6 / 39
【一】灯火
・
しおりを挟む
それからひと月後、香代は婚礼の日を迎えた。
養子縁組と婚礼、ふたつの許可を藩から得るまでに、ひと月とかからなかったことには兄の辰之介も驚いていた。普通なら四月はかかるところだというから、蓮本家の本気がうかがえる。
養子縁組が認められた後、嫁入り修行代わりに養家で過ごしていた香代は、養家が整えた嫁入り道具に息をのんだ。
家老を担う一族の婚礼に相応しい調度品の数々は、香代が見たこともないほど美しく、触れるのも恐れ多いものばかりだ。
実際の費用は蓮本家が持ったようだが、確かにこれを兄たちが用意できるとも思えない。蓮本家の配慮がありがたくも恐れ多く思えた。
形の上では養家と蓮本家との婚礼になるので、芦原家から参列を許されたのは兄の辰之介だけだ。
それでも参列が叶っただけありがたいと美弥は喜び、「香代ちゃんのこと、大切にしてくれそうね」と明るく送り出してくれた。
香代はといえば、準備が整うにつれ、一層気後れを感じるようになった。
芦原家と蓮本家では家格が違いすぎるのだ。
正直なところ、四月も待たされたら話を引き受ける勇気は起こらなかったかもしれない。蓮本家が婚礼を急いだのは香代の心変わりを防ぐためだったのでは、と妙な勘ぐりすらしてしまう。
それでも、その日は来てしまった。芦原家の五倍はあろうという敷地から、黒い紋付姿の養父母に続いて白無垢姿の香代が現れる。
通りに並んだ野次馬から、わあと感嘆の声が上がった。
「香代ちゃん、綺麗ね」
「元々綺麗な子だったけれど、やっぱり晴れ衣装となると別格だな」
道を歩く間にも、ひそやかな声が聞こえる。どれも香代を励ますような言葉だったが、香代は緊張のあまり、ほとんどその声が耳に入らなかった。
養家から蓮本家までの道を、いつ歩き終えたか分からない。気づけば、高砂に座っていた。
仲人の進行を経て、婚礼の儀が進んでいく。このときとばかりに贅を尽くした食事はほとんど何が出ているのか分からなかったし、三々九度では手が震え、盃を取り落としそうだった。
人々の視線が怖い。なにより、この場にいるのが味方ばかりとは限らないのだ。家格が違う婚姻を、快く思わない者は必ずいる。
そんな中で粗相でもしたら、きっと兄に心配をかけることになる。
それだけは避けたかった。
脂汗をかきながらも、どうにかとりおとさずに盃を返した。これで香代の番は終わりになる。ようやくひとごこちついて、夫となる人が受ける大盃を見つめた。
頭に被ったわた帽子のせいで、夫になる人の顔は見えない。見えるのは膝の上と前を行き来する手程度だ。
けれど、横に座った気配は、兄の言う通り落ち着いているようだった。
(この人が、わたしの夫になる……)
夫が大盃を返し、手を下げた。
膝上に軽く握られたその手が目に入ったとたん、香代の頭からさっと血の気が引いていく。
(あの手が――わたしに触れる)
自分よりも大きなその手に、力尽くで押さえつけるところを想像してしまった。
心臓がざらざらと嫌な音を立てる。嫌な記憶がちかちかと脳裏でまたたく。
男に触れられるだけでも嫌悪感を抱くのに、見知らぬ男と夫婦になどなれるのだろうか――
うつむいた視線の先で、自分の手が青白く震えている。
(大丈夫……もう大丈夫)
あれはもう十年も昔のこと。子どもだったからこそ、怖かっただけだ。
(大人になった今は、大丈夫――)
震える手を押さえ、自分に言い聞かせる香代の背中に、何かが優しく触れた。
顔を上げかけて、それが夫となる人の手だと気づく。
手はすぐに離れたが、香代の背中には温もりと、心強さが残っていた。
***
婚礼の儀を終え、夜着に着替えた香代は、寝所へと案内された。
「ここでしばらくお待ち下さい」
「……ありがとうございます」
戸を開けた部屋の中には、二枚の布団がぴったりと並んで敷かれている。
足を部屋に踏み入れたとき、あ、と声が出そうになった。
喉の奥で暴れていた心臓が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
