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第壱章 色は匂へど
3話 羨望
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未一刻、華屋。
午一刻に短い睡眠から目覚めた遊女達は、のろのろと布団から這い出し食事を摂り終え華屋の中にある風呂を使う。
火の元の管理が厳しく通常の楼閣に風呂などという贅沢な代物の設置は赦されていないが、一部例外のある楼閣は番所に許可申請をして風呂を付ける。
若山遊郭で風呂の設置が赦されているのは三つの大見世、華屋と角名賀楼、そして手鞠屋だけだ。その他の楼閣は仲ノ町西側にある湯屋を使う。
湯を使ってこざっぱりと気分良く廊下を歩いているおりんに後ろから蓮太郎が声を掛ける。
「りん、仕掛けを見に行くって言ってたから、俺も行ってもいい?」
今年に入って急に決まった突き出しに戸惑いの気持ちこそあったとして、楼主が決めたことに逆らうなどできる筈もなく、姐花魁の牡丹は手際よく準備を始めた。
つい先程呉服屋の旦那が大きな柳行李を背負った丁稚を連れて着物や帯、仕掛けなどを合わせて持って来たのだ。
「衣桁にかけて置いたから、風呂から上がったら見に来なんし」
と牡丹はなるべく刺激を与えない様に優しくおりんに言い聞かせた。
幼い頃から共に暮らした蓮太郎とは十三の年に部屋を分け、おりんは牡丹の妹として姐奉公することとなった。
それでも親しい気持ちが変わらない。
いや、変わったと言えば変わったのだろう。
いつしか二人の心に芽生えるのは幼馴染みとしての親しみではなく、朝露を含んだ花の蕾がほんのり色付く様な淡い恋心
だった。とは言え苦楽を分かち合う関係が崩れる訳ではなく歳月が流れるにつれ親密になるのだから、今回の突き出しの件もお互いが知りそれぞれの想いを馳せている。
「勿論、一緒に見よう? そう言えば、蓮太郎は若衆に昇格したんだってね。おめでとう」
つい先日まで楼主の忍虎は、
「華屋の若衆がお前みたいな青臭いガキに務まるか。お前は精々雑用がいいところよ」
と言って華屋でどれだけ頑張っても小遣い程度の賃金しかくれなかったのだ。
おそらくおりんが一人立ちするなら蓮太郎もと考えたのだろう。
突き出しと共に若衆としてしっかり奉公をさせると言ったのだ。
蓮太郎は正規の給料が貰える代わりに、住み込みの費用は自分で稼がなければならない。
責任もあるが楼主に自立を認めて貰えたのはやはり嬉しい。
何より、若衆になればおりんが道中を踏む際、揚げ屋に行く際、部屋で客を待つ際、その時々に世話をすることもできる。
蓮太郎にとってはそれが一番の目的でもあった。
「ありがとう。これでりんの道中のお供ができる」
「え?」
「番傘をさすのは、背が足り無いからまだ出来ないけど、肩貸しをやらせてくれるって楼主が言ってたんだ」
「え、う、嘘……、本当に?」
「うん、本当……。りんの初見世に間に合った」
ふわりと笑顔でおりんを見つめる蓮太郎の顔に曇りはない。いつまででも楼主の庇護下で甘えてなどいられない。その覚悟を強く感じてりんは己の心に染みの様に落ちた不安を蓮太郎に打ち明けた。
「……、不安だったの。もう少し時間があると思って、ゆっくり心構えをして行こうって考えた矢先に突き出しのお知らせが来たから不安だったけど、蓮太郎が一緒にいてくれるなら大丈夫。私、頑張れるよ」
ただでさえ不安を拭い去るのが難しい突き出しを、予定より一年も早められたのだ。
心持ちが頼りなくなるのは否めないだろう。りんの頭を撫でようと手を差し出した蓮太郎は、突如割って入った声に驚いて手を引っ込めた。
「仲睦まじいことでありんすなぁ、おりん、蓮太郎?」
「ぼ、ぼぼぼ、ぼ、牡丹姐さん」
りんが驚いて素っ頓狂な声を挙げる。
この二人は互いに想い合っているのが人に知られていないと思っているのだろうか、と牡丹は呆れて溜息を吐きながら肩を竦める。
楼主から事情は聞いているがお職筋や振袖新造などといった肩書を持つおりんには余り体裁のよろしいことではない。
「ま、女衒から売られて来た時に同じ歳で気の合うところもありんしょうが、間違いだけは犯しんすな? 蓮太郎」
強く射る様な目で蓮太郎を睨み付ける。
「なんで俺だけに言うんですか? 牡丹花魁」
二人の想いに大きな差はないだろう。まだ幼さの残るりんは、肉欲を知らない。
蓮太郎はおそらく知識として知っているだろうし、しっかりと言い含めれば自制心を忘れない、と比較的強い信頼を持っている。
歯止めを掛けるのならば蓮太郎の方が理解が早い。忍虎の秘蔵っ子なのだからそれらを教え込んでいない筈もないのだ。
「おんしがおりんにご執心なのは誰が見ても明らかだからでありんす。けんどその想いを遂げることが、互いに禄な目に合わんのは、聡い蓮太郎なら知っておりんすな?」
釘を刺した。
長く太い釘を刺しておかねばならないのだ。
水揚げを控えたりんに馳せる想いが溢れて取り返しの付かないことになる前に、この少年にはきちんと確認をしておきたかった。
