花魁道中いろは唄

白鷹 / ルイは鷹を呼ぶ

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第壱章 色は匂へど

13話 妬み

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「いい月夜だねぇ……、そう思わないかい? 琥珀」

中引けも過ぎて客の付かなかった紅は———。
そもそも最近特にやる気のない紅は今日、張見世にも出て来なければ夜見世の準備をすることもない。だらしなく着物を着流して乱れた裾も気にせず白い腿を露わにして窓際に足を掛けて座り込んでいる。

「姐さん……、今日もまたお茶挽きだったのに酒なんか飲んどって大丈夫なんでありんすか?」

借金の取り立て日が近付いて来ているというのに、看板が借金を払えなんだというのは余りに体裁が悪い。

「お茶挽き……、お茶挽きが何だってんだい。こんないい日に客なんかついたってまともに相手なん出来ゃせん」

また、あの笑い。
よからぬ画策をして悦に入って笑う醜く引き攣った嫌な笑顔。

琥珀は思う。どれだけ酷い扱いを受けている切見世長屋の女郎だってこんな醜悪に笑うことはあるまい、と。

「何か、あったのでございんすか?」
「ああ、あったよ。格別にうまい酒のつまみになるようなことがね」
「酒の、つまみ?」
「そうさ、ごらんよ、月も煌々と照らし出して今日の出来事を祝福しているようじゃないかい」
「今日の出来事を、祝福?」

紅は煙管を深く吸い込んで細く長い煙を夜空に向かって吐き出して酒を煽る。

「酒も煙草もなんてうまいんだろう」
 
そうしてまたくつくつと喉を鳴らし嫌らしく笑う。徳利から盃にとくとくと酒を注ぐと琥珀に向かって差し出す。

「琥珀も一杯どうだい?」
「あっちは……、今日は遠慮いたしんす」
「硬いことばっかり言う子だよ。可愛気がないね」

自分に酒を進める程に気分が良くなることなどそうそうあるものだろうか。
つい先月切れ文が届いてあれ程に癇癪を起していた姐が今度はこれ程機嫌がいいとは、傍から見れば完全に情緒不安定で扱いにくい妓だ。
 
切れ文……。

そう、あの時から何やら琥珀に外に出ていろと言いながら、惣一郎と話し込んでは気持ちの悪い笑顔を振り撒いていた。

「今日の……、出来事と言えば、確か華屋の牡丹花魁の新造が初見世を迎える日でありんすね」

にべもなく

「そうさ」

と言って更に酒を煽る姐を不思議に思う。

「姐さん、なんでそんな落ち着いていらしゃんすか?」
「なんで? 不思議なことを聞くねぇ。他の見世の新造が初見世だったって関係ないからさ」
「惣一郎さまが初見世のお相手でもでありんすか?」

惣一郎は遊郭で伊達男、粋人としてかなり名を馳せている色男で、紅から自分の間夫にしたいと結構な無理をして繋がりを持ったというのに。牡丹花魁と手を切って椿花魁の馴染みになどなったら若さも美しさも勝る術のない紅などあっさり棄てられてしまうという不安はないのだろうか。

だが紅は殊更口角を歪ませてにやりと笑うと

「だからこそだよ」

と呟く。

何かある。

何もしないで穏便にことが進む筈がない、少々鈍い琥珀にでも容易に想像が付く。
だらしなく仕事をサボる姐にひときわ強く

「姐さん!」

と呼ぶと

「なんだい?」

そういって紅は面倒くさそうに琥珀の方へ振り返った。

「聞いてもよろしんすか?」
「改まってなんだい?」
「今朝方、ご用意させていただきんした、鶏を絞めた血。あれをいかがなさいんした?」

獣の肉を口にするのは体裁上余り良くないとされていたが、四つ足でも家畜でもない肉はそこまで厳しく禁止されていた訳でもない、鶏などはよく料理される食材のひとつだ。それ故楼閣の食膳に乗ることもしばしばあり、朝の台所は大抵鶏を絞めることから始まる。

「絞めた鶏の血なんて色々さ。行水を騙る時だって使うだろう?」
「けんどその嘘は、今日は吐いておらんのと違いんすか?」
 
尚も食い下がる琥珀に対して紅は眉間に皺を寄せた。

「あぁ、あぁ、うるさいねぇ全く。あれなら惣一郎に渡したよ」
「惣一郎様に? どうして……」
「念には念を入れるに越したこたないでありんしょ?」
「念を入れるとは何に対してでありんすか」
「ホントに……、いちいちうるさい子だねぇ。そこまであんたに教える必要もありんせん。晩酌が出来ないってぇんならさっさと床について寝ちまいな」

鬱陶しそうにふいと視線を外に流して

「酒が不味くなる」

と呟いた。

「姐さん、まさか椿花魁に言いがかりをつける積もりでありんすか」

紅は琥珀に一瞥を投げるともう一度酒を喉に流し込む。本当にこの娘は、正義感だけが強くて苛々する。そんな物遊郭に必要ないというのに、だ。

「言いがかりでもあるまいよ」

紅とて琥珀にばかり情報を求めている訳ではない。脅迫できそうな材料は懐の備忘録に書いてある。華屋の若衆を引っ捕まえて聞いた所、楼主の秘蔵っ子とできてるかもしれないと聞きかじった。

「やっぱりか」

と思っていた所だったが、敵は大見世、振袖新造に手を出さないなんぞと言う棺桶に籠められたようなしきたりを守っている可能性だってある。だが、男がいるというならそれを利用しない手などない。

「けど、もしかして本当に生娘だったとして鶏の血がそこにあったら言い掛かりに否やもつけられまいよ」

男がいて証拠がある。遊郭を遊び歩いている惣一郎なら多少の言い逃れなら語気強く言い切ってくれるだろう。

「なんて……、ことをしたんでありんすか」

両の拳をわなわなと握りしめて怒りを滲ませて琥珀は紅に強く言い放つ。
途端、紅は窓際から滑るように琥珀の元に来て頬を打った。

「誰に向かって口聞いてんだい」

撃たれた頬に手を添えて涙ぐむが琥珀は引こうとしない。

「姐さんのしてることがあまりに酷いからではありんせんか」

どうしてこの姐はちょっと考えれば判る常識を見ようとしないのだ。男女の情欲に関して、情夫いろに対して、間夫飼いに関して、中見世と大見世ではしきたりも何もかもが違う。
古臭いと言われようが未だに廓言葉をしっかりと叩き込まれる大見世は老舗として守っている暖簾や看板があり、客に対して吐いていい嘘と悪い嘘の分別をしっかりと弁えているのだ。
遊女が客を口説くために付く嘘はいい、けれど見世ぐるみで大きな催しに嘘を吐くようでは客の信頼など得られない。引っ込み禿や振袖新造が生娘でないなどという筈がないのだ。そのしきたりを守ってこその大見世だというのに。

「大見世に言いがかりをつけたなん惣一郎様がただで済む筈なんありんせん」

元来、真面目で優しい気質なのだ。どうしてこんな陰謀に巻き込んだのだ。正直で正義感が強い惣一郎になんてことを頼んだのか。

松川屋の屋号を欲しがっていることは知っている。

だからこそ琥珀も懸命に守ろうとしてきたというのに。紛れもなくそれを盾に紅は惣一郎を脅迫したのだ。
松川屋の旦那になりたいなら大旦那に口を利いてやる。
甘い言葉で惣一郎を唆したのだ。

溢れる涙を拭おうとする琥珀を紅は突き飛ばして髪を掴む。

「うっ」

と呻いて紅の顔を見るとそこにあったのは悪辣と憤懣に塗れた夜叉の様な醜女しこめの顔だった。

「惣一郎、惣一郎ってうるさいんだよ」

髪をぐいぐいと引っ張りながら頭を揺さぶられて、琥珀は目の前がくらくらと揺れるのを感じた。

「お前、惣一郎に惚れてるんだろ? だったら黙ってるしかないでありんすなぁ?」

そうだ。
今更、それを暴露したら惣一郎はどうなるのだろう?
ぐらりと己の正義感が揺れる。

「ん? 琥珀、いい子で黙っていたら、惣一郎にお前と寝てやるように言ってやるよ」
 
甘い声で紅が囁く。

華屋に差し紙を出した。琥珀の言った初見世の客になって欲しいという願いはあっさりと切り捨てられたのだ。
牡丹花魁は比較的誰がどこで遊び歩いていようが、結局は自分の元に戻って来るという自信を持っていたから深く追求することはなかった。それ故に惣一郎が遊郭内をふらふらと遊び歩いていようが特に注意するでもなく、どちらかと言えば男の遊び心こそ粋だと思っている節があったのか咎められたりはしなかった。

けれど椿花魁はどうだろう。人柄も何も判っていない。それに突き出しが終わってすぐなどは見世の遣り手や花車が目を光らせるだろうから、今後惣一郎と男女の関係を持つことは出来ないのではないか。

惣一郎への想いの丈が琥珀の胸にぶわりと広がる。
抱かれたい、と思っていたなど惣一郎には恥ずかしくて言えなかったが、紅が年季明けで出て行ったらなんとなく自分も惣一郎とそうなれるのではないかとちゃちな期待を持っていた。けれど、椿花魁の所で身を固めてしまったら?

