしたもんだ」
香代に近づいて来た厚顔な男は、今にも香代に触れられる距離に立ち、低い声を落とした。
「妻になったのなら、知っているか? ――あいつは元々他藩の出だ」
初めて聞いたことに、香代ははっとした。
吉夜が江戸生まれ江戸育ちだとは聞いている。けれど藩士の中には、参勤交代のために江戸に詰めている者もいるから、吉夜はそういう家の産まれだろうと思いこんでいた。
男は香代の表情で、知らなかったことを察したらしい。小馬鹿にしたように笑った。
「なんだ。そんなことも知らされていないのか? それじゃあ、どうして他藩の人間が、我が藩の重役の後釜になるのかも知らんのだろうな」
男は唇を舌で湿らせ、ますます香代の耳元に口を寄せた。
生暖かい吐息が耳にかかり、気持ち悪さに身震いする。
「あいつはな――元の主家から家宝を盗んだんだよ。それが主家にばれて御家を追放され、江戸にいられなくなった。そのとき、ちょうど蓮本のじじいが参勤交代で江戸に行っていてな。あいつはそのお宝で、蓮本のじじいをたぶらかしたってわけだ……」
香代は眉を寄せ、男から離れるように身を退いた。男はくつくつと喉奥で笑う。
「なあ、香代。今ならまだ間に合うぞ。盗人の妻になどなりたくないだろう? あいつの代わりに、俺がお前をかわいがってやってもいい」
「お断りします」
香代ははっきりと断った。
確かに香代は、吉夜が蓮本家の養子になった理由を、詳しくは知らない。けれど吉夜が人から――それも主家からものを盗むなど、想像もできなかった。
男はふんと鼻を鳴らした。
「いつまでそう言っていられるだろうな? お前だって分かっているだろう。あれだけ女好きのする男が、わざわざお前を選んだ理由は何だ? 黙って夫の言うことを聞く女だと思われたか、訳ありげな年増に興味が湧いたか――どちらにしろ、いずれ飽きられれば、他の女に取って代わられるだけだろうよ。なんせ盗みはお手の物の男だ、どこぞの人妻だろうとも、美味いと聞けば手を出すかもしれんな……ははははは」
男は満足げに高笑いする。
あまりの侮辱に、香代は怒りのあまり顔が熱を持つのが分かった。
腰の横で握った拳が震える。言い返してやろうと息を吸ったとき、どこからか甲高い奇声が聞こえた。
はっと顔を上げた香代と同様、男はそちらを見遣り、小さく舌打ちする。
「……狐め」
呟いて、男はゆっくりと香代から離れた。
「気が変わったら、いつでも俺のところに来い。まだ初々しさが残ってるうちにな……使い古しだが、お前の肌が白いうちなら、我慢してやろう」
香代がもの言う間も与えず、男は足早に場を去った。
その背が見えなくなると、またどこからか先ほどの下女が現れ、頭を下げた。
「失礼いたしました。こちらへどうそ」
何事もなかったかのように、香代を玄関先まで案内する。
男への腹立ちとともに、どこかから聞こえた奇声に気味の悪さを感じながら、香代は十和田家を後にした。
家格の近い両家の屋敷はそう遠くないが、元が軍役を司る十和田家は、上士の中でも坂を下る位置にある。
屋敷の裏通りを行けば、香代が以前、酔っ払いに絡まれたあの四つ辻に繋がっているはずだ。
香代の来訪は、事前に文で知らせてあった。迎えてくれたのは嫡子の妻で、家主の兵右衛門とその嫡子は出仕していて不在だという。
「このたびはわざわざご足労いただき……」
「こちらこそ、ご挨拶が遅くなりまして……」
型どおりの挨拶をしながらも、香代は緊張のあまり身体が汗ばむのを感じていた。
相手は香代より五つほど年上だろうか。容姿にこれという特徴のない女で、表情からも態度からも感情がうかがえない。
冷たい、とも見えるが、武士の妻としては立派な態度だ。昔からそう育てられてきたのだろう。
「――本来なら、義母がご挨拶申し上げるところですが、急なことで都合がつかず、わたくしが代わりに……」
詫び口上にあいづちを打ちながらも、香代は内心、早く帰りたくてたまらなかった。
結婚祝いの礼を述べると、今後もどうぞよろしくと言って、吉夜に任された包みを差し出した。
「つまらないものですが……」
「これはこれは、わざわざどうも」
結婚祝いの礼はすでに渡してあるので、今日渡すのはその小包一つだ。
中には、吉夜が選んだ香が入っているはずだった。小さい上に軽いが、価値を考えれば相当のものに違いない。
香代はそれが自分の手を離れたことで、身が軽くなったような気がした。
嫡子の妻は無駄口をきかずに礼を述べ、あたりさわりない言葉で退出を促した。
目的を果たした香代も、帰ることに異論ない。頭を下げると、部屋を出て、広い家を下女に案内されて進んだ。
供の待つ入り口へ向かう途中で、おい、と威圧的な声が香代を呼び止めた。
振り向くと、そこに立っているのはいつか四つ辻で絡んできた男だ。
香代の背に、ぞっ、と悪寒が走る。
(なぜこの人がここに……?)