すると蓮太郎は少し唇を噛んで
「知っています」
と答える。
遊郭では同じ見世の中で若衆が女郎と通じるのはご法度とされている。
足抜けや窃盗、火付や怠慢などに発展する可能性が特に強まるからだ。
他の見世ならばいいのかと問われればそれもまた違うが、特に同じ見世では強く禁じられる。
想いを紡ぐだけなら人の心など縛れるものではないのだから赦されるかもしれない。
だが、躰を繋げば途端に重罪とされる。女は三下に落とされ男は拷問を受けた末、命があれば御の字だろう。
「秩序を乱す様な真似はしません。俺はりんを守りながら年季が明けるのを待ちます」
まだ少年な筈の顔に真っ直ぐで強い意志を見る。まるで牡丹が投げた眼光を跳ね返すような勢いで、自らの矜持としたのだ。
「そんなら、なんも言うことはありんせん」
柔和に微笑んで牡丹はその視線を受け流す。
「待てるとも思いんせんけどなぁ」
と視線を落とす。
恋をして涙を流した女郎を幾人も牡丹は知っている。
男の身勝手さも、薄情さも目先の欲に対する忍耐の薄さも。
そうした時に涙を流すのはいつも女の方なのだ。
「どういうことですか」
己の決心に水を差されて蓮太郎は気色ばむ。
自分の覚悟を遊郭に通う男達と同類に見做されれば苛付くこともあるだろう。
「男とはそういう生き物だからでありんす」
ほろりと柔和な笑顔をもう一度蓮太郎に向ける。
「己の気概を恥じる羽目になりたくないならその心をきちっと守りなんし。わっちはおりんが傷付かない様に守りたいだけでありんすよ。それと蓮太郎、おりんは明日から椿でありんす。親しいからと分別の付かない真似をするんじゃありんせん」
華屋の女郎は花魁や集合女郎に関わらず全員花の名前を源氏名にする。
いつの時代から決まっていたかは判らないが、少なくとも牡丹の知る限り、まだ太夫の位があった頃から使われていたというのだから歴史が深い。
妹を持った際に他の女郎と被らない名前を、そして最も適した名前を決めるのに姐女郎はかなり悩むという。
源氏名が決められた、それはいよいよ女郎としておりんの突き出しを身近に引き寄せた。
蓮太郎はまた、唇を噛み締めてその事実を受け入れようと心に落とし込む。
すると、牡丹の隣から頼りなげな声で
「椿……」
と尻すぼみな声が聞こえて来る。まるで他人事の様におりんは
「椿って綺麗な花よね」
と呟いている。
一抹の不安を覚えて牡丹がおりんに聞き返す。
「もしかして、おんし知らんかったとかいいだすんじゃ」
たらりと頬に冷や汗が流れるのを感じる。
確かに源氏名を伝えたのち、りんは強張った顔をしたまま夜を迎え、牡丹は夜見世の仕事を終えてひと眠りした翌朝、椿の姿が見付からないので探してみると布団部屋に籠って泣いていたのだ。
錯乱していたのならば或いはと思う牡丹の言葉に椿は
「知らんかった」
と軽く答える。
「蘭姐さんの褥を覗いてからしばらく記憶がありんせん。頭が真っ白になってなんだか華屋を迷路の様に彷徨って、訳が判らなくなって、気が付いたら布団部屋にこもって、姐さんが呼びに来んしたんぇ?」
「迷路って……、そりゃ確かに華屋は迷路の様に広いけんど……」
禿や新造は女郎の仕事がいかなるものか知らねばならぬ。
それ故に禿や新造は幼い頃から姐や女郎達の褥を見て心構えをする。
だが、りんは引っ込みだったため技芸や学術などに時を割くことが多く女郎の仕事を教える暇がなかったのだ。
教えてやれぬのを常々気にしてきたが、それを待つより先に己のために女郎の仕事を見たのだろう。
だが寄りによって蘭の褥を覗くとは、荒療治にも程がある。
蘭は楼閣中に響き渡る程の喘ぎ声を出して客を悦ばせる。
それを好んで蘭を呼ぶ客が多い。
見世の中で最も激しい褥を繰り広げる蘭の褥を最初に見たのならば、布団部屋に籠るのも致し方ない。
一息溜息を吐いて牡丹は己の部屋へりんを誘導する。
「仕掛けを見に来たのでありんしょ? お入りなんし」
仕掛けという言葉を聞いてりんは嬉しさに頬を染める。そして牡丹の私室の襖を勢いよく開けた。
牡丹の私室の衣桁に掛かっている仕掛けには、京の手書き友禅が凛とした椿をふわりと美しく夢見心地に咲かせていた。
萌葱の下地に亀甲菱や紗綾が瑞雲に浮かび、金色の流水が彩っている。
おりんは溜息も付けずに見つめしばらく後に感嘆の声を漏らした。
「わあ……、すごいキレイ。ねね、蓮太郎もこっちに来て見て?」
そう言って蓮太郎に手招きすると蓮太郎も笑顔になり一歩足を踏み出した。
途端に牡丹の厳しい声が踏み出した足を叱咤する。
「蓮太郎は」
その強い声にびくりとして敷居の前で足が止まる。
「若衆に上がったんなら廊下で見なんし」
蓮太郎の前に立って部屋に入るのを阻止しながら言う牡丹に、おりんは
「え? ね、姐さん?」
と戸惑いの声を漏らす。
蓮太郎が己の立場を理解したのか、敷居の前で膝を付くのを確認すると牡丹は厳しい顔のまま言葉を重ねる。
「男で女郎の部屋に入っても許されるんは、おきちゃと、着付師と、髪結いだけでありんす」
うなだれた蓮太郎は視線を畳に落としたまま
「知ってます」
と告げる。
「辛いんは、最初だけでありんす。その内慣れんしょう……」
おそらく涙を堪えているのだろう。
僅かに揺れる睫毛を不憫に感じるがこれは絶対に守らねばならぬ大見世のしきたり。守らせねばならないのだ。
「お気遣い、かたじけなく存じ上げます。牡丹花魁」
すると、仕掛けを眺めていたおりんの口から頼りなげな声が吐き出された。
見ると大粒の涙をぼろぼろと溢れさせている。零した涙を着物に垂れない様に袖でごしごしと拭っている。
「どなんしんした? おりん」
事情は聞かずとも判る。だが話さねばこの小さな体に想いを籠め置くのは難しいだろう。
「お、おかしいな……。仕掛けの柄がよく見えなくって、目が悪くなったのかな?」
「涙を拭きなんし……、椿。その涙、年季が明けるまでとっときなんし。これから参るんは苦界。いちいち、泣いていては身が持ちんせん。気をしっかり持ちや」
唇を噛み締めて牡丹に対して返事をする。
おりんは牡丹に見咎められない様にするりと視線を敷居の前に跪いている蓮太郎へと流す。
共に育って来た幼馴染、だがこの日を以って二人の間柄に一枚の御簾が降ろされた。
決して取り除いてはならない隔たりが出来たのだ。
心細さと頼りなさ、寂しさと切なさが入り混じってどう始末をつけたものか判らない。
この恋心は封印しなければならない。
ふっと蓮太郎が睫毛をあげてりんの姿を見る。
噛み締めた唇からやはり蓮太郎もこの隔たりの意味を理解しているのだ。
同じ見世の花魁と若衆、決して通じ合ってはならない。
その思いに拍車を掛けぬため、牡丹は敢えて話を逸らす。
「おりん……、明日より七日、揚げ屋まで道中を回りんす。七日目に一番いいおきちゃを選んで差し上げんしょう」
おりんは涙をしっかりと拭うと仕掛けの前に正座をして牡丹へ向き直る。
そして帯に挟んであった扇子を引き抜き手前に置く。畳にしっかり手を付くと深々と牡丹に頭を下げた。
「あい、牡丹姐さん、よろしゅうお頼み申しんす」
数々の想いを胸に秘めたまま、今までの幼い自分に別れを告げて、おりんは明日への心構えをしっかりと胸に刻む。
辛い隔たりを感じたとはいえ、蓮太郎はこの儀式の様な一連の流れを見られてよかったと感じた。
そうでなければ己の心にけじめを付けられなかった、と。
「そう言えば、楼主がわらび餅を買い過ぎたって言ってくれたんだ。椿も一緒に食べよう」
決しておりんの負担になってはならないと、蓮太郎は呼び方を変える。
まだ少し慣れないが呼び続けていればその内慣れるだろう。
おりんはわらび餅という甘味にぱぁっと表情を輝かせた。
「わらび餅、食べたい」
先程まで零していた涙は一体どこに行ったのやらと思う。
「わっちにはありんせんのか?」
おりんにだけ進めるのを少しだけムッとした表情で牡丹が聞き返す。
「勿論あります。あとで抹茶を点てて一緒に持ってきます」
「待っておりんす」
牡丹の返事を聞いて二人は連れ立って台所裏へと向かう。
蓮太郎は若衆の役割で何をやりたいかと忍虎に問われて料理番と答えた。
そもそも料理は椿と出会う前から随分と熱心に携わって来たから、物心がつく前から包丁を握っていた。
働くとなれば料理番以外の選択肢は考えていなかった。
おりんが牡丹の所に姐奉公を始めた頃から台所裏でしばしば二人は話し込んでいる。
「蓮太郎って本当にお父さんにすごく気に入られてるよね」
忍虎に好まれているのはおりんも同じだが、流石に売りに出す娘に対しての愛着を持つのは如何に自制心を持っていても辛い。それゆえに、蓮太郎の方が可愛がられている様におりんには見えていたのかもしれないが、かけられた愛情にそれほど差はないように思える。ただやはり赤ん坊の頃から世話をしているのでは違うのかもしれない。
「りんと違って俺はここで生まれて育ったから。赤ん坊の頃から世話してるってんで愛着があるだけだよ」
特に気に留めることもなく今まで過ごしてきたのだが、ふとおりんは考え込む。
「んー、と……、待って? じゃあ、蓮太郎のお母さんは女郎だったの?」
「うん、石楠花花魁だよ」
りんは大きな瞳を更に見開くと
「えぇ?」
っと大きな声を挙げた。
蓮太郎すら覚えがないというのにおりんが知っているのも不思議な話だ。
「知ってるの?」
「知ってるも何も三代前のお職だった人で、すごい美人だったって」
言われてみれば確かに当時の若山を知る客などからちらほら名前を聞くことはあったような気がする。
嘘か本当か、今となっては知る由もないが当時は帯をとかぬ花魁として一世を風靡した花魁である。
「そうだね、俺も噂しか知らないんだけど、産後の状態が良くなくて亡くなったらしい」
蓮太郎の話を聞きながらおりんは小さな鼻をふんふんと鳴らす。
「噂ではお父さんは石楠花花魁にぞっこんだったって話だよ?」
楼閣の楼主は忘八と言われ、怠惰と強欲を極めると言われるが忍虎は経営も客選びも全てに携わって遣り手や番頭任せにはしない生真面目な性分だ。
