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第壱章 色は匂へど

6話 紅の企み

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「華屋の椿に惣一郎が差し紙を出した、だって?」

飲もうとしていた茶を湯呑ごと落として紅は声をひっくり返した。
琥珀は相変わらずの紅の所作の酷さに別段慌てることもなく、畳に染みが残る前に湯呑を茶托に戻して零れた茶を手拭で拭いた。

「揚げ屋の亭主がそう言ってたんで間違いないと思いんす」

ちゃきちゃきと片付けながら琥珀は昨夜の亭主の言葉を思い出す。
大見世との繋がりが深い吾妻屋は元々酒が入るといらぬことまで良く喋る性質で、その日も琥珀が蔵出しの吟醸を持って行くと、途端に機嫌が良くなり小遣いまで出そうとする有様だった。
布団の中で冷えた酒を盃に注ぎ

「あぁ、牡丹花魁の新造の競り? かははぁ、んな物ぁ数え切れねぇよ。あぁ、けど松川屋が乗り出したから金額は跳ね上がったってぇ話だぜ?」

と盃を煽りながらよく滑る舌を回らせた。

「ちゃんと、本人の口からそう聞いたのかい?」
「あい、いつもの様に酔わせて、褥で聞きんした。酔いのための戯言ではありんせん」
 
昨夜は……、酒だけではない。褥での情事を琥珀は思い出す。
その、後ろめたささえなければ……。琥珀は褥での情事が嫌いではなかった。

「惣一郎……、あいつ」

ぎり、と奥歯を噛み締めて紅は眉間に皺を寄せた。
惣一郎が遊び歩いているのも牡丹の馴染みであるのも承知で間夫契りをしていたが、そもそも牡丹に張り合う積もりなどはなかったのだ。
だというのに己の客を七人も奪われてへらへらと見世格の違いを受け入れられる程安い躾を受けて来た訳ではない。
大野木屋の看板が掛かっているのだ。

「牡丹と手を切りそうだからって動向を調べてみりゃ、なんてこったい」

間夫契りゆえに正式な馴染みでも敵娼でもないが惣一郎を含めれば奪われた男は八人。
琥珀は更に仕入れた情報を紅に伝えた。

「結局松川屋様と幾つかの店主様は張り合ったけんど、今回は見送るしかなかったそうでありんす。椿花魁を敵娼にする際に動いた金子きんすは、牡丹花魁への手切れ金二百両、椿花魁への突き出し申し入れ金五百両、そして支度金として三百両と合わせて千両だそうでありんす」

先日からやれ五百だの千だのと中見世では決して積まれるはずのない大金を見せびらかすように噂を広めている。
大見世の威厳を保つためとは言え露骨過ぎだ。

「松川屋の大旦那だってわっちにそんな大金を詰んだことありんせんのに……、惣一郎にそんな大金使わせるなんざ大した気に入りようじゃないかい」
「華屋に通っている馴染みに本家を京に持つ大店のご子息がいらっしゃるんで、その方との取引を成立させる条件がある、と仰っていたそうでありんす」
「随分でかい約束をしたもんだね」
「大店同士が繋がるのはやっぱり大見世でありんすから……」
 
大見世は女を抱くためだけに出入りする客は少ない。
美しい妓が侍る座敷で優雅に酒をたしなむ場は、大店同士が互いの繁盛振りを語り、提携しているのであれば更に絆は深く、繋がりを求めるならば、十分な贅沢をさせ店の規模を知らしめて商談を成立させることも可能だ。

「ふんっ、成功するかどうかも判らない約束に千両。大博打にも程がありんすなぁ」
「あの、姐さん……。あっちはもうこんなこと続けられんせん」
「こんなこと? 初見世前に客と寝ることがかい」

褥に入ること自体が嫌なのではない、どうせいずれはそれが仕事になるのだ。嫌がっていては話にならない。

だが。

「今回を限りに茶屋の亭主や番所の方と閨に入るんはやめんと、噂が大きくなったらそれこそ椿花魁になん勝てやせん。楼主にも花車にも遣り手にも申し訳が立たん」

突き出し、初見世、つまり水揚げをする女は基本生娘の筈なのだ。

「はっ、何甘ったれてんだい。どの見世だって初見世に本物の生娘だなんているもんかい。ちょっと痛がる素振りをして、絞めた鶏の血でも布団につけときゃ破瓜の血だと思うさ」

嘘が当たり前の遊郭で、妓の水揚げを本物の生娘だと信じているのは相当なぼんくらだけだろう。大抵は嘘も寛容に受け入れるのが男の粋という物なのだ。

「確かに質の悪い見世などでは、同じ女郎を違う客に何度も生娘だと偽り、高い揚げ代を吹っ掛けたりするのはあっちも知っておりんす」
「小見世じゃその程度常套手段さ。それだけじゃない、中見世じゃ楼主が自分の見世の妓を突き出し前に食っちまうご時勢さ。具合を確認するとかなんとか大義名分掲げてねぇ、笑い話にもなりゃしない」

その程度、琥珀だって十分に知っている。
忘八と呼ばれるクズが多い楼閣の集まりだ。
見世の中で何が起ころうが、ここは嘘偽りが誠と言われる世界なのだ。

しかし、それは中見世止まりの話。
少なくとも大見世ではそんな暴挙は赦されていないと聞いている。

「華屋の、椿さんは生娘だと、聞きんした」

突き出しをきれいなままで迎えられる羨ましさを感じながら琥珀は目を伏せて震わせる。

「ふんっ、どうだか。別嬪だってぇなら尚更、男がいない筈無いだろ。……そうだ。ふふっ、ふははっ、あはっ」

なんの悪巧みを思い付いたのだろう、唇の端を醜く歪めて吊り上げるこの笑い方が決して良心的である筈もないのだ。

「惣一郎を呼んできとくれよ。今頃なら揚げ屋通りの茶屋で夜見世が出るのを待ってるだろうからさ。わっちはもう張見世に出る時間だからね。あーあ、看板なんて名ばかり。お茶挽くのだけはごめんこうむりたいからねぇ」
 
惣一郎様を?
 
どうして。

「あ、あい……」
 
しかし、惣一郎に想いを寄せている琥珀は、姐の企みがいかなるものであったとしても彼と逢えるなら、と醜い下心が顔をのぞかせる。

「く、くふふ……、 当日の牡丹の顔が見ものだねぇ、ふふふ、ふは、あーはっは」

楼閣中に響き渡る程笑い声を高く響かせながら紅は悦に入る。 
琥珀は一抹の不安を覚えたが、仕方なく揚げ屋通りに向かった。
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