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第参章 散りぬるを

1話 菖蒲

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息をすると過剰な湿気が喉に入り込んで思わず咽返るかと思う梅雨入りの朝。
空は今にも雨を落しそうな曇天で、陽の光は完全に閉ざされており夜も明けているだろうに外は薄暗い。
 
天気が悪いと気分も滅入りそうなものだが華屋の朝は騒がしい。

明け六つの鐘が控えめに鳴って半刻もすると、若山随一の大見世楼閣華屋の玄関先は帰る客と見送る妓とでてんやわんやだ。
若衆が帰る客の草履を玄関に並べそれぞれの客の名前を呼んで

「こちらでございます」

と声を掛けて誘導する。
まだ夢から覚め切らぬ客の背にそっと手をあてがい

「もう帰っておしまいに?」

と耳元で囁く。
そんな女郎に後ろ髪を引かれながら草履を履いて

「また来る」

と告げる。

「待っておりんす」

そう言って客の姿が消えると途端に妓は仏頂面を晒す。

「さっさと帰れっての」
「梅雨ってだけでも鬱陶しいのに帰るのが惜しいとかぐだぐだと」

苛々した様子で吐き棄てる妓に別の妓が声を掛ける。

「ちょっとあんた、他の客だっているんだから部屋に帰ってからにしてくれないかい」

女郎の裏の顔など客に見せる物ではないから、余り軽率なことを言うのはやはり好ましくない。

「熊谷様、お履き物はこちらでござんす」

ざわついた廊下に凛とした涼やかな声が響く。

今年突き出しを終え、花魁となった椿はようやく仕事に少しこなれて来て、連日馴染みが重なることが多い。
だが、どの客もまだ甲乙を付けるのは好ましくないと大門への見送りは一度もしていない。
女将である律が

「まだ大門は早いねぇ」

と言って許可を出さないのである。

牡丹に次ぐ次代お職の肩書きを持つ椿の声が聞こえると、大抵の客はそちらを振り返るが、己の敵娼からぎろりと睨まれそっぽを向く有様だ。

「お履き物は要らないと」

そう言って草履を隠され慌てる客もいる。
楼閣では客の草履は登楼後に玄関に据え付けられている下駄箱に鍵付きで仕舞われる。
女に無様を働いて逃げ帰るのを阻止するためとも、払いから逃げるのを阻止するためとも言われているが、一番は玄関が客の履物だらけになるのを避けるためだろう。

「ちょいと道を開けておくれよ」

そう言って馴染み客の逢妻屋を大門まで見送る為に、羽織を羽織った菖蒲が階段から降りて来る。

「わっちの草履は?」

と近場の若衆に声を掛けると慌てて菖蒲の草履を出す。

菖蒲は花魁ではないが華屋正味二位の遊女だ。
華屋の牡丹を凌駕する美貌を持っていると言われる美しさで夢を売る。
 
だが、

美貌は自他ともに認め頂点を飾るのにふさわしいが、若山に売られて来た時の菖蒲は既に十五歳、花魁となるにあたっての教育期間を設けるには年嵩が行き過ぎていたのだ。そして何よりの問題は、既に夫婦となる予定の男がおり、その美貌で町でもかなり沢山の男から妻問され、数人と契りがあったため生娘ではなかった。

花魁とは、遊女の格付けのうち中高位の名称だ。
美貌、所作、教養、芸事、学識やその他諸々の才覚は当然必要とされ、幼少期より姐花魁について奉公しながら仕事を学ばねばならない。

当然通常の遊女とは区別され、既に揚げ代が違う。
現在若山遊郭では三軒の見世が大見世の格付けを赦されている。大見世の一番高位に立つ花魁に、お職としての肩書きがあり、揚げ代は島原の呼出昼三と同じく、昼三分、夜はその二倍の一両二分かかる。それ以下、お職候補と言われる次代は昼二分夜一両だ。それ以下の花魁は昼一分夜二分となる。

だが菖蒲はその美しさと褥の技芸の高さが噂になり注目された。
連日馴染み客が重なり、揚げ代を徐々に上乗せしていったがそれでも途絶えぬ客層に、現在は昼二分二朱夜一両一分という揚げ代になった。

文字通り叩き上げの遊女だが、稼ぐ金が大きく華屋では菖蒲の年嵩がいっていたこと、生娘でなかったことが常々話題に上がっては悔まれていた。

花魁だったならば今頃は……、と何度聞いただろう。

しかしそんな言葉はお構いなしだ。菖蒲は今うなぎのぼりに稼ぐ遊女でその自負が菖蒲の矜持で生き抜く活力となっているのだ。
そして教育こそ行き届いているとは言わないが、菖蒲は牡丹と同じ前代の藤お職に育てられ、共に突き出しを迎えた妓だ。八文字さえ踏めたなら菖蒲は道中で今以上に売れっ妓になっただろう。

菖蒲は正味二位の誇りで周囲に道を開けさせ、椿の耳元にそっと囁く。

「あとであたしの部屋に来な」

一瞬きょとんとした表情で菖蒲を見るが、耳元近くで誰にも聞こえないように言ったのならばそれを聞き返すような愚かな真似はしない。

椿は菖蒲ににこりと微笑んだ。
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