そしてその忍虎に心酔している蓮太郎からしてみればとんでもない侮辱を受けたように感じてムッとする。
「楼主が見世の妓に手を出す訳ないだろう?」
「それは勿論だよ。真面目なお父さんだもの、私も大好き」
にこにこと悪びれずに言うのは、本当に悪意がなかったのだと知って少しほっとした。手厚く育てて貰った筈のおりんがそんな噂ひとつで楼主を蔑視する性格ではないと判ったのだ。十分だった。
「で、不憫に思った楼主が引き取って、母の妹でもあった次代お職の水芭蕉花魁が一緒に育ててくれたんだ」
「そっかぁ、それで蓮太郎もきれいな顔してるんだね。所作が洗練されているのもお職仕込みだからだね」
杜撰な集合女郎と比べれば蓮太郎の方が遥かに躾が行き届いており上品だ。
目端が利いて気遣いもできるとあらば男であるのが惜しいとさえ思う者もいるだろう。
ただ、蓮太郎にとってそれは余り誉め言葉ではない様子だった。
「顔については全然有難くないけどね」
とぶすくれる蓮太郎におりんは
「なんで?」
と問う。
美形に生まれついたのは得だと思ったが、違うらしい。
「陰間扱いされる」
「アッ」
陰間とは男に生まれながら男の客を取る男娼のことだ。
若山にも陰間通りと呼ばれる通りがあって、事情があり女郎を買えない客などが通う。主な客層は僧侶だ。
僧侶の女郎買いは女犯と言って犯罪なのである。
それゆえに僧は仲ノ町の呼び込みの声に耳を塞いで陰間通りへと走る。
幼い少年たちが女郎と同じように振袖を着て待つ陰間茶屋へ行くのだ。
「でも、りんの年季明けを待って妻を娶らなかったらその噂も流れるんだろうな」
おりんは手元の懐紙に残ったわらび餅を口に運びながらぶすくれる蓮太郎の顔を見る。
数日後、女郎として男にお開帳して、昼夜と男の精を抜く日々が始まる。
この美しい少年はおりんがそうなった時に何も思うことなく、今までと変わらず接してくれるのだろうか。
女郎を蔑視して態度が変わったりはしないだろうか。そんな不安が渦巻く。
「……蓮太郎」
呼び掛けたおりんに
「ん?」
と蓮太郎は視線を投げた。
「唇にきな粉ついてる」
というと慌てて手拭で拭おうとするのをおりんは
「待って」
と言って蓮太郎の肩に軽く手を添えて顔を寄せる。
「え」
何事かと問う間もなく、蓮太郎の唇に柔らかいおりんのそれが重なる。
温かい唇に己の下唇が挟まれてふわりとした酩酊を覚える。
とくんとくんと胸が早鐘を打つのが分かった。おりんは軽く唇を吸うと蓮太郎から離れて俯く。
「りん……」
「生娘でないと初見世で牡丹姐さんに言い訳が立たないけど、口吸いくらい誰にも判らないでしょ?」
初めて触れた唇の感触に考えの全てを持って行かれる。
だが、それが人に知られてはならない想いだということは二人とも嫌というほど判っているのだ。
だから、もう一度触れたいと望む気持ちを堪えて蓮太郎は絞り出すような声でおりんの行為を叱責する。
「でも、二度とダメだよ」
先程口付けた唇を切れるほどに噛み締めて、長い睫毛を震わせておりんは
「年季が明けるまでね」
と確認する。
年季十年。
気が遠くなる程に長い期間を、苦しい思いを抱えながらこれから過ごしていくのか。
「明日の準備があるからまたね」
ほろりと零れそうになる涙を堪えておりんは、無理やり笑顔を作って裏庭へと駆け出した。
そう伝えるのがやっとだったのだ。
これから易々と触れることは赦されない愛しい少女の姿が完全に視界から消えると、蓮太郎の目頭がじわりと熱くなる。
泣いてはならない。こんな程度きっと序の口だ。
きっともっと辛い思いを沢山抱えるのだろうことは容易に想像できるではないか。
忍虎からは言われていた。
「おりんは将来女郎になる女だ、惚れるな」
と。
そう言われて歯止めの利く想いならばこれ程に辛いこともなかっただろう。
初見世の客がどんな客かは判らないが、まだ見ぬ男に酷く嫉妬する自分がいる。
「くっそぅ……っ」
知らず壁に拳をぶち当てて座り込む。
この涙は人に見られたくはない。おりんにさえも。
同じくおりんも裏庭の井戸端へ駆け寄ると桶に汲み置きしてある水を手ですくって顔を洗う。
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。
己の純潔を望む人と分ち合える娑婆の人間を羨んだ。
これから女郎として苦界と言われる修羅の道を歩いて行くというのに、自由に恋をして将来を誓った人と体を寄せることを赦された見えない少女達に羨望する。
あの日、九年前に出会った蓮太郎の笑顔が今でも心に焼き付いて離れない。
恋心は邪魔にしかならないというのに、それでも恋をしなければよかったなどとは思わない自分を嘲笑った。
酷く乾いた笑い声に嗚咽が混じる。
「蓮太郎……」
と何度も名前を呼んだ。
どうか神様、どうか蓮太郎の心が変わりませんように。
ただひたすらに祈りながら井戸端で顔を洗い流しながらひたすらに泣いた。
二階の回廊を付き辺りまで出ると庇が邪魔をしてはいるものの台所裏の様子をある程度窺うことはできる。
純愛を絡ませる幼い恋人を牡丹は憐れだ、と感じた。