部屋には香が焚きしめてあった。
甘さと爽やかさを感じる匂いは、沈香寺の焼香と似ているが、それよりもっと優雅で柔らかだ。
ほっと息をついて、自然と膝の力が抜けた。
布団の横に腰を降ろす。
鼻腔から息を吸い、口から吐き出す。
婚礼が決まってからというもの、寺には一度挨拶に行ったきりだ。渇きを満たすように、香りを吸う。吸い込んだ香りが、香代の中に溶け込んでいく気がした。
繰り返すうち、身体に入っていた力が抜けた。
婚礼が決まってからのひと月、不安ばかり感じていた香代の頭に、大丈夫かもしれない、という想いが浮かんだ。
(こんなにいい香りを……初夜のとばりに選んでくれる人なら、大丈夫かもしれない)
一日中気を張っていたからか、香代は座ったままほうっと気を抜いていた。
近づいてきていた足音に気づかず、戸に手をかける気配に、はっと背筋を伸ばした。
「入る」
声が聞こえ、慌てて三つ指をついて頭を下げる。
戸が開き、男がひとり入ってきた。前に座ったところで、香代は口を開く。
「香代と申します。不束者ですが、これから末永く蓮本家のために……」
「そういうのぁ、いいよ」
口上の途中でかけられた声は、話し方といい聞き覚えがある。
――まさか。
「顔を上げろ。そのままじゃ話しにくい」
香代はおずおずと顔を上げる。優しく細められた目を見て、あ、と震える声を出した。
「……あなたが、蓮本さまの……」
「吉夜だ」
目の前にあぐらをかいて微笑んでいるのは、沈香寺で庭師と言った、あの男だった。
養子縁組と婚礼、ふたつの許可を藩から得るまでに、ひと月とかからなかったことには兄の辰之介も驚いていた。普通なら四月はかかるところだというから、蓮本家の本気がうかがえる。
養子縁組が認められた後、嫁入り修行代わりに養家で過ごしていた香代は、養家が整えた嫁入り道具に息をのんだ。
家老を担う一族の婚礼に相応しい調度品の数々は、香代が見たこともないほど美しく、触れるのも恐れ多いものばかりだ。
実際の費用は蓮本家が持ったようだが、確かにこれを兄たちが用意できるとも思えない。蓮本家の配慮がありがたくも恐れ多く思えた。
形の上では養家と蓮本家との婚礼になるので、芦原家から参列を許されたのは兄の辰之介だけだ。
それでも参列が叶っただけありがたいと美弥は喜び、「香代ちゃんのこと、大切にしてくれそうね」と明るく送り出してくれた。
香代はといえば、準備が整うにつれ、一層気後れを感じるようになった。
芦原家と蓮本家では家格が違いすぎるのだ。
正直なところ、四月も待たされたら話を引き受ける勇気は起こらなかったかもしれない。蓮本家が婚礼を急いだのは香代の心変わりを防ぐためだったのでは、と妙な勘ぐりすらしてしまう。
それでも、その日は来てしまった。芦原家の五倍はあろうという敷地から、黒い紋付姿の養父母に続いて白無垢姿の香代が現れる。
通りに並んだ野次馬から、わあと感嘆の声が上がった。
「香代ちゃん、綺麗ね」
「元々綺麗な子だったけれど、やっぱり晴れ衣装となると別格だな」
道を歩く間にも、ひそやかな声が聞こえる。どれも香代を励ますような言葉だったが、香代は緊張のあまり、ほとんどその声が耳に入らなかった。
養家から蓮本家までの道を、いつ歩き終えたか分からない。気づけば、高砂に座っていた。
仲人の進行を経て、婚礼の儀が進んでいく。このときとばかりに贅を尽くした食事はほとんど何が出ているのか分からなかったし、三々九度では手が震え、盃を取り落としそうだった。
人々の視線が怖い。なにより、この場にいるのが味方ばかりとは限らないのだ。家格が違う婚姻を、快く思わない者は必ずいる。
そんな中で粗相でもしたら、きっと兄に心配をかけることになる。
それだけは避けたかった。
脂汗をかきながらも、どうにかとりおとさずに盃を返した。これで香代の番は終わりになる。ようやくひとごこちついて、夫となる人が受ける大盃を見つめた。
頭に被ったわた帽子のせいで、夫になる人の顔は見えない。見えるのは膝の上と前を行き来する手程度だ。
けれど、横に座った気配は、兄の言う通り落ち着いているようだった。
