花魁道中いろは唄

白鷹 / ルイは鷹を呼ぶ

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第壱章 色は匂へど

15話 陰謀の全貌

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桔梗が慌ただしく台所を駆け抜け、料理長や料理番に蓮太郎の居場所を聞いて回るものだから、何事かと女将……、律と忍虎が駆け寄る。
広い楼閣を駆け回って息が上がった桔梗から事の顛末を聞いて律が蒼白になる。

「椿が、生娘じゃない? だって?」

ふらりと倒れ込みそうになる律を忍虎が後ろから支える。
忍虎は押し黙ったまま武骨な手で己の顎を撫でている。

「ですから、蓮太郎さんを牡丹姐さんのお部屋に連れて行かないとなりんせん」
「蓮太郎が行ってどうにかなる問題じゃないだろう? まさか椿がそんな」

忍虎は未だ口を引き結んだまま何も言わない。

「忍虎、ひとまず牡丹の部屋に行って松川屋様にお詫びを申し上げないと」
「いや待ってくれないか、お律っちゃん」
「待てって一刻の猶予もないだろう。なに暢気に構えてんだよ」

忍虎の頭にあるのは、夕方仕置き部屋に押し込める前の蓮太郎の様子だ。
何か策を弄していたのならとんでもない役者っぷりだ、ある意味才能に溢れている。
だが、蓮太郎は赤子の頃から育てた息子のような存在だ。忍虎にしてみれば蓮太郎を疑う余地はない。
ここで楼主である自分と花車である律が事態を詫びれば罪を認めたことになってしまうのだ。事実確認などするまでもないが、客に詫びを入れるなど若山一の大見世としてあってはならない。

「蓮太郎を行かせて様子見させてくんねぇか」
「忍虎?」
 
忍虎が仕置き部屋の引き戸を開けると、蓮太郎は酷くうなだれていた。
色々悩んだり考え込んで悔し涙も流したのだろう。
頬には幾筋も涙の跡があり、まだ乾き切ってもいない。灯かりが差し込んで蓮太郎の目に忍虎の姿が映る。

「楼主……、もう終わったんですか?」

そう問いかける蓮太郎に忍虎は初見世前に行って聞かせた言葉をもう一度繰り返す。

「命懸けで惚れた女を守るってぇ意味、判るな?」

忍虎の言葉に真意を測り損ねて蓮太郎が眉間に皺を寄せる。

「今この華屋は窮地に立たされてる。蓮太郎、お前ぇ解決して来い」

忍虎は手足と体を括り付けていた縄を解くと

「椿の部屋に行け」

という。

忍虎の深く考え込んだ様子、律の青褪めた顔、牡丹花魁の妹新造の慌てた様子を見るに、ただごとではない。

「窮地……、華屋が? 解決? 命懸けで守る」

忍虎の言った言葉を反芻して考え込む。

「忍虎、蓮太郎に解決できることじゃないだろう? あんたがどれだけ手塩にかけて育てたって言ったって一介の若衆なんだよ、蓮太郎は」
「だからこそだ。蓮太郎、お前ぇが親不孝でないと証明して来い。俺にお前を殺させるような真似をするんじゃねぇ」
「……わかり、ました」

忍虎は普段昼行燈のように掴み処のない男だ。だが根本的に堅実で真面目なのだ。
こんな物騒な言葉が羅列する様な状況とは。覚悟を決めて蓮太郎は椿の部屋へ向かった。

椿の部屋に近付くにつれ、松川屋惣一郎の怒声と牡丹の厳しい声が入り乱れて聞こえて来る。
心なしか椿の声が響き、おそらく泣いていることが判る。

襖の前に片膝を付くと

「牡丹花魁、蓮太郎参りました」

と声を掛けて襖を開ける。
最後まで襖を開け切らない蓮太郎に、牡丹の叱責が降りかかった。

「蓮太郎、おんしこれがどういう状況か判るかい?」
 
牡丹の言葉を聞くまでもなく、部屋の様子をしっかりと確認する。それは幼い頃から忍虎に叩き込まれ続けた癖だ。

人の言葉は真実を告げるが状況は事実を告げる。惑わされるな、蓮太郎。

牡丹の前に険しい顔付きで胡坐を掻いて座る惣一郎。その惣一郎に両手を付いている牡丹。
開け放たれた寝間の奥に髪も襦袢の裾も乱れた椿は大粒の涙を流し続けている。

赤い寝具に行灯の光が照らし出されてそこにある赤い染み、そして寝具の横に落ちている赤いどろりとした液体を垂れ流す小さな皮の小袋。
小袋を見て、再度布団に所在なく座り込んでなく椿の顔を見る。一瞬視線が絡み合ったが、椿は蓮太郎から視線を逸らす。
軽く息を吸い込んで、なるべく内包した怒りを悟られないように蓮太郎は牡丹に告げる。

「状況から察するに、椿花魁が生娘ではないと嫌疑をかけられているのでしょうか。そして、俺が呼ばれたということは、椿花魁の破瓜の相手が俺だと」
「賢い子だと油断したわっちが愚かでありんした。まさか、蓮太郎がこんな思い切った真似をするとは思ってはおりんせんでした」

