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第参章 散りぬるを

2話 菖蒲の願い

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客を送り出してしまえば遊女達の短い就寝時間となる。
椿は周囲を見渡して誰もいないのを確認すると菖蒲の部屋の前で声を掛ける。

「菖蒲姐さん、椿でありんす」

すると襖の中から返事が聞こえ椿は滑り込むように菖蒲の部屋に入り襖を閉めた。

「こんな明け方に呼び付けるなんどなんしんした?」
「あぁ椿、おはよう。眠たいだろうから単刀直入に話そうかね」

菖蒲は余り廓言葉を使わない。そもそもが町娘だったから言葉に気を付けなくても郷の出を悟られる心配もなく、廓言葉を覚える前に突き出しとなったからだ。
たまに使う廓言葉の方が珍しいくらいだ。

「あんたに頼みたいことがあるんだ」

そう言って菖蒲が椿の耳元にまた口を寄せると、ふわりと菖蒲の香水が香って雅な気持ちになる。
女の椿から見てもきっと菖蒲は色気が溢れているのだろう。

「菖蒲姐さんがわっちに頼みごとなん、今日は嵐でも来るのでありんすか?」

菖蒲は牡丹を好敵手としてみているから当然と言えばそうなのだろう、椿も敵だ。
女郎は男の奪い合いだ。それ故に牡丹と菖蒲が仲良く話している所を椿は見たことがない。

その椿に頼みごととは、椿の眉間に変な皺が寄るのも仕方ないだろう。

「いや椿、あんたはあたしを一体どう思っているんだい」

天変地異を引き起こすと言われてはさすがの菖蒲も渋い顔をする。そんな菖蒲に椿は軽やかに笑いながら言う。

「おきちゃの精気を喰らい、弁天様が如く美しくなる妖怪やと思っとりゃんす」
「妖怪って……。突き出しからこっち、人気が上がってきたからと調子に乗って来てるんじゃないかい? 言いたい放題ずけずけと、全く」

そう言いながらも菖蒲は

「まぁ、そこも椿の魅力の一つだね」

と微笑む。

「そんで? 頼みごととはなんでありんすか? わっちに出来ることなら何でも言っておくんなまし」

にこにこと愛くるしい笑顔を振り撒きながら聞く椿に菖蒲は少し言い淀んだ。
これから話すことは余り褒められた内容ではない。

———少なくともこの笑顔が歪むくらいには外聞の良くない話なのだ。

「椿は牡丹に次いでこの見世に気に入られていて信用がありんすなぁ? お父さんもお母さんも椿のすることは大目にみてるだろ?」

誉められて頬を染めるのはまだまだおぼこいのだ、何と可愛らしいことだろう。

「菖蒲姐さんの買い被りでありんす。わっちでは牡丹姐さんには敵いんせん。お父さんやお母さんへの頼みごとなら牡丹姐さんに頼んだ方がいいと思いんす」
 
不意に菖蒲の顔が厳しく変貌する。

「椿、牡丹には絶対に言うんじゃないよ」
 
表情の変貌と共に厳しく言い連ねられて椿はびくりと肩を震わせる。

「あたしには惚れた男がいるんだよ」
「菖蒲姐さんくらいになれば間夫がいるのは当たり前でありんす。牡丹姐さんが間夫を作らないのが不思議なくらいでありんすぇ?」
 
間夫飼いは褒められた行為ではないが、それでも

「間夫がいなけりゃ女郎は闇ばかり」

などと言われたりする。
溺れるのは良くないが息抜き程度に付き合う男がいて、その後仕事が潤滑に行くのであれば楼閣も大目に見る。
特に高位の遊女などは気を張り詰めることも多く複数人の間夫を持つことも少なくない。
椿は菖蒲の話の矛先がどこに向かっているのかいまいち判らないまま話を聞く。

「あたしの間夫は、勘八ってんだ。あたしと所帯を持ちたいと言ってくれたのさ」

ぱっと弾けるように顔をあげる。

「身請けの話が出たのでありんすか? いい人から? そんな幸せな話が……」
「足抜けをするんだよ」

椿の言葉を打ち切るように菖蒲は告げた。

しばらくその意味を理解できないでいる椿は口の中で数度菖蒲が言った

「足抜け」

という言葉を繰り返していた。
菖蒲が予想した通り椿の愛くるしい顔は血の気を失ってだんだんと青褪めて強張っていく。

「十七の頃から客を取り続けてきたけど、あたしには払いきれない程の借金がある。賭場で作った親父の負け金二十両、情夫の詐欺に騙された母親に請求された十五両、年の離れた酒飲みの兄貴が妓買いで請求された十両、そしてあたしが女衒から買い取られた十両。合わせて五十五両。けど妓楼が利子も付けずに元金だけ払えばいいなんて甘ったれたことなんざ言わないし」