(この人が、わたしの夫になる……)
夫が大盃を返し、手を下げた。
膝上に軽く握られたその手が目に入ったとたん、香代の頭からさっと血の気が引いていく。
(あの手が――わたしに触れる)
自分よりも大きなその手に、力尽くで押さえつけるところを想像してしまった。
心臓がざらざらと嫌な音を立てる。嫌な記憶がちかちかと脳裏でまたたく。
男に触れられるだけでも嫌悪感を抱くのに、見知らぬ男と夫婦になどなれるのだろうか――
うつむいた視線の先で、自分の手が青白く震えている。
(大丈夫……もう大丈夫)
あれはもう十年も昔のこと。子どもだったからこそ、怖かっただけだ。
(大人になった今は、大丈夫――)
震える手を押さえ、自分に言い聞かせる香代の背中に、何かが優しく触れた。
顔を上げかけて、それが夫となる人の手だと気づく。
手はすぐに離れたが、香代の背中には温もりと、心強さが残っていた。
***
婚礼の儀を終え、夜着に着替えた香代は、寝所へと案内された。
「ここでしばらくお待ち下さい」
「……ありがとうございます」
戸を開けた部屋の中には、二枚の布団がぴったりと並んで敷かれている。
足を部屋に踏み入れたとき、あ、と声が出そうになった。
喉の奥で暴れていた心臓が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
部屋には香が焚きしめてあった。
甘さと爽やかさを感じる匂いは、沈香寺の焼香と似ているが、それよりもっと優雅で柔らかだ。
ほっと息をついて、自然と膝の力が抜けた。
布団の横に腰を降ろす。
鼻腔から息を吸い、口から吐き出す。
婚礼が決まってからというもの、寺には一度挨拶に行ったきりだ。渇きを満たすように、香りを吸う。吸い込んだ香りが、香代の中に溶け込んでいく気がした。
繰り返すうち、身体に入っていた力が抜けた。
婚礼が決まってからのひと月、不安ばかり感じていた香代の頭に、大丈夫かもしれない、という想いが浮かんだ。
(こんなにいい香りを……初夜のとばりに選んでくれる人なら、大丈夫かもしれない)
一日中気を張っていたからか、香代は座ったままほうっと気を抜いていた。
近づいてきていた足音に気づかず、戸に手をかける気配に、はっと背筋を伸ばした。
「入る」
声が聞こえ、慌てて三つ指をついて頭を下げる。
戸が開き、男がひとり入ってきた。前に座ったところで、香代は口を開く。
「香代と申します。不束者ですが、これから末永く蓮本家のために……」
「そういうのぁ、いいよ」
口上の途中でかけられた声は、話し方といい聞き覚えがある。
――まさか。
「顔を上げろ。そのままじゃ話しにくい」
香代はおずおずと顔を上げる。優しく細められた目を見て、あ、と震える声を出した。
「……あなたが、蓮本さまの……」
「吉夜だ」
目の前にあぐらをかいて微笑んでいるのは、沈香寺で庭師と言った、あの男だった。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
プール終わり、自分のバッグにクラスメイトのパンツが入っていたらどうする?
九拾七
青春
プールの授業が午前中のときは水着を着こんでいく。
で、パンツを持っていくのを忘れる。
というのはよくある笑い話。
女豹の恩讐『死闘!兄と妹。禁断のシュートマッチ』
コバひろ
大衆娯楽
前作 “雌蛇の罠『異性異種格闘技戦』男と女、宿命のシュートマッチ”
(全20話)の続編。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/329235482/129667563/episode/6150211
男子キックボクサーを倒したNOZOMIのその後は?
そんな女子格闘家NOZOMIに敗れ命まで落とした父の仇を討つべく、兄と娘の青春、家族愛。
格闘技を通して、ジェンダーフリー、ジェンダーレスとは?を描きたいと思います。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる