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第壱章 色は匂へど
5話 別離
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寒さの厳しい夜に互いの温もりで熱の籠った体を冷ますように牡丹はずるずると布団から這い出て煙管に刻み煙草を詰めて一息吸う。
甘い蜜の香りが漂う牡丹の首筋にするりと一滴の汗が滑り落ちる。
そのきらと輝く雫ですら牡丹の色香を華やかに彩るためにある。
「惣一郎様、この頃男前が上がったんじゃござんせんか?」
ふぅ、と仄暗い部屋に煙をふわりと吐き出して牡丹は惣一郎に身を寄せる。
「寄せやい、照れるじゃねぇか」
照れてもいないのは傍から見ても明らかな程自信に満ちた男の謙遜など食えたものではない。
「それでいて可愛らしいことを仰りんす。いったい何人の女がたぶらかされているのやら。一服どんぞ」
そんな遣り取りを交わして惣一郎は牡丹の差し出した煙管に口を付けて深く吸い込んだ。
「お前ぇはたぶらかされたりしねぇだろ?」
牡丹はこの若山遊郭頂点の華だ。数多の男を手玉に取って花畑に舞い踊る蝶のように掴み処がない。
一人の男に惚れたりなどしないのだ。
「さて、どうでござんしょ?」
くつくつと喉を鳴らしてやんわりと笑って牡丹は情事で乱れた髪を一筋救って耳に掛ける。
そんな何気ない仕草ですら見惚れてしまう程に美しい。
なのに———
「松川屋の旦那からどうしても一人娘の八重をもらって欲しいと頼まれてな。ま、近々祝言を挙げることになったんだ」
今年で二十四になった惣一郎がいつまででも独身を謳歌していられる筈もなく、当然のように舞い込んできた縁談に憂鬱な溜息を漏らす。
表情は暗い。乗り気でないのは何も独身の身軽さへの執着ではないようだ。
「誠、おめでたいお話でございんす。けんどわっちにとっては寂しい話でありんすな」
「思ってもねぇことを言うのが、花魁の務め、だろ?」
「判ってしまいんしたか」
「隠そうともしてねぇ癖によく言うよ」
「けんど、寂しいのは本音でございんすよ?」
「若山一の花魁にそう言われて悪い気はしねぇが、心底信じるほど俺もおぼこくはねぇな」
花魁の惚れた腫れたは言葉遊びに過ぎない。嘘か誠かなど問うのもばかばかしい。
けれど牡丹は惣一郎の頬にそっと手を伸ばして顔を寄せた。
「惣一郎様は座敷遊びがお好きでござんしょう。わっちの他にも馴染みとして通っている見世があることくらいは存知てございんす。どこの見世の誰か……、なんて野暮は聞きんせんけんど、あの手この手でいろんなおなごと間夫の契りがあるんも存じ上げておりんす」
一度敵娼を決めた男が他の妓の所へ出入りするのは好ましくはない。
ご法度とされるくらいには不名誉ことではあるが、このやんちゃな伊達男はそんなしきたりの中を自由に掻い潜って遊び歩いている。
とは言え、その奔放な惣一郎を咎め立てする気にはなれない。
「なんでぇ、お前さんにも悋気なんてものがあるってんじゃあねぇだろうな」
「そういうことにしてさしあげんしょうか?」
「憎ったらしい向上をぬけぬけとほざきやがって、その口こうしてやる」
牡丹の頬に触れた手をぐいと引っ張るともう片方の手で頭を引き寄せて、己の唇を牡丹のそれに重ねる。
花魁は簡単に口吸いは赦したりしない、がそれも惣一郎にとってはどうでもいい。
むしろ牡丹は口吸いを好んでいる所もある。
唇を離すとつぅっと一筋の唾液が布団に落ちる。
「座敷遊びを上手にこなして輝いている惣一郎様を好いておりんす」
「へぇ?」
と興味なさそうに惣一郎は牡丹の煙管を奪って吸い込んだ。
「独り身だからこそできることでありんしょう? 内儀さんが出来たら縛られてしまいんしょ? それが寂しいのでございんす」
「必然的にそうなるわな」
所帯を持てば今までのように遊び歩くのが困難になるのは必然。