「これくらい、見逃しんしょう」
と溜息交じりに呟いた。
午一刻に短い睡眠から目覚めた遊女達は、のろのろと布団から這い出し食事を摂り終え華屋の中にある風呂を使う。
火の元の管理が厳しく通常の楼閣に風呂などという贅沢な代物の設置は赦されていないが、一部例外のある楼閣は番所に許可申請をして風呂を付ける。
若山遊郭で風呂の設置が赦されているのは三つの大見世、華屋と角名賀楼、そして手鞠屋だけだ。その他の楼閣は仲ノ町西側にある湯屋を使う。
湯を使ってこざっぱりと気分良く廊下を歩いているおりんに後ろから蓮太郎が声を掛ける。
「りん、仕掛けを見に行くって言ってたから、俺も行ってもいい?」
今年に入って急に決まった突き出しに戸惑いの気持ちこそあったとして、楼主が決めたことに逆らうなどできる筈もなく、姐花魁の牡丹は手際よく準備を始めた。
つい先程呉服屋の旦那が大きな柳行李を背負った丁稚を連れて着物や帯、仕掛けなどを合わせて持って来たのだ。
「衣桁にかけて置いたから、風呂から上がったら見に来なんし」
と牡丹はなるべく刺激を与えない様に優しくおりんに言い聞かせた。
幼い頃から共に暮らした蓮太郎とは十三の年に部屋を分け、おりんは牡丹の妹として姐奉公することとなった。
それでも親しい気持ちが変わらない。
いや、変わったと言えば変わったのだろう。
いつしか二人の心に芽生えるのは幼馴染みとしての親しみではなく、朝露を含んだ花の蕾がほんのり色付く様な淡い恋心
だった。とは言え苦楽を分かち合う関係が崩れる訳ではなく歳月が流れるにつれ親密になるのだから、今回の突き出しの件もお互いが知りそれぞれの想いを馳せている。
「勿論、一緒に見よう? そう言えば、蓮太郎は若衆に昇格したんだってね。おめでとう」
つい先日まで楼主の忍虎は、
「華屋の若衆がお前みたいな青臭いガキに務まるか。お前は精々雑用がいいところよ」
と言って華屋でどれだけ頑張っても小遣い程度の賃金しかくれなかったのだ。
おそらくおりんが一人立ちするなら蓮太郎もと考えたのだろう。
突き出しと共に若衆としてしっかり奉公をさせると言ったのだ。
蓮太郎は正規の給料が貰える代わりに、住み込みの費用は自分で稼がなければならない。
責任もあるが楼主に自立を認めて貰えたのはやはり嬉しい。
何より、若衆になればおりんが道中を踏む際、揚げ屋に行く際、部屋で客を待つ際、その時々に世話をすることもできる。
蓮太郎にとってはそれが一番の目的でもあった。
「ありがとう。これでりんの道中のお供ができる」
「え?」
「番傘をさすのは、背が足り無いからまだ出来ないけど、肩貸しをやらせてくれるって楼主が言ってたんだ」
「え、う、嘘……、本当に?」
「うん、本当……。りんの初見世に間に合った」
ふわりと笑顔でおりんを見つめる蓮太郎の顔に曇りはない。いつまででも楼主の庇護下で甘えてなどいられない。その覚悟を強く感じてりんは己の心に染みの様に落ちた不安を蓮太郎に打ち明けた。
「……、不安だったの。もう少し時間があると思って、ゆっくり心構えをして行こうって考えた矢先に突き出しのお知らせが来たから不安だったけど、蓮太郎が一緒にいてくれるなら大丈夫。私、頑張れるよ」
ただでさえ不安を拭い去るのが難しい突き出しを、予定より一年も早められたのだ。
心持ちが頼りなくなるのは否めないだろう。りんの頭を撫でようと手を差し出した蓮太郎は、突如割って入った声に驚いて手を引っ込めた。
「仲睦まじいことでありんすなぁ、おりん、蓮太郎?」
「ぼ、ぼぼぼ、ぼ、牡丹姐さん」
りんが驚いて素っ頓狂な声を挙げる。
この二人は互いに想い合っているのが人に知られていないと思っているのだろうか、と牡丹は呆れて溜息を吐きながら肩を竦める。
楼主から事情は聞いているがお職筋や振袖新造などといった肩書を持つおりんには余り体裁のよろしいことではない。
「ま、女衒から売られて来た時に同じ歳で気の合うところもありんしょうが、間違いだけは犯しんすな? 蓮太郎」
強く射る様な目で蓮太郎を睨み付ける。
「なんで俺だけに言うんですか? 牡丹花魁」
二人の想いに大きな差はないだろう。まだ幼さの残るりんは、肉欲を知らない。
蓮太郎はおそらく知識として知っているだろうし、しっかりと言い含めれば自制心を忘れない、と比較的強い信頼を持っている。
歯止めを掛けるのならば蓮太郎の方が理解が早い。忍虎の秘蔵っ子なのだからそれらを教え込んでいない筈もないのだ。
「おんしがおりんにご執心なのは誰が見ても明らかだからでありんす。けんどその想いを遂げることが、互いに禄な目に合わんのは、聡い蓮太郎なら知っておりんすな?」
釘を刺した。
長く太い釘を刺しておかねばならないのだ。
水揚げを控えたりんに馳せる想いが溢れて取り返しの付かないことになる前に、この少年にはきちんと確認をしておきたかった。
すると蓮太郎は少し唇を噛んで
「知っています」
と答える。
遊郭では同じ見世の中で若衆が女郎と通じるのはご法度とされている。