紅と惣一郎の契りをこっそりと覗いたことがあった。
中見世とは言え看板を背負っている紅は相応に美しい。それ故に惣一郎もまんざらではなさそうだった。

「……あっちはそんなこと望んどりんせん」

震える声で否定すると紅が鼻で嗤う。

「じゃあ、何を望んでるっていうんだい。またきれいごと並べてわっちに説教垂れる積もりじゃないだろうね」
「そんな積もりはありんせん。けんど、そんなことしたって縁の切れたおきちゃが戻ってくるとは思えんせん」

ぐいと、もう一度紅は強く琥珀の髪を掴み直して揺さぶる。

「何のためにお前、お開帳したんだい!」
「痛い、姐さん、髪を……、離してくんなまし!」
 
いつもの折檻はもう慣れた。打たれる頬の痛みもいつか何も感じなくなっていた。こんな陰謀を黙って見過ごす訳には行かない。
これが露見したら間違いなく惣一郎は遊郭に来られなくなる。逢えなくなってしまう。
琥珀にとっては折檻の痛みなどもうどうでも良くなっていた。

「お前が相手するって判ってるからここに通ってる客がどれだけいると思ってんだい。まともな仕込一つやってないおぼこさが堪らないんだとよ」
 
涙を零しながらそれでも己の意志を曲げない琥珀の耳に金属音が響いてハッとする。紅は七輪に刺してあった火掻き棒に手を掛けていたのだ。

「や……、姐さん、火かき棒で叩くのはやめてくんなんし。それだけは嫌」

折檻が行き過ぎると紅の暴力は極限に達し、蹴る殴るだけに留まらず琥珀の体に煙管を押し当てたり火掻き棒で叩いたりなどの傷を付けた。火傷の痛みだけは何度押し付けられても決して慣れることはなかった。

「だったら大人しく言うこと聞きな。いいかい? 若くてぎこちない娘の方がよく売れる! 華屋で生娘の初見世に傷が付けばこっちに戻ってくるか……、もしくは噂聞きつけた変態じじいが華屋から見世替えするかもしれないだろ?」

琥珀の着物の裾を捲ると紅はふくらはぎに火かき棒を押し当てた。
じゅうという音と共に肉の焦げる匂いが広がって

「あああぁっ!!!」

と琥珀の口から鋭い悲鳴が響く。

琥珀のふくらはぎで焼けた火掻き棒を転がすと更にじゅうじゅうと音を立てて煙が上がる。我を失くして悲鳴を挙げてのたうち回る琥珀に紅は痛みと共に言葉を叩きこむ。

「お前、華屋の客の羽振りの良さが判ってんのかい? ウチなんかのしょぼくれた見世の数倍は金積んで祝儀はずんで行くんだよ」

熱を失った火掻き棒をもう一度七輪に入れて赤く熱すると、片足を抑えてうずくまる琥珀の腿にもう一度それを押し付ける。
再び襲い掛かる痛みに琥珀は

「うああっ!!!」

と、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を挙げた。

「一人でもこっちにくりゃあしめたもんさ。奪ってやるんだよ、なんとしても華屋の客をウチに来させるんだよ」

何度も何度も紅は琥珀の足に火かき棒を転がし、やがて火掻き棒が冷めると、ぽいと放り出す。琥珀は両足を抱えて畳に横転したまま、じくじくと消えることのない痛みに嗚咽を漏らす。

「そのために手段なんか選んでいられるかい。お前も早く年季明けを迎えたいならあちきの言うこと聞いて奪えるもんはみんな奪っちまう気でやんな」
「嫌で……、ありんす」
 
はぁはぁと肩で息をして、ずきずきと痛みを訴える足を抱えたまま、琥珀は鋭い目付きで紅を睨み付ける。

「なんだって?」

かつて、こんな反抗的だったことのない琥珀の抵抗は紅にとって面白いものではない。苛付いて畳に転がる琥珀を蹴り飛ばして踏み付ける。だが、琥珀はその足を払い除けて起き上がると尚も強い声で言い切る。

「そんな汚い手を使うなんあっちには出来んせん」

痛む足を引きずる様にして立ち上がると、痛みに一瞬目の前が暗転しそうになるがそれも堪えてふらふらと廊下に向かって歩き出す。

「ちょっと琥珀? どこに行くんだい」

問い質す紅を置いて

「仕置きならあとでいくらでもしてくんなんし!」

と言い残すと廊下を駆け抜けて大野木屋を後にした。
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