どくん、と腹の内で何かがうねる。
椿にこんな酷い涙を流させた松川屋惣一郎に対して、芽生えた怒りの渦がどす黒い霧となり、体中に蜷局を巻いて駆け巡る。

———殺したい。

今すぐにでもその喉を掻っ切って血飛沫をあげて畳に這いつくばらせたい。
椿を己の情欲で貫いておきながら言い掛かりを付けて貶めようとするその厚顔無恥な態度を後悔しながら死ねばいい。
だがそれでは何の解決にもならない。
忍虎が言った「命懸けで守る」というのは己の潔白よりも椿の潔白を証明しろということなのだ。
忍虎はこの話を聞いても決して椿を疑ったりせずに蓮太郎も信じた。

「濡れ衣です」
「今更濡れ衣などと寝ぼけたことを言うんじゃありんせん。椿とあんたが心を交わしていたことくらい知っておりんす」
「濡れ衣は濡れ衣。俺は椿花魁と枕を交わしたりはしておりません」
「惣一郎様、椿が生娘でないのなら、この若衆が相手でありんす。お好きにご処断なさってくんなまし」
「信じて戴けなかったとしても俺の潔白は変わりません」
 
すぅっと蓮太郎の脳裏から牡丹に対する尊敬の念が薄れて行く。自ら育てた妹を疑い、安直に惣一郎を信じた。
 
「姐さんお願い……、お願い。信じて……」

蓮太郎を巻き込んでしまった罪悪感で椿は蓮太郎の顔を見ることが出来ないのだろう。布団に付いた手を握り締めながら、止める術のない涙で布団に大粒の涙を重ね続ける。
 
どうしてこれ程訴えかける妹の言葉を無碍にするのか。

「さっきから聞いていれば、処断だの詫びだのと体裁取り繕うことばっかり、のべつ幕無しに言ってんじゃあねぇよ。岡っ引きでもあるめぇに、なんで俺がこいつを処断なんざしなきゃならねぇんだ」
「それでは惣一郎様の気が治りませんでしょう」
「ああ、おさまらねぇな。詐欺にあったんだからよ」
「では、わっちが小指を落とせばご納得いただけしゃんすか」

指を落とす。

その言葉に蓮太郎と椿の声が重なって牡丹を諫める。
遊郭には新粉の指などという物があり、客の男を惚れさせるため、身体に刺青を彫ったり小指を落して渡したりする。
または指を落して渡すというのは詫び入れの際にも使われる。それ故の牡丹の覚悟だったのかもしれない。

だが、惣一郎は牡丹の指を落とす覚悟に少し驚いた様子だった。
蓮太郎はその様子も注意深く見ていた。惣一郎は牡丹の強い視線から目を逸らして狼狽を隠す。

「別にそんなもの貰ってどうしろってんだ。俺ぁ別に詫びなんざいらねぇよ。ただ、若山での華屋の評判が落ちるってぇだけだな」

牡丹が一番恐れるもの、華屋の評判が落ちるということなのだ。
それを抑えることが出来るのなら幾らでも詫びるし、多額の借金を背負うことになろうとも、己の身一つで済むことならば指も落とす。お職として、それだけは絶対にあってはならなかった。

「どんぞ、それだけはご容赦を」

もう一度牡丹は畳に付いた両手に、頭も付ける。どの様な方法であったとしても、この醜聞を納められるのなら甘んじて受け入れる所存だった。
だが惣一郎は一歩も引かない。

「本当のことを言うだけさ。華屋の初見世は信じちゃあいけねぇってよ。別嬪揃いなのをかさにきて、生娘でもねぇ女を初見世として突き出して花代をぼったくるってぇよ。なぁ、椿も大変だったなぁ? 痛くもねぇのに生娘の振りして、鶏の血をいつ出すか困ったろ」
 
椿の褥での行為すら鼻でせせら笑う。

「そんなこと……」
 
痛みと羞恥と情けなさで消え入りそうな声で椿は否定する。
だが、蓮太郎は惣一郎の口から出た言葉を聞き逃さなかった。

「騙るに落ちましたね、惣一郎様」

牡丹と椿はことの成り行きをただ見守っているだけだと思っていた蓮太郎の介入に驚く。

「なんて……? 蓮太郎」
 
射殺す程の視線で惣一郎を睨み付けながら蓮太郎は更に言う。

「騙るに落ちた、と」
「なんだって?」
「布団に染みた破瓜の血。それがどうして鶏の血だと言い切るのでしょう」

初めて見失っていた事実に「あ」と牡丹が顔をあげる。

「山鳩の血かもしれませんし、魚の血かもしれません。もしくは紅花の染料ということもあるでしょう。鶏の血を使って騙すなどと、そう言い切ったのはなぜですか」

ようやく見つけた綻びを逃す積もりなど毛頭ない。蓮太郎は矢継ぎ早に惣一郎へと投げ掛ける。

「蓮太郎、語気が強い。抑えるのでありんす」

問題事が起こっているとはいえ惣一郎は客だ。それを見世の若衆が押さえつける様な真似をしては牡丹の面目が立たない。
だが蓮太郎は牡丹の言葉など洟はなから聞く積もりなどない。
妹を、椿を疑ったという事実が蓮太郎の信頼を著しく欠いた。今後の信用も回復するのは難しい程に。

「語気が強い? こんな画策、本来なら妓夫ぎゆうを呼んで始末をつけることでしょう?」
「事情を聞かんでそんなことは出来んせん」
「元々が牡丹花魁の馴染み客だからですか? 信頼が偏り過ぎているのではありませんか」
「言葉が過ぎる」