足抜けや窃盗、火付や怠慢などに発展する可能性が特に強まるからだ。
他の見世ならばいいのかと問われればそれもまた違うが、特に同じ見世では強く禁じられる。
想いを紡ぐだけなら人の心など縛れるものではないのだから赦されるかもしれない。
だが、躰を繋げば途端に重罪とされる。女は三下に落とされ男は拷問を受けた末、命があれば御の字だろう。
「秩序を乱す様な真似はしません。俺はりんを守りながら年季が明けるのを待ちます」
まだ少年な筈の顔に真っ直ぐで強い意志を見る。まるで牡丹が投げた眼光を跳ね返すような勢いで、自らの矜持としたのだ。
「そんなら、なんも言うことはありんせん」
柔和に微笑んで牡丹はその視線を受け流す。
「待てるとも思いんせんけどなぁ」
と視線を落とす。
恋をして涙を流した女郎を幾人も牡丹は知っている。
男の身勝手さも、薄情さも目先の欲に対する忍耐の薄さも。
そうした時に涙を流すのはいつも女の方なのだ。
「どういうことですか」
己の決心に水を差されて蓮太郎は気色ばむ。
自分の覚悟を遊郭に通う男達と同類に見做されれば苛付くこともあるだろう。
「男とはそういう生き物だからでありんす」
ほろりと柔和な笑顔をもう一度蓮太郎に向ける。
「己の気概を恥じる羽目になりたくないならその心をきちっと守りなんし。わっちはおりんが傷付かない様に守りたいだけでありんすよ。それと蓮太郎、おりんは明日から椿でありんす。親しいからと分別の付かない真似をするんじゃありんせん」
華屋の女郎は花魁や集合女郎に関わらず全員花の名前を源氏名にする。
いつの時代から決まっていたかは判らないが、少なくとも牡丹の知る限り、まだ太夫の位があった頃から使われていたというのだから歴史が深い。
妹を持った際に他の女郎と被らない名前を、そして最も適した名前を決めるのに姐女郎はかなり悩むという。
源氏名が決められた、それはいよいよ女郎としておりんの突き出しを身近に引き寄せた。
蓮太郎はまた、唇を噛み締めてその事実を受け入れようと心に落とし込む。
すると、牡丹の隣から頼りなげな声で
「椿……」
と尻すぼみな声が聞こえて来る。まるで他人事の様におりんは
「椿って綺麗な花よね」
と呟いている。
一抹の不安を覚えて牡丹がおりんに聞き返す。
「もしかして、おんし知らんかったとかいいだすんじゃ」
たらりと頬に冷や汗が流れるのを感じる。
確かに源氏名を伝えたのち、りんは強張った顔をしたまま夜を迎え、牡丹は夜見世の仕事を終えてひと眠りした翌朝、椿の姿が見付からないので探してみると布団部屋に籠って泣いていたのだ。
錯乱していたのならば或いはと思う牡丹の言葉に椿は
「知らんかった」
と軽く答える。
「蘭姐さんの褥を覗いてからしばらく記憶がありんせん。頭が真っ白になってなんだか華屋を迷路の様に彷徨って、訳が判らなくなって、気が付いたら布団部屋にこもって、姐さんが呼びに来んしたんぇ?」
「迷路って……、そりゃ確かに華屋は迷路の様に広いけんど……」
禿や新造は女郎の仕事がいかなるものか知らねばならぬ。
それ故に禿や新造は幼い頃から姐や女郎達の褥を見て心構えをする。
だが、りんは引っ込みだったため技芸や学術などに時を割くことが多く女郎の仕事を教える暇がなかったのだ。
教えてやれぬのを常々気にしてきたが、それを待つより先に己のために女郎の仕事を見たのだろう。
だが寄りによって蘭の褥を覗くとは、荒療治にも程がある。
蘭は楼閣中に響き渡る程の喘ぎ声を出して客を悦ばせる。
それを好んで蘭を呼ぶ客が多い。
見世の中で最も激しい褥を繰り広げる蘭の褥を最初に見たのならば、布団部屋に籠るのも致し方ない。
一息溜息を吐いて牡丹は己の部屋へりんを誘導する。
「仕掛けを見に来たのでありんしょ? お入りなんし」
仕掛けという言葉を聞いてりんは嬉しさに頬を染める。そして牡丹の私室の襖を勢いよく開けた。
牡丹の私室の衣桁に掛かっている仕掛けには、京の手書き友禅が凛とした椿をふわりと美しく夢見心地に咲かせていた。
萌葱の下地に亀甲菱や紗綾が瑞雲に浮かび、金色の流水が彩っている。
おりんは溜息も付けずに見つめしばらく後に感嘆の声を漏らした。
「わあ……、すごいキレイ。ねね、蓮太郎もこっちに来て見て?」
そう言って蓮太郎に手招きすると蓮太郎も笑顔になり一歩足を踏み出した。
途端に牡丹の厳しい声が踏み出した足を叱咤する。
「蓮太郎は」
その強い声にびくりとして敷居の前で足が止まる。
「若衆に上がったんなら廊下で見なんし」
蓮太郎の前に立って部屋に入るのを阻止しながら言う牡丹に、おりんは
「え? ね、姐さん?」
と戸惑いの声を漏らす。
蓮太郎が己の立場を理解したのか、敷居の前で膝を付くのを確認すると牡丹は厳しい顔のまま言葉を重ねる。
「男で女郎の部屋に入っても許されるんは、おきちゃと、着付師と、髪結いだけでありんす」
うなだれた蓮太郎は視線を畳に落としたまま
「知ってます」
と告げる。
「辛いんは、最初だけでありんす。その内慣れんしょう……」
おそらく涙を堪えているのだろう。