それは惣一郎にとっても余り嬉しくはなかった。
「紫式部が心を遣った源氏の君が如く、色男っぷりを撒き散らしておきながら残酷でありんすなぁ」
ふーっと煙を吐き出して空に舞うそれを見ながら苦虫を奥歯ですり潰した様な顔で惣一郎は
「本音を言えばよ」
と続ける。
「本音?」
「八重と結婚なんざしたくねぇんだよ」
八重———。
おそらく松川屋の大旦那の娘だろう。堅気の女らしい堅実な名前だ。
末広がりの幸せが重なりますように、そう願って付けられた名前かもしれない。
「そんなら、お断りするんがお互いのためでござんしょ? 八重さん、と言んしたか? 堅気のおなごなら旦那の心が伴わぬというんは酷な話でござんしょう」
牡丹にしてみれば同情などもしたりしない。
惣一郎にその気がないのなら引き留めてまだまだ自分に貢いでもらうことだって可能なのだ。
「八重はお世辞にも別嬪とはいえねぇ。花魁と比べてという訳でなく、小太りでずんぐりしてオカメをちぃといじったような顔をしててな」
惣一郎は己の顔を自らの手で挟んでぐいっと崩すと
「こんな感じでな」
とぶすくれる。
「愛嬌があるじゃござんせんか」
くすくすと笑って牡丹は答える。己の前に立てば大抵のおなごは不細工だ。
それを知っているからこそ他の女の顔を容易に褒めたりはしない。
「お前ぇみたいな女を抱いちまうとよ、普通の女でも物足りねぇってのにな」
牡丹は惣一郎の頬にもう一度手をやると軽くつまむ。
「そんなら、その縁談お断りになって、またわっちを呼んでくんなまし。わっちは惣一郎様のような色男なら何度でも気を遣りんす」
そっと寄り添って艶笑交じりに伝えると惣一郎は牡丹を抱き締めて深い溜息を吐く。
「それが出来るんならなぁ。八重と祝言を挙げりゃ松川屋の屋号を襲名出来る。断るんなら人生を変えるくれぇの心意気がねぇとよ、目利きとしても潰れちまわぁ」
その言葉に牡丹は
「ん?」
と思う。
なんと、堅気の女が狡い手を使って来たものである。
おそらく八重は惣一郎が遊び人であることもモテている事も十分に知っているのだろう。
遊郭の妓達が相応に美しいのも承知で屋号襲名をちらつかせて惣一郎を独占しようとしているのである。
「ほぉ? 堅気のおなごにしてはやってくれるじゃござんせんか」
喉の奥から嘲笑を吐き出して牡丹は不遜な女への鉄槌を考える。
惣一郎の様な大手の遊び人を逃しては大見世として、頂点として面目丸潰れである。
「まぁ、座敷遊びをやめるつもりはねぇがな」
不細工というならやめられる筈もあるまい。余りに遊郭通いを邪魔するようならばその時に考えればよい話ではある。
「わっちのことも忘れちゃ嫌でござんすよ?」
「いい、女だな……」
北方に佳人あり、絶世にして独り立つ
一顧すれば人の城を傾け
再顧すれば人の国を傾く
寧んぞ傾城と傾国を知らざらんや
佳人再び得難し
前漢の武帝の時代に李延年という宮廷楽士が、己の妹を推薦するために歌った詩である。
この『傾城』『傾国』という言葉は今では遊女や花魁に謳われる最高の言葉だ。
そもそもが、武家や公家でも花魁以上に優れた女はいない。
幼い頃から学識や芸事、所作を叩きこまれた上に余りある美貌を併せ持つなどよほど恵まれていない限り難しい。
その、最高の言葉を惣一郎は牡丹に送る。
「俺ぁ、お前のことだと思うんだ」
が、牡丹はふるりを頭を振るとそれを否定した。
「わっちなどには縁のない言葉でございんす」
「そりゃあ謙遜ってぇもんだ」
惣一郎の賛辞を貰って牡丹の中で一つの決心が固まる。
牡丹と惣一郎の付き合いは長い。
牡丹が初見世を出して約三月経った出会い、五年もの間敵娼として相互を思い遣る関係だった。
そして松川屋を盛り立てるために邁進したし、惣一郎も新しい客を紹介したりなど相互にそれぞれの商売を繁盛させた。
だが、惣一郎への想いは何も花魁としての手練手管や嘘偽りではないと牡丹は自覚していた。
己の心の中に浮かぶ想いは"恋慕の情"。
若い内からこれ程に成功を収めた男前などそうそういる筈もなく、遊郭の中でモテるのにも納得がいく。
それは自らの想いに気が付いているからこそなのだ。
それ故に、祝言が決まっている惣一郎との関係をこれ以上続ければ収拾が付かなくなる。
見えない遊郭の外にいる妻へ嫉妬の想いで生魑魅を飛ばしてしまいそうな程には惣一郎への恋心を抱いてい
る。
終わりにしなければ———。
「わっちではござんせん。もし、傾城と謳われるのであればそれはあの子でありんす」
なるたけ己の醜い恋慕を表に出さない様に、細心の注意を払いながら惣一郎に伝える。
椿に対する嫉妬の心はひた隠しにして。
華屋の新造は若山一の大見世だけあって美しい妓が沢山いる。
そして、隣接する見世の手鞠屋や角名賀楼も大見世ゆえの美しい妓がいる。
牡丹は華屋の女だから他の見世の妓を褒める筈もない。
だとすると華屋の妓だろうが
「あの子?」
はて華屋お職名実共に若山の頂点が傾城と謳う妓とは一体……。
惣一郎が顎に手を当てて考えていると、牡丹は髪を手櫛で整え、着物の袷をきちっと整えて布団から降りると畳縁の前にしっかりと両手をついてかしこまる。
「惣一郎様に折り入ってお頼み申し上げたいことがございんす」
「いきなり改まって、どうした」
「わっちの妹が近日、初見世を迎えることはご存知でござんしょう」
頂点の名にふさわしい若山の絶世の花魁が初めて妹を突き出す。
その触れは瞬く間に広がりあっという間に若山中に、そして若山に隣接する町へと伝わった。
既に華屋には差し紙が殺到しているし、遣り手や女将、そして楼主までもがその差し紙を見ながら馴染みに出来る客か否かを選別するのに毎日天手古舞だというから、当然惣一郎とて知らぬ筈はないのだ。
牡丹は毎日の様に運び込まれる突き出しの支度品を捌くのに大変な日々を送っているだろう。
大見世の突き出しとなれば、三枚重ねの布団、行灯、漆器や箪笥、鏡に化粧台、文机などの家具から御簾紙、化粧品、そして身に纏う着物や仕掛け、簪や櫛、笄など挙げ連ねればキリがない。
それが全部源氏名に添った物を揃えるというのだから、目が回りそうになっているに違いない。
若山一の大見世としてみすぼらしさを一つとして感じさせてはならないのだ。
「ああ、ずいぶん念入りな支度をしてるって話じゃねぇか」
なんとなく牡丹がこの話を持ち出した意図について察した惣一郎は
「それが?」
と聞いた。
「妹を、椿を女にしてやってくんなまし」
椿を……?
自分が初見世を取れる?
いや、だが自分が取るには競りに参加している男共が喚き立てるのではないか。
そもそも上方下りの新造出しに費用を持った医者は?
様々な考えが巡り惣一郎は牡丹の顔を見るにやるせなく、情けなくも畳の目地を数える羽目になった。
「や、あの、医者がいただろう?」
「司波先生が椿の初見世を取りたがっていたのは見世も周知しておりんす。けんど初見世をこれ以上遅らせるには華屋として出来ぬこの時期に、司波先生は大奥の御殿医に知恵を貸して欲しいと呼ばれて、江戸に下って初見世までに帰るのが難しいのでござんす」
大奥? 御殿医に呼ばれる程とは。そんなに名医だったのかと今更ながらに驚く。
だが、華屋の一大催事に江戸に行っているとはまた、仕事があったとは言え運気のなさを少々不憫だ。
競りに参加することも出来ぬ不戦敗なのだ。
同情はするが華屋の次代お職と言われる椿を敵娼に持ち、更に初見世を取るという好機は今後中々訪れないだろう。
松川屋の旦那を説得するのも十分な程の話だ。
「俺ぁかまわねぇが、ってぇかよ、そりゃ願ってもねぇ話だが。けど、俺でいいのかい?」
戸惑いはないが、今一度確認のために牡丹に尋ねる。
「座敷の理をその若さできちっと心得え、仇めいた噂を持ちんせん。その上で稀に見る男振り。他にお任せできる方がおりんせん。どんぞ、受けてくんなまし」
「そこまで言われちゃあ断る理由なんざねぇよ。椿、だな。差し紙を出させて貰うぜ」
頂点花魁に頭を下げて頼まれたのだ。受けない理由などどこにもない。
明け方店に戻ったら大旦那の藤樹と話をしなければ。
甘い蜜の香りが漂う牡丹の首筋にするりと一滴の汗が滑り落ちる。
そのきらと輝く雫ですら牡丹の色香を華やかに彩るためにある。
「惣一郎様、この頃男前が上がったんじゃござんせんか?」
ふぅ、と仄暗い部屋に煙をふわりと吐き出して牡丹は惣一郎に身を寄せる。
「寄せやい、照れるじゃねぇか」
照れてもいないのは傍から見ても明らかな程自信に満ちた男の謙遜など食えたものではない。
「それでいて可愛らしいことを仰りんす。いったい何人の女がたぶらかされているのやら。一服どんぞ」
そんな遣り取りを交わして惣一郎は牡丹の差し出した煙管に口を付けて深く吸い込んだ。
「お前ぇはたぶらかされたりしねぇだろ?」
牡丹はこの若山遊郭頂点の華だ。数多の男を手玉に取って花畑に舞い踊る蝶のように掴み処がない。
一人の男に惚れたりなどしないのだ。
「さて、どうでござんしょ?」
くつくつと喉を鳴らしてやんわりと笑って牡丹は情事で乱れた髪を一筋救って耳に掛ける。
そんな何気ない仕草ですら見惚れてしまう程に美しい。
なのに———
「松川屋の旦那からどうしても一人娘の八重をもらって欲しいと頼まれてな。ま、近々祝言を挙げることになったんだ」
今年で二十四になった惣一郎がいつまででも独身を謳歌していられる筈もなく、当然のように舞い込んできた縁談に憂鬱な溜息を漏らす。
表情は暗い。乗り気でないのは何も独身の身軽さへの執着ではないようだ。
「誠、おめでたいお話でございんす。けんどわっちにとっては寂しい話でありんすな」
「思ってもねぇことを言うのが、花魁の務め、だろ?」
「判ってしまいんしたか」
「隠そうともしてねぇ癖によく言うよ」
「けんど、寂しいのは本音でございんすよ?」
「若山一の花魁にそう言われて悪い気はしねぇが、心底信じるほど俺もおぼこくはねぇな」
花魁の惚れた腫れたは言葉遊びに過ぎない。嘘か誠かなど問うのもばかばかしい。
けれど牡丹は惣一郎の頬にそっと手を伸ばして顔を寄せた。
「惣一郎様は座敷遊びがお好きでござんしょう。わっちの他にも馴染みとして通っている見世があることくらいは存知てございんす。どこの見世の誰か……、なんて野暮は聞きんせんけんど、あの手この手でいろんなおなごと間夫の契りがあるんも存じ上げておりんす」
一度敵娼を決めた男が他の妓の所へ出入りするのは好ましくはない。
ご法度とされるくらいには不名誉ことではあるが、このやんちゃな伊達男はそんなしきたりの中を自由に掻い潜って遊び歩いている。
とは言え、その奔放な惣一郎を咎め立てする気にはなれない。
「なんでぇ、お前さんにも悋気なんてものがあるってんじゃあねぇだろうな」
「そういうことにしてさしあげんしょうか?」
「憎ったらしい向上をぬけぬけとほざきやがって、その口こうしてやる」
牡丹の頬に触れた手をぐいと引っ張るともう片方の手で頭を引き寄せて、己の唇を牡丹のそれに重ねる。
花魁は簡単に口吸いは赦したりしない、がそれも惣一郎にとってはどうでもいい。
むしろ牡丹は口吸いを好んでいる所もある。
唇を離すとつぅっと一筋の唾液が布団に落ちる。
「座敷遊びを上手にこなして輝いている惣一郎様を好いておりんす」
「へぇ?」
と興味なさそうに惣一郎は牡丹の煙管を奪って吸い込んだ。
「独り身だからこそできることでありんしょう? 内儀さんが出来たら縛られてしまいんしょ? それが寂しいのでございんす」
「必然的にそうなるわな」
所帯を持てば今までのように遊び歩くのが困難になるのは必然。
それは惣一郎にとっても余り嬉しくはなかった。
「紫式部が心を遣った源氏の君が如く、色男っぷりを撒き散らしておきながら残酷でありんすなぁ」
ふーっと煙を吐き出して空に舞うそれを見ながら苦虫を奥歯ですり潰した様な顔で惣一郎は
「本音を言えばよ」
と続ける。
「本音?」
「八重と結婚なんざしたくねぇんだよ」
八重———。
おそらく松川屋の大旦那の娘だろう。堅気の女らしい堅実な名前だ。
末広がりの幸せが重なりますように、そう願って付けられた名前かもしれない。
「そんなら、お断りするんがお互いのためでござんしょ? 八重さん、と言んしたか? 堅気のおなごなら旦那の心が伴わぬというんは酷な話でござんしょう」
牡丹にしてみれば同情などもしたりしない。
惣一郎にその気がないのなら引き留めてまだまだ自分に貢いでもらうことだって可能なのだ。
「八重はお世辞にも別嬪とはいえねぇ。花魁と比べてという訳でなく、小太りでずんぐりしてオカメをちぃといじったような顔をしててな」
惣一郎は己の顔を自らの手で挟んでぐいっと崩すと
「こんな感じでな」
とぶすくれる。
「愛嬌があるじゃござんせんか」
くすくすと笑って牡丹は答える。己の前に立てば大抵のおなごは不細工だ。
それを知っているからこそ他の女の顔を容易に褒めたりはしない。
「お前ぇみたいな女を抱いちまうとよ、普通の女でも物足りねぇってのにな」
牡丹は惣一郎の頬にもう一度手をやると軽くつまむ。
「そんなら、その縁談お断りになって、またわっちを呼んでくんなまし。わっちは惣一郎様のような色男なら何度でも気を遣りんす」
そっと寄り添って艶笑交じりに伝えると惣一郎は牡丹を抱き締めて深い溜息を吐く。
「それが出来るんならなぁ。八重と祝言を挙げりゃ松川屋の屋号を襲名出来る。断るんなら人生を変えるくれぇの心意気がねぇとよ、目利きとしても潰れちまわぁ」
その言葉に牡丹は
「ん?」
と思う。
なんと、堅気の女が狡い手を使って来たものである。
おそらく八重は惣一郎が遊び人であることもモテている事も十分に知っているのだろう。
遊郭の妓達が相応に美しいのも承知で屋号襲名をちらつかせて惣一郎を独占しようとしているのである。
「ほぉ? 堅気のおなごにしてはやってくれるじゃござんせんか」
喉の奥から嘲笑を吐き出して牡丹は不遜な女への鉄槌を考える。
惣一郎の様な大手の遊び人を逃しては大見世として、頂点として面目丸潰れである。
「まぁ、座敷遊びをやめるつもりはねぇがな」
不細工というならやめられる筈もあるまい。余りに遊郭通いを邪魔するようならばその時に考えればよい話ではある。
「わっちのことも忘れちゃ嫌でござんすよ?」
「いい、女だな……」
北方に佳人あり、絶世にして独り立つ
一顧すれば人の城を傾け
再顧すれば人の国を傾く
寧んぞ傾城と傾国を知らざらんや
佳人再び得難し
前漢の武帝の時代に李延年という宮廷楽士が、己の妹を推薦するために歌った詩である。
この『傾城』『傾国』という言葉は今では遊女や花魁に謳われる最高の言葉だ。
そもそもが、武家や公家でも花魁以上に優れた女はいない。
幼い頃から学識や芸事、所作を叩きこまれた上に余りある美貌を併せ持つなどよほど恵まれていない限り難しい。
その、最高の言葉を惣一郎は牡丹に送る。
「俺ぁ、お前のことだと思うんだ」
が、牡丹はふるりを頭を振るとそれを否定した。
「わっちなどには縁のない言葉でございんす」
「そりゃあ謙遜ってぇもんだ」
惣一郎の賛辞を貰って牡丹の中で一つの決心が固まる。
牡丹と惣一郎の付き合いは長い。
牡丹が初見世を出して約三月経った出会い、五年もの間敵娼として相互を思い遣る関係だった。
そして松川屋を盛り立てるために邁進したし、惣一郎も新しい客を紹介したりなど相互にそれぞれの商売を繁盛させた。
だが、惣一郎への想いは何も花魁としての手練手管や嘘偽りではないと牡丹は自覚していた。
己の心の中に浮かぶ想いは"恋慕の情"。
若い内からこれ程に成功を収めた男前などそうそういる筈もなく、遊郭の中でモテるのにも納得がいく。
それは自らの想いに気が付いているからこそなのだ。
それ故に、祝言が決まっている惣一郎との関係をこれ以上続ければ収拾が付かなくなる。
見えない遊郭の外にいる妻へ嫉妬の想いで生魑魅を飛ばしてしまいそうな程には惣一郎への恋心を抱いてい
る。
終わりにしなければ———。
「わっちではござんせん。もし、傾城と謳われるのであればそれはあの子でありんす」
なるたけ己の醜い恋慕を表に出さない様に、細心の注意を払いながら惣一郎に伝える。
椿に対する嫉妬の心はひた隠しにして。
華屋の新造は若山一の大見世だけあって美しい妓が沢山いる。
そして、隣接する見世の手鞠屋や角名賀楼も大見世ゆえの美しい妓がいる。
牡丹は華屋の女だから他の見世の妓を褒める筈もない。
だとすると華屋の妓だろうが
「あの子?」
はて華屋お職名実共に若山の頂点が傾城と謳う妓とは一体……。
惣一郎が顎に手を当てて考えていると、牡丹は髪を手櫛で整え、着物の袷をきちっと整えて布団から降りると畳縁の前にしっかりと両手をついてかしこまる。
「惣一郎様に折り入ってお頼み申し上げたいことがございんす」
「いきなり改まって、どうした」
「わっちの妹が近日、初見世を迎えることはご存知でござんしょう」
頂点の名にふさわしい若山の絶世の花魁が初めて妹を突き出す。
その触れは瞬く間に広がりあっという間に若山中に、そして若山に隣接する町へと伝わった。
既に華屋には差し紙が殺到しているし、遣り手や女将、そして楼主までもがその差し紙を見ながら馴染みに出来る客か否かを選別するのに毎日天手古舞だというから、当然惣一郎とて知らぬ筈はないのだ。
牡丹は毎日の様に運び込まれる突き出しの支度品を捌くのに大変な日々を送っているだろう。
大見世の突き出しとなれば、三枚重ねの布団、行灯、漆器や箪笥、鏡に化粧台、文机などの家具から御簾紙、化粧品、そして身に纏う着物や仕掛け、簪や櫛、笄など挙げ連ねればキリがない。
それが全部源氏名に添った物を揃えるというのだから、目が回りそうになっているに違いない。
若山一の大見世としてみすぼらしさを一つとして感じさせてはならないのだ。
「ああ、ずいぶん念入りな支度をしてるって話じゃねぇか」
なんとなく牡丹がこの話を持ち出した意図について察した惣一郎は
「それが?」
と聞いた。
「妹を、椿を女にしてやってくんなまし」
椿を……?
自分が初見世を取れる?
いや、だが自分が取るには競りに参加している男共が喚き立てるのではないか。
そもそも上方下りの新造出しに費用を持った医者は?
様々な考えが巡り惣一郎は牡丹の顔を見るにやるせなく、情けなくも畳の目地を数える羽目になった。
「や、あの、医者がいただろう?」
「司波先生が椿の初見世を取りたがっていたのは見世も周知しておりんす。けんど初見世をこれ以上遅らせるには華屋として出来ぬこの時期に、司波先生は大奥の御殿医に知恵を貸して欲しいと呼ばれて、江戸に下って初見世までに帰るのが難しいのでござんす」
大奥? 御殿医に呼ばれる程とは。そんなに名医だったのかと今更ながらに驚く。
だが、華屋の一大催事に江戸に行っているとはまた、仕事があったとは言え運気のなさを少々不憫だ。
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「俺ぁかまわねぇが、ってぇかよ、そりゃ願ってもねぇ話だが。けど、俺でいいのかい?」
戸惑いはないが、今一度確認のために牡丹に尋ねる。
「座敷の理をその若さできちっと心得え、仇めいた噂を持ちんせん。その上で稀に見る男振り。他にお任せできる方がおりんせん。どんぞ、受けてくんなまし」
「そこまで言われちゃあ断る理由なんざねぇよ。椿、だな。差し紙を出させて貰うぜ」
頂点花魁に頭を下げて頼まれたのだ。受けない理由などどこにもない。
明け方店に戻ったら大旦那の藤樹と話をしなければ。
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