菖蒲の借金の額が多額なのは判る。だがそれはどの女郎だって同じだ。菖蒲だけが背負っている訳ではない。

「どんなにあたしが頑張ったって年季が明けることなんてないのさ」

それは違う。
年季奉公は幕府が定めた制度だ。
いつか年季が明けるという希望を絶っては何のための苦界なのだろう。

椿の頭は菖蒲の算段を聞いてぐるぐると巡る。

「それに、若山に売られたことを知ってる兄貴がさ、金の工面をしてくれってしつこいんだよね。お前の借金を返すためにあたしが売られたんだって言ったって、酔っぱらいにゃ通じない。呆れた話だよね、妹売っぱらってまぁだ岡場所で妓を買うなんてさ」
 
親家族が売られた先を知って、金をせびりに来るという話もよく聞く話だ。
確かに鬱陶しいかもしれないが逃げる前にどうして楼主の忍虎に相談しないのか、女将の律に頼まないのか。
遊郭から逃げる前にもっと大切なことがあるではないか。

「だから、足抜けをする」
「お父さんとお母さんはどうしんすか? 菖蒲姐さんがいなくなったら悲しむでありんす」
 
華屋の楼主と女将はどの見世よりも妓を大切にすることで有名だ。
それ故に妓達も精を出して働く。禄でもない忘八の巣窟ではない。
それを蔑ろにして逃げるとは、椿にとって考えも及ばない不幸者だ。

「夢を……、見ちまったんだよ。好いた人と所帯を持って幸せに暮らす夢を」

夢は夢だ。そして足抜けは犯罪だ。

「年季も明けないままに大門を潜ることは、わっちら廓のおなごには許されておりんせん」

その程度の常識を菖蒲が知らぬ筈もない。けれど、言わずにいられなかった。

「大罪だということくらい知っているさ。だからあたしと勘八は大門を抜けたら、京の都までそのまま逃げるのさ」

言っても仕方のないことだとはなんとなく椿には判っていた。
人を想うが故に盲目的になっている者は時に予想も付かない行動をする。

「……菖蒲姐さん。わっちにできることはありんせん」

肩を落とす椿に菖蒲は膝を詰めてまた耳元に口を寄せる。

「京の都まで旅の金が要る。これから所帯を持つならその金も要る。だから、椿には見世の売り上げをちぃとばかり持って来て欲しいのさ」

がつんと大きな金槌で後頭部を殴られた様な感覚に陥り思わず椿はぐら付いた。

「わっちに……、見世の売り上げに手を付けろと言うのでありんすか!」

秘密の話だと判っていても悲鳴のような金切り声が出てしまった。

「しっ、椿、声が高い」

と菖蒲は椿の口を掌で塞ぐ。

「おんしならお父さんとお母さんを晩酌にでも誘って酔い潰れさせたら、簡単に持ってこられるだろう? なんなら酔わせて売り上げの場所を聞き出すだけでもいい」

駄目だ。今の菖蒲には何を言ってもおそらく通じることはないだろう。それでもこんな件に肩入れはできない。

「断りんす」

と短く呟く椿に尚も菖蒲は食い下がる。

「おんししか頼めるおなごがおらん。売り上げがだめなら、牡丹の所からでもいい。牡丹は幼い頃からの廓仕込みだ。手元に千両くらいは貯め込んでるだろう?」

膝を詰めた菖蒲を椿は突き飛ばした。

「断りんす! 菖蒲姐さんはどうかしているのでありんす。目を覚ましてくんなまし」
「椿は、あたしが幸せになるのに反対なのかい?」
「幸せになれるとは思いんせん。切手もないままに大門を抜けるんも、盗みを働くんも大罪でありんす。見付かれば菖蒲姐さんもいい人も手打ちになりんすぇ?」
 
どう伝えたら判って貰えるのか、椿は言葉を探す。

「覚悟の上さ」
 
すぅっと体からさらに体温が下がるのを感じる。
どれ程の言葉をあてがった所で菖蒲には通じない。
もう、心は逃げた先に行ってしまっているのだ。菖蒲の決心の強さに椿は酷く消沈してしょげかえったまま立ち上がる。

限りなく体がだるい。あぁきっと眠気もあるのだろう。
そう思いながらのろのろと緩慢な動作で襖を開けて廊下に滑り出る。

「この話は終いにしんしょう」

そう伝えて椿はぴしゃりと襖を閉じた。
部屋に戻った椿は布団の中に滑り込む。柔らかい三段重ねの布団に掛けた掛布の心地よい絹の感触と体が沈みこむ感覚。

だが、なぜか上手く眠りにつくことが出来なかった。
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