怒りの遣り場に困っているのだろう、己の足においた拳は強く握り締められて打ち震えていた。

「椿の処女を奪っておいて言い掛かりを付けるとは、一体何の理由があってそんなことをするんですか!」
「待ちなんし!  蓮太郎!」

牡丹が牽制のために声を張り上げると、惣一郎が後を引き継いだ。

「言い掛かりか? なぁ、本当に言い掛かりか! お前ぇさんがここに呼ばれた理由をきっちり説明して見ろや!」

蓮太郎の勢いに押されることなく惣一郎は怒鳴り付ける。

「俺が椿花魁に想いを寄せていたのは確かな事実です」
「ほらみろ、後ろ暗い所がある癖にたかが人の零れた言い間違いを叱責できる立場じゃねぇだろうがよ」
「後ろ暗い所なんて何一つありません。俺はしきたりを守って来ました。それ故に俺はあなたが許せない」
「個人の恨みつらみなんざ俺にゃ関係ねぇよ」
「俺が一体、今日の夜をどんな気持ちで迎えていたのか、知りもしないで言いがかりをつけるなど」
 
忍虎が察していてくれなければ、今宵の客を殺していたかもしれない程の想いをこの男はどんな思惑で言い掛かりを付けるのか。いや、もう言い掛かりを付ける理由などどうでも良かった。

椿を凌辱した惣一郎が憎い。

あまつさえ言い掛かりを付けて椿を窮地に貶めたこの男が赦せない。

「そんなこたぁ俺の知ったこっちゃねぇよ」

ハッと吐き棄てるように何もかもを蔑ろにする惣一郎の態度と言葉を心底厭う。

「あなたにとって知らないことでも水揚げなんて来なければいいなんて思いもしないんでしょうね」

夜ごと近付く水揚げの日、暦を捲るのが辛かった。眠っても明日など来なければいいのにと思い続けた夜。
初見世の準備を牡丹と共に整えて、覚悟を決める椿の姿。それら全てがこの言い掛かりによって踏み躙られてしまったのだ。

「水揚げを迎えずに済む女郎がどこにいるってぇんだ、あ?」
「だからこその覚悟があって迎えたこの日をあなたは穢したんだ!」
「男女の仲にきれいごと並べようとしてんじゃあねぇよ」
「突き出しに向けて覚悟を決めた椿の気持ちはどうなるんですか」
「おいおい、ことの発端は椿だろうがよ、あぁ?」

どれだけ突き詰めても、問い質しても何も響かない。

「この期に及んでまだそんなことを言うんですか」
「俺ぁ伊達に花町を遊び歩いちゃいねぇよ。生娘だと騙って鶏の血を布団に付けるのは今時どこの見世でもやってることだぜ? だからそう思ったってぇだけの話だ。この赤いもんが何かは知らねえがよ」

しらりと天を仰いで惣一郎は零れた失言を繕う。否定出来ない言い訳で。

「く……っ」
 
ようやく見付けた言及の材料を回収されて蓮太郎はぎりと奥歯を噛み締めた。

「騙るに落ちたのはお前ぇさんの方じゃあねぇのかい? え? 蓮太郎とやら」
 
更に惣一郎はふてぶてしい態度で蓮太郎を責める。

「どういう意味ですか」
「惚れてるとはっきり言ったよなぁ? 惚れてる女が他の男に抱かれるのを黙っていられるってのは相当なもんじゃあねぇのかい?」
 
黙っていられないからこそ忍虎に己の心情を語って対処して貰ったというのに、それすら否定するのか。
幾粒涙を流したか、どれだけの想いを抱えて夜の帳が落ちるのを耐え忍んだか、この男は何一つ理解しようとしない。

「その忍耐すら意味のないものにしようとしているのは一体どなたですか」
「忍耐が笑っちまうぜ。この赤い染みはお前さんが用意した可能性だってあるだろうがよ? あ?」

くらりと景色が歪む。頭の中に焼けた鉄を流し込まれた様な錯覚に陥る。
惣一郎は、何と言った。その革袋を用意したのが誰だ、と?

「俺が?」
「赤い染みを作る原料、えらく沢山知ってるなぁ? 随分詳しいじゃねぇか」
「それで俺が用意したと……、随分な暴論ですね」

ぐつぐつと焼けて赤く煮え滾る鉄のような痛みが心に傷を付けながら体中を這い回る。

「椿とコトに至ってるが、それを隠さにゃならん。となると今晩を騙るしかねぇもんなぁ?」

椿の初見世を騙る。誰よりも大切に思う椿を誰がそんなぞんざいに扱ったりするものか。
ここまで酷く罵られるのなら、もういっそ惣一郎の首を掻っ切って自分が全ての罪を引き受ければいいのではないかとすら考えてしまう程には限界だった。

「俺が……、椿の初見世を、騙ったと……、そんな言い掛かりまでつける気ですか!」
「じゃあ、この赤いもんが何で、誰のもんかきっちり証明して見ろや!」

だが、惣一郎を殺したとして椿の潔白を証明する手立てにはつながらないのだ。
八方塞がりだった。

「その鶏の血はあっちが用意しんした」

不意に聞き覚えのない声が後ろから届いて蓮太郎はハッとする。
振り返って確認するがやはり華屋の中で見掛けた覚えのない少女だ。
少女の顔付きを見るに華屋の女ではない。美しい娘だけが揃う華屋には余りに似付かわしくないのだ。
まだ寝間で布団の上にいた椿がきょとんとした顔で少女を見ている。
ということは椿の知り合いでもなさそうだ。