自問して、察しがついた。この男が例の「与三郎」――今与一といわれる十和田家の三男なのだろう。
男は元から大きい小鼻を膨らませ、ふんと鼻を鳴らした。
つり上がった目が、値踏みするように香代を見下ろしている。
「芦原香代。……蓮本吉夜の妻になったそうだな」
威圧的な低い声。
香代は目だけであたりを見回したが、さっきまで前に立っていた下女は気づかぬうちに消えていた。
まるでこの男を見て隠れたようだ。
(なんてこと……)
家中の者が見て見ぬふり、というのはただの噂でもないらしい。
香代は恐怖に震えそうになるのを堪えてうつむいた。
「お前もたいそうな男を夫にしたもんだ」
香代に近づいて来た厚顔な男は、今にも香代に触れられる距離に立ち、低い声を落とした。
「妻になったのなら、知っているか? ――あいつは元々他藩の出だ」
初めて聞いたことに、香代ははっとした。
吉夜が江戸生まれ江戸育ちだとは聞いている。けれど藩士の中には、参勤交代のために江戸に詰めている者もいるから、吉夜はそういう家の産まれだろうと思いこんでいた。
男は香代の表情で、知らなかったことを察したらしい。小馬鹿にしたように笑った。
「なんだ。そんなことも知らされていないのか? それじゃあ、どうして他藩の人間が、我が藩の重役の後釜になるのかも知らんのだろうな」
男は唇を舌で湿らせ、ますます香代の耳元に口を寄せた。
生暖かい吐息が耳にかかり、気持ち悪さに身震いする。
「あいつはな――元の主家から家宝を盗んだんだよ。それが主家にばれて御家を追放され、江戸にいられなくなった。そのとき、ちょうど蓮本のじじいが参勤交代で江戸に行っていてな。あいつはそのお宝で、蓮本のじじいをたぶらかしたってわけだ……」
香代は眉を寄せ、男から離れるように身を退いた。男はくつくつと喉奥で笑う。
「なあ、香代。今ならまだ間に合うぞ。盗人の妻になどなりたくないだろう? あいつの代わりに、俺がお前をかわいがってやってもいい」
「お断りします」
香代ははっきりと断った。
確かに香代は、吉夜が蓮本家の養子になった理由を、詳しくは知らない。けれど吉夜が人から――それも主家からものを盗むなど、想像もできなかった。
男はふんと鼻を鳴らした。
「いつまでそう言っていられるだろうな? お前だって分かっているだろう。あれだけ女好きのする男が、わざわざお前を選んだ理由は何だ? 黙って夫の言うことを聞く女だと思われたか、訳ありげな年増に興味が湧いたか――どちらにしろ、いずれ飽きられれば、他の女に取って代わられるだけだろうよ。なんせ盗みはお手の物の男だ、どこぞの人妻だろうとも、美味いと聞けば手を出すかもしれんな……ははははは」
男は満足げに高笑いする。
あまりの侮辱に、香代は怒りのあまり顔が熱を持つのが分かった。
腰の横で握った拳が震える。言い返してやろうと息を吸ったとき、どこからか甲高い奇声が聞こえた。
はっと顔を上げた香代と同様、男はそちらを見遣り、小さく舌打ちする。
「……狐め」
呟いて、男はゆっくりと香代から離れた。
「気が変わったら、いつでも俺のところに来い。まだ初々しさが残ってるうちにな……使い古しだが、お前の肌が白いうちなら、我慢してやろう」
香代がもの言う間も与えず、男は足早に場を去った。
その背が見えなくなると、またどこからか先ほどの下女が現れ、頭を下げた。
「失礼いたしました。こちらへどうそ」
何事もなかったかのように、香代を玄関先まで案内する。
男への腹立ちとともに、どこかから聞こえた奇声に気味の悪さを感じながら、香代は十和田家を後にした。
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