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第壱章 色は匂へど

10話 蓮太郎のやさしさ

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華屋の一階にある仕置き部屋の扉前で蓮太郎は廊下に人がいないか確認しながら静かに引き戸を開けて、中にいる椿に声を掛ける。

「椿」

見るとだいぶ泣いた後なのだろう、目を真っ赤に腫らして衿元をくしゃくしゃに濡らして萎れた花の様に頼りない顔で蓮太郎の姿を認める。こんなに泣き腫らした顔だというのに椿はやはり頼りない蝋燭の灯かりを浴びて美しく輝く。

「蓮太郎……」

弱々しく名前を呼ぶ椿の前に盆を置いて、手を伸ばすと頭を撫でる。

「握り飯を持ってきた、豆腐とごぼうの汁もある。お食べ」
「そんなことしたら蓮太郎が」

椿の身を心配する蓮太郎は笑顔で握り飯に海苔を巻いて椿の口元へ運ぶ。

「縄を解いてあげることはできないけど、これぐらい大丈夫だよ。食べさせてあげるから口を開けて」

海苔の香りと炊き出したばかりの甘い米の香りに空腹を感じて椿は一口握り飯を齧る。泣き通して乾いた口で咀嚼するのに苦労しているのだろう。もぐもぐと長く噛んで飲み込むと渇くことのない瞳からまた大粒の涙をぽろぽろと嗚咽と共に零す。

「泣かないで、大丈夫だから。このまま引き下がる華屋じゃないだろう?」

流した涙はそのままに、ぐずりと鼻を啜って一息付くと、餌を目の前にした雛鳥の様にあーんと大きな口を開けて握り飯の続きをねだった。これだけの食欲があるなら大丈夫かと思い蓮太郎は思わず微笑む。

「その前に水を飲んで、ほら。そんなに泣いて体中の水分がなくなってしまうよ」

竹筒の水筒を口元に寄せると喉をんくんくと鳴らして素直に水を飲む。密かに蓮太郎が椿の食事の介抱をするのが楽しいと思ったことはこの後も伝える積もりはなかった。

「ごめんね、せっかく蓮太郎だって初めての道中の付き人だったのに」

二つの握り飯をぺろりと平らげて椿がしょんぼりと謝る。

「俺のことはいいよ。それに……、あれは、椿のせいじゃないよ」

碗に入れた汁のごぼうを箸で摘まんで口元に運ぶと、はむはむと食べる。
こうして運び続けたらいつまで食べるかなと、蓮太郎は少し考えた。
だが、そればかりを続けている訳にも行かない。この仕置き部屋にいつ人が来るか判らないのだ。さっさと聞いてしまわないといけないことがある。

「聞きたいことがあるんだ」

と問うと椿はもぐもぐと食事をしながら

「なぁに?」

と可愛らしく蓮太郎を見る。

「椿が転んだのは、右足を弧に描いて前に踏み出した時だよな」

あの時、椿が転ぶ予感を最も早く察知したのは蓮太郎だ。
肩に掛かった手がするりと滑り落ちた喪失感はそうそう忘れられるものではない。

「蓮太郎って後ろに目があるの? 確かにそうだけど」

ごぼうのみそ汁を最後まで飲み切り、盆に運んできた食事を全て食べ切った椿は水をねだりながら聞く。

「肩貸しも傘持ちも見世番も番頭も新造も全員同じ足で進むんだから普通に判る」
「あ、そっか。けどなんでそんなこと聞くの?」
「椿の高下駄、右の前歯が折れてたんだ」
「ええっ? そうなの? そんなに簡単に折れちゃうものなんだね」
「そんな筈ないだろう? 高下駄はそれだけで重量があるし外八文字を踏むことを念頭に作られるんだから通常の下駄よりはるかに頑丈に作られるよ」
「でも折れたよ?」
「うん、前歯の内側から外側に掛けてがっつりのこぎりの跡があった」

そういう蓮太郎の言葉に

「え?」

と椿が目を白黒させる。
 
牡丹花魁の中止の合図からまるで最初から予行演習でも行われたのではないかと思う程に素早く華屋の面々は椿を民衆から隠し、見世番は腰元に結わえてあった手拭で椿の顔を隠して、次代お職を守った。
皆が椿を守る中で、蓮太郎は折れて脱げた高下駄を手に取って共に華屋の中へ入ったのだ。

椿の手が肩から外れる少し前に異音を聞いた。一度目は気のせいだと思った、二度目は確認。
右足を出すたびにぎしりと木が擦れる様な音を聞いて疑問に思っていたのだ。
三度目ひときわ大きく木の軋む音が聞こえて椿の手が肩から落ちた。

「そんなことしたら折れるに決まってるじゃない」
「そう、だからあの時椿が転んだのは仕組まれたことなんだ」
 
人為的に入れられた鋸の跡、折れてしまってからでは元々どのくらい入っていたのかは判断できないが、それでも前歯を駆使して行う八文字には僅かな切れ込みだろうと相当な負荷が掛かり、揚げ屋までの距離を考えれば辿り着くことなど出来なかったのだ。

椿はふいと視線を逸らしてぶすくれると

「誰が得するのよ」

と呟いた。

そう。

こんな画策は誰かが己の利を考えた末の工作なのだ。誰の仕業で誰が得をしたのか、
それを考え始めるのだからやはり椿はかなり強い。

「それはまだ調べてる途中。判ったら教える。ひとまず明日の道中は成功させないと」
「道中って、でも、仕掛けが……」
「牡丹花魁と女将とで仕掛けの泥を取ってる。下駄は前歯が折れて使い物にならないから今回は牡丹花魁の下駄を使うらしいよ。後で、鼻緒の調節に来ると思う」

ようやく椿の瞳に光が戻る。過ぎたことをぐずぐず悩んでいても進めない。失敗したからと諦めては己の将来が覚束ない。
町人がどれだけ嘲笑しようが、凌駕する程に美しい道中を見せ付けなければ、高下駄に切り込みを入れ、初の道中の失敗を目論んだ相手の思う壺になるのは癪に触る。気になるのは———。

「姐さんは?」

不安気に椿が聞く。初の道中が失敗して傷付いたのは椿だけではない。
賢明に支度をした牡丹だって相当な負担を負っている筈なのだ。

「建て前上みんなの前では怒ったけど、すごく心配してた」
「姐さん……」

落ち込むでもなく、見離すでもなく思い遣りの溢れる姐の気持ちにじわりと目頭が熱くなる。

「牡丹花魁のためにも、明日こそ道中を成功させないとね」
「ん……、うん、ありがとう、蓮太郎。姐さんの下駄なら安心よね?」
「大きさや癖が違うから必ずしもとは言い切れないけど、欠損のある高下駄よりは大丈夫だと思う」

そうだ。汚名を返上しなければ。
こんな傷を持ったままでは次代お職などと名乗れやしない。道中前に感じた不安はだいぶ減少した。
まだ少し引っ掛かりがあるのは気になるがそれでもこうして蓮太郎も心配して様子を見に来てくれる。
寄ってたかって助け起こしてくれる手のなんと多いことか。嘆いてばかりいては駄目だ。

「蓮太郎……」
「ん?」
「ご飯、ありがとう……、あのね、あの……、もう少し、甘えてもいい、かな?」
「どうした?」
「ぎゅって、して……?」

今年最大に愛らしい上目遣いで抱き締めて欲しいと言われて蓮太郎は一瞬くらりとする。

椿は、自分で自分の魅力が判っているのだろうか?

突き出し前から傾城と噂される程の美貌を持っている上に蓮太郎は淡い恋心を持っているというのに、そんな顔で抱き締めてと言われたら従うしかないではないか。なるたけ、己の大きく跳ねる鼓動を悟られない様に、手を伸ばして椿の頭を腕に抱えて胸に引き寄せる。
髪からふわりと椿の香水かおりみずが舞って我を忘れそうになる。
愛しい少女を胸に抱き、けれども僅かに両肩が震えているのを感じる。

「……怖い?」
「うん。でも蓮太郎がいるから、こうして抱き締めてくれるから、まだ頑張れる」

花開くような笑顔を蓮太郎に送って己の決心を語る。
とても健気な少女なのだ。
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