「妓……? けど、華屋では見掛けたことありませんよね……?」
「おんしは……、どこの妓でありんしょう?」

牡丹の知り合いでもない。ならば一体、と首を捻る蓮太郎の耳に惣一郎の声が飛び込む。
「こ……、琥珀?」
 
惣一郎の知り合いだ。

夜も更けた道を駆け抜けてきたのだろう。肩で息をしながらそれでも身元を明かす。

「大野木屋の新造、琥珀にございんす」

華屋や手鞠屋、角名賀楼が立ち並ぶ桜山町より仲ノ町を挟んで東側の伏見町通りに確か大野木屋という中見世があった筈だ。
店構えも古く日焼けした暖簾のかかった見世で格付けをするのなら中の中くらいだろう。

何の用があって来たのかは判らないものの、新造というならば姐がいるだろう。その姐の仕事を手伝いもせず他の見世の暖簾を潜るとはどういった事情なのか。

「新造がこんな所でどなんしんしたんぇ? 姐さんに怒られんしょ?」
「いいでありんす。惣一郎様ももうこんなことやめてくんなまし」

一瞬、牡丹が顔を顰める。
琥珀の顔を見るに大見世の妓でないことは一目瞭然、それが廓言葉を使って話すなど余り褒められた行為ではない。
郷の出を隠すためとは言われるものの、優雅な座敷を客に提供するため、廓言葉は大見世に赦された言葉だ。
それを、中見世以下の妓が簡単に使うとは。

だがひとまずはそれに拘っている暇はない。
琥珀は、廊下に突っ立ったまま部屋には入らず惣一郎に向かって話し掛けていた。
蓮太郎に聞き違いがないなら、言い掛かりを付けるために鶏の血を用意した少女が惣一郎の知り合い、ということになる。

「惣一郎様が……?」
「いや……、あ、その……、お、お前……、琥珀」

琥珀の顔を見てしばらく茫然としていた惣一郎が動揺も露わに、琥珀と牡丹、蓮太郎と椿の顔をそれぞれ交互に見る。

「……どういうことでしょうか」

惣一郎に対する疑念が確定に等しい状況下で蓮太郎の声が怒気を孕む。

「……あんまり、椿花魁が可哀想でありんす」
「おいおい、この後に及んでいったい何言ってんだ」

厳しい顔付きで惣一郎を睨み付ける蓮太郎と牡丹の視線から顔を背けながら、わたわたと慌てふためいた。

「初の道中が失敗しんしたんも、今回のこともあっちの姐、紅姐さんが企てたことでありんす」

琥珀の介入によって形勢が逆転したとはいえ、決して喜べる内容ではない。

「詳しく、聞かせて戴いても構いませんか、琥珀さん。……惣一郎様」

頭を抱える様に困り果てた惣一郎だったが、一つ舌打ちをすると琥珀に恨み言を連ねる。

「罪の意識に苛まれたか。琥珀、お前ぇさん見世に戻ったら酷い目に遭わされんぜ」
 
紅の気性を考えると黙って見過ごす筈もないのだ。
どんな画策をして何をされるか判る筈もない。だが琥珀は揺るぎない正義感を以って惣一郎に食い下がる。

「人を騙して陥れることを続ける位なら切見世に落とされた方がましでありんす。どんな酷い扱いを受けても、人を騙すことだけはせんで済みんす!」

道中の失敗も今回の言い掛かりも何もかもが露見した今、惣一郎に言い逃れの好機などない。
ふてぶてしい態度は成りを潜め、所在なく座っている。

「何が……、伊達に遊び歩いていないですか。悪巧みに加担して粋人気取り。こんな暴挙が赦されるとでも?」
「……惣一郎様、椿の初見世をお任せしんしたんはわっちの見立て違いでありんしたか?」

蓮太郎と牡丹の厳しい言葉を受けて惣一郎は諦めたように大きな溜息を吐いた。
そして、寝間で成り行きに付いていけずに困り果てながら、尚も大粒の涙を零す椿に呼びかける。

「……椿、いつまでも泣いてねぇで着物着てこっちに来い」

泣かせた本人がよくもいけしゃあしゃあとそんなことを言えたものだと、蓮太郎は更なる怒りを覚える。
椿は洟を啜りながら襦袢の裾を直し、着物を着て帯を結ぶと立ち上がってこちらに来ようとする。
が、一気に気が緩んだのだろう、破瓜の痛みがどっと押し寄せ、更に感じていた恐怖感で布団に再度倒れ込む。

腹を抑えてうずくまり嗚咽を漏らす椿の様子に、蓮太郎は今すぐにでも駆け寄って抱き留めてやりたい心境になる。

だが、部屋に入ることは赦されないのだ。

膝が震えている上に痛みもあるのか歩く姿は覚束ず、襖の縁に手を掛けて再度倒れ込まないように慎重に歩いて来るのが判る。
破瓜の痛みには個人差があり、殆ど痛みを感じない場合もあれば嬌声に近い声で気を遣る女もいるという。逆に椿のように激痛に呻く場合もあるのだろう。
ようやく、牡丹の傍まで来ると弱々しく、だが姿勢を正して座る。
少し疑いが晴れる期待もあるのだろう、散々青褪めて泣いた後の頬に少し紅が差す。
乱れた髪を手櫛で直して整える様は夜露を含んで咲く水辺の白い花の様に美しい。

