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第弐章

むれなす蝶に染められし

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青鈍色と群青の雲の隙間から淡青の空がちらほらと覗き、陽の光を受けてまばゆく輝く白い雲が一筋の光を添えて美しく彩る。昨夜降った雨の雫がぽつりと水溜りに映る景色を歪ませて波紋を作る。

「商人の仕事は良く判らぬが、任侠とは武家だけの話ではないのじゃな」

竜胆の元に食膳を運び、ともに食事を摂る涼之丞は魚をほぐすのに箸を捩って苦労しながら身を取り出している。
その様子を眺めながら竜胆は、涼之丞から箸を借り受けると真ん中の骨をスッと箸でなぞり、ぱくりと身を割り、骨をこそげて取ると、食べやすい大きさに纏めて箸を返す。

「一説法は因縁相成り、と母の日記に記されておりんした。任侠もありんしょうが、人と人の因果は応報に巡るもんでありんす」
「因果応報というやつじゃな? ……そなた魚の骨抜きが上手いものじゃな」

魚を口に放り込み白米を口に入れると、美味そうに涼之丞は頬張る。

「食膳のおかずを殿方のお口に運んで差し上げるのも、仕事として必要でありんすから。遊女は、家事は出来ねど魚と男の骨をぬくがやんごとなし、と言いんす」
「竜胆は、母君をあまり覚えておらぬのじゃったな」

食膳のおかずを竜胆も箸でつつきながら、口には運ばない。
眠っている時よりは幾分か顔色も明るくはなったが、未だに頼りなさが残る少女は儚く、食事もままならないのだろう。
ふともすると零れそうになる涙を竜胆は空を見上げては堪える。

「そんでも、新之助様が父のことを話してくれんすから、蓮太郎から聞いた母の話と合わせて考えると、やっぱり母はわっちの理想の女性でありんす」
「そうじゃな。主の言う通り素晴らしいおなごじゃと思うぞ」
「少し聞いたくらいで母のことを判った気になりんすな」

同意を示して竜胆の心の慰めとなればと思って発した言葉に竜胆はキッと涼之丞を睨み付けて反抗する。
何とも扱いづらい娘だというのに、全て赦せてしまうのはこの美しさがあるからだろうか?

ふんふんと小さな鼻を鳴らしながら先程までつつくだけだった食事を口に運び始める。
この娘に食事をさせるには多少怒らせておいた方がいいのかもしれない、と涼之丞の心によからぬ思いが湧く。

「けど、その仲ノ町とやらがどのくらい広いのか判らぬが、町の者皆の嘲笑を買う程に恥ずかしい思いをして、翌日には立ち直るなどそうは出来ぬことゆえ。ワシならば切腹お許し下さいと父上に申し立てるかもしれぬ」
「それは弱すぎでありんす」
 
もぐもぐと魚を口に運びながらしばらく食事を摂っていた竜胆が急に顰め面を晒す。

「やっぱり青魚は苦手じゃ」
 
骨を抜くのは鮮やか過ぎる手付きだというのに、当の本人は魚が嫌いという。面白い一面があるものだ。

「その、松川屋という呉服屋の話はワシも父から聞いたことがある。幼い頃の着物などは全て松川屋の仕立てだというし、母上の着物も沢山あるから我が家は余程懇意にしていたのではないかと思う」
「わっちは蓮太郎から聞いた、母が突き出しの時に怖い怖いと布団部屋で泣いていたなんて知りんせんかったから、長らく蓮太郎の法螺話ではないかと疑っておりんした」
「確かに、そんなに気丈な人が泣きぬれて初見世というのは考えにくいの」

ふむ、と頷いて涼之丞は「何か衝撃的なことがあったのではないか」という。

「当時の先達、蘭花魁の褥を覗いたとかなんとか」

蘭は楼閣の中でもひときわ激しく、楼閣中に響き渡る程の喘ぎ声を挙げて、客の相手をしたというから、おそらくそれが獣の咆哮に聞こえたか、もしくはその声が辛く泣き声に近いかと言った所であろうが竜胆は褥を未だ知らぬからそれを涼之丞に伝えようとして、ハッとすると頬に朱を走らせて俯く。

遊郭ではそんな会話恥ずかしく思ったことがないというのに、一度町の外に出て考えてみるとなんとはしたない会話が日常に溢れていたものかと思う。

「覗いて……?」

と続きをせがむ涼之丞に竜胆は俯いたまま

「何でもありんせん」

と呟く。

「それでも立ち直って己の使命を果たすならば、やはり竜胆はその人の娘なのじゃろうと改めて実感する」

阿部の城にいても遜色のない竜胆の姿は、どこか気品に満ちていて凛と咲く華のように強く美しい。

「もし、生きていたのならワシも会ってみたかった」

生きていたのなら、こんな寂しさに包まれて生きることもなかっただろうか?
面影すら覚えのない竜胆にはその予想図が浮かばない。

母は優しく名を呼んでくれただろうか。抱き締めてくれただろうか。
幼過ぎて消えた記憶を、どうにかして手繰り寄せようと試みても一向に思い出されない。

昼下がり、群青の雲はその様相を変えてゆっくりと動いている。
母を想い慕う蓮太郎が傍にいなければこうして思い出すこともなかったのかもしれない。
けれどそうであればなどとは思わない。何ゆえか辛くても苦しくても母を慕う気持ちは棄てたくはなかった。

流れゆく雲に想い馳せ、竜胆の頬に一筋の涙が伝う。
 
涼之丞は、いつかこの涙を自分が拭えるようになりたいと、そう願った。
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