僅かに揺れる睫毛を不憫に感じるがこれは絶対に守らねばならぬ大見世のしきたり。守らせねばならないのだ。
「お気遣い、かたじけなく存じ上げます。牡丹花魁」
すると、仕掛けを眺めていたおりんの口から頼りなげな声が吐き出された。
見ると大粒の涙をぼろぼろと溢れさせている。零した涙を着物に垂れない様に袖でごしごしと拭っている。
「どなんしんした? おりん」
事情は聞かずとも判る。だが話さねばこの小さな体に想いを籠め置くのは難しいだろう。
「お、おかしいな……。仕掛けの柄がよく見えなくって、目が悪くなったのかな?」
「涙を拭きなんし……、椿。その涙、年季が明けるまでとっときなんし。これから参るんは苦界。いちいち、泣いていては身が持ちんせん。気をしっかり持ちや」
唇を噛み締めて牡丹に対して返事をする。
おりんは牡丹に見咎められない様にするりと視線を敷居の前に跪いている蓮太郎へと流す。
共に育って来た幼馴染、だがこの日を以って二人の間柄に一枚の御簾が降ろされた。
決して取り除いてはならない隔たりが出来たのだ。
心細さと頼りなさ、寂しさと切なさが入り混じってどう始末をつけたものか判らない。
この恋心は封印しなければならない。
ふっと蓮太郎が睫毛をあげてりんの姿を見る。
噛み締めた唇からやはり蓮太郎もこの隔たりの意味を理解しているのだ。
同じ見世の花魁と若衆、決して通じ合ってはならない。
その思いに拍車を掛けぬため、牡丹は敢えて話を逸らす。
「おりん……、明日より七日、揚げ屋まで道中を回りんす。七日目に一番いいおきちゃを選んで差し上げんしょう」
おりんは涙をしっかりと拭うと仕掛けの前に正座をして牡丹へ向き直る。
そして帯に挟んであった扇子を引き抜き手前に置く。畳にしっかり手を付くと深々と牡丹に頭を下げた。
「あい、牡丹姐さん、よろしゅうお頼み申しんす」
数々の想いを胸に秘めたまま、今までの幼い自分に別れを告げて、おりんは明日への心構えをしっかりと胸に刻む。
辛い隔たりを感じたとはいえ、蓮太郎はこの儀式の様な一連の流れを見られてよかったと感じた。
そうでなければ己の心にけじめを付けられなかった、と。
「そう言えば、楼主がわらび餅を買い過ぎたって言ってくれたんだ。椿も一緒に食べよう」
決しておりんの負担になってはならないと、蓮太郎は呼び方を変える。
まだ少し慣れないが呼び続けていればその内慣れるだろう。
おりんはわらび餅という甘味にぱぁっと表情を輝かせた。
「わらび餅、食べたい」
先程まで零していた涙は一体どこに行ったのやらと思う。
「わっちにはありんせんのか?」
おりんにだけ進めるのを少しだけムッとした表情で牡丹が聞き返す。
「勿論あります。あとで抹茶を点てて一緒に持ってきます」
「待っておりんす」
牡丹の返事を聞いて二人は連れ立って台所裏へと向かう。
蓮太郎は若衆の役割で何をやりたいかと忍虎に問われて料理番と答えた。
そもそも料理は椿と出会う前から随分と熱心に携わって来たから、物心がつく前から包丁を握っていた。
働くとなれば料理番以外の選択肢は考えていなかった。
おりんが牡丹の所に姐奉公を始めた頃から台所裏でしばしば二人は話し込んでいる。
「蓮太郎って本当にお父さんにすごく気に入られてるよね」
忍虎に好まれているのはおりんも同じだが、流石に売りに出す娘に対しての愛着を持つのは如何に自制心を持っていても辛い。それゆえに、蓮太郎の方が可愛がられている様におりんには見えていたのかもしれないが、かけられた愛情にそれほど差はないように思える。ただやはり赤ん坊の頃から世話をしているのでは違うのかもしれない。
「りんと違って俺はここで生まれて育ったから。赤ん坊の頃から世話してるってんで愛着があるだけだよ」
特に気に留めることもなく今まで過ごしてきたのだが、ふとおりんは考え込む。
「んー、と……、待って? じゃあ、蓮太郎のお母さんは女郎だったの?」
「うん、石楠花花魁だよ」
りんは大きな瞳を更に見開くと
「えぇ?」
っと大きな声を挙げた。
蓮太郎すら覚えがないというのにおりんが知っているのも不思議な話だ。
「知ってるの?」
「知ってるも何も三代前のお職だった人で、すごい美人だったって」
言われてみれば確かに当時の若山を知る客などからちらほら名前を聞くことはあったような気がする。
嘘か本当か、今となっては知る由もないが当時は帯をとかぬ花魁として一世を風靡した花魁である。
「そうだね、俺も噂しか知らないんだけど、産後の状態が良くなくて亡くなったらしい」
蓮太郎の話を聞きながらおりんは小さな鼻をふんふんと鳴らす。
「噂ではお父さんは石楠花花魁にぞっこんだったって話だよ?」
楼閣の楼主は忘八と言われ、怠惰と強欲を極めると言われるが忍虎は経営も客選びも全てに携わって遣り手や番頭任せにはしない生真面目な性分だ。
そしてその忍虎に心酔している蓮太郎からしてみればとんでもない侮辱を受けたように感じてムッとする。
「楼主が見世の妓に手を出す訳ないだろう?」
「それは勿論だよ。真面目なお父さんだもの、私も大好き」
にこにこと悪びれずに言うのは、本当に悪意がなかったのだと知って少しほっとした。手厚く育てて貰った筈のおりんがそんな噂ひとつで楼主を蔑視する性格ではないと判ったのだ。十分だった。
「で、不憫に思った楼主が引き取って、母の妹でもあった次代お職の水芭蕉花魁が一緒に育ててくれたんだ」
「そっかぁ、それで蓮太郎もきれいな顔してるんだね。所作が洗練されているのもお職仕込みだからだね」
杜撰な集合女郎と比べれば蓮太郎の方が遥かに躾が行き届いており上品だ。
目端が利いて気遣いもできるとあらば男であるのが惜しいとさえ思う者もいるだろう。
ただ、蓮太郎にとってそれは余り誉め言葉ではない様子だった。
「顔については全然有難くないけどね」
とぶすくれる蓮太郎におりんは
「なんで?」
と問う。
美形に生まれついたのは得だと思ったが、違うらしい。
「陰間扱いされる」
「アッ」
陰間とは男に生まれながら男の客を取る男娼のことだ。
若山にも陰間通りと呼ばれる通りがあって、事情があり女郎を買えない客などが通う。主な客層は僧侶だ。
僧侶の女郎買いは女犯と言って犯罪なのである。
それゆえに僧は仲ノ町の呼び込みの声に耳を塞いで陰間通りへと走る。
幼い少年たちが女郎と同じように振袖を着て待つ陰間茶屋へ行くのだ。
「でも、りんの年季明けを待って妻を娶らなかったらその噂も流れるんだろうな」
おりんは手元の懐紙に残ったわらび餅を口に運びながらぶすくれる蓮太郎の顔を見る。
数日後、女郎として男にお開帳して、昼夜と男の精を抜く日々が始まる。
この美しい少年はおりんがそうなった時に何も思うことなく、今までと変わらず接してくれるのだろうか。
女郎を蔑視して態度が変わったりはしないだろうか。そんな不安が渦巻く。
「……蓮太郎」
呼び掛けたおりんに
「ん?」
と蓮太郎は視線を投げた。
「唇にきな粉ついてる」
というと慌てて手拭で拭おうとするのをおりんは
「待って」
と言って蓮太郎の肩に軽く手を添えて顔を寄せる。
「え」
何事かと問う間もなく、蓮太郎の唇に柔らかいおりんのそれが重なる。
温かい唇に己の下唇が挟まれてふわりとした酩酊を覚える。
とくんとくんと胸が早鐘を打つのが分かった。おりんは軽く唇を吸うと蓮太郎から離れて俯く。
「りん……」
「生娘でないと初見世で牡丹姐さんに言い訳が立たないけど、口吸いくらい誰にも判らないでしょ?」
初めて触れた唇の感触に考えの全てを持って行かれる。
だが、それが人に知られてはならない想いだということは二人とも嫌というほど判っているのだ。
だから、もう一度触れたいと望む気持ちを堪えて蓮太郎は絞り出すような声でおりんの行為を叱責する。
「でも、二度とダメだよ」
先程口付けた唇を切れるほどに噛み締めて、長い睫毛を震わせておりんは
「年季が明けるまでね」
と確認する。
年季十年。
気が遠くなる程に長い期間を、苦しい思いを抱えながらこれから過ごしていくのか。
「明日の準備があるからまたね」
ほろりと零れそうになる涙を堪えておりんは、無理やり笑顔を作って裏庭へと駆け出した。
そう伝えるのがやっとだったのだ。
これから易々と触れることは赦されない愛しい少女の姿が完全に視界から消えると、蓮太郎の目頭がじわりと熱くなる。
泣いてはならない。こんな程度きっと序の口だ。
きっともっと辛い思いを沢山抱えるのだろうことは容易に想像できるではないか。
忍虎からは言われていた。
「おりんは将来女郎になる女だ、惚れるな」
と。
そう言われて歯止めの利く想いならばこれ程に辛いこともなかっただろう。
初見世の客がどんな客かは判らないが、まだ見ぬ男に酷く嫉妬する自分がいる。
「くっそぅ……っ」
知らず壁に拳をぶち当てて座り込む。
この涙は人に見られたくはない。おりんにさえも。
同じくおりんも裏庭の井戸端へ駆け寄ると桶に汲み置きしてある水を手ですくって顔を洗う。
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。
己の純潔を望む人と分ち合える娑婆の人間を羨んだ。
これから女郎として苦界と言われる修羅の道を歩いて行くというのに、自由に恋をして将来を誓った人と体を寄せることを赦された見えない少女達に羨望する。
あの日、九年前に出会った蓮太郎の笑顔が今でも心に焼き付いて離れない。
恋心は邪魔にしかならないというのに、それでも恋をしなければよかったなどとは思わない自分を嘲笑った。
酷く乾いた笑い声に嗚咽が混じる。
「蓮太郎……」
と何度も名前を呼んだ。
どうか神様、どうか蓮太郎の心が変わりませんように。
ただひたすらに祈りながら井戸端で顔を洗い流しながらひたすらに泣いた。
二階の回廊を付き辺りまで出ると庇が邪魔をしてはいるものの台所裏の様子をある程度窺うことはできる。
純愛を絡ませる幼い恋人を牡丹は憐れだ、と感じた。
「これくらい、見逃しんしょう」
と溜息交じりに呟いた。
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