「怖ぇ思いさせてすまなかったな」
 
惣一郎が手を伸ばして椿の頬に触れようとすると思わず椿はその手を弾き飛ばしてしまう。
「あ」と小さな声を出して牡丹を見るが特にそれに対して何も言わない。
惣一郎や琥珀の話を待っている感さえある。咎め立てされないことに安心したのか椿はまた、ぽろぽろと涙を零す。

「牡丹、煙草くれ」
「どんぞ」
 
牡丹は煙管に刻み煙草を詰めると火を入れて軽く吸い、惣一郎に渡す。だがその表情は厳しく態度はぶっきら棒なものだ。

「琥珀と……、蓮太郎とやら、しきたりなんざどうでもいい、部屋に入ってこい。んで、襖を閉めな」

惣一郎の言葉に蓮太郎はびくりと肩を震わせる。
若衆は部屋に入ってはいけない。それは決して破ってはならないしきたり。

「……っ、しかし」
「蓮太郎、言う通りにしなんせ。花魁に危害及ぶ恐れあらば、いずれのしきたりもこれ従うにあらず。大丈夫でありんすよ」

琥珀は部屋に入ると惣一郎の隣に座る。

「失礼、いたします」

蓮太郎は一礼し、スッと部屋に滑り込むように座ると両手で静かに襖を閉める。居住まいを正すと端近に座る。
その洗練された仕草はやはり歴代お職に育てられた美しい所作だった。

惣一郎は煙草を深く吸い込むと長く煙を吐き出した。

「……椿は間違いなく生娘だったよ」

蓮太郎は拳をぐっと握りしめる。
牡丹はほっとした様子で短く溜息を漏らす。

「そうでありんしたか」

ようやく認めて貰えた。安心感と喪失感が入り乱れて、更に大粒の涙を流しながら椿は牡丹に少し恨み言を言う。

「わっちは、何度もそう言いんした。なのに牡丹姐さんは信じてくれなくて……」

蓮太郎は抱き締めたい衝動を抑えながら、忍虎が懐に差し込んだ手拭を取り出すと椿の方にスッと寄せる。

「椿、手拭……。涙拭いて、我慢はもうしなくていいから」

椿は手拭を受け取るととめどなく溢れる涙を拭きながら洟を啜り上げる。蓮太郎の優しい声が椿の忍耐を決壊させた。
子供の様にしゃくり上げながら、漏れる嗚咽を手拭で隠してひたすらに泣いた

「こんな厄介ごと抱えてなけりゃあ、もっと可愛がってやったんだがよ。椿にとっちゃ最悪の初見世にしちまったな。悪かった」
 
これだけの画策と陰謀で人を傷付けた惣一郎の口から椿を『可愛がる』などという言葉が出て蓮太郎の腸がぐずりとうねる。

「可愛がる……? そんな口先だけの謝罪がまかり通るとでも?」
「厄介ごととはなんでありんしょう?」
 
牡丹は陰謀の真相を聞いて見世に伝える必要がある。
怒りや罪悪感などの様々に感じる感情を押し殺して惣一郎に先を促した。

「俺ぁ、松川屋の若旦那になりたかったのよ。けど、娘の八重ってのがオカメみてぇな顔して色狂いでよ、親の肩書きを笠に着て、祝言の相手を誰にするか未だに決め兼ねてんのよ」

若山遊郭に暮らす女郎にとって貞操観念は棄てなければならないが、町人が?

「商家のご令嬢が……、そんな」
「堅気だから一途、とは限らんのでありんすなぁ」

しかも松川屋と言えば歴史の深い老舗だ。そこの令嬢が色狂いとは、牡丹と蓮太郎は顔を見合わせて面食らう。

「そんで、遊び下手な今の旦那が大野木屋の紅っつぅ看板女郎の馴染みでな。俺を若旦那にってぇ勧めてくれてんのさ。だから、俺は紅にゃ逆らえんのよ」

琥珀が話した大野木屋の看板女郎の名前が再度出て来て、牡丹の得心が行ったようだ。

「そんじゃ今回の初道中も言い掛かりも全部、その大野木屋の看板女郎、紅が企てたということでありんすか」
「早ぇ話がそういうこったな」
「敢えてお聞きいたしんす。紅がこの陰謀を画策したとして、失敗しんしたこの状況。惣一郎様の若旦那の件は流れた、ということでありんせんのか」
「……まぁ、そうならぁな。もう一服くれ」

煙管を牡丹に戻すと、牡丹は今一度丁寧に灰を壺に落とし刻み煙草を詰める。
惣一郎も牡丹も大変に煙草を好んでいるため、その手付きは慣れたものだ。
頭を抱え込む惣一郎に琥珀がおずおずと話し掛ける。

「大旦那は律儀なお人ですから、そうはなりんせん」
「なんで、そんなことがいえるんでぇ」

松川屋の大旦那"藤樹"が律儀で真面目なのは惣一郎が良く知っている。
とは言え今回の画策でどうなるかも判らない。琥珀がどうしてそんなことを言ったのか惣一郎にはとんと見当が付かなかった。

「あっちが、その条件で初のご開帳をしんした」

牡丹が持っていた刻み煙草の壺を取り落としてをザラザラとこぼす。

「……て、あんた、新造じゃ……、ないかい。お開帳って……」

大見世で育った牡丹からすれば想像もつかない。

「実直で遊び下手な松川屋の大旦那様は、紅姐さんより以前に務めていた大野木屋の看板『色紫』のおきちゃでありんした。紅姐さんとは性格が反対の柔和で仏様の様にお優しい方でありんす。けれどその優しさから足抜けを企てて三下に落とされて、今もし生きているのであれば西河岸で働いておりんす」
 
藤樹の人柄について琥珀がぽつりぽつりと語り始める。

「西河岸……、切見世ですね」

昼夜と一人ずつ客を取る大見世と違い切見世とは、時間を区切り料金を徴収する仕組みの見世だ。
大抵は線香一本がいくらと定められており、人数などは定められていない。
妓を安く買えるせいもあり、懐の寂しい客が密集するため、病気が溢れている。
当然安い金で買われた女郎は日々の食事ですらままならない環境で借金返済などは見込めず年季明けなどもない。

曰く、女郎の墓場ともとれる場所、それが河岸見世だ。
足抜けは大罪、軽微な罪を犯した妓は三下女郎として、河岸見世に送られることが多い。

「そう言った末路で大野木屋の楼主が大旦那に不義理を働いたことを深く詫び、後任に務める紅姐さんの客として引き留めたんでありんす。けんど、紅姐さんの激しい気性が大旦那には多分合わなかったのでありんしょう……、日に日に足が遠のいて行きんした」

生真面目な旦那ならばそうなるだろう。今回の画策を目論む性格の女が性分に合わないのは明らかだ。

「まぁ、だからこそ俺に大見世の繋がりを期待したんだろうがよ」

華屋に落とした金子は松川屋に戻ることはない。
万が一今回の画策がまかり通っていたのなら、華屋の権威も失墜していたのだから大見世としての格すら剥奪されかねない出来事だったというのに……。世話になっている旦那にとんでもない不義理を働いたものだ、と蓮太郎は眉を顰める。

「回復出来るかどうかなんて未定ですよ。期待なんて失墜したに等しい」

自分が清廉潔白な生き方をしているとは思わないが、それでも恩を仇で返す様な人間に成り下がったりはしない。

「松川屋の大旦那の落とす金子は一度に大きくて……、楼主にも花車にも、遣り手にまで叱責されて肩身の狭くなった姐さんは手紙を書いて旦那を呼びんしたけんど、一向に来る気配はなくて……。しびれを切らした姐さんがあっちに八つ当たりを始めた頃に丁度登楼ってきたのでありんす」
「だからと言って……、お開帳? そんな実直なお方が? 有り得んせん」

話を聞くにつけ藤樹の人徳の高い生き方をするなら遊郭のしきたりもあろうが、幼い少女に淫猥な気持ちを抱くとは思えない。

だとするなら。

「折檻されている所を目撃でもされたんですか?」
「あい、不憫に思った大旦那があっちを慰めていてくれたのを紅姐さんは勘違いしんして、あっちを使って大旦那を引き留める工作をしんしたんでありんす」
 
琥珀を使い閨で引き留めて楼閣の信用を回復しようとしたのだ。

「丁度……、同じ頃に惣一郎様との間夫契りをしたかった紅姐さんは、惣一郎様に若旦那の立場を約束するといって、あっちはその責任を負うことになりんした」
「まだ……、新造なのに、そんな重責を」

自分では決してできない約束を妹の責務にする。もしそれが失墜したらどうする積もりだったのだろう。

「大旦那は娘よりも年下のあっちに手を出すことを渋っておりんしたけんど、床入りをしなければ姐さんに叱られるってお伝えしたら、壊れ物の様に優しく丁寧な枕を頂きんしたよ?」

琥珀のことを考えてなるたけ傷付けないように、己の情欲ではなく妓を抱く。
そんな素晴らしい店主の元に居ながら惣一郎はこんな茶番に加担したのか、と蓮太郎はしょんぼりとうなだれる惣一郎を見る。

「惣一郎様の若旦那襲名の件は、言われなくてもそうする積もりだと笑っておりんした」
「ん、え……、そうなのか?」

それは今回の画策に加担していなければの話ではないだろう。
大旦那が今回の画策に惣一郎が加担したとなれば話は変わって来るのではないか。
むしろ、それ程に信用のおけない男もいないだろう。

「大旦那は、姐さんに渡すための床花とは別にあっちにもその倍の床花を包んでくんなんした。そんなことが初めてだったあっちの床花も姐さんにバレて取られんしたけんど」

萎れた朝顔のようにしょんぼりとした笑顔で笑う琥珀は痛々しい。

「紅……、とんでもない人ですね」
「大旦那があっちと枕を共にしたのは後にも先にもその一度切りでありんす」
「けんど、破瓜は生涯一度きりのものでありんす。失ったとするならおんしは」

牡丹は心配気に琥珀を見る。
純朴で優しそうな娘が、紅の様な気性の激しい妓の下で奉公するのは厳しかろう。

「その後は、生娘でないあっちの扱いに味を占めた姐さんが客を繋ぎ止めるために、枕を利用されんした」
「そんな、おんし……、そんな扱いを今まで……」
 
大見世ではない妓の扱いは酷いとは聞いていた。だがここまでとは牡丹も考えが及ばなかった。
見世の違いとはこうも差が出るものなのか、と。

「紅姐さんは、来年で二十七になるせいか、あまりお客がつかなくなって、新造のあっちが相手をするからって密かに噂になってて……。それで、なんとかお客を取っておりんしたが、今回椿花魁の初見世で、切れ文が七通も届いて、それで逆恨みをしんして、牡丹花魁と華屋を陥れるために惣一郎様まで巻き込んで……、止められなかったあっちの責任でもあるんです」

申し訳なさそうに瞳を潤ませて椿と牡丹に頭を下げる琥珀を惣一郎がポンポンと背中を撫でる。

「お前ぇのせいじゃねぇだろ。あいつの仕置はキツイ、煙管で火傷をさせるわ火かき棒で殴るわ……。俺ぁ見るたびにいたたまれなかったよ」
「そこまで知っててどうして姐さんの間夫なんしてたんでありんすか?」
「だってお前ぇ、俺が相手すりゃ、しばらくは機嫌よかったろ?」
「惣一郎様……。やっぱり大旦那に育てられたお人でありんすね。優しくて……」

ぐずりと鼻を啜って琥珀は惣一郎に微笑み掛ける。

「優しい?」

蓮太郎が怪訝な顔で琥珀を見詰める。
琥珀はおそらく惣一郎に惚れているのだろう。盲目的に心酔している。
今回の画策に加担した時点で優しさなど木端微塵に吹き飛んだだろう。
牡丹は簪を一本抜いて頭を掻くと大きな溜息を吐いた。

「厄介ごとね、はぁ……、確かに年増の悋気ほど厄介なものはないね」

ひとまず、椿の潔白は証明された。忍虎や律に対して、見世に対しての面子も守られたのだ。牡丹としては相当に安心したに違いない。

琥珀をひとしきり慰めると惣一郎は立ち上がって、琥珀に手を差し出す。

「琥珀、お前ぇを守ってやれるかどうかわかんねぇが、紅んとこに帰るか。血の槍が降るかもしれねぇがよ」
「あい」

手を引かれて立ち上がった二人を牡丹が呼び止める。

「二人とも待ちなんし」

惣一郎と琥珀が立ち止まって牡丹を見ると、牡丹はこれまでにない程の不敵な笑顔
でくつくつと笑っていた。

「今回の落とし前はわっちが付けさせて貰いんす。琥珀はその後ここに残りなんし。ちょうど一人新造がいなくなりんしてな。わっちが「姐さん」で嫌でなきゃ、わっちに付いて来てくんなんし」
 
とんでもないことをさらりと口にする。

「えぇっ?」
 
琥珀の口から悲鳴に似た素っ頓狂な声が飛び出す。

ふと、蓮太郎は琥珀の容貌で華屋の妓が務まるだろうか、と疑問を覚える。
しかも生娘ではないのだ。留袖新造にした所でお職の筋が育てる娘ではないだろうに。

———憐憫、か。

「さぁて、どうして差し上げんしょか」

にこにこと黒い笑顔を満面に刻みながら牡丹は仕返しを考える。
ふと、椿が牡丹の顔を見て呟く。

「牡丹姐さん、楽しそうでありんす」
「お、椿涙止まったか。もう大丈夫かい?」

それを見て惣一郎は少し元気になったかと胸を撫で下ろした様子だったが、途端に椿は顔を顰めると憎々し気に惣一郎を睨み付けた。

「脚の間が痛いでありんす」
 
それを聞いた途端に蓮太郎が惣一郎の顔を睨み付ける。
放って置いたらそのまま殺してしまいそうな程に強い眼光で、ぎりっと歯を噛み締める。

「そ、そう怖え顔すんじゃねぇよ、蓮太郎」
「松川屋様の事情も、琥珀さんの事情も全て聞かせて戴きましたが、今回の椿花魁に対する仕打ちに関しては全く関係のないことですよね。全て、松川屋様の事情です。椿花魁がこのような目に合う謂れはどこにもない」
「……うっ」

椿が初道中で転び若山中の笑い者にされ、水揚げに言い掛かりを付けられた。

「あなたのことを俺は赦す積もりはありません。今後どの様な弁解をして、見世が、楼主が、女将が、遣り手が赦そうとも。例え命果てようとも決して忘れません」

忘れる筈がない。
覚悟して迎えたこの夜を己の短慮で全て踏み躙った惣一郎という男を絶対に赦さない、と蓮太郎は魂魄に焼き付ける。

「そう、だろうよ」
「このまま椿花魁の元へ通うというなら寝首を掻かれる覚悟をお忘れなく」
「怖ぇえことさらっと言うんじゃねぇよ。ところで牡丹」
「なんでござんしょ?」

紅への仕打ちの方法を考えていた牡丹は、惣一郎の声をきいて水を差された気分になったのか少々不機嫌になる。

「今回の椿の初見世道中の一式、高下駄も併せて一度俺に預けては貰えねぇか」
 
道中の一式を預ける?
すっ転ばせて台無しにした男に?
赦せる筈がないだろうと蓮太郎は憤懣を隠せない声のまま惣一郎に言う。

「この上一体何をしようっていうんですか」
「なぁんも悪巧みなんざ考えちゃいねぇよ」
 
一体、この男は自分の言葉に信用のカケラが残っていると思っているのだろうか。
だとするなら相当におめでたい頭だ。

「訳を、お伺いしてもよろしゅうござんすか?」
「目利きとしてよ、椿の仕掛けを見に行ったろ? 後悔してるんだよ。転んだはずみでよれちまった柄がねぇか見て、柄の差し直しが出来ねぇかと思ってよ」

唇を噛んで己の後悔を語る惣一郎に嘘はないだろう。

「直して、戴けると?」
「散々、迷ったさ。俺だってこの仕事やってる以上、椿の仕掛け一式の素晴らしさが判らねぇ訳じゃねぇ。いくら将来のためとはいえ丁寧に何度も何度も重ねた漆の層。この下駄に切り込みを入れるのか、と手が震えたさ。ありゃあ、輪島塗だろう?」
「おっしゃる通りでござんす」
「元の通りとはいかねぇが、使えるように直してやりてぇんだ」
「そうまでおっしゃるなら、お預け致しんしょう」
「ありがとう、恩に着る、牡丹」

直すのは当たり前だ。そもそも新しい道中衣装を一式揃えても詫びには足りないくらいだと蓮太郎は考える。

「それで罪滅ぼしの積もりですか。少し都合良すぎませんか」
「うるせぇな。ぴーちくぱーちく、雛鳥かお前ぇは」

食い下がる蓮太郎に惣一郎が苛付いた声で蓮太郎を詰る。

「ひとまず俺は店に戻るわ。親父のげんこつ貰ってからまた華屋に詫びを入れに来る」
「どれだけ誠意を見せられても、華屋が松川屋様を完全に赦すことは決してありません」

どれだけ詫びられたとしても椿のこの夜は二度と戻らない。やり直すことなど出来ないというのに信用を回復出来ると思っているのだろうか。
本当に横柄で始末に負えない男だ。

「人が下手に出てりゃお前さっきから言いたい放題。お前ぇみてぇなぺーぺーの若衆が判った風な……」
「ぺーぺーの若衆? 仮にも華屋楼主お気に入りの若衆でござんすよ。蓮太郎は」
 
牡丹が惣一郎の言葉に怒りを滲ませる。
華屋楼主のお気に入りの蓮太郎は見世中の遊女も大変に可愛がっていた。当然牡丹も蓮太郎の姿は忍虎の周囲でよく見掛けたし、気遣いの行き届いた少年だと思っていた。

今回の件で一瞬疑い掛けたものの潔白が証明されたのだ。侮辱するのは赦さない。

「何一つ今回の件で敵う言い逃れ出来んのに、蓮太郎に限らず人を蔑視しんすな」

加えて椿も惣一郎を睨み付ける。

牡丹にしてみれば今ここで妓夫や、楼主と女将を呼び付けないだけでも感謝して欲しいものだと思う。

「え……、あ、いや……、その、済まない」
「椿、今後惣一郎様はおんしのおきちゃでござんす。店の心配などは要りんせんから破産させる積もりで奪い取れるだけ奪い取りなんし」

びくりと椿は体を震わせるが、そのわずかな様子に気が付いたのは蓮太郎だけだった。

牡丹はすっと立ち上がって蓮太郎に

「襖を開けなんし」

という。

「牡丹花魁、どうされるんですか?」
「琥珀、と言いんしたな……、おんしも付いて来なんし」
「まさか大野木屋に行くとか言わないでしょうね?」

一抹の不安を覚えて蓮太郎はこめかみからするりと冷や汗が伝うのを感じる。

「紅に返す積もりはありんせんが何の断りもなく貰って行く訳には行きんせん。ひとまず宣告して後の手続きをせねばなりんせん」

元々正義感の強い真面目な牡丹は己の見世を大切に思っている。
こんな画策を受けて黙っていられる性格でないことは百も承知だが、見世同士のいざこざは余り感心しない。
そう説明したところで収まる気性ではないから、諦めて蓮太郎は嘆息する。

「行く積もりなんですね。楼主と女将には言い付けますよ」
「好きにしなんせ。琥珀、付いといで」
「あ……、あい」

わたわたと慌てふためいて琥珀は牡丹の後ろについて行く。
部屋に残された惣一郎は言うことを聞くかどうか怪しいと思いつつも蓮太郎に声を掛ける。

「その、蓮太郎っつったか」
「……なんでしょうか」
 
惣一郎の顔など見ていたくもなかったが自分が出て行けば椿と惣一郎を二人きりにすることになる。この期に及んで何かをしでかすことも余程ないだろうが、今更信用など微塵もない。
しかも椿は相当に辛そうだった。このまま部屋に留まることを赦されないのならせめて椿を奥座敷に連れて行って看病してやりたい心境だった。椿のために留まっているのだから惣一郎には返事をする義理もない。だが、仕方な
く答える。

「柳行李、借りれねぇか。椿の仕掛け一式持って帰る」

納戸に行けば柳行李の一つや二つあるだろうが、それを取りに行くのは憚られた。

「廊下に出て他の若衆に言って下さい。あなたと椿を二人きりにはできません」
「俺がまだ何かすると思ってんのか、しつこい野郎だな。新造も残ってるんだからもう何もしねぇよ」

いつの間にか部屋に戻って来ていた桔梗は椿を寝間へと連れて行き布団を掛けていた。

大丈夫か……。
蓮太郎は立ち上がると廊下に出て納戸へと向かう。

「あー、そこの新造、桔梗っつったか椿の仕掛け一式、どれかわかるか」
「あい」

牡丹の躾が行き届いた桔梗は聡明な性質だから、牡丹が椿の初見世の支度をするのに色々と手伝っていた。全てを覚えている様子でてきぱきと一式を畳んで纏める。

寝間の布団に横たわった椿は少し呻いて、やがて気を失うように眠りに